内侍狂女の段
「うたてやな。これ、御覧ぜよ。今まで揺るがず、折つてかたげしこの柳。風の誘へばこそ、一葉も散るなれ。たまたま心すぐなるを、恋こそ我を、くる狂はすれ。風狂じたる秋の葉の、荻のおとづれ、今か今かとたのもの雁よ。君が玉づさ翼に掛けて、我が手に渡せ。渡せや渡せ、八橋の、沢辺に匂ふかきつばた、花菖蒲。似たりや似たり、新田と聞けば懐かしや、なう。
「やあやあ、わらんべどもは、何故に立ち騒ぐぞ。何、新田左中将義貞といふ大将、軍に打ち負け、敵に首を取られて、獄門に懸かり給ふとや。あら、まことしからずや。その中将といふ人は、元より弓馬は家の芸。雲の上人に交じはりては、歌、連歌の道にも達し、鞠は曲鞠の品々まで暗からず。又、酒盛などの折柄は、いで、人々に乱舞舞うて見せんとて、水干直垂取り出し、衣紋美しう着ないて、縁塗取つて打ちかづき、手拍子、人に囃させ、扇押つ取り、鳴るは瀧の水。絶えずとうたり、絶えずとうたり、落ち来る瀧の音羽の嵐に、地主の桜は散り散り。ああ、あさましや。散るは桜か、降るは涙か。まことにあれよ、あの獄門こそ涙の種。めぐりに厳しき槍長刀、剣の枝のさかしき中の、梢にしぼむ花の顔ばせ。目も塞がり、色変はるとも、契りは変はらじ。我こそ妻の勾当の内侍。何、なう、内侍と召さるるかや。いで、参らう。
「思ひ出せば、はや昔。人目忍ぶの袖打ちかざし、会ひ初めし夜の睦言も、語り尽くさぬ鐘の声。鶏籠の山に響きて、森の小烏、八声の鳥。暁の明星が、西へちろり、東へちろり、ちろりちろりとする時は、扇押つ取り刀さいて、いなうよ、戻らうよと言うては、妻戸にたたずみし。えにし、な切りりんな。君が心に秋風吹かば、いなうとも、戻らうとも、何とそなたの御計らひと、言うては小腰に抱き付きて、結ぶの神の仲立ちは、比翼連理も磯枕。朽ちせぬ仲を葛の葉の、恨みは風の咎もないもの。誰が手にかけて宇津の山、蔦の葉かづら乱れ初め、狂ひ出たる我が身は、何とならの葉の、露より薄きお情けや。宵は待ちかね、夜中は嘆き、暁起きて空見れば、児のやうな傾城が、紫杯、手に据ゑて、一つ参れ、我が殿。二つ参れ、この殿。三つ目の肴には、白瓜唐瓜、唐梨唐梅、西王母が園の桃。百とせ千とせの御命、情けなくも失ひし。その修羅の敵は誰そ。大森彦七盛長とや。夫の敵、いざ討たん。持つたる柳を剣と定め、瞋恚の焔は焦がるる紅葉。言ふに甲斐なき狂女なれども、夫の弓矢の激しき嵐に、馴れて揉まれて、四方の桜の四方へばつと、寄り来る警固。さす手も引く手ももののふの、物狂ひとて咎むるか。よし咎めても脅しても、嘆きても口説きても、一人は帰らじ。我が夫賜べ。夫賜べ、なう、人々。」と、かつぱと伏して泣き沈む、涙の袖も黒髪も、乱れ心ぞ哀れなる。
警固の下部、棒振り廻し、「騒がしき気違ひめ。そこ立ち退け。」と追ひ払ふ。前司、押さへて、「さなせそ、さなせそ。言ふ事あり。」と立ち寄りて、「さては、義貞の北の方にてましますな。いかに狂気し給ふとも、年月馴染の夫婦の仲。顔ばせも忘れ給ひしか。心を鎮め、よく見給へ。義貞にては候まじ。嘆きをとどめ、帰り給へ。正体なや。」と諫むれば、「うたての人の言ひ事や。伊勢の浜荻、難波の蘆、所に変はるは草の名よ。異国は知らず、本朝に、名も一人、身も一人。又と二人はなき人なるを、さもなき首を何故に、墨黒々と高札に、新田義貞と記したる、そなたこそ狂人よ。我は元より気違ひの、こぼさぬ水の哀れを知らば、さのみ人目にさらさずとも、あの首をわらはに賜べ。煙となして亡き跡の、菩提を弔ひたう候。」と、袖にすがりて嘆かるる。
「おお、御嘆きと言ひ、御不審はさる事なれども、この首は盛長が、討ちは討つて候へども、義貞とは見え難く、外に似たる者のある故、さらして実否を質さんため、かくの通り。」と言ふ処に、東の辻に人立ちして、これも女の物狂ひ。眉かき曇り、黒髪も、おどろにばつと、振りかたげたる笹の葉の、乱れ心や狂ふらん。「あら、憚りや。恐れを知らぬ京わらんべ。忝くも我が殿御は、源氏の大将、左中将義貞。参内の道、そこのけとこそ。懐かしや、我が夫の、雲居を出しは卯月の空。秋より先に必ずと、夕の数は重なれど、来ぬ夜積もりの怨めしや。獄門に誰がさらしなの、月日待ちしもいたづら事。後世弔ひ、みづからも、死出三途を伴はん。御首賜べ、なう、警固の人。お情けあれ、人々。」と、獄門の木に抱き付き、人目も分かず泣き給ふ。
以前の狂女、走り寄り、「これ、義貞殿の妻と言ふ、御身はそも、何人ぞ。」「おお、聞きも及び給ふらん。勾当の内侍とは、みづからよ。」「いや、まことの勾当の内侍とは、わらはが事。御身は定めて、思ひ者か一夜妻。仮の情けを忘れかね、後まで慕ふは優しけれども、菩提を弔ふは、本妻の役。お首は我に下され。」と、押し退くれば押し退けて、「さ言ふ御身が一夜妻か、遊び女か。筋なき事な申されそ。勾当の内侍とは、大内の女官、御代にたつた一人の女。義貞殿の本妻、我ならで、誰あらん。物に狂ふも夫故。本性は違はぬぞ。さあ、まことの内侍ならば、義貞殿の参内の出で立ち、覚えしか、忘れしか。よもや知らじ。」と宣へば、「なう、忘れんとすれど忘られぬ。
「その出で立ちは、紫裾濃、栴檀の板、冠の板。金銀にて中黒の、印を打つて黄金札。大立挙の脛当、黄金作りの太刀刀。赤地の錦、御着背長。わらはが取つて着せければ、結つて上帯ちやうど締め、につこと笑うて、あつぱれ、我ながらも弓取かな。今日の軍に誉れを得て、名を末代にとどめんと、馬引き寄せ、ゆらりと乗つたるは、なう、大将軍に紛ひなし。近付く敵の鬨の声、味方に轟く攻め鼓。峯の木枯し、磯打つ波、寄せ来る勢をまくり切り、大敵を見て勇む事、荒鷹が雉を見て、鳥屋をくぐるに異ならず。雨や霰と飛び来る矢先、上がる矢にはかいくぐり、下がる矢には飛び上がり、向かうて来る矢は小太刀を以て、切つては落とし、受けては払ひ、はらりはらりと切り払ひ、須弥の四方の四天王、摩醯修羅が放つ矢を、一度に切つて大海に、払ひ落とすが如くにて、面を向くる敵もなし。かかるゆゆしきもののふの、運尽き弓も矢も折れて、修羅の奴と成り給ふ。後世弔ふ者は、我ばかり。」と、獄門に取り付けば、「いやいやいや、それは軍の出で立ち。大内の事を知らぬ身が。内侍とは偽り。」と、引き退けては「わつ。」と泣き、押し退けては「わつ。」と泣き、籬の菊の狂ひ咲き、花を争ふ蝶鳥の、露にしをるる如くなり。
前司、声を掛け、「ええ、はしたなし。まづ暫く。」と、二人を左右へ押し分け、「首は一つ、内侍は二人。是非一人は偽りなり。これ、後に来た上臈。義貞と札は打つたれども、疑はしき事あり。心を鎮めてよく御覧ぜ。」と、獄門を取り下ろし、見するもあへなき生首を、なまめく膝にかき乗せて、一目見てさへ馴れし夜の、面影だにも紛はぬもの。よくよく見れば、その原や、ありとも知らぬ死顔に、ぞつと怖さの「ああ、恐ろし。」と、払ひのけて身を震はし、「いやいや、これは人違ひ。目元口元、義貞殿には似ても付かず。かねて我が夫宣ひしは、『軍は時の運。いつ討死も計られず。敵に向かふ度毎に、帝より賜はりし蘭奢待の名香、内兜に焚きしめん。鬢の髪に名香薫る、首取つたりと言ふ人あらば、義貞が討死と思へ。』との御言葉。軍の騒ぎにあさましい、下郎の首と取り違へ、まことのお首は勿体なや。叢に埋もれしか。尋ねて賜べ、人々。」と嘆き給へば、以前の狂女、泣き出し、「ええ、口惜しや。いかに見知りなきとても、下郎の首とは余りぞや。我が夫は身貧にて、名香は焚かねども、弓取の心の花は、梅桜より香ばしく、仁義に命を捨てし者。屍に恥を与へるか。情けなや、いとほしや。」と、首抱き寄せて伏しまろび、声も惜しまず泣き居たり。
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