そもそも、時の人疑ひて曰く、「我が国は、元より神国なり。人王の位を継ぐ、既に天照太神の皇孫なり。何によりてか三帝、一時に遠流の恥ある。又、淮南の橘こそ、淮北に移りて枳とは成り侍れ。いにしへも今も、夷狄の、西に向かへば猛く、東を攻むるには弱きのみならず、本朝、いかなれば名を惜しみ、恩を報ずる臣、少なからん。紀信が、葷車に乗りて高祖に替はりし、項羽、忠を褒めて、我が将にせんと言ふに、忠臣は二君に仕へず。勇士は諂へる言葉なし。汝、正に漢に降せよと言ふに、項羽、怒りて紀信の身を巻きて、焼き殺せり。
「範茂卿は、威風、楊国忠をさみして、その名、羽林相公たり。秀康は、官禄、涯分に過ぎて、富有、比類なし。五箇国の竹符を合はせて、追討の棟梁たりき。かれもこれも、勇み、葷車に乗るに達すとも、戦ふに、旧里を返り見る事をそしれり。右衛門佐藤原朝俊、身は北家の学窓より出たれども、命を東関の軍旅に惜しまず。はた又、漢元帝の、さまざまの生き物を園に放ちて飼ひ給ふに、一つの熊、怒りて元帝を侵さむとするに、馮昭儀といへる官女、身を捨てて防ぐ程に、左右の将軍来て、熊を殺すと言へり。女の心、猶しかり。壮士、何ぞ兵法にたへざる。」となり。
心ある人、答へて曰く、「臣の不忠は、まことに国の恥なれば、宝祚、長短は必ず、政の善悪によれり。憲宗は、人の費えをいたはりて、五載まで驪宮の近きに行幸せず。玄宗は、人の恨みを悟らずして、一天乱れて、蜀山の激しきにさまよひ給ひき。帝範に二つの徳あり。知人と撫民となり。知人とは、太平の功は一人の略にあらず。君ありて臣なきは、春秋にそしれる謂ひなり。撫民とは、民は君の体なり。体の痛む時に、その御身全い事、得給はむや。軒端の蕨を摘みて、田返し、炎天に汗をのごひて施せる営みも、一つも君のためにして努めずといふ事なければなり。されば、殷の武丁は、臣を楫として四海の波を分けり。唐の太宗は、人を鏡として万方の隈を照らし、夏の禹は、皐陶が計り事に就き、周の文王は、呂望が計り事に従ひき。
「悪王、国にある時は、諂へるを寵して賢きを退け、しかるによりて、行ふ処は例にあらざれば、吹く風は枝を枯らし、降る雨は土くれを破り、内には胡旋女、国を傾け、外には朝錯、勢ひを極めて、海内の財力尽きぬれば、天下、泰平ならず。明王の国を治めししるし、他、唐堯虞舜の風を問ひ、本朝には、天徳正暦の芳躅を継ぎて、除目には〇校を尽くし、優民には水旱を許して〇他の守り過たず、天の下、穏しきなり。かかるさましたる者の仕業〇は、与へぬ事なれども、かの魯国のやもめの君、齢傾きて、太子のいとけなきを嘆きける如き、六十年よりこの方、好文重士の君、稀にして、政道、過〇に乱るる度に、その身、安からず、その心苦しぶ故に、一人、喜びあり、兆民、蒙らん事を願ふばかりなり。」
右、六代勝事記、内閣文庫所蔵古写本を以て校勘す。(昭和三年八月)
コメント