【翻字】
とこれから奥の座敷へさしてからに来て見まする
と、イヤ女子(じやこ)も赤子(もうざう)も一所(ひとつ)に居るやうな訳で、此方(こなた)の方(はう)には
チヨツと二三人(にん)酒を飲み始めて居(を)ります、歌を歌うたり三味(しや)
線(み)を弾いたりして喧々(わいわい)と言ツて居(を)りまする、暫時(しばらく)いたします
ると一人(にん)の男ですな、顔の色を変へて其処(そこ)へ駈込(かけこ)んで参りま
した 〇「何(なん)ぢや如何(どう)したんぢや △「アゝ喫驚(びつくり)いたしました 〇「
とこれから奥の座敷へさしてからに来て見まする
と、イヤ女子(じやこ)も赤子(もうざう)も一所(ひとつ)に居るやうな訳で、此方(こなた)の方(はう)には
チヨツと二三人(にん)酒を飲み始めて居(を)ります、歌を歌うたり三味(しや)
線(み)を弾いたりして喧々(わいわい)と言ツて居(を)りまする、暫時(しばらく)いたします
ると一人(にん)の男ですな、顔の色を変へて其処(そこ)へ駈込(かけこ)んで参りま
した 〇「何(なん)ぢや如何(どう)したんぢや △「アゝ喫驚(びつくり)いたしました 〇「
何(なに)を喫驚(びつくり)しなすツた △「今私(わたし)やア雪隠(せんち)へ這入りましたら、雪(せん)
隠(ち)の中に大きな蜘蛛が居(を)りました 〇「蜘蛛、蜘蛛ぐらゐが貴(あな)
郎(た)怖いのですか △「私(わたし)やア生来(うまれつ)いてより蜘蛛を見ますと、如(ど)
何(ん)な小さな蜘蛛でも戦慄(ぞつと)して身の毛が弥竪(よだ)ちますので 〇「ハ
ゝア蜘蛛ぐらゐで、そりやア妙ぢやなア ◎「イヤそりやア何(ど)
うとも言へませんぜ 〇「左様かナ △「一体人には必(かな)らず何(なに)か
怖いものがあるものです、といふのは、生(うま)れました時に、床(ゆか)
の下へさして胞衣(ゑな)を埋(うづ)めます、その胞衣(ゑな)の上をば初めて通ツ
た物が、最(も)う一番怖いと言ひますナ 〇「ハゝア、するとこの
お方などは胞衣(ゑな)の上を蜘蛛が通ツたんですナ ◎「左様 〇「然(さ)
う仰(おつ)しやると私(わたし)やア鼠が怖うございますので ◎「サア矢張(やは)り
鼠が胞衣(ゑな)の上を通ツたんでせう 〇「成程 ◎「貴郎(あなた)も何(なに)か怖い
ものがございませう ●「私(わたくし)ですか、ございますとも、私(わたくし)は鼬(いたち)
隠(ち)の中に大きな蜘蛛が居(を)りました 〇「蜘蛛、蜘蛛ぐらゐが貴(あな)
郎(た)怖いのですか △「私(わたし)やア生来(うまれつ)いてより蜘蛛を見ますと、如(ど)
何(ん)な小さな蜘蛛でも戦慄(ぞつと)して身の毛が弥竪(よだ)ちますので 〇「ハ
ゝア蜘蛛ぐらゐで、そりやア妙ぢやなア ◎「イヤそりやア何(ど)
うとも言へませんぜ 〇「左様かナ △「一体人には必(かな)らず何(なに)か
怖いものがあるものです、といふのは、生(うま)れました時に、床(ゆか)
の下へさして胞衣(ゑな)を埋(うづ)めます、その胞衣(ゑな)の上をば初めて通ツ
た物が、最(も)う一番怖いと言ひますナ 〇「ハゝア、するとこの
お方などは胞衣(ゑな)の上を蜘蛛が通ツたんですナ ◎「左様 〇「然(さ)
う仰(おつ)しやると私(わたし)やア鼠が怖うございますので ◎「サア矢張(やは)り
鼠が胞衣(ゑな)の上を通ツたんでせう 〇「成程 ◎「貴郎(あなた)も何(なに)か怖い
ものがございませう ●「私(わたくし)ですか、ございますとも、私(わたくし)は鼬(いたち)
が怖うございます 〇「然(さ)うすると胞衣(ゑな)の上を鼬が通ツたんで
せう ●「ヘエー ▲「私(わたし)は又馬蜉(げじげじ)が怖うございます ◎「すると
馬蜉(げじげじ)が胞衣(ゑな)の上を通ツたんですナ、貴郎(あなた)は何(なん)ぞ怖い
ものはありませんか ◇「私(わたし)だツて怖いものはあります、私(わたし)は誠に馬が
怖いので ◎「それも初めて胞衣(ゑな)の上を馬が通ツたんで ●「空(じやう)
談(だん)なことを、床(ゆか)の下を馬が通れますものか ◎「マアその時胞衣(ゑな)
を埋(うづ)めてゐる折柄(をりから)戸外(そと)を馬が通ツたてなものでせうかエ、
貴郎(あなた)は ●「私(わたくし)は小犬(いぬころ)が怖いので ◎「小犬(いぬころ)、ハゝア、矢張(やは)り胞(ゑ)
衣(な)の上を通ツたんでせう、貴郎(あなた)は ▲「私(わたし)は雷が怖いので ◎「
その時に矢張(やは)りその上で雷が鳴ツたツてなものですナ ●「私(わたし)
は又借金取(とり)が怖うございます ◎「矢張(やは)り借金取(とり)が胞衣(ゑな)の上を
ば……… ⦿「空談(うだうだ)言ひなさんナ
せう ●「ヘエー ▲「私(わたし)は又馬蜉(げじげじ)が怖うございます ◎「すると
馬蜉(げじげじ)が胞衣(ゑな)の上を通ツたんですナ、貴郎(あなた)は何(なん)ぞ怖い
ものはありませんか ◇「私(わたし)だツて怖いものはあります、私(わたし)は誠に馬が
怖いので ◎「それも初めて胞衣(ゑな)の上を馬が通ツたんで ●「空(じやう)
談(だん)なことを、床(ゆか)の下を馬が通れますものか ◎「マアその時胞衣(ゑな)
を埋(うづ)めてゐる折柄(をりから)戸外(そと)を馬が通ツたてなものでせうかエ、
貴郎(あなた)は ●「私(わたくし)は小犬(いぬころ)が怖いので ◎「小犬(いぬころ)、ハゝア、矢張(やは)り胞(ゑ)
衣(な)の上を通ツたんでせう、貴郎(あなた)は ▲「私(わたし)は雷が怖いので ◎「
その時に矢張(やは)りその上で雷が鳴ツたツてなものですナ ●「私(わたし)
は又借金取(とり)が怖うございます ◎「矢張(やは)り借金取(とり)が胞衣(ゑな)の上を
ば……… ⦿「空談(うだうだ)言ひなさんナ
【語釈】
・◇「私(わたし)だツて…原文「◎「私(わたし)だツて」。会話の続き具合から明らかに誤植であり、訂正した。
【解説】
相部屋になった客たちがいる部屋に、一人の客が飛び込んできたところから、互いに怖いものを言い合うくだりです。
現行の故・桂米朝「こぶ弁慶」とほぼ同じ内容ですが、現行「こぶ弁慶」では、にぎやかに騒いでいる喜六・清八の酒宴に他の部屋の客がどんどん入って来たところへ一人の客が飛び込んでくる、という設定なのに対し、本書の古形版では最初から相部屋であったという設定であるところに、大きな相違点があります。
