第四
名のみ鬼王、鬼次が、心は仏の道に入り、浮世の絆ざん切りの、鬢も乱るる藤沢や、御寺をさして急ぎける。
折しも上人、力者どもに、張輿舁かせ、御帰寺ある。兄弟、門前に膝まづき、「御剃刀を頂き候。」と、発心の趣を、一々残らず申し上ぐる。上人、横手をはたと打ち、「まことに各々は、よき折柄の発心。仏縁深く候。その故は、愚僧、不思議の霊夢に任せ、上野が原の閻魔堂へ参詣せしに、一つの墓より餓鬼一人現れ出、指を以て己が胸を教へしが、非業不非業、定業不定業といふ文字、据われり。まさしうこれは、久しき土葬の亡者なるが、善根に引かれ、閻魔大王の感応にて、再び娑婆によみ返る。夜前の夢は、この告げぞと、即ち餓鬼をあの輿に乗せ、連れ帰り候。仏法不思議。方々の初発心の善知識、御覧ぜよ。」とぞ仰せける。兄弟、輿をさし覗けば、皮肉も溶けて骨現れ、炭の折れの如くなり。息はあれども声出ず、六魂気血通はねば、見聞、闇に異ならず。昔はいかなる人やらん、見る目もいぶせく浅ましし。
上人、重ねて、「一度生を変へて冥途に至り、久しく土中にありたる身。たとへ息のあればとて、たやすく元の人間とは成り難し。熊野本宮、薬の湯を汲み寄せ、一七日沐浴し、反魂の法を行ひ、壮年の形となさん。」と宣へば、鬼王兄弟承り、「これも仏の御奉公。修行の始めに我々、本宮の温泉、汲み取つて参らん。」とぞ申しける。上人、聞き給ひ、「殊勝なり。さりながら、他力こそなほ薬の湯。桶に車をしつらひ、巷に捨て、一引き引けば千僧供養、二引き引けば万僧供養、大乗慈悲の車の檀那、他力を以て汲み寄せん。いざ、こなたへ。」と宣ひて、俄に車を用意ある。
かくとはいさや、しら玉の、照手の姫の御行方、伝へ聞くだに涙ぞや。鬼王に助けられ、父の館を忍び出、あなたこなたにさすらひて、何を頼みに憂き年月を長らへし。命もつらき美濃の国、青墓の宿、万屋の長が元に買ひ取りて、常陸小萩と名を改め、終に見もせぬ手業にも、下職は安き習ひかや。下の水仕の荒仕事、あら、いとほしき心なり。元より長は、海道一の有徳人。三十余人の流れの君を持たれしが、十町あなたの清水より、化粧の水を汲み運ぶ。担ひし桶のさざ波の、憂き勤めとは思へども、「この頃聞けば、この宿に、熊野本宮湯汲み車の着きたるとや。この車を一引き引けば、千僧供養と聞きし故、夫の小栗の菩提のため、我も車を引くべきに、三日のお暇申すまで、長の心を背かじな。皆これ、夫の御ため。」と、思ひ直してしのがるる。
局々を掃き払ひ、手水化粧の玉水を、汲み替へ汲み入れ給ひしが、「口惜しや、いにしへは、かやうの上臈を、あまたの腰元、はしたにて、かしづかれたるみづからが、引き替へ今は使はるる。人の行方は定めなや。ああ、さこそかたちもやつれつらめ。」と、遊君達が立て置きし、鏡台引き寄せ、一目見たれば、「南無三宝。色もかたちも我ながら、更に我とも思はれず。浅ましや、花紅葉、月を妬みしこの身がさて、かくとやつるるものかは。」と、鏡押し遣り、ひれ伏して、暫しは焦がれ沈まるる。
涙も曇る中空に、若ほととぎす、軒に咲く樗の花に落ち返り、本尊かけたと告げ渡るは、いとど涙の種ならし。照手、つくづく聞き給ひ、「げに、ほととぎすは冥途の鳥。死出の田長を鳴くとかや。あの鳥ならば我も又、冥途の夫に会ふべきもの。懐かしや、羨まし。」と、暫し聞き入りおはせしが、「ああ、よくよく思へば、思ふ人を先立てて、何楽しみに世を立てて、誰に見すべき髪かたち。様を変へて一筋に、菩提の道に入るべきぞ。なれも心のあるならば、かくと伝へよ、これまで。」と、辺りの櫛笥押し開けて、氷の剃刀取り出し、海松房の黒髪を、愛想もなく引き上げて、既に切らんとし給ふ時、ほととぎす、一文字に飛び下がり、羽風を立てて、剃刀、はたと打ち落とす。「こはいかに。」と取り上ぐれば、又立ち返り、打ち落とし、二声三声、雲に鳴き、行方は月ぞ残りける。
照手、呆れておはせしが、「さては、草の蔭なる小栗殿、我が黒髪を切らせじと、惜しみ給ひてこの如く、冥途の鳥がとどめしよな。思へば夫婦は二世の縁。殿は冥途に持ちたるものを。男にこの身を任せながら、気ままに髪は切られまじ。か程やつれし我が姿、露の蔭より見給はば、いくばく無念に思されん。未来で殿御に会ふまでは、大事の我が身、何の捨てう。よね振り仕上げ、我が夫に、嬉しがらせて恋若やがせ、かうしてどして。」と一人ごち、鏡に向かひ玉櫛笥、繕ふ顔も中々に、遣る方なさの余りぞや。
かかる処へ長が女房、「小萩、小萩。」と呼び立て、局に入つて大きに怒り、「やい、女め。何をひろいでここに居る。おのれは何が役なるぞ。遊ばせうとて置きはせぬ。流れを立てよと言ひ付くれば、四の五のとて嫌ふ故、下の水仕に追ひ下し、十六箇所の釜を焚き、上り下りの客達の、洗足取つて、苧を績みて、裏背戸掃いて朝夕に、三十人の遊君の、化粧の水を汲む役ぞや。女郎どもと同じやうに、けはひ化粧はあた見られぬ。それ程身に構ふならば、今でもおのれ、流れを立てよ。」と、箒押つ取り怒りしは、さながら夜叉の如くなり。姫君は赤面し、「御奉公は何事も、残らず仕舞ひ候故。女の事にて候へば、乱れ髪も見苦しく、櫛取り上げて候なり。流れの事はいつまでも、御許し候へ。」と、涙と共に仰せける。
女房、重ねて、「やれ、結ふにも時分がある。はや何時ぢやと思ふぞや。むむ、合点ぢや、合点ぢや。これの長殿が、何とやらん、この頃は、おのれを見る目は糸薄の如くになる。合点が行かぬと思ひしに、さては、おのれが長殿を、そそのかすとおぼえたり。こりや、長殿には、わらはといふおか様ある。さあ、何として長殿の目を、あの如く細うはしたぞ。まつすぐに申せ。」と言へば、「これは近頃、御無理なり。旦那様のお目の事は、みづからは知らぬ。」とある。「やい、売女め。おのれを使ふみづからが、知るまいと思ふか。昨夜、長殿の御湯殿しに参りし時、涙を流し、しみじみと口説いたは、何事ぢや。さあ、これは何事ぢや。」と、畳みかけて申しける。
姫君、聞き給ひ、「さん候。わらはには、親、夫も候はず。明日をも知らぬ無縁の身。この頃、この宿に、熊野本宮の車が着いたる由。一引き引けば千僧供養と申す故、菩提のために車が引きたう候て、三日のお暇賜べかしと、御訴訟申して候が、その外には覚えなし。情けは人のためならず。さのみにつらくな宣ひそ。」と、又さめざめとぞ嘆かるる。「ええ、つべこべとぬかしたり、ぬかしたり。あら憎や、腹立ちや。」と、鏡を取つて投げつ、胸を燃やしてぞ怒りける。
主の長、立ち出て、「これこれ、女房。さな荒けなくし給ふな。君を思ふも身を思ふとやら。奉公するも身の可愛さ。主も人、下人も人。我々夫婦を頼りにて、奉公するではあらざるか。情けをかけて使はれよ。年端も行かぬあの女、仏の道に心懸け、供養の車を引かんと言ふ、心入れが殊勝なり。三日の暇を取らする。」と、よに頼もしげに言ひければ、女房、いよいよ腹を立て、「これ、性悪。みづからも鬼では無し、情けは知つた。さりながら、御身が小萩を見る度に、目を細めて、可笑しい目付きが気に入らぬ。四十五十に余つて、塩の眼の時分かいの。ええ、笑止な。」とありければ、長は元より律義者。「ああ、迷惑、迷惑。それは、廻り気。たとへ小萩を天人にもせよ、そなたをのけて、脇心を持つものか。あの女に某が、塩の目すると言はるれども、いかな事、いかな事。細い目見せた事もなし。この繰る珠数を誓文。」と、くわつと睨みし両眼は、そのまま達磨の如くなり。
女房、少し和らぎて、「なう、勿体ない。誓文に及ばうか。いや、これ、長殿。みづからも鬼畜にてもあらねども、いかにしても今までは、御身の眼元が妬ましう、思はぬ腹を立ててある。これこれ、小萩。後生の事とあるからは、長殿より三日の暇に、わらはが二日相添へて、五日の暇取らするぞ。車を引いて帰れ。」とあれば、姫君、嬉しく思し召し、「さて有難や。この御恩、一度は報じ申すべし。」又もや御意の変はらぬ先、「早、お暇。」と出給ふ。
長は小萩を見送りて、「さてもさても、女の身にて、かく仏法に赴く事。若い者の、さりとては、さりとては、ああ奇特、奇特。」と、暫し感ずる顔ばせに、女房、気を付け、「それ、又眼元が細うなる。それが嫌ぢや。」と言ひければ、長は驚き、「はて、この珠数ぢや。」と目を見出し、連れて奥にぞ入りにける。
照手の姫車の段
忘れ草がな、種あらば、我が恋草に植ゑ混ぜて、憂きが折々忘れなん。片輪車の綱手にも、雌綱雄綱はあるものを。ああ、いかなれば我一人、世に長らへて先立てし、夫の菩提を祈るにぞ、心は物に狂はねど、姿ばかりは物狂ひ。形見の烏帽子、眉深く、初音の里の若笹に、露の白木綿きりかけて、引けや引けや、この車。引くや仏の御手の糸、妙なる法にあを墓の、長の門前、はや過ぎぬ。刈穂の庵の夕雫、垂井の宿は、これとかや。片割れ月の片割れは、落ちても水の底にあり。あるかと見えて無き物は、かの見し人の面影を、夢に来るやとまつ葉山。天津乙女の空焚きか、雲な隔てそ、せめて故郷の空を見ん。巡れや巡れや、この車。巡る輪廻は離るとも、懸けし誓ひはよも切れじ。菫交じりの浅茅原、旅衣、つましなき、板屋が軒に風落ちて、荻の裳裾もふは、不破の関。あまたの綱子、声々に、「えいさらえい。」と引く車、音頭を取りて引かせうぞ。引けや干潟の群千鳥、諸声かけて囃さぬか。追ひかけ中綱締めて見よ。締めて寝し夜の睦言の、耳にとどまり懐かしく、美濃と近江の境なる、寝物語りや床の山。枕の森も哀れげに、二人並ぶる夜半もがな。ああああ、一夜だに、一夜だに、忘れも遣らぬ恋しさは、いつさめが井の水深く、沈みて物を思へとや。沈まば沈め、とんと沈まん恋の淵。馬淵繩手を遥々と、横切る嵐、さらさらさら。さつと左の振袖を、ああ又、右の袖下へ、吹き抜く風は恋風か。玉のはだへにしみじみと、そのいつぞやの下紐の、今は昔に解けよかし。解くや柳の眉根書き、鼻ひ紐解け乱るれど、誰かは我を慕ひつつ、噂流れん言の葉の、うたづめ川を打ち渡り、何故つくる姿見の、鏡の宿も引き過ぎて、梢に響くあだ浪は、琴の調べか唐櫓の音か、松風の声でないよの。忍び車がの、巡り巡るや瀬田の橋。引いつ引かれてひとふた夜、みよを重ねし笹竹の、大津も過ぎて関寺や、霊屋が門に車着く。
「あはれ、この身がままならば、熊野のお山に引き着けて、本宮の湯を引くべきに、宮仕ふ身は力なき。力車の善根も、これまでなり。」と夕暮の、松の焚きさし、筆にして、「そも、数ならぬ美濃の国、万屋長が水仕の下女、常陸小萩といふ女。上下五日の車の旦那。志は思ふ人、頓生菩提。」と書き記し、別れて帰る道芝の、暫しが程と言ひながら、他生の縁。これぞこの、救世の舟の綱子ども、立ち返りては、「いざさらば、さらばさらば、さらば。」と袖絞る、姿も影も遠山の、霧にほのぼの木隠れて、涙に声も、うは枯れし。
校訂者注
・愚僧、不思議の――底本「愚僧の不思議の」。『近松全集 第14巻』により改めた。
・初音の里の若笹に――底本「初音の里の我が笹に」。『近松全集 第14巻』により改めた。
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