【翻字】
若旦那「マア番頭待つてお呉れ今の様に気強(きづよ)う云ふたのは実に
私(わたし)が悪かつた向後(これから)改心して優(おとな)しうする程に貴公(おまへ)からお父(とつ)さんに爾(さ)う
言ふて堪忍して貰(もら)ふてお呉れ 番頭「イエ最(も)う若旦那其様(そん)な言(こと)は私(わた)し
若旦那「マア番頭待つてお呉れ今の様に気強(きづよ)う云ふたのは実に
私(わたし)が悪かつた向後(これから)改心して優(おとな)しうする程に貴公(おまへ)からお父(とつ)さんに爾(さ)う
言ふて堪忍して貰(もら)ふてお呉れ 番頭「イエ最(も)う若旦那其様(そん)な言(こと)は私(わた)し
やア……仏の顔も三度と云ひます千度も万度も聞飽(きゝあ)いて耳にタコ(〇〇)が
当(あた)る位(くら)ゐですマア兎(と)も角(かく)も仮令(たとへ)三日でも乞食(こつじき)をなさりませ 若旦那「番
頭何卒(どうぞ)堪忍してお呉れ其(その)代り堪忍して呉れと許(ばつ)かりでは貴公(おまへ)が真実(ほんとう)
に為(す)まいよつて何様(どん)な無理でも聞く、眼で沢庵(かうかう)を噛めと云へば沢庵(かうかう)で
も噛んで見せるよつて夫(それ)が何(なに)よりの証拠ぢやと思ふて乞食(こつじき)に為(す)るの
を堪忍してお呉れ 番頭「成程其(そ)りや何(ど)うも恐れ入りました……コラ
丁稚(こども) 丁稚「ヘイ 番頭「沢庵(かうかう)一切(ひときれ)持つて来い 若旦那「番頭沢庵(かうかう)一切(ひときれ)持つ
て来て何(なん)為(す)るのや 番頭「貴君(あなた)眼で噛みますのを私(わたく)しや見せて戴きま
す 若旦那「其様(そん)な事を貴君(おまへ)、西洋の手品師(てづまし)でも出来るものかへ 番頭「夫(それ)
でも貴君(あなた)今眼で沢庵(かうかう)噛むと被仰(おつしや)つた、そりや虚言(いつはり)ですか 若旦那「そりや
物の道理を云ふたんだ 番頭「其様(そん)な道理の適(かな)はん道理が有りますも
んか 若旦那「今言ふた通り貴公(おまへ)の言ふ無理は何様(どん)な事でも聞く何様(どん)な
無理なと云ふてお呉れ 番頭「成程スルト私(わたし)の云ふ言(こと)は何(なに)に限らず否(いや)
当(あた)る位(くら)ゐですマア兎(と)も角(かく)も仮令(たとへ)三日でも乞食(こつじき)をなさりませ 若旦那「番
頭何卒(どうぞ)堪忍してお呉れ其(その)代り堪忍して呉れと許(ばつ)かりでは貴公(おまへ)が真実(ほんとう)
に為(す)まいよつて何様(どん)な無理でも聞く、眼で沢庵(かうかう)を噛めと云へば沢庵(かうかう)で
も噛んで見せるよつて夫(それ)が何(なに)よりの証拠ぢやと思ふて乞食(こつじき)に為(す)るの
を堪忍してお呉れ 番頭「成程其(そ)りや何(ど)うも恐れ入りました……コラ
丁稚(こども) 丁稚「ヘイ 番頭「沢庵(かうかう)一切(ひときれ)持つて来い 若旦那「番頭沢庵(かうかう)一切(ひときれ)持つ
て来て何(なん)為(す)るのや 番頭「貴君(あなた)眼で噛みますのを私(わたく)しや見せて戴きま
す 若旦那「其様(そん)な事を貴君(おまへ)、西洋の手品師(てづまし)でも出来るものかへ 番頭「夫(それ)
でも貴君(あなた)今眼で沢庵(かうかう)噛むと被仰(おつしや)つた、そりや虚言(いつはり)ですか 若旦那「そりや
物の道理を云ふたんだ 番頭「其様(そん)な道理の適(かな)はん道理が有りますも
んか 若旦那「今言ふた通り貴公(おまへ)の言ふ無理は何様(どん)な事でも聞く何様(どん)な
無理なと云ふてお呉れ 番頭「成程スルト私(わたし)の云ふ言(こと)は何(なに)に限らず否(いや)
とは被仰(おつしや)らんナ 若旦那「ハア何様(どん)な言(こと)でも貴公(おまへ)の云ふ言(こと)は私(わた)しや 違背(そむき)
はせん 番頭「宜しい長(なが)うとは申しません今日(こんにち)より百日間土蔵(くら)へお這(は)
入(い)りなさいまし 若旦那「誰といナ 番頭「貴君(あんた)御一人で 若旦那「其様(そん)な無
茶ア云ひなへ百日も土蔵(くら)の中に単(たつ)た一人淋敷(さむしう)て這入(はいつ)て居(ゐ)られるもん
かへ 番頭「這入(はいつ)て居(ゐ)られぬと被仰(おつしや)りやア詮方(しかた)がない夫(それ)ぢやア矢ツ張(ぱり)
注文通り乞食(こつじき)に…… 若旦那「其様(そん)な無茶ア…… 番頭「其様(そん)なら百日お
這入(はいり)なさいますか 若旦那「夫(それ)ぢやと云ふて 番頭「夫(それ)ぢやア詮方(しかた)がない矢ツ張(ぱり)乞食(こつじき)に 若旦那「百日は酷いなア番頭切(せめ)て五十日に負(まか)らんか 番頭「私(わたし)なア掛値(かけね)が無いので正札です 若旦那「恰(まる)で大丸の商(あきな)ひ見たやうに
番頭「百日が否(いや)なら矢ツ張(ぱり)乞食(こつじき)に致します 若旦那「ヤ、這入(はい)る這入(はい)るモウ貴(お)
公(まへ)が其様(そん)なに言ふてるのなら百日は愚か二百日でも這入(はい)ります 番頭「
其様(そん)なら二百日…… 若旦那「矢ツ張(ぱり)百日に負(まけ)て置(おい)て 番頭「其(その)代り百日
の土蔵(くら)住居(すまゐ)の間は貴君(あなた)の好(すき)な物を何不自由無い様に私(わたし)が取寄(とりよせ)てお
はせん 番頭「宜しい長(なが)うとは申しません今日(こんにち)より百日間土蔵(くら)へお這(は)
入(い)りなさいまし 若旦那「誰といナ 番頭「貴君(あんた)御一人で 若旦那「其様(そん)な無
茶ア云ひなへ百日も土蔵(くら)の中に単(たつ)た一人淋敷(さむしう)て這入(はいつ)て居(ゐ)られるもん
かへ 番頭「這入(はいつ)て居(ゐ)られぬと被仰(おつしや)りやア詮方(しかた)がない夫(それ)ぢやア矢ツ張(ぱり)
注文通り乞食(こつじき)に…… 若旦那「其様(そん)な無茶ア…… 番頭「其様(そん)なら百日お
這入(はいり)なさいますか 若旦那「夫(それ)ぢやと云ふて 番頭「夫(それ)ぢやア詮方(しかた)がない矢ツ張(ぱり)乞食(こつじき)に 若旦那「百日は酷いなア番頭切(せめ)て五十日に負(まか)らんか 番頭「私(わたし)なア掛値(かけね)が無いので正札です 若旦那「恰(まる)で大丸の商(あきな)ひ見たやうに
番頭「百日が否(いや)なら矢ツ張(ぱり)乞食(こつじき)に致します 若旦那「ヤ、這入(はい)る這入(はい)るモウ貴(お)
公(まへ)が其様(そん)なに言ふてるのなら百日は愚か二百日でも這入(はい)ります 番頭「
其様(そん)なら二百日…… 若旦那「矢ツ張(ぱり)百日に負(まけ)て置(おい)て 番頭「其(その)代り百日
の土蔵(くら)住居(すまゐ)の間は貴君(あなた)の好(すき)な物を何不自由無い様に私(わたし)が取寄(とりよせ)てお
進(あ)げ申します、デ百日だけ御辛抱遊ばせ……」
【語釈】
・大丸…現在の大丸百貨店。江戸中期呉服店を開業し、「現金掛値なし」の商法で繁盛した。
【解説】
強硬な番頭の態度に若旦那は泣きを入れ始めたが、番頭は「乞食か百日の土蔵住まいか」の二者択一で迫り、若旦那が遂に土蔵住まいを了承した、というくだりです。
本書古形版「線香の立切」は現行形「立ち切れ線香」に比べ、番頭と若旦那のやりとりを格段に詳しく生々しく描いています。
