山名家が代々寺子屋を家業としていたことは、『日本教育史資料 八』(明治24年(1891)刊)からわかります。江戸時代の私塾・寺子屋に関する文部省調査結果府県別一覧の中に、次のように記されています。「名称 修天爵書堂/学科 読書算術/旧管轄 津領/所在地 入江町/開業 慶長年中/廃業 安政年中/教師 男二 女一/生徒 男九十 女六十/調査年代 明治二年/身分 農/習字師氏名 山名信之介」。この記述を『三重県教育史 第一巻』(昭和55年(1980)刊)は次のように評価しています。「『日本教育史資料』と今回の調査で明らかにした寺子屋を合わせると六三四を数えるが、このうち、最も古いものは、安濃郡津入江町(現、津市)にあった「修天爵書堂」と称する寺子屋で、その開業は慶長年間(一五九六~一六一五年)となっている。安政年間(一八五四~一八六〇年)に至るまで長期間にわたって開業しており、安政時代の経営者は山名信之介である。これは『日本教育史資料』に出ているもので、これが正しければ三重県最古の寺子屋ということができる。しかし、これを実証する史料はまったくない。ただ県下最大の城下町・津にあった寺子屋であるから江戸時代初期に存在しても不思議ではない。しかし、存在したとしても、極めて原初的なものであったと想像される」。
 この箇所を読んだ時、すぐに不正確な点に気付きました。「安政時代の経営者は山名信之介である」とありますが、『日本教育史資料 八』には「習字師氏名 山名信之介」とあり、「経営者」との記載はありません。『津市文教史要』「第一篇 第三章 享保時代の実学 第二節 山名政胤」に次の記述があります。「政興通称清太夫竹幽と号す。修文館の教師に任ぜらる。文久三年十一月没す。子政方家をつぐ。通称信之介、虚舟と号す。漢文に通じ、又曾谷定景に就いて学び、住吉派の画を善くせり。父に襲ぎて修文館の教師に任ぜらる」。「修文館」とは津藩が安政5年(1859)に設置した庶民教育のための学校であり、「文久三年」は1863年です。両者を総合すれば、『三重県教育史』の「経営者」との記述は誤りであると断言できます。また、『津市文教史要』の政胤の節の冒頭には、次の記述もあります。「政胤の系は山名宗全に出づ。宗全の裔孫義隆、安濃津に来り住し、処士を以て終る。義隆の子を義遠とす。義遠の子政吉、元禄八年伊予町稲荷神社別当職を命ぜられ、社傍の地を賜ひ、且神社修覆料として毎年稟米十俵を給せらる。政胤は政吉の子なり。少時家居独学し、後京都に出でゝ師を尋ねて研鑽し、大いに発明する所あり(中略)政胤帰郷して家職を襲ぎ、傍ら子弟に教授せしが(後略)」。「処士」とは「民間にあって、仕官しない人」を意味し、「家職」とは「稲荷神社別当職」を指します。つまり政胤は「処士」として「家職を襲」ぐ「傍ら子弟を教授」していたのです。これは政胤が「私塾・寺子屋」を開業していた可能性を強く示唆します。政胤の「教授」が津藩藩士の邸宅に出張する形でだけなされていたのでなければ、別に「教授」する場が存在したことになるからです。この『津市文教史要』の内容は、ほぼ『津市史 第三巻』(昭和36年(1961)刊)に引き継がれます。これは歴史学で言う「二次史料」にあたります。両著の著者は梅原三千(みち)、『津市史』の近代以前の部分をほぼ独力で執筆した、第一級の歴史家です。両著のこれらの記述にふれないまま、「実証する史料はまったくない」とする『三重県教育史』の記述は、歴史記述としての妥当性を欠いています。
 山名家による私塾・寺子屋の存在は、「開業 慶長年間」にまでは遡れなくとも、政胤の没した享保19年(1734)以前には遡れる可能性はかなりあります。それは時代的には「築二百年以上」という子孫の証言とよく符合します。建物の称号は建築直後に付けられることが一般的であることを考えると、旧山名邸が私塾・寺子屋として建てられたと仮定するならば、「修天爵書堂」という名称もまた、政胤かあるいはその周辺の人々の命名であると考えるのが自然です。
0321修天爵書堂M2