第三
横山一家の人々は、和睦の宴を催さんと、酒杯取り持たせ、小栗の館に案内す。元より不敵の小栗殿、兄弟に対面し、「何のためのお出ぞや。」と申さるる。郡司、扇を笏に取り、「参る段、別儀ならず。貴公と我、不思議の縁を結びし処に、御分とは存ぜず、倅ども、去年、不慮の口論致し候由。さぞ御覚え候べし。それ故、過ぎし夜、初めての参会に、兄弟、はつと当惑し、何とやらん、品悪く、迷惑の由申し候。知らぬ以前は是非なき事。かやうの縁者となるからは、昔の意趣は残るべからず。和睦の杯致させんため、酒杯を持参仕る。老いたる郡司が手を下ぐる。これに免じて貴方よりも、酒杯を出され、両方二つ杯に、仲直りして賜べ、小栗殿。」と、残る方なく申しける。兼氏も喜悦あり、「御慇懃の御出、過分に候。誰とても、知らぬ以前は、言ひ分すまじきものならず。殊に、いづれもこれまでの御出、いづくに遺恨を結ぶべき。和談の酒盛致すべし。それそれ。」と宣へば、池の荘司承り、銚子杯取り出す。兄弟、言葉を揃へ、「仲直りの法なれば、そのお銚子をこなたへ賜はり、又、我々持参の酒を、御辺へ参らせ、二つの杯にて、両方一度に差し申さん。」と言ひければ、鴆毒ありともしろ金の、銚子を取り換へ給ひける。御運の末のうたてさよ。
あなたの酌は、鬼王といふ男、こなたには池の荘司、小栗、杯取り給へば、まづ三郎が杯取り、一度に酌んで差し給へば、両方、互に押し頂き、さらりと干して兼氏は、太郎次郎に差し給ひ、三郎が杯、池の荘司にずんど差し、「さあ、意趣も恨みも川へ流して、一つ、一つ。」と言ひければ、荘司、手盛にだんぶと受け、ずつと干して、銚子杯、からりと捨て、「南無三宝、たばかられし。やい、横山。汝等が持参の酒、呑むより早く、五体にしむ。まさしう毒酒とおぼえたり。言葉にほだされ、心を許せし後悔さよ。いで、一打ち。」と、太刀に手をかけ、抜かんとしけれども、五臓六腑悩乱し、九穴より血を吐いて、あなたこなたへ反り返り、十八歳の夕の露、終にはかなくなりにける。
強かりし兼氏も、面の色は紫立ち、刀を抜きは抜かれしが、打ち上げん力もなく、「ええ、卑怯なり、横山。押し寄せ、腹を切らせずし、毒にて意趣を晴らさんとは、下郎に劣りし奴ばら。刺し違へん。」と立ち上がり、心ばかりは高砂の、松の緑とはやれども、呼吸も切れて弱々と、「人間わづか五十年。恋ゆゑ果たす一生に、せめては妻を一目見ん。照手、恋し。懐かしや。」と、二十三を一期として、かつぱとまろび、失せ給ふ。痛はしかりける最期とかや。
横山一家、手を叩き、「さつてもよい気味、よい気味。」と、一度にどつとぞ笑ひける。「さて兼氏の亡き骸を、上野が原の土中に埋め。」と、下人どもに言ひ付けて、立ち帰らんとせし時、三郎、父が袖を控へ、「き奴らを殺し候へば、妹の照手、夫の敵と、我々を恨みんは必定。しからば、屋の内に敵を設け、何かせん。御思案あれ。」とぞ申しける。郡司、うちうなづき、「おお、気が付いた。いしくも申せし、三郎。」と、譜代の家の子、鬼王を招き、「お事は夕さり、人知れず、照手の姫を、相模が沖へ沈めにかけよ。」と申しける。
鬼王、はつと仰天し、「咎なき人を毒害さへ、都の聞こえ、測り難う候に、骨肉哀愍の姫君を失ひ奉れとは、御家の破滅かや。たとへ御咎候とも、譜代の御主を討てとある、御受けはえぞ申すまじ。よくよく御思案候へ。」と、涙を浮かべ、教訓す。三郎、大きに怒り、「生臭き諌言だて、置き居らう。横山が内に、おのれならで、人あるまいか。外の者に言ひ付けん。いざ、立ち給へ。」と立たんとす。鬼王、「暫し。」と押しとどめ、「一旦は申せし事。余の者よりは、某が失ひ奉らん。」とぞ申しける。「むむ、しかと汝が殺すべきか。」「中々の事。」「しからば、仔細はあるべからず。我も行きて検分せん。少しにても容赦せば、おのれを共に曲事ぞ。さあ、親父、お帰りあれ。まづ一人は仕舞うた。」と、どつとどよめき帰りける。天罰いかが、恐ろしし。
かくて鬼王、とかく思案に落ちざれば、「口惜しの奉公や。」と、途方を失ひ居たりしが、「まづ弟の鬼次に談合せん。」と、つつと立ち、「いや、待て。これを見るにつけ、兄弟とても頼まれず。分別こそあるべけれ。」と、とつくと思慮を巡らし、「いかにしても殺されじ。さりながら小栗殿、亡くなり給ふと申しなば、よも姫君も、長らへんとは宣ふ_?まじ。所詮、小栗殿、都へ帰り給ふと拵へ、すかして落とし申さん。」と、とつつおいつ分別し、一人うなづき帰りける、所存の底ぞ奥深き。
過ぐる月日と散る花と、あだ比べして行く水に、暫しばかりは漂ひぬ。あはれ、命のつれなさや。仏心の鬼王は、照手の姫を心安う落とし参らせ、人に似たりしお庭の石、君の振袖ふりかけて、さながらそれと夕闇に、松明背け、楫取つて、岸の岩根を漕ぎ流す、心の内こそ哀れなれ。三郎、気遣ひにや思ひけん、岸端に駆け来り、大音上げ、「やあ、その舟は鬼王か。何と、姫は沈めしか。実検せん。」と呼ばはりける。鬼王、すはやと思ひ、「只今沈め奉る。これ、御覧ぜ。」と松明上ぐれば、三郎、遥かに透かし見て、「むむ、遠目の加減か、姫が小さく見ゆる。声を立てさせ。聞かん。」と言ふ。鬼王、涙ぐみたる体にして、「いや、御涙に堰かれ、御声も立ち給はず。痛はしの御有様や。」と、すがり付いて空泣きす。「よいわ、よいわ。早く沈めよ。」その時鬼王、舟端に膝まづき、「御身より出し不義の咎、人ばし恨みましますな。さあ、只今が御最期ぞ。南無阿弥陀仏。」と引き立て、逆巻く浪間にどうと沈め、舟にひれ伏し、泣き居たり。三郎、喜び、「出来た、出来た。来れ、来れ。」と招きければ、面なげにして面楫や、やうやう陸にぞ上がりける。
しかつし処へ、弟の鬼次、如月姫の御手を引き、息をはかりに走り着き、「これこれ、鬼王殿。照手様は、いかに。」と言ふ。鬼王、聞きもあへず、「御意に任せ、この沖へ只今、沈めにかけ、失ひつるわ。」と言ひければ、如月、夢とも弁へず、「なう、情けなや、悲しや。」と、そのままそこに伏しまろび、「わつ。」と消え入り、泣き給ふ。されども鬼次、呑み込まず、「何と、真実殺せしか。」鬼王、言葉を荒げ、「はて、異な事に念を入るる。何の偽りあらん。これ、三郎殿の御目の前にて殺せし。」と言へば、三郎、「我が見る前にて殺させしが、それが何とした。」言ひも果てぬに鬼次、大地をはつたと打ち、「はつあ、南無三宝、しなしたり。これ、兄者人。相伝の主君を殺し、ようもようも生面下げ、我々に物言はんとは思はるるぞ。虫同然の人外を、兄に持つたる無念さよ。ええ、浅ましや、不甲斐なや。最早、侍は、すたつた。命が惜しくは、すぐにあの舟に打ち乗り、海賊して世を渡れよ。」と、牙を鳴らして申しける。
鬼王、気色を損じ、「兄に向かつて推参千万。おのれが智恵を借つて、我、侍を立てうか。殺すもお主、殺せとあるもお主。なれども姫君には、小栗殿とまさしう密通の咎人。助け置いては、お家の恥。事を知らずは、黙つて居れ。」と、大きに怒つて申しける。如月姫、聞き給ひ、「何、姉上を咎人とや。その咎の始まりは、わらはが仲立ちしたりし故。咎人は、みづからぞ。殺して賜べ、三郎殿。さあ、殺せ、兄弟。」と、声を上げてぞ嘆かるる。鬼次、聞いて、「おお、御尤も。姉君様を先立て、言ひ訳は立ち申さじ。諸共に。」と引き立て、海へ投げんとせし処を、鬼王、跳びかかり、鬼次を取つて投げ、はつたと睨み、「やいさ、畜類め。相伝のお主を殺さんとは、いかに。」鬼次、からからと笑ひ、「むむ、今、眼が見えたか。これ、なう、お主なれども、仲立ちの咎人なれば、殺さでは置かぬ。さあ、姫君。死に給へ。はや、死に給へ。」と責めければ、三郎も声をかけ、「死神憑いて、死にたからば、殺せ、殺せ。」と怒りける。姫君、猶も思ひ切り、「なう、死ぬるに人は頼まぬ。」と、跳び入らんとし給ふを、鬼王、また抱き止め、「狂乱か。勿体なし。是非死なせぬ。」と引き止むる。「やれ、鬼王。我を止むる程ならば、など姉様は殺せしぞ。言ひ訳あらば、我も思ひとどまらん。何と、何と。」と詰め給へど、三郎が聞く前なれば、落としたりとは言はれもせず。如月は、猶殺されず。千々に乱るる鬼王が、心の内こそ不憫なれ。
姫、鬼王を突きのけて、「おのれがやうなる愚人めに、問答も無益。これ、三郎殿。婿と言ひ、妹と言ひ、御身の心一つにて、多くの人を失ひ、天命思ひ知り給へ。なう、姉上様。只今、追つ付き参らせん。一つ蓮。」と手を合はせ、浪に跳び入り給ひしは、さても是非なき次第なり。鬼王兄弟、三郎も、「あつ。」とばかりに詮方なく、手を上げてこそ居たりけれ。
鬼次、膝立て直し、「こりや、鬼王。一人ならず二人まで、目前、主を失ひしも、御辺が一心、違ひし故。兄と思はぬ。主君の敵、逃さぬ。」と、太刀抜きそばめ、跳んで懸かれば、鬼王は、道理に向かふ太刀先なしと、かなたこなたへ逃げ廻り、苫屋の蔭に隠れけり。鬼次、せいて見失ひ、走り帰れば横山三郎、「緩怠者。」と打つて懸かる。「おお、主も下人もこれまでなり。余さじ。」と切り結び、受けつ流しつ戦ひしが、死に狂ひの鬼次が、激しく打てば三郎も、叶はじと逃げて行く。
いづくまでと追つかけしが、「ええ、由なし。」と立ち帰り、以前の処にどうど居て、「口惜しき身の上や。」と、五体を投げて泣くばかり。寄せ来る浪に下り浸り、「なう、御姉妹。愚痴愚蒙の兄め故、非業の死をあそばせし、御心底こそいとほしけれ。なまなか某、弟に生まれ、同じ恥辱に沈まん事、何ぼう無念に存ずるなり。腹掻き破り、悪鬼と成り、敵を取つて参らせん。」と、自害せんとせし処を、鬼王、驚き、走り出、「やれ、粗忽すな。死するな。」と、すがり付けば、跳びしさり、「死に損ひの卑怯者。」と、太刀振り上ぐるを、「まづ待て、弟。一言聞け。疑ふは至極せり。全く照手様を殺しはせず。都方へ落とし参らせ、人に似たる石を沈めて、三郎をたばかりし。以前、かくと知らせたく、心は弥猛にありしかど、三郎が聞く前なれば、明けてこそ言はぬとて、さ程某を、うろたへしと思ふかや。恨めしや、つれなし。さりとては聞こえぬ。」と、涙をはらはらとぞ流しける。
鬼次、つつと寄り、「何、助けしとや。しからば、いよいよ聞こえぬわ。など一旦、我にも知らせ給はぬぞ。」「おお、談合せんとは思ひしかど、かばかりの人心、兄弟とても頼まれずと、互の底意疑ひし。これも何ゆゑ、お主のため。許してくれよ、弟。」と、涙を流し、申しける。鬼次、道理に至極して、「さては、さやうに候か。由なき人に奉公し、かかる憂き目を見聞く事は、冥加にも尽き果てしか。口惜しの身の上や。」と、兄弟、手を取り、すがり付き、声も惜しまず嘆きしが、鬼次、涙を押さへ、頭を下げ、「最前の慮外雑言、天の照覧、畏れあり。まつぴら御免候へ。」と、打ちしをれてぞ申しける。
「何事も、忠功ぞや。只、あへなきは如月姫。何につけても、主と頼みし横山一家、恨めしうは思はぬか。いかなる悪業悪縁に、主従とは成りけるぞ。前世の約束思ふにぞ、後の世とても、さぞあらん。」と、又さめざめと嘆きしが、「思へば運の尽き目なり。憂き事聞いて、何かせん。百年も千年も長らへしは、同じ事。寄れ。刺し違へん。」「尤も。」と、刀を抜いて取り組みしが、「やれ、待て、弟。死して心は安まれず。誰を頼みに照手の姫、かへつて憂き目に遭ひ給はば、助けてあだとなるべきぞ。さりながら、館へも帰られず。この太刀、無下にも差されじ。」と、押つ取り直し、髻を、ふつつふつつと切り払ひ、「太刀諸共に西の雲、紫深き藤沢の、上人にゆかりあり。御弟子になつて後世菩提、決定往生祈らん。」と、涙ながらに出て行く。人間万事、夢の世の、夢も夢なり、夢の中。恨みもあだも楽しみも、恋も情けも押しなべて、覚むれば同じうつつぞと、皆知れども、住めば憂世なり。
校訂者注
・腹を切らせずし、毒にて――底本「腹を切らせず、酒毒にて」。『近松全集 第14巻』により改めた。
・異な事に念を入るる。――底本「異な事に念をいれる。」。『近松全集 第14巻』により改めた。
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