1942年(昭和17年)、山名政宏さんは、お兄さんの義宏さんとともに、祖父の山名政大氏に招かれて、二階に上って「書斎」を見ています。政宏さんの証言は、要約すると「入ってすぐではないところにちゃんとした書斎のような部屋があり、内部は明るかった」という内容でした。下の図は、その証言と「二階教場図」を基に復原した、「二階書斎図」です。
書斎は、二階の中央東側に一点破線で示しました。6畳間を2間としましたが、12畳一間であったかも知れません。その推測の根拠は以下のとおりです。中央の半間間隔の柱列は、建具を入れる障害になると考えました。また、床面からの高さを考えると、南北両端からの一間ずつは部屋にしにくいと考えました。一点鎖線は敷居と建具の位置も示しています。二階の一部を書斎とするために、敷居を作り、建具を入れ、天井を設置したと推測されます。
また、東側には「二階教場図」にない、採光のための窓を点線で書き加えました。この東側の窓の設置は、あるいは建築当初であったかもしれません。寺子屋は室内が明るいことを必要としますので、窓は最初から設置されていた可能性はあります。この点について監修の山内勇さんは、切妻の側面の壁に窓を設けるのは、悪天候時に構造上どうしても弱くなることと、実際に設置例も少ないことから、建築当初から設置されていたとは考えにくいとの判断を示されました。そこで、先に示した各復原図には、東側の窓は設けませんでした。一方、政宏さんの「室内は結構な明るさがあった」という証言は、南北の窓だけでは説明しにくい上に、「正面に窓があった」という証言まであります。政宏さんらが西にある階段から二階に上がったことから考えると、「正面」が東を指すと推測するのが自然です。そこで、寺子屋を廃業した後で、信之介あるいは政大氏に、二階の一部を書斎として使う構想が生まれ、内部の改築の一環として東側に窓が設置され、1942年の時点では、東側に採光のための窓が設置されていたと考えました。それを反映させたのが下の「書斎東側面図」です。
当時7歳であった大原さんは、「旧山名邸には二階はありませんでした」と記憶していました。大原さんが上がる時は祖母と一緒でした。二階が暗かったのは、祖母にとっては荷物の出し入れだけが目的で、南・北・東のそれぞれ一番奥にある窓まで開ける必要はなかったためであろうと推測されます。一方、政宏さんが二階に上がったのは祖父の招きでした。当時政宏さんの一家は、遥々と満州から一時帰国し、父である義観氏の実家に立ち寄ったのでした。祖父である政大氏は、当時8歳に成長していた嫡孫たちに、代々学者が継いできた伊勢山名家の家風を伝えるべく、古書が多く残る二階の書斎へ招いたのでしょう。祖父が全ての窓を開放し、外光を十分に取り込んだ二階は、寺子屋時代の教場に近い明るさがあったと推測できます。同じ二階について、政宏さんと大原さんの印象と記憶が異なる理由を、私は以上のように考えました。
書斎は、二階の中央東側に一点破線で示しました。6畳間を2間としましたが、12畳一間であったかも知れません。その推測の根拠は以下のとおりです。中央の半間間隔の柱列は、建具を入れる障害になると考えました。また、床面からの高さを考えると、南北両端からの一間ずつは部屋にしにくいと考えました。一点鎖線は敷居と建具の位置も示しています。二階の一部を書斎とするために、敷居を作り、建具を入れ、天井を設置したと推測されます。
また、東側には「二階教場図」にない、採光のための窓を点線で書き加えました。この東側の窓の設置は、あるいは建築当初であったかもしれません。寺子屋は室内が明るいことを必要としますので、窓は最初から設置されていた可能性はあります。この点について監修の山内勇さんは、切妻の側面の壁に窓を設けるのは、悪天候時に構造上どうしても弱くなることと、実際に設置例も少ないことから、建築当初から設置されていたとは考えにくいとの判断を示されました。そこで、先に示した各復原図には、東側の窓は設けませんでした。一方、政宏さんの「室内は結構な明るさがあった」という証言は、南北の窓だけでは説明しにくい上に、「正面に窓があった」という証言まであります。政宏さんらが西にある階段から二階に上がったことから考えると、「正面」が東を指すと推測するのが自然です。そこで、寺子屋を廃業した後で、信之介あるいは政大氏に、二階の一部を書斎として使う構想が生まれ、内部の改築の一環として東側に窓が設置され、1942年の時点では、東側に採光のための窓が設置されていたと考えました。それを反映させたのが下の「書斎東側面図」です。
当時7歳であった大原さんは、「旧山名邸には二階はありませんでした」と記憶していました。大原さんが上がる時は祖母と一緒でした。二階が暗かったのは、祖母にとっては荷物の出し入れだけが目的で、南・北・東のそれぞれ一番奥にある窓まで開ける必要はなかったためであろうと推測されます。一方、政宏さんが二階に上がったのは祖父の招きでした。当時政宏さんの一家は、遥々と満州から一時帰国し、父である義観氏の実家に立ち寄ったのでした。祖父である政大氏は、当時8歳に成長していた嫡孫たちに、代々学者が継いできた伊勢山名家の家風を伝えるべく、古書が多く残る二階の書斎へ招いたのでしょう。祖父が全ての窓を開放し、外光を十分に取り込んだ二階は、寺子屋時代の教場に近い明るさがあったと推測できます。同じ二階について、政宏さんと大原さんの印象と記憶が異なる理由を、私は以上のように考えました。
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