【翻字】
所へやツて参りましたのは、一人(ひとり)のお武家様
でございます、袴をば高らかに掲(から)げて、大小刀(だいせう)立派に穿(さ)しこ
なし 武家「アゝ一寸(ちよつと)物を尋ねるぞ、畑の駅(しゆく)の万屋利兵衛と申す
旅宿(やど)はこの辺であるかナ ◎「ヘエ、エー万屋利兵衛は手前で
ございます 武家「ハゝア、それは何軒程手前だナ ◎「エー私(わたくし)の
方(はう)が万屋利兵衛でございます 武家「アゝ貴様が万屋の利兵衛で
あるか ◎「イエ、私は番頭の伊八でございます 武家「アー貴様
が番頭の鼬(いたち)か 伊八「イエ鼬ではございません、伊八でございま
す 武家「アー拙者(それがし)は芸州の藩に於(おい)て黒煙(くろけむり)五平太と申す者である

が、一人(にん)にて汝方(なんぢかた)で一泊を致したいが苦しうないか 伊八「ヘエ
何卒(どうぞ)お泊りを願ひます 五平「ムゝ、然らば其方宅(そのはうかた)にて一泊を致
す、併(しか)し伊八、これは甚だ些少であるが、南鐐一片遣(つかは)すから
何(ど)うか静かな所へ寝かして貰ひたい、と申するは、余の儀で
もないが、昨夜は伊賀の名張に泊ツたが、この名張といふ処(ところ)
は藤堂和泉守様の御領分、その城下の小竹屋彦兵衛方にて一
泊いたした、ところが間狭(ませば)な所へさして、女子(じやこ)も赤子(もうざう)も一所(ひとつ)
に寝かし居(を)ツたので、相撲取(すまふとり)が歯切(はぎり)を噛むやら、順礼が寝言
を云ふやら、駆落者(かけおちもの)は夜通(よどほし)もう意茶々々苦茶々々と申したゆ
ゑに、到頭(たうどう)徹夜(よつぴて)寝られなかツた、それゆゑ今宵は幾ら間狭い
所でも苦しうない、密(ひそ)やかな所に寝かして呉(く)れゝばそれで可(よ)
いが、その辺は前以(もつ)て頼み置くから 伊八「イヤ承知仕(つかまつ)りまして
ございます、オイお松どん、お泊りの旦那様をば茶の室(ま)へさ

して御案内をしなさい、彼処は密かで好いから お松「アゝモシ
旦那様、お荷物は私(わたくし)が持ツて参ります 伊八「オイお松どん頼む
ぜ お松「サア何卒(どうぞ)此方(こちら)へ」 と下女に案内(あない)をされまして、このお
武士(さむらひ)は奥の茶の室(ま)へさして通りました 伊八「オイ、お茶を持ツ
て行けよ、アゝお火鉢は好いかナ、チヤンと気を付けて、ヘ
エ貴郎方お泊りぢやアございませんか、ヘエお泊りではござ
いませんか」と戸外(おもて)へ出て伊八は頻(しき)りに客を引いて居ります

【語釈】
・掲(から)げて…ルビ不鮮明(特に「か」)。形からの推測と意味から判断して判読。
・ございます…画像では「す」が「四」で、しかも右に90度倒れている。明らかに誤植であり訂正した。
・南鐐…二朱銀貨。二朱は一両の八分の一。
・女子(じやこ)も赤子(もうざう)も…不詳。漢字に「女子」「赤子」とある以上、「乳幼児を連れた婦人」という意味であったと筆記者が判断していたことがわかる。
・はぎり(歯切)…歯ぎしり。
・よっぴて(徹夜)…一晩中。
・密か(ひそ)…ルビ不鮮明(特に「ひ」)。他に数箇所あり、比較的鮮明な個所から判読。

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【解説】
 「宿屋仇」に登場する侍と宿の者がここで登場します。現行の噺と比較すると、宿の名(万屋)と侍の名(黒煙五平太)は違いますが、宿の者の名は同じ(伊八)です。侍が伊八に茶代を渡し、昨夜は寝られなかったから静かな部屋に案内せよと求めるのは、今の話と全く同じ設定です。

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