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【翻字】
大覚禅師(だいかくぜんじ)
年毎(としごと)に さくや よし野の 山ざくら 樹(き)を割(わり)て みよ花のあるかは
〇師名は道隆(だうりう)号は蘭渓(らんけい)宋国(そうこく) 西蜀の人にて無明性(むめうのせい)公の法嗣(はつす)也後(こ) 嵯峨(さが)帝の寛元四年海を越(こへ)て本(ほん) 朝(ちう)に来る北条時頼(ときより)建長(けんちやう)寺を営(いとな)み 師を請(しよう)じて開山とす弘安元年七月 廿四日寂す勅して大覚禅師と諡 すこれ本朝禅師号を給(たま)ふの始也 滅後(めつご)師(し)が所持(しよぢ)の鏡(かゞみ)を拝(はい)するに観(くはん) 音(おん)の妙相(めうさう)顕然(げんぜん)と備(そなは)る時頼(ときより)孩歎(がいたん)の 余り円覚(ゑんがく)寺に大悲閣(だいひかく)を建(たて)て霊鏡(れいきやう) を其中に納(おさ)む応安七年円覚寺に 火災あり然れども霊鏡少しも損(そん)ぜず 今現に建長の宝庫(ほうこ)にありと云々

【校訂本文】
 大覚禅師
 年ごとに 咲くや吉野の 山桜 樹を割りてみよ 花のあるかは
〇師、名は道隆、号は蘭渓。宋国・西蜀の人にて。無明性公の法嗣なり。後嵯峨帝の寛元四年、海を越へて本朝に来たる。北条時頼、建長寺を営み、師を請じて開山とす。弘安元年七月廿四日、寂す。勅して大覚禅師と諡す。これ、本朝、禅師号を給ふの始めなり。
 滅後、師が所持の鏡を拝するに、観音の妙相、顕然と備はる。時頼、孩歎の余り、円覚寺に大悲閣を建てて、霊鏡をその中に納む。応安七年、円覚寺に火災あり。然れども、霊鏡少しも損ぜず。今、現に建長の宝庫にあり、と、云々。

【語釈】
西蜀:いわゆる「蜀」と同義。四川盆地。
無明性公:無明慧性。中国臨済宗の禅僧。
法嗣:師から仏法の奥義を受け継いだ者
後嵯峨帝:第88代天皇(在位:仁治3年(1242年)~寛元4年(1246年))
北条時頼:鎌倉幕府第5代執権
建長寺:建長5年(1253年)創建。開基は北条時頼、開山は蘭渓道隆。鎌倉五山第一位。
弘安元年:1278年
勅して大覚禅師と諡す:寂後79年の延文2年/正平12年(1357年)勅諡された
孩歎:「慨歎」か
円覚寺:弘安5年(1282年)、8代執権北条時宗により創建された臨済宗の禅寺。従って、ここの記述は誤り。
応安七年:1374年。この年、円覚寺は大火に見舞われている。

【解説】
 6人目は鎌倉・建長寺の開山となった中国人僧の蘭渓道隆です。紹介文の前半はその略歴、後半は鏡をめぐる奇瑞と、3人目の明恵以来、後半に霊験奇瑞譚を置くのが一つの形になっています。
 歌意は平明です。「桜の木に毎年桜の花が咲くが、樹を割って見ても中に花はない。人の中にある仏性も同じだ」。それにしてもこの中国人僧は和歌を詠んだのでしょうか。30年以上日本にいたといっても、正直なところ信じられません。
【解説追記(20221225)】
 鏡について、『新編相模国風土記稿』(国会図書館D.C.)「鎌倉郡巻之十 円覚寺 西来庵 昭堂」に、「時宗奇瑞ヲ感シ乞取テ是ヲ秘蔵シ鹿山ノ山門楼中ニ安ス」(校訂者注:鹿山は円覚寺を指します)と見えます。時頼は誤り、大悲閣は確認できませんでしたが、他は『新編相模国風土記稿』に記載があり、西来庵・昭堂は現在します。
『新編相模国風土記稿』所載の鏡図 「観音の妙相」

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