忠兵衛は嘘腹の、立ち煩ひて居る処に、「北の町から、いかつげに来るは、誰ぢや。やあ、中の島の八右衛門。き奴に逢うては難かし。」と、東の方へ出違へば、「これ、忠兵衛、外すまい、外すまい。」と声懸けられ、「や、八右衛門。この中は久しい。昨日も今日も一昨日も、人遣ろ、人遣ろと思うて、何やかや延引した。めつきりと寒いが、親父の疝気は。婆様の虫歯は。ああ、いかう酒臭い。過ごしやるな、過ごしやるな。明日は早々、人遣らう。や、れそが言伝したぞや。近日一座致したい。」と、たくしかくれば八右衛門。
 「置けやい。口三味線に乗せかけても、乗るやうな男でない。そちが商売は、三度でないか。身が方へ上つた江戸為替の五十両は、何として届けぬ。五日三日は料簡もあるぞかし。心安いは格別、高駄賃かくからは、大事の家職。十日に余れど埒明かず。今日も使を遣つたれば、手代めが嵩高な返事した。よもや脇へはさうあるまい。八右衛門をなぶるか。北浜、靭、中の島、天満の市の側まで、親父とも言はるる八右衛門。なぶつてよくば、なぶられうが、金は今日受け取る。但し、仲間へこたへうか。まづお袋に会はう。」と、内へ入るを引きとどめ、「さりとては謝つた。これ、手を合はす。たつた一言聞いてたも。拝む、拝む。」とささやけば、「又、口先で済まさうや。梅川を騙したと、男の意気は違うた。言ふ事あらば、さあ聞かう。」と、苦々しくきめつけられ、「これ、その声を母が聞けば、死んでも一分立たぬ事。一生の御恩ぞ。さりとては面目ない。」と、はらはらと泣きけるが。
 「何を隠さう、この金は、十四日以前に上りしが、知つての通り、梅川が田舎客、金づくめにて張り合ひかける。この方は、母、手代の目を忍んで、わづか二百目、三百目のへつり金。追ひ倒されて、生きた心もせぬ処に、受け出す談合極まつて、手を打たぬばかりと言ふ。川が嘆き、我等が一分、既に心中する筈で、互の喉へ脇差の、冷いやりとまでしたれども、死なぬ時節か、色々の邪魔ついて、その夜は泣いて引き別れ、明くれば当月十二日。そなたへ渡る江戸金が、ふらりと上るを、何がなしに懐に押し込んで、新町まで一散に、どう飛んだやら、覚えばこそ。段々、宿を頼んで、田舎客の談合破らせ、こつちへ根引きの相談しめ、かの五十両、手付に渡し、まんまと川を取りとめしも、八右衛門といふ男を、友達に持ちし故と、心の内では朝晩に、北に向かひて拝むぞや。さりながら、いかに懇ろなればとて、先に断り立て置いて、使へば借るも同然。後ではいかがと思ふ内、その方からは催促。嘘に嘘が重なつて、初手のまことも虚言となれば、今何を言うても、まことには思はれじ。されども遅うて四、五日中、外の金も上る筈。いかやうとも仕送つて、一銭一字、損かけまじ。この忠兵衛を人と思へば腹も立つ。犬の命を助けたと、思うて料簡、頼み入る。これを思へば世の中に、御仕置者の絶えぬも道理。この上は忠兵衛も、盗みせうより外はなし。男の口からかやうの事、言はれうものか、推量あれ。咽より剣を吐くとても、これ程にはあるまじ。」と、絞り泣きにぞ泣き居たる。
 鬼とも組まん八右衛門、ほろりと涙ぐみ、「言ひにくい事、よう言うた。丹波屋の八右衛門、男ぢや。料簡して待つて遣る。首尾ようせよ。」と言ひければ、忠兵衛、土に額を付け、「忝い、忝い。父二人、母三人、親は五人持つたれども、その恩よりは八右衛門、貴殿の御恩、忘れぬ。」と、とかうは涙ばかりなり。「さう思へば満足。さあ、人も見る。その内。」と、立ち別れんとせし処に、内より母の声として、「やあ、八右衛門様か。忠兵衛、これへ通しましや。」と、声かけられて詮方なく、もぢもぢ連れ立ち、入りにけり。
 母は律儀一遍に、「先程はお使。又、御自身のお出。御尤も、御尤も。これ、あなたの金の届いたは、十日も以前。何として延引ぞ。胸にとつくと手を置いて、よう思案して見や。遅う届けば飛脚は要らぬ。何がそなたの商売ぞ。さあ、今渡して上げましや。」と、言へども渡す金は無し。八右衛門も底意は聞く。「これ、お袋。恥づかしながら八右衛門が、五十両や七十両、急に要る事もなし。これよりすぐに長堀まで参れば、明日でも。」と立たんとすれば、「いやいや。大事のお金、預かれば気使ひで、夜も寝られず。なう、忠兵衛。きりきり渡しや。」とせり立てられ、「あつ。」と言ふより納戸に入り、うろうろしても金は無し。入れもせぬ戸棚の錠、開ける顔してぴんと言ふ、鍵の手前も恥づかしく、胸に願立て神下ろし、狂気の如く気を揉みしが、「やれ、有難や。この櫛箱に焼き物の鬢水入れ。これ、氏神。」と三度頂き、紙押し広げ、くるくると、駿河包みに手ばしこく、金五十両墨黒に、似せも似せたり五十杯。母には一杯参らせし、その悪智恵ぞ、勿体なき。
 「これこれ、八右衛門殿。今渡さいでも済む金ながら、母の心を休めるため、男を立てるそなたと見て、詮方なうて渡す金。さつぱりと受け取つて、母の心、休めてたも。包みは解くに及ぶまじ。いらうて見ても五十両。どうしてたもる。」と差し出す。八右衛門、手に取つて、「はて、誰ぞと思ふ。丹波屋の八右衛門、受け取るに仔細はない。これ、お袋。江戸為替、確かに受け取りました。不動参りに待ちまする。」と、立つ処を妙閑、まことと思ひてや、「これ、忠兵衛。仕切為替の作法は、金と手形と引き替へ。もし御持参なきならば、一筆、ちよつと書かせましや。物は念ぢや。」と言ひければ、「おお。それそれ。母は無筆の一文字も読まれねども、しるしばかりに一筆。」と、硯出して目配せすれば、「易い事、易い事。忠兵衛、文言、これ見や。」と、筆に任せて書き散らす。「一つ、金子五十両、受け取り申さず候。右約束の通り、晩には廓で呑みかけ、我等は幇間、実正明白なり。何時なりとも騒ぎの節、きつと参上申すべく候。仍つて紋日のため、鬢水入れ、件の如し。」と、阿房のたらたら書き散らし、「さらば、御暇申さう。」と、表へ出づれば妙閑は、「書いた物こそ物言へ。」と、又騙されし正直の、親の心や仏の顔も、三度飛脚の江戸の左右、待つ夜もやうやう更けにけり。
 表に馬の鈴の音、「こりやこりや。駄荷が着いたぞ。中戸、中戸。」と声高に、てんでに葛籠、かたげ込む。忠兵衛親子、機嫌よく、「さあ、拍子が直つた。来年も仕合せ馬。馬子衆に、酒よ、煙草よ。」と、硯控へつ帳付けて、家内どんどと賑へば、手代の伊兵衛、けうとげに、「なう、堂島のお屋敷から、金三百両、九日に来る筈。先状が上つた。何とて遅いと、お侍の甚内殿が、ねめ付けて帰られた。何と、何と。」と言ひければ、宰領が打ち飼ひより、「その三百両、合点。これ、急々の御用。今夜中にお届け。」方々の為替金高八百両、ぐわらりぐわらりと取り出す。
 忠兵衛、いよいよ勢ひよく、「白銀は内庫へ、金子は戸棚へ。母者人、私はぢきにこの小判、お屋敷へ持参する。人の金を預かれば、表も気を付け、早う閉め。火の用心が一大事。戻りはちつと遅うても、駕籠で行けば気使ひない。夜食仕舞うて、はや寝よ。」と、金懐中に、羽織の紐、結ぶ霜夜の門の口。出馴れし足の癖になり、心は北へ行く行くと、思ひながらも身は南。西横堀をうかうかと、気にしみ付きし、よねが事。米屋町まで歩み来て、「やあ、これは、堂島の御屋敷へ行く筈。狐が化かすか、南無三宝。」と引き返せしが、「むむ、我知らずここまで来たは、梅川が用ありて、氏神のお誘ひ。ちよつと寄つて、顔見てから。」と、立ち帰つては、「いや、大事。この金を持つては、使ひたからう。置いてくれうか、行つてのけうか。行きもせい。」と、一度は思案、二度は不思案、三度飛脚、戻れば合はせて六道の、冥土の飛脚と。


底本注
 ・れそ――「それ」のさかさ言葉。「それ」を「れそ」と言ひ、「これ」を「れこ」と、隠語的にさかさ言葉を用ゐる。けだし、或る物について、その名を明らかに言はないでも、「れこ」「れそ」と言へば、話し相手の者に、その意通じる時に用ゐる粋言葉である。冥途の飛脚のここの文の「れそ」は、八右衛門と情交ある遊女を言うたのである。

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校訂者注
 ・追ひ倒されて――底本「負ひ倒されて」。『近松全集 第14巻』により改めた。
 ・心は北へ行く行くと――底本「心は北へ行くと」。『近松全集 第14巻』により改めた。