山名信之介の1869年(明治2年)の藤堂藩に対する報告では、寺子の人数は「男90 女60」の総計150人でした。旧山名邸の一階は和室部分43畳、玄関と廊下を加えると49畳半です。家人の私的空間を考えず、邸内を全て教場として使用したとしても、一畳あたりの寺子の人数は約3人です。前著では「43畳という広さでは、これほど多くの寺子を同時に収容できたとは思えませんが、就学時間を午前と午後に分けるなど、運用上の工夫をすれば、階層や性別・年齢などで寺子の着座位置を分けての教育活動は十分に可能であったと思います」と書きましたが、苦しさは否めません。「150人という人数は最大人数であり、いつもそれだけ多くの寺子がいた訳ではないだろうし、間取図にある『こたつ』『居間』など、明らかに家人の生活空間を指す記述も、明治以降の寺子屋廃業後の姿であり、安政年間以前の寺子屋営業当時は、別棟などが生活空間であったのだろう」とは想像しましたが、それでもやはり苦しい想像ではありました。
 そうした前著の「苦しい」点を、二階教場説は一気に解決してくれます。二階教場は45畳の広さがあったと推測できました。それを加えれば、一階西北の「居間」「台所」「こたつ」の3部屋を除く和室26.5畳を合わせ、教場スペースは71.5畳となります。一畳あたりの寺子の人数は約2.1人となります。

 寺子屋の寺子を収容する能力はどの程度であったのかについて、乙竹岩造は『日本庶民教育史』の中で、いくつかの事例を挙げています。その一つ、富山市にあった「小西屋」という寺子屋は「教室の階上は約六十畳敷で、女児の座席とし、階下は約百畳敷であつて、板でこれを四室に仕切り、孰れも男児を収容したのである」(同書中巻584頁)「明治維新の頃までは概ね五百人を上下してゐた」(同じく585頁)とあります。一畳あたりの寺子の人数は約3.1人です。修天爵書堂に二階がない場合、家人の生活空間を考えず、玄関と廊下も含めて屋内を全て教場としていたと考えて、はじめて小西屋と同程度の一人当たりの教場の広さになります。二階があれば、一階に家人の生活空間を確保した上で、小西屋よりも一畳当たりの収容人数が約1人少ない寺子屋であったことになります。修天爵書堂は、二階教場の存在を仮定して初めて、その寺子人数にふさわしい建物を有していたと考えることができます。前著最大の「苦しい」点を、二階教場説は解消してくれます。