【翻字】
ところへやツて参りましたのは、前(ぜん)申(まをし)上げました紛郎兵衛、
似多八の両人でございます、紛郎「似多さん、此処(こゝ)は畑の駅(しゆく)ぢや
ぜ、今夜此処で泊らうか 似多「左様サ 紛郎「この辺で立派な旅宿(やど)
は万屋だ、オイ、万屋利兵衛ツてのはお前の方(はう)か 伊八「ヘエ左
様でございます 紛郎「私等(わしら)ア始終二人達(ににんづれ)ぢやが、お前の方で泊
めて貰へるかナ 伊八「ヘエヘエ、イヤ承知いたしましてございま

す 紛郎「モウ狭(せま)い所に泊ると窮屈でならぬ、由(よ)ツて成るだけ間
広(びろ)い座敷へ案内(あない)をして呉れ 伊八「承知いたしました、オイお松
どん、大勢のお泊りだから、彼(あ)の座敷の都合は好いかナ、蒲
団万端から焼物、皆都合して置いてお呉れ、四十二人さんだ
と仰(おツ)しやるから、さうして御飯(おまんま)の所も一斗ほどお米を洗(か)して
置かねばならぬ。エー併し貴郎方は宿取様(やどとりさま)とお察し申します
が、そのお笠をばお借り申しまして、この軒下に斯(か)う吊(つる)して
て置きますから 紛郎「ハゝア何(なん)の為(た)めにこの笠を此処に斯う吊(つ)ツ
て置くのぢや 伊八「エゝまた跡の四十人様がお出でになりまし
た時に、旅宿が間違ひましてはなりませんから 紛郎「跡の四十
人、乃公等(おいら)はたツた二人(ふたり)だけの旅だぜ 伊八「イエ、只今貴郎四
十二人連(づれ)ぢやと仰せでございましたが 紛郎「サア何処(どこ)へ行くに
もこの男と私(わたし)と二人(ふたり)が意気投合(うまあひ)ぢやから、何時(いつ)も二人連(ふたりづれ)で旅

をして居(お)るのぢや 伊八「イエその四十二人連(づれ)ぢやと……… 紛郎「イ
ヤ何処へ行くのでも始終二人連(づれ)ぢやと斯(か)う言うて居(ゐ)るのだ 
伊八「ヘエーすると只お二人(ふたり)ぎりでございますか 紛郎「アゝ、然(さ)
うぢや 伊八「オイお松どん違ふ違ふ、四十二人連ぢやアない、始
終お二人連(ふたりづれ)ぢや、焼物は如何(どう)した、ナニ切ツた、さうしてお
米を一斗洗(あら)うた、そりやア何をさらすのぢや、無茶苦茶だ、
たツた二人(ふたり)だがナ 紛郎「オイオイ若衆(わかいしゆ)、たツた二人で気に適(い)ら
ぬやうなことなら、他の旅宿(やど)へでも取替へやうか 伊八「滅相な事
仰(おつ)しやいませ、お二人様でも泊ツて戴きませんと台なしでご
ざいます 紛郎「ぢやア二人でも大事ないか 伊八「ヘエヘエ、結構で
ございます 紛郎「そんなら二人泊ツても好いかナ 伊八「宜しうご
ざいます 紛郎「ヤアートコセー、ヨーイヤナ、アリヤリヤ、コ
レワイセ、ソリヤナンデモセー 伊八「アゝモシ、何(ど)うか一ツお

静かに願ひます 紛郎「ハゝア、お前所(とこ)の宅(うち)でヤアートコセヨー
イヤナ位(くら)ゐな事が云へぬのか 伊八「イエそんな事は決してござ
いません 紛郎「それに何で小言をいふのぢや 伊八「エー貴郎はそ
れで宜しうございますが、背後(うしろ)のお同伴(つれ)さんは草鞋穿(わらじは)いた儘(まま)
上を歩いてお在(ゐ)でなさいますので 紛郎「オイ似多、そんな無茶
アするなエ、宅内(おいへ)へ草鞋を穿いて上(あが)る奴があるものか 似多「オ
イ若衆(わかいしゆ)、堪忍して呉れ、迂闊(うつかり)して居た、併し何処の座敷ぢや
ナ 伊八「エーこのお座敷でございますので 似多「アゝ然うか 伊八「
お荷物は此処に置いておきます、エーお客様、草鞋は此方(こちら)へ
さして確(しつ)かりお預(あつか)り申して置きますので 似多「オイ若衆 伊八「ヘ
エヘエ 似多「乃公等(おいら)ア憚りながら大阪の若者(わかいもの)だ 伊八「ヘエヘエ 似多「
草鞋(わらんじ)何(なん)かア足に一遍かけたら、二度とかけぬ方ぢや、そんな
物は棄(ほ)ツて仕舞へ 伊八「イヤ何うも大きに御無礼申しました、

それぢやア脚絆も甲掛(かふかけ)も皆な棄ツて仕舞ひませうか 似多「イヤ
それは除(の)けて置いて呉れ 伊八「併しお客様、最う直(すぐ)にお風呂が
沸きますに居(よ)ツて、沸きましたら御案内(ごあんない)を致します 似多「アゝ
若衆(わかいしゆ)、お前は何(なん)といふのだ名前は 伊八「私(わたくし)は当家の番頭で伊八
と申します 似多「それぢやア女中さんに、風呂は何(ど)うでも可(い)い
から、御飯(おまんま)ア出来次第に持ツて来て呉(く)れるやうに吩附(いひつ)けて置
け 伊八「承知いたしましてございます」 二人はアゝ草臥(くたび)れたと
いふので、打寛(うちくつろ)いで一服いたして居ります、

【語釈】
・一斗…約18L。一升の10倍、一石の1/10。
・うまあひ…本書でも「意気投合」が宛てられており、「馬が合う(気が合う)者同士」という意味には違いないが、なぜか辞書には見えない。
・宅内(おいへ)…ルビ不鮮明。
・脚絆…長時間の歩行等において保護・防寒等の目的で脚のすねに着ける着衣。
・甲掛…長時間の歩行等において保護・防寒等の目的で足の甲に着ける着衣。
・吩附(いひつ)けて…ルビ不鮮明。「吩咐」(「言いつける」意)の誤りか。

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【解説】
 侍に続き、紛郎兵衛と似多八が万屋に投宿します。「私等ア始終二人達」という紛郎兵衛の紛らわしい言い方に、伊八は「四十二人連」と勘違いします。この本の読者であれば、漢字を見ますからわかりますが、寄席の客は耳で聞きますから、伊八の勘違いを無理もないと受け止めたことでしょう。以下、細部には違いはあるものの、大きな流れは現行の「宿屋仇」とほぼ同じです。やはり両者の大きな違いは、現行「宿屋仇」が喜六・清八・源兵衛の三人連れであるのに対し、本書では紛郎兵衛・似多八の二人連れである点です。

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