大原さんは「旧山名邸は一階建てでした」と仰っていました。確かに間取図に階段はあり、「祖母と共に何度か二階へ上ったことがあります」とは仰っていましたが、それは「床の平らな物置」ということでした。「足下が危ないと、祖母は懐中電灯を使うようにと、私に渡してくれました」と語るように、大原さんにとってそこは暗い屋根裏の収納空間でしかありませんでした。壁や建具が入っていて、ちゃんとした部屋がある、そのような居住空間としての「二階」は旧山名邸にはなかった、それを前提として私は前著を書きました。それが、山名政宏さんの証言で覆りました。
平屋建ての屋根裏空間については、実は私にも大原さんと同様の記憶と体験があります。実は私の実家も、平屋だけれども平らな床の屋根裏空間を持つ、そういう構造の家です。調べてみると、それは「つし二階」という、近世以降に民家あるいは商家として多く建てられた、かなり一般的な建築様式であることがわかりました。以下、私の実家を例にご説明いたします。
私の実家は今から百年弱以前の1924年(大正14年)前後に建てられた「つし二階」様式の民家です。下の画像は、南側と北側から見た外観です。
私もこの家に生まれ育ちましたが、ついぞ自分は「つし二階の家に住んでいる」と思ったことは一度もなく、ずっと「我が家は平屋だ」と考えていました。ですから、大原さんが「平屋で二階はありませんでした」と仰っていたのも、実感としてはごく自然であったろうと理解できます。
私の実家のつしの東半分は、改築によって塞がれ、すでに見ることができません。私の記憶では、そこには壁も天井もなく、屋根裏が黒々としており、古い農具や家財道具がしまわれていました。ある時祖父が、木製の巨大な釣り針のような道具に、直径1m以上もあるわらの束をひっかけて、なわでつし二階に引き上げて収納していた情景を記憶しています。つしに上る階段は、ふだんはつしに押し上げてしまわれており、つしを使う時だけ引っ張り出して、土間に下ろします。実際に大人たちがそうして東側のつしを使っていたのは、その時を含めて一度か二度ほどしか記憶がありません。
西側のつしは「二階」と呼んでいました。こちらへは北西の六畳間、通称「なんど」から上ります。階段は「なんど」の東南の隅にあります。
天井は「踏み天(井)」と呼ばれ、太い梁が使われています。天井の東南の隅に開口部があり、引き戸、通称「ガラガラ」が設置されています。そこが「二階」の入り口です。その名の通り、開閉時に滑車が回転し、「ガラガラ」という音を立てます。
「二階」の南端に採光のための窓があります。大きさは縦40cm×横80cm、床面から60cmの高さに設置されています。小さな窓で、開閉はできません。外光は奥まで射し込みます。室内は南北6.2m×東西3.6m、約14畳ほどの広さです。
「旧山名邸はつし二階であった」。山名政宏さんの証言は、この事を強く推測させます。仮にそのように仮定すると、多くの事実が合理的に説明できるようになります。旧山名邸=平屋という前提の前著に対し、旧山名邸=つし二階という前提で、これから改めて修天爵書堂の真相に迫っていきます。
平屋建ての屋根裏空間については、実は私にも大原さんと同様の記憶と体験があります。実は私の実家も、平屋だけれども平らな床の屋根裏空間を持つ、そういう構造の家です。調べてみると、それは「つし二階」という、近世以降に民家あるいは商家として多く建てられた、かなり一般的な建築様式であることがわかりました。以下、私の実家を例にご説明いたします。
私の実家は今から百年弱以前の1924年(大正14年)前後に建てられた「つし二階」様式の民家です。下の画像は、南側と北側から見た外観です。
私もこの家に生まれ育ちましたが、ついぞ自分は「つし二階の家に住んでいる」と思ったことは一度もなく、ずっと「我が家は平屋だ」と考えていました。ですから、大原さんが「平屋で二階はありませんでした」と仰っていたのも、実感としてはごく自然であったろうと理解できます。
私の実家のつしの東半分は、改築によって塞がれ、すでに見ることができません。私の記憶では、そこには壁も天井もなく、屋根裏が黒々としており、古い農具や家財道具がしまわれていました。ある時祖父が、木製の巨大な釣り針のような道具に、直径1m以上もあるわらの束をひっかけて、なわでつし二階に引き上げて収納していた情景を記憶しています。つしに上る階段は、ふだんはつしに押し上げてしまわれており、つしを使う時だけ引っ張り出して、土間に下ろします。実際に大人たちがそうして東側のつしを使っていたのは、その時を含めて一度か二度ほどしか記憶がありません。
西側のつしは「二階」と呼んでいました。こちらへは北西の六畳間、通称「なんど」から上ります。階段は「なんど」の東南の隅にあります。
天井は「踏み天(井)」と呼ばれ、太い梁が使われています。天井の東南の隅に開口部があり、引き戸、通称「ガラガラ」が設置されています。そこが「二階」の入り口です。その名の通り、開閉時に滑車が回転し、「ガラガラ」という音を立てます。
「二階」の南端に採光のための窓があります。大きさは縦40cm×横80cm、床面から60cmの高さに設置されています。小さな窓で、開閉はできません。外光は奥まで射し込みます。室内は南北6.2m×東西3.6m、約14畳ほどの広さです。
「旧山名邸はつし二階であった」。山名政宏さんの証言は、この事を強く推測させます。仮にそのように仮定すると、多くの事実が合理的に説明できるようになります。旧山名邸=平屋という前提の前著に対し、旧山名邸=つし二階という前提で、これから改めて修天爵書堂の真相に迫っていきます。
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