【翻字】
ところへさして
下女(をなごし)は、チヤンと御飯(ごぜん)も拵へて持ツて参りました 下女「サア何(どう)
卒(ぞ)誠に粗末でございますけれども、御飯(ごぜん)をお召喫(めしあが)り遊ばして
 紛郎「オウ姐(ねへ)さん、チヨイと膳の上で一盞(ひとくち)やらうと思ツて居る
のだが、一本燗(つ)けてんか 下女「承知いたしましてございます 
 紛郎オイ姐さん、此処(こゝ)にお金が一分ある依(よ)ツて、此金(これ)をお前

持ツて行ツて、何でも大事(だん)ない、チヨツと作身(つくりみ)を少し拵へて
来てお呉れんか、余計は要(い)らんぜ、旨かツたら可(い)いから 下女「
承知いたしました、併しこれぢやア沢山残りまするが 紛郎「ハ
ゝア残るかいナ、残ツたらえらい失礼ぢやけれども、お前に
進(あ)げるから取ツといてお呉れ 下女「大きに何うも有難うござい
ます 紛郎「オイ姐さん、一寸待ツて、序(つい)でながら何でも大事(だん)な
い、チヨツと吸物を二ツだけ別に拵へて来てお呉れんか 下女「
承知致しました 紛郎「残るやらうナ 下女「ヘエ 尚(ま)だ沢山残りま
す 紛郎「残ツたらえらい失礼ぢやけれども、お前取ツといてお
呉れ 下女「有難うございます 紛郎「チヨイと山葵(わさび)をガリガリと卸(おろ)
して、さうして海苔を少しかけた刺身を一(ひ)ト鉢だけチヨツと
拵へて来てんか、余計は要(い)らぬぜ、ホン少うしで可(い)いに依ツ
て、お剰余金(つり)は残るかナ 下女「ハイ沢山残ります 紛郎「残ツたら

お前取ツてお置き、失礼ぢやけれども進(あ)げる依ツて、それに
少うし握鮓(にぎりずし)でも、出来にやア箱鮓でも巻鮓でも可(い)いが、チヨ
イと二切(ふたきれ)か三切程持ツて来てんか 下女「承知いたしました 紛郎「
えらい気の毒だけれども、残ツたら取ツといてや、で、茶箱(ちやばこ)
を一ツ持ツて来て欲しいなア、菓子はチヨイと羊羹が好(い)いが
なけりやア薯蕷饅頭(じようようまんぢう)でも大事ないぜ、残ツたら取ツてお置き
下女「お客様、チヨイとお待ちなすツて、残ツたら取ツとけ取ツとけ
と仰しやいますが、全切(まるき)り足りやア致しませんがナ 紛郎「アゝ
足らぬか、けれども残ツたら取ツとけといふのは、私(わし)の親切
ぢや依ツて、足らにやアお前の給金で出してお置き 下女「よう
戯言(うだうだ)と仰しやいます 紛郎「嘘だ嘘だ、そりやアホンの洒落に言ツ
たんだが、いゝか、要るだけの物は皆(みん)な勘定して持ツて来て
お呉れ、前(ぜん)にお前に云ツた通り、一ト鉢二鉢持ツて来たら、

残金(あと)はお前に御纏頭(ごしうぎ)ぢや 下女「有難う存じます」 暫時(しばらく)すると女
中は、二鉢ばかりお盆へ載せて持ツて参りました 紛郎「ナア姐
さん 下女「ハイ 紛郎「チヨイと三味線一挺持ツて来てんか 下女「何(ど)
う致しまして、妾等(わたしら)ア田舎者で、貴郎方(あなたがた)のお粋家様(すい?さま)の前で、
三味線などは迚(とて)も弾けません 紛郎「何を言ふね、チヨイと斯(か)う
見るところが、糸道(いとみち)が附いてゐるが、鼠(ねづ)取る猫爪隠す、可(い)い
がナ、サア、こりやア些金(すこし)だが取ツてお置き 下女「こりやア重
ね重ね有難う存じます」 これから下女は即功紙(そくこうし)を貼ツたやう
な怪しい三味線を持ツてきました、献(さ)しつ酬(おさ)へつ酒を飲み始
めましたところから、紛郎兵衛、似多八の二人は、面白くな
ツてお出(い)でたと、到頭素裸体(すつぱだか)になツて踊り始めました、

【語釈】
・一盞(ひとくち)…ルビ不鮮明(特に「ち」)。「一口やる」で「一杯飲む(「飲酒する)」の意を表す用例が島崎藤村「岩石の間」にある。
・紛郎「オイ…原文「紛郎オイ」。「の欠落は明白であり、補った。
・一分…一両の1/4。
・握鮓(にぎりずし)…ルビ不鮮明(特に「ず」)。
・箱鮓…ルビ不鮮明(特に「ず」)。「はこずし」は、木製の型にエビや魚の切り身と酢飯を重ねて詰め、押して四角い形に整える寿司。
・二切(ふたきれ)か三切…寿司の数詞は現在では「貫」とされているが、昭和中期以前は単に「つ」「個」であったらしい。寿司の数詞として「切」が、地方(大阪)ではあるが当時使用されていたことをうかがわせる貴重な文献例。
・茶箱…不詳。辞書に「②旅持ちまたは野点などの際、茶道具を入れて持ち運ぶ箱」とあり、「など」の中に本書のように、旅館で客の接待用に使用されていたか。
・薯蕷饅頭…「薯蕷」(じょうよ)は山芋。饅頭の皮に使った。
・御纏頭(ごしうぎ)…漢字不鮮明。「纏頭(てんとう)」は「当座の祝儀として与える金品。はな。チップ」。
・お粋家様…ルビ不鮮明。「粋(すい)」は「とりなしがさばけていて、言動などがあかぬけていること」。粋家で「粋(すい)な人」。
・糸道…三味線・琴などを弾く技能。
・鼠取る猫爪隠す…諺。「能ある鷹は爪を隠す(すぐれた才能や力量を持つ者は、謙虚であり、むやみにそれを人に誇示したりはしないものだ)」と同義。
・即功紙…清涼剤・鎮痛剤を塗った紙。頭痛などのとき,患部に貼った。
・献(さ)しつ酬(おさ)へつ…酒杯をさしたり、相手のさしてくれるのを押し返してすすめたりして酒を飲むさま。

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【解説】
 紛郎兵衛・似多八の二人は部屋で女中をからかい、かつうまくおだてて女中に三味線を弾かせ、酒宴を始めます。現行「宿屋仇」の舞台は大阪日本橋の紀州屋であり、酒宴で騒ぎ出すまでの過程は簡単に処理されています。それに対し、初瀬街道畑宿(現三重県津市)という田舎宿を舞台にした本書では、そこを非常に丁寧・詳細かつリアルに描写しています。

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