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【翻字】
如大禅尼(によだいぜんに)
とやかくと 工(たく)みし 桶(おけ)の 底(そこ)ぬけて 水(みづ)たまらねば 月もやどらず
〇師名は如大号は無外(むがひ)又別(べつ) に無着(むぢやく)と号す初の名は千(ち) 代野(よの)城(じやう)の陸奥守(むつのかみ)が女(むすめ)にて 金沢越後(かなざわゑちごの)守が妻也夫に別(わかれ) てより心を祖道(そだう)によせ仏光(ぶつくはう) 国師を拝して薙髪(ちはつ)す一日縁(ゑん) にふれて大悟し則此哥を 詠ず仏光の印可(いんか)をうけて 城北(じやうぼく)に景愛寺を開創(かいさう)す今 の真如寺是(これ)也永仁六年 十一月二十八日寿七十六にして化す

【校訂本文】
 如大禅尼
 とやかくと 工みし桶の 底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず
 〇師、名は如大、号は無外、又、別に無着と号す。初の名は千代野。城陸奥守が女にて、金沢越後守が妻なり。
 夫に別れてより、心を祖道に寄せ、仏光国師を拝して、薙髪す。一日、縁にふれて大悟し、則ち、この歌を詠ず。仏光の印可を受けて、城北に景愛寺を開創す。今の真如寺これなり。
 永仁六年十一月二十八日、寿七十六にして、化す。

【語釈】
城陸奥守:安達泰盛。鎌倉幕府の有力御家人。「城」は「秋田城介」で、出羽国北部を統治する役職。鎌倉時代は安達氏が歴任した。
金沢越後守:金沢顕時。北条一族の金沢家3代。
祖道:祖師の示した教え。ここでは禅宗を指す。
仏光国師:無学祖元。南宋から来た臨済宗の僧。円覚寺の開山。
薙髪:髪をそり仏門に入ること
印可:密教や禅宗で、師僧が弟子に法を授けて、悟りを得たことを証明認可すること
城北:山城国の北部
景愛寺:京都にあった臨済宗寺院。建治3年(1277)創建、開山は無外如大。
真如寺:弘安9年(1286)、無外如大尼により「正脈庵」として創建。
永仁六年:1298年

【解説】
 11人目は本書初の女性で、無外如大です。臨済宗初の尼僧で、京都景愛寺の開山です。
 ただしこの経歴には錯誤があります。生年は計算上貞応2年(1223年)になりますが、父安達泰盛より早く生まれた計算になり、合いません。また、安達泰盛の娘で金沢顕時に嫁ぎ、弘安8年(1285年)の霜月騒動で父が死に、夫が流罪になった後に出家得度する前の建治3年(1277年)に京都景愛寺の開山になったというのも合いません。
 1994年刊『朝日日本歴史人物事典』にも「安達泰盛の娘で金沢顕時の妻のひとりであったとする見方が有力である…霜月騒動で安達氏一族が滅亡し、夫も連座して配流されたのを機に、正式に門に入り得度したらしい。室町時代に京都尼五山の筆頭となる景愛寺の開山とされ、法名は無着と称したとも伝えられる」とあり、『小学館デジタル大辞泉』の「景愛寺」の記述と矛盾します。
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「安達千代野(如大禅師無着)』は、山家浩樹 「無外如大と無着」(『金沢文庫研究』301号、1998年)を根拠に、無外如大(別号無着:貞応2年(1223年)~永仁6年(1298年))と如大禅師無着(安達千代野)を別人としています。私もそれを支持しますが、ここでは、矛盾は矛盾として本書の記述にそのまま従います。
 歌意は平易ですが、含意は難解で、恐らくは「さかしらな知恵工夫(「とやかくと工みし桶)」を排する(「底ぬけて水たまらねば月もやどらず」)」意でしょう。上記Wikipediaには「つき百姿 千代野月岡芳年画)がありますが、それに書かれている歌「千代能かいたゞく桶の底ぬけてみつたまらねは月もやとらす(千代能が戴く桶の底抜けて水たまらねば月も宿らず)」とは上の句に異動があります。この歌は鎌倉・海蔵寺の「底抜の井」の名の由来として伝えられている歌で、本書はその一ヴァージョンでしょう。大意は変わりません。