孫右衛門は老足の、休み休み、門を過ぎ、野口の溝の水氷、滑るを止まる高足駄。鼻緒は切れて横様に、泥田へがばと、こけ込んだり。
 「はあ、悲しや。」と忠兵衛、もがけども騒げども、身を顧みて、出も遣らず。梅川、慌て走り出、抱き起こして裾絞り、「どこも痛みはしませぬか。お年寄りの、おいとしや。お足も濯ぎ、鼻緒もすげて上げませう。少しも御遠慮なさるるな。」と、腰膝撫でて、いたはれば、孫右衛門、起き上がり、「どなたやら、有難い。お蔭で怪我も致さぬ。若い上臈のお優しい。年寄りと思し召し、嫁御もならぬ介抱。寺道場へ参つても、これ、ここの一心が邪慳では、参らぬも同然。こなたがほんの後生願ひ。もう手を洗うて下され。幸ひここに、藁もある。鼻緒は私がすげましよ。」と、懐の塵紙を取り出せば、梅川は、「よい紙が御座んする。こより捻つて上げませう。」と、延べ引き裂きし手元、孫右衛門、不思議さうに、「まづこなたは、ここらに見知らぬお人ぢやが。どなたなれば、このやうに、懇ろにして下さる。」と、顔をつれづれ眺むれば、梅川、いとど胸づはらしく、「ああ、我等は旅の者。私が舅の親父様、丁度お前の年配で、恰好もそのまま。外へする奉公とは、さらさら以て思はれず。お年寄つた舅御の、臥し悩みの抱きかかへ、宮仕へは嫁の役。御用に立てば私も、なんぼうか嬉しいもの。連れ合ひは猶、親御の事、飛び立つやうにもある筈。この紙とこの紙と、替へて私が申し受け、連れ合ひの肌に付けさせ、父御に似たる親父様の、形見にさせたう御座んす。」と、塵紙、袖に押し包む、涙ぞ色に出にける。
 言葉の外れに孫右衛門、つくづくと推量し、さすが恩愛捨て難く、老いの涙にくれけるが、「むむ、そなたの舅にこの爺が、似たと言うての孝行か。嬉しい中に、腹が立つ。年たけた倅を、仔細あつて久離切り、大坂へ養子に遣はせしに、根性に魔がさいて、大分、人の金を誤り、挙句に所を走つて、この在所まで詮議の最中。誰故なれば、嫁御故。近頃愚痴な事なれども、世の譬へに言ふ通り、盗みする子は憎からで、縄かくる人が恨めしいとは、この事よ。久離切つた親子なれば、よいにつけ悪いにつけ、構はぬ事とは言ひながら、大坂へ養子に行て、利発で器用で身を持つて、身代も仕上げた、あのやうな子を勘当した、孫右衛門はたはけ者、阿呆者と言はれても、その嬉しさは、どうあらう。今にも捜し出され、縄かかつて引かるる時、よい時に勘当して、孫右衛門は出来した、仕合せぢやと褒められても、その悲しさは、どうあらう。今から思ひ過ごされて、一日も先に往生させて下されと、拝み願ふは今参る、如来様、御開山。仏に嘘はつかぬぞ。」と、土にどうどひれ伏して、声をはかりに泣きければ、梅川も声を上げ、忠兵衛は障子より、手を出し伏し拝み、身を揉み嘆き沈みしは、理とこそ聞こえけれ。
 猶も涙を押し拭ひ、「なう、血の筋は悲しい。仲のよい他人より、久離切つた親子の親しみは、世の習ひ。盗み騙りをせうよりも、なぜ前方に内証で、かうかうした傾城に、かうした訳の金が要ると、ひそかに便宜もするならば、親は泣き寄り、親子なり。殊に、母もない倅。隠居の田地を売つても、首縄は付けさせまい。今では世間広うなり、養子の母に難儀をかけ、人に損かけ苦労をかけ、孫右衛門が子で候とて、引き込んで置かれうか。一夜の宿も貸されうか。みなあいつが心から、その身も狭い苦を仕居る。嫁御にまで憂き目を見せ、広い世界を逃げ隠れ、知音近付き親子にも、隠れるやうに身を持ちなし、ろくな死にもせぬやうに、この親は生み付けぬ。憎い奴とは思へども、可愛う御座る。」とばかりにて、「わつ。」と消え入り、泣き沈む、分けたる血筋ぞ哀れなる。
 涙の隙に巾着より、銀子一枚取り出し、「これは、難波の御坊の御普請の奉加銀。今、ここにあり合はせた。嫁御と存じて遣るでもなし、只今のお礼のため。この辺にぶら付いては、よう似たとて捕らへるぞ。連れ合ひは猶以て。これを路銭に、御所街道へかかつて、一足も早うのかつしやれ。こなたの連れ合ひにも、言葉こそは交はさずとも、ちよつと顔でも見たいが。いやいや、それでは世間が立たぬ。どうぞ、無事な吉左右を。」と、涙ながらに二足三足、行きては帰り、「何と、逢うても大事あるまいかい。」「何の、人が知りませう。会うて遣つて下さんせ。」「ああ、大坂の義理は欠かれまい。どうぞして、さかさまな廻向させなと、懇ろに頼みまする。」と、むせ返り、振り返り振り返り、泣く泣く別れ行く後に、夫婦は、「わつ。」と伏しまろび、人目も忘れ、泣き居たる、親子の仲こそはかなけれ。
 忠三郎が女房、雨に濡れて立ち帰り、「待ち遠に御座りませう。こちの人は荘屋殿から、すぐに道場に参られ、それ故、会ひも致さず。もう雨も晴れかかる。追つ付け今に戻られう。」と、言ふ処へ忠三郎、息を切つて駆け来り、「これはこれは、忠兵衛様。親父様の話で、段々を聞いて来た。こなたの事で、この在所は、大坂から犬が入り、代官殿から詮議ある。剣の中へ昼日中、運の尽きたお人ぢや。こなたの振りを見付けたやら、俄に在所、家並の、片端から家捜し。親父様を今捜す。これから私が家の番。親父様は、いとしや。早う抜かしてくれよとて、狂乱になつてぢや。鰐の口とは只今。さあさあ、裏道から御所街道、山へかかつてのかつしやれ。」と、言へば夫婦はうろたふる。女房は訳知らず、「私も一緒にのきましよか。」「阿呆らしい。」と引きのけて、夫婦に古蓑古笠や、雨のあしべも乱るる心。死しても忘れぬこの情け、深く忍びて出にけり。
 忠三郎、「まづ嬉し。」と、息をついだる処に、荘屋年寄、先に立ち、代官所の捕り手の衆、忠三郎が門口背戸口、二手になり、どやどやと込み入つて、筵を捲り、簀子を破り、唐櫃米櫃灰俵、打ち返してぞ捜しける。土間かけて二十畳にも足らぬ小家、いづくに隠れんやうもなし。「この家は別條なし。野道を捜せ。」と言ひ捨てて、茶園畠の間々を、かり立ててこそ通りけれ。親孫右衛門、裸足にて、「どうぢや、どうぢや、忠三郎。善か悪か、聞きたい。」「ああ、よいよい、気使ひない。夫婦ながら何事なう、まんまと落とし済ました。」「はあ、有難い、忝い。如来のお蔭。すぐに又、道場へ参りて、御開山へ御礼申さう。なう、嬉しや、有難や。」と、二人打ち連れ行く処に、「亀屋忠兵衛、槌屋の梅川、たつた今、捕られた。」と、北在所に人だかり。
 程なく捕り手の役人、夫婦を搦め、引き来る。孫右衛門は気を失ひ、息も絶ゆるばかりなる。風情を見れば梅川が、夫も我も縄目の咎、眼もくらみ、泣き沈む。忠兵衛、大声上げ、「身に罪あれば、覚悟の上。殺さるるも是非もなし。御廻向頼み奉る。親の嘆きが目にかかり、未来の障り、これ一つ。面を包んで下され、お情けなり。」と泣きければ、腰の手拭ひ引き絞り、めんない千鳥、百千鳥、泣くは梅川、河千鳥。水の流れと身の行方、恋に沈みし浮き名のみ、難波に残し、とどまりし。

冥途の飛脚 終

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校訂者注
 ・延べ引き裂きし、その手元――底本「延紙ひき裂きし手元」。『近松全集 第14巻』により改めた。
 ・段々を聞いて来た――底本「段々聞いて来た」。『近松全集 第14巻』により改めた。
 ・殺さるるは是非もなし――底本「殺さるゝも是非もなし」。『近松全集 第14巻』により改めた。