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【翻字】
道元和尚(だうげんくわしやう)
水鳥(みづとり)の ゆくも かへるも 跡(あと)きえて されども道は 忘(わす)れざりけり
〇師名は道元号は希玄(きげん)久我(くが) 通忠卿(みちたゞきやう)の子(こ)なり十三にて叡山(ゑいさん)に 登(のぼ)りて出家(しゆつけ)せらる后(のち)宋国(そうこく)に渡(わた) つてあまねく諸(しよ)師に参(さん)じ遂(つひ)に 天童如浄(てんどうのによじやう)禅師に法を伝(つた)へ帰(かへ)り 来(きたつ)て興聖永平の二寺を開創(かいそう)す建長五年八月廿八日寿五十 四にて化(け)す勅(ちよく)して仏法(ぶつはふ)禅師と 諡(おくりな)す師(し)宋(そう)にありし時一夜(いちや)荒村(くはうそん) に宿(しゆく)するに一の虎(とら)来(きたつ)て害(がい)を加(くわ)へん とす時(とき)に師(し)が杖(しゆじやう)忽(たちま)ち竜(りやう)と化(け)し て虎(とら)を逐退(おいしりぞ)けしとなん今も 虎(とら)はねの拄杖と号し本山(ほんざん)の 什宝(しうはう)たり

【校訂本文】
 道元和尚
 水鳥の 行くも帰るも 跡消えて されども道は 忘れざりけり
 〇師、名は道元、号は希玄、久我通忠卿の子なり。十三にて叡山に登りて、出家せらる。後、宋国に渡つて、あまねく諸師に参じ、遂に天童如浄禅師に法を伝へ、帰り来たつて、興聖・永平の二寺を開創す。建長五年八月廿八日、寿五十四にて化す。勅して仏法禅師と諡す。
 師、宋にありし時、一夜、荒村に宿するに、一の虎来たつて、害を加へんとす。時に、師が拄杖、忽ち竜と化して、虎を逐い退けしとなん。今も、「虎はねの拄杖」と号し、本山の什宝たり。

【語釈】
久我通忠:鎌倉時代中期の公卿。正二位大納言。但し道元の出生については現在のところ定説はない。
天童如浄:中国曹洞宗の禅僧。
興聖:興聖寺。天福元年(1233年)に道元が創建した日本最初の曹洞宗寺院。
永平:永平寺。寛元2年(1244年)に道元が創建。總持寺と並び日本曹洞宗本山。
勅して仏法禅師と諡す:建長2年(1250年)、後嵯峨上皇により下賜された。但し「諡」は「死者に贈る名」であり、事実とは異なる。
拄杖:禅僧が行脚のときに用いるつえ(「拄」は手偏に主)
什宝:家宝として秘蔵する器物

【解説】
 4人目は希玄道元です。紹介文の前半はその略歴、後半は「虎はねの拄杖(しゅじょう)」の逸話の紹介です。「虎はねの拄杖」の逸話自体は、15世紀後半に編集された道元の伝記『建撕記』に見えます。しかし本書の内容は、宝暦4年(1754)刊の『訂補建撕記』のものであり、『建撕記』とは異なる内容のものです。『訂補建撕記』には「祖師の在世には知るものなかりき」とあり、事実性の疑わしい逸話と言えます。
 和歌は『建撕記』に見え、その詞書に「應無所住而生其心を詠む」とあります。「応(まさ)に住する所無くして而(しか)も其の心を生ずべし」は般若経典の一つ、『金剛経』にある言葉で、絶えず変化する心の本質を言う言葉です。確かに上の句の意味はそうですが、「道」が仏道であるとすると、歌全体としての歌意は「絶えず変化する心ではあるが、仏道心は変わらず存在する」となり、むしろ、人は誰しも仏になり得る本姓を持つという「仏性」を詠んだと考えるべきです。『建撕記』を編集したのは永平寺14世の建撕です。『金剛経』は曹洞宗が重視する経典です。建撕にすれば、祖師道元の詠んだ歌を『金剛経』に関係づけたかったのでしょう。関係が弱いからこそ、詞書が書き加えられたのでしょう。しかし、禅宗は元来、「仏性」を前提とした宗派です。人には皆仏性が備わっているからこそ、座禅によって悟りが得られるというのが禅宗の立場です。道元のこの歌を、仏性を詠んだと単純に解釈しても、何もおかしくはないはずです。