大原さんの間取図には、壁が太線で書き込まれています。二階部分の柱の位置を確定するために、間取図から壁だけを太線で、建具などによる部屋の仕切り・区画を普通の線で抜き出してみました。以下、上から俯瞰した平面図は全て上が北です(以下、復原図は全て、表計算ソフト「Microsoft Excel」を使用して作成しています)。

0812 1階壁配置図
 私の実家のつし二階部分は、東西南北共に半間ずつ、一階よりも内側に縮小しています。旧山名邸のつし二階の復原も、それに準じて考えました。但し、西端は一間縮小しました。それは、一階の西端が土間であり、中央に柱がないことと、その西北の半間×三間は水回りと火気を扱う設備であることによります。
 まずは、つし二階と屋根を支える柱の位置を考えました。構造上、建物全体をしっかり支えるために、柱はできるかぎり通し柱としたであろうと考えました。そう考えると、二階部分の柱の多くは、一階部分の柱の位置に一致させたはずです。そう考えて、1階壁配置図をもとに、二階の柱の位置を推測してみました。通し柱は青で、それ以外の柱は赤で示しました。つし二階=教場の範囲は、点線で囲みまいた(以下、復原全般については、元大工である山内勇さんの監修を得ました。なお、最西端の柱は、つし二階部分でなく、屋根を支えるための柱になります)。

0813 2階柱配置図

 上の「二階柱図」をもとに、階段からの接続部分と、採光のための窓の位置を考えて加えたのが、下の「二階教場図」です。

0814 2階教場図

 階段からの接続は、半間幅の渡り廊下としました。採光のための窓は、南北両端に4か所ずつ、半間間隔としました。それぞれ床面から30cmの高さで、幅80㎝×高さ75cmとしました。教場の床は平らな板間としました。教場内には、つし二階の屋根を支える柱が南北3本×東西4本、計12本としました。教場の西北、すなわち一階西土間の火気・水回り設備の上方は、火と煙の通路であったと考えられるので、二階教場への煙の侵入を防ぐため、壁で完全に仕切られていたと考えました。逆に西南の階段側は、一階通用口からの間接光が期待できるので、格子のような造作になっていたと考え、点線で示しました。
 以上の様に復原したつし二階の教場は、南北5間×東西4間半となり、広さは45畳になります。つし二階のため、南北の庇に近い両端の高さは1.2mと推測します。さらに、柱列上方には太い梁が南北に渡されていたはずですから。寺子は移動時にかなり注意を要したと考えられます。しかし、いったん座ってしまえば、座って学習することは可能であったと考えられます。屋根の勾配を5寸と考えた時、床面からの高さは、南北端から一間内側に入った柱列付近で2.1m、中央付近では3m以上となります。太い梁が東西南北に走っていたにせよ、南北両端付近を除いては、そう問題にはならなかったであろうと推測されます。