第二
後藤左衛門虫尽くし
諸共に心通ひて寄り添はぬ、仲や鳥居の二柱。二歳の春秋を、妹の如月、心あり。文の使の渡し舟、こがれて月日を送らるる。後藤左衛門国忠は、小栗殿の情けにて命を継ぎ、疵本復したりしが、御恩を報ぜん処もなし。この君の仲立ちし、一夜会はせ参らせ、首尾よくは奪ひ取つて、思ひを晴れさせ申さんと、妻の女房に虫籠しつらひ、取り持たせ、物商人に出で立ちて、照手の姫のおはします、乾の局の前渡り、「虫召せ、虫召せ。色を音に鳴く虫、召すまいか。」と売りにける。女房達は聞き給ひ、「珍しき商人や。呼び入れて、姫君達の御慰みに召さすべし。商人、これへ。」と招きける。照手、如月諸共に、端近く出給ひ、「庭の浅茅に放ち飼ひ、秋の野にして慰まん。虫は何々持ちたるぞ。所によりて虫の音も、訛りあると聞くものを、名所をも名乗りて売れ。それそれ。」と宣へば、虫籠様々しつらひて、一々にこそ売りにけれ。
「数々咲ける露草や。露に睦るる声々の、文を込め、恋を込め、人に哀れを知れとてや。いかにつれなき仲だにも、一夜は逢うて、暮毎に、何をまつ虫、いつまでか、いつこほろぎもしら萩に、乱れて鳴くは、宝虫。神楽が岡に鳴く虫は、神の心をすず虫や。あらぬ方より吹く風に、尾花うなづく振り見えて、堰いて会はせぬ轡虫。胡蝶の翼濡れ初めて、虫さへ情けあればこそ、恋の重荷の我がつまを、背にきつと背負うて、人目思へば声立てぬ、やんま、とんぼ、黄金虫。世を空蝉の羽衣の、薄き縁は生なかに、ふつつりばつたり、真から実から、はつたと思ひきりぎりす。歌詠む蛙、言問へば、夕を待たぬかげろふの、命の夢の通ひ路を、通ひ車のわざくれに、おのが怒りの斧をもて、妬む蟷螂、優しやな。あの宮城野の糸萩の、糸をくるくる繰りためて、風にはたはた機織虫。野原篠原狩り暮らす、袖の綻び綴り刺せ、待つとし聞かば忍ぶ夜の、雨も厭はぬ蓑虫や。胸の焔の蛍火に、闇をも急げ、小倉山。小倉の野辺の一本薄、いつか穂に出て乱れ、乱れ会ふ夜はたま虫や。幾重の関も越え行かん。弥猛心の鎧虫。鳴く音は品々候。」と、面白うこそ売りにける。
照手の姫、聞こし召し、「げに珍らかなり。残らず庭に放たせよ。さりながら、蛍は夏の物なるに、今の蛍は偽りならん。たとへあるとも、火は灯さじ。」と宣へば、後藤が妻、承り、「されば蛍は、水に従ひ、流れて下り候故、都方にも、瀬田より宇治は遅きとかや。川水の果て、埋もれ沢、秋の蛍と古歌にも連ね、光は夏より明らかなり。今宵、お庭に放されて、灯さぬ蛍、一つにても候はば、いかやうとも計らひ給へ。」と蛍より、げに言葉の光、鮮やかにこそ申しけれ。
女房達、聞き給ひ、「しからばお事は、今宵、こなたに泊り、証跡を御覧に入れよ。もしも蛍に光なくば、曲事ならん。」と、はしたなく罵りて、皆々奥へ入り給へば、幸ひと了承し、夫にきつと目配せし、後藤はお暇申しつつ、小栗殿へぞ急ぎける。女房、嬉しさなのめならず、何とぞ姫君に知らせたやと、思ふ折柄、飛石に駒下駄の音、しきりにて、如月姫、出給ふ。女房、喜び、走り寄り、「これ、お姫様。我等はまことは商人ならず。小栗様に御恩を得し、後藤左衛門夫婦なるが、御仲立ち申さんため、小栗様を今宵、忍ばせ申すべし。姉君様に御伝へ。はやはや。」とせきければ、如月、夢の心地して、「それはまことか。まづ姉君に申し上げ、喜ばせ参らせん。何事も、只よきやうに。御身に任せ置く」霜の、更け行く夜半をぞ待ち給ふ。
身は浜松の、ねほれて惚れて、柳の糸の乱れ心。忘れめや、人の心を兼氏の、かねての思ひ。今宵しも、晴れみ曇りみ初時雨、厭ふまでとの唐傘も、さすが忍びし風情にや、後藤一人お供にて、深き意趣ある横山の、館に忍び給ひしは、恋路の習ひとは言へど、不敵にも又、哀れなり。二十日余りの夜半なれば、月は名のみに照手の姫、上べはせかぬ振りなれど、心の内の早瀬川、蛍の籠を灯し火と、後藤が女房、先に立て、庭に下り出で来る人を、まつの嵐のばらりと鳴るは、「はあ、人か。いや、君はこずゑに」寝鳥の騒ぐ。寝巻の裳裾、ほらほらと、引つしごき帯、しやら解けし。「しどけなや。」とて結ぶとすれば、「ああ、よいわいの。今にはや、解くもの。」と、包むに洩るる言葉の露、置き所なき思ひかや。
外より後藤、しはぶけば、「さてこそ。」と女房は、掛け金外し、戸を開くれば、互に「はつ。」とばかりにて、さしうつぶいておはします。「かくて夜も更け候へば、端近くてそぞろなり。いざ、お床へ。」と女房は、案内の蛍。「足音が高い、高い。」と打ちさざめき、二人いざなひ、入り給ふ。お寝間は嬉し恥づかしき、新床の内、懐かしし。
さる程に、横山の郡司信久は、三人の子供を招き、「照手が局へは、小栗殿の今宵、忍びておはする由。某、伊豆、相模を押領し、何に不足はなけれども、させる氏も系図もなし。申しても小栗殿は、三條家の御末。官位めでたき雲の上人。かかる人を婿に取り、高官に交じはらば、子孫までの面目なり。今宵、即ち酒を勧め、婿舅の杯せん。いかがあらん。」とありければ、太郎、次郎は言ふに及ばず、無法破りの三郎も、いつぞやの口論を、兼氏とは夢にも知らず、「子孫繁昌、家門の誉れ。まづ御使を立てらるべし。」と、装束改め用意して、照手の局に入りにける。
夜もたけなはに成りし時、「父上より見参の御使。」と申しければ、姫君喜び、烏帽子直垂着せ参らせ、席を設けて待ち給ふ。時刻移さず人々は、引出物取り持たせ、乾の出居に移らるる。舅なればとて、横山を上座に移し、互の礼儀、慇懃に、千代の堅めの杯は、親しみ深うぞ見えにける。
三郎、暫く思案し、火影にすかし、よくよく思へば、「き奴はいつぞや、口論したる男なり。南無三宝。」と、太郎次郎に目を合はせ、太刀に手をかけ、身繕ふ。小栗は元より覚悟の上。後藤にきつと目配せて、事もあらばと気を配り、一座白けて見えにけり。されども小栗、手並は見せつ。何事かあるべきと、「この杯を三郎殿へ。めでたく慮外申さん。」と、大やうに差し給ふ。三郎、むつとしながら、ちやうと受け、この酒、面に打ちかけ、跳びかかつて切るべきか。とやかくやと分別し、胸をさすつて居たりけり。
留守に残りし池の荘司、いつになき胸騒ぎ。「あら、気遣はし。」と、腹巻取つて打ちかけ、飛ぶが如くに駆け来り、中門をつつと入り、障子の隙より見てあれば、横山一家、居流れて、顔色変はつた有様なり。「まづ君は、つつがなし。あら、心安や。されども、き奴らが面付は、只ならず。事出で来なば、障子一間踏み破り、三郎が首ねぢ切り、残る奴ばら蹴殺して、将棋倒しにせんずもの。」と、そぞろにはやるぞ頼もしき。
照手、仔細は知り給はず。兄上達の色変はり、何故にやと恐ろしく、兼氏に引つ添うて、目を配つておはせしが、三郎が杯を、「婿殿に返弁。」とぞ申しける。「いや、余り急に候へば、ここは一つ、押さへ申す。」とありければ、三郎、からからと笑ひ、「さても都の小栗は、物の作法を知られぬよ。かかる儀式の杯を、押さふるといふ事は、当国にははやらぬ。」と言ふ。「むむ、それはともかくも、我も言葉は無になされず。是非押さへた。」と突き戻せば、「いやさ、嫌と言うては、千度も嫌なり。」と膝立て直せば、池の荘司、つつと出、「いづれも御免候へ。某は、小栗が下人、池の荘司と申す者。杯に推参無し。さらば、お合ひ仕らん。」と三献干して、「これさ、御自分にも三杯。」と、膝の上に乗りかかり、八方をねめ廻し、太刀ひねくつて申しける。三郎、わなわな震ひながら、三献酌んで干しけれど、半ばは震ひこぼしけり。
父の郡司は始終を知らず。「杯の張り合ひ、必ずお気にかけられな。某、収め申すべし。祝うて花婿殿、御肴。」とありければ、三郎、聞きもあへず、「とてもならば、我が家に、鬼鹿毛といふ荒馬あり。一馬場所望。」と言ひ出す。太郎、次郎も合点し、鬼鹿毛に食ひ殺させん。幸ひと、「所望、所望。」と申しける。照手、驚き、「なう、その馬は、終に乗りたる事もなく、人を食らふ荒馬ぞや。平に無用。」と宣へども、「しや何事か候はん。御身も出て見物あれ。さあ、御案内候へ。」と、打ち連れ馬場に入り給へば、夜はほのぼのと明けにけり。
「すはや、小栗の最期を見ん。」と、横山一家、老若男女、我も我もと見物す。かくて兼氏主従は、厩の体を見給ふに、八角の楠、四方にゑり込み、四寸四角の黒金にて、蜘蛛手格子を切り組み、鎖を以て八方へ繋ぎ、貫木、蝦錠しつとと下ろし、名にし負うたる鬼鹿毛や、鬼一口と喜びて、前掻きして高いななき、天にも響くばかりなり。
池の荘司、つつと寄り、蝦錠掴んで、「えいやつ。」とこじ放し、八つの鎖をねぢ切りねぢ切り、厩の出し口、しとと打てば、大力に引つ立てられ、さすがの鬼鹿毛、頭を垂れ、身の毛を伏せたる気色なり。小栗、御覧じ、「終に召されぬ馬ならば、鞍皆具も候はじ。裸背に乗つて見せ申さん。」と、しめの髪を掻い掴み、ひらりと乗つて、しづしづと歩ませ給へば、横山一家、肝を消し、苦り切つて見えけるが、三郎、心に思ふやう、力に任せ、乗つたりとも、曲乗りは叶ふまじ。恥をかかせて腹癒んと、碁盤かけはし取り出し、「さあ、一曲。」とぞ望みける。「易かんなれ、殿ばら達。馬上の達者、御覧ぜよ。」と、犬追物の拍子にかかつて、まづ平地をぞ。
小栗鬼鹿毛曲乗りの段
乗つたりける。
そもそも馬に七箇の秘事。三箇の手綱、五箇の鞍。陰陽の鞭、朝嵐、大颪、小颪、運び延べ足、地取り足、霰流しといふ曲を、乗り返し引つ返し、秘曲を尽くして乗り給ひ、なほ馬場乗りを見せんとて、桜の馬場に乗り出し、手綱取り延べ悠々と、横切る風に雲の足、天にも上がる気色あり。漢の光武は一日に、千里の馬を得たりつる。昔を我が身の上に、しら泡噛ませ、おおささせ、遥かに行きて引つ返す。鞍の山形、山近く、踏みもならさぬ馬場の内、いさご交じりの石荒く、繁り合ひたる袖摺松。柳桜もこき混ぜて、押し分け掻き分け、露も雫も打ち払ひ、いや打ち払ひ、はらはらはらり。はらりと行く先に、霧立ち渡る霧原か、岩壁、苔に埋もれて、岩角、道をさし挟む。行かんとすれば背ぐくまり、越さんとするも遥かなり。岩根葛に手をかけて、鐙蹴放し、跳び上がれば、馬は岩間をかいくぐる。稲妻よりもなほ早く、その身軽げに乗り乗り、乗つた姿の、やれさて、しをらしや。
暫し歩ませ、声をかけ、弓手に控へ、馬手に押さへて、しつとと打つ。双の鐙の強弱や、馬と人との息遣ひ。しやんと締めたる諸手綱、肩から腰から手の内に、一つの秘伝、あり明の、空行く月に鞭を上げ、二千里刹那の駿馬の曲。これを名付けて桜狩り、父母の手綱と言ふとかや。りうくわうさうくわう瑪瑙の鞭、手綱掻い繰りくるくるくる。ゑりくりゑん所の馬場の土手、乗り上げ乗り下げ乗り下ろし、躍り上がれば、しつかと止め、乗り静めては駆け出す。
馬は名馬、乗り手は達者。轡の音がりんりんりん、松吹く風は颯々。さつと棚引く馬煙、土を蹴立てしその勢ひ。龍吟ずれば雲起こり、虎うそぶけば風騒ぐ。末野の草葉、胸分に、踏み乱し、踏みしだき、雲雀の床の芝繋ぎ。とある所に乗り静め、ひりらと跳んで下り給ひ、「かく口弱きこの馬を、など鬼鹿毛とは付けられしぞ。御免候へ、横山殿。」と、袖掻き合はせ、一礼ある。馬上の見事さ、鞍の内、前代当代末代に、ためし少なき達者かな。「いやいや、乗つたり、乗つたり。」と、上下思はず声を上げ、どつとどよめくその音は、暫く鳴りも静まらず。
馬は馬頭観音の、神通威力ある故に、小栗の判官兼氏の、自然仏智にかんたくし、四足を折つて礼拝し、三度いななき、しづしづしづしづと、元の厩に立ち帰る。
本心、誠を備へては、六根自在の妙ありて、鬼畜も我に従へり。至れるかな、尽くせるかな。学んで知るは智にあらず。生まれながらの善は善。隠れし徳は明らけき。古人の一句、まことぞと、聞く人正するばかなり。
底本注
・りうくわう――流黄。玉の名。辞源に、「流黄。玉也。(淮南子)流黄出而朱草生。」
校訂者注
・一夜は逢うて、暮毎に――底本「一夜を逢うてくれごとに」。『近松全集 第14巻』により改めた。
・ただするばかりなり――底本「たゞするばかなり」。『近松全集 第14巻』により改めた。
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