前著では、邸の中央に押入や床の間などが配置され、東西の和室が分離されている設計について、「連続して配置した和室をこうした隔壁でわざわざ分断する設計は、民家ではきわめて異例である(中略)内部に隔壁と段差を設けることで、その限られた空間が、中で勉強する寺子たちにとっては互いに遠く感じられるようになっていた」と評価しました。しかし今回、二階教場説を前提に、つし二階構造として旧山名邸を復原する作業の中で、新たな気付きを得ました。それは、建築上の必要性からこの設計がなされたという可能性です。
旧山名邸は、上から見た平面図は正方形に近い形をしています。そして、屋根は南北に勾配を持つ切妻屋根です。中央の棟から南北端の軒まで、水平距離で3間、約5.4mあります。一階は東に2間幅の和室が並び、西端は1間幅の土間があります。屋根を支える通し柱がどうしても立たない場所が東に5カ所、西に2カ所、都合7カ所あります。しかし、建物の中央に南北二列に並ぶ柱は通し柱です。この通し柱が東西に太い梁を載せて、通し柱でない柱が大きな切妻屋根を安定して支えることを可能にしていたと推測できます。そうした設計が旧山名邸を200年あまりもの長期間、風雪に耐えさせたと考えられます。山内勇さんは「これを建てた大工は賢かったですね。よく考えて設計してあります」と評価されました。
ここで一つ注釈を加えます。これまでに示した復原図は全て、大原さんの書いた間取図をもとにしています。しかし、上に書いた「建物の中央に南北二列に並ぶ柱は通し柱です」という記述は、実は復原図と矛盾しています。そのうちの一本だけは、赤い色で示した、一階部分に柱のない柱だからです。しかし、私はそれも通し柱ではなかったかと推測しています。その点をここで説明します。
大原さんの書いた間取図は詳細です。ただ、私は次の一点だけ、加筆すべきだと考えています。それは床柱です。北東の座敷には、違い棚と床の間があり、その間には一本の線が引かれています。この線は「壁ではないが、仕切られていた」という大原さんの記憶を表しています。そこには床柱は書き加えられていません。私は、この線の東端に床柱があったのではなかったかと推測しています。その理由は次の二つです。一つは、伊勢山名家の当主が自邸の座敷に床柱を持たない床の間を作ることはなかったであろうという推測、もう一つは、建物の構造上、設計者はこの位置に通し柱を立てたかったはずだという推測です。
間取図には壁の書き込みはありますが、柱の書き込みはありません。間取図からは柱の有無はわかりません。復原図は、間取図を基に作成していますから、赤で示しています。しかし実際には通し柱であっただろうというのが私の推測です。この点について、藪本さんに大原瑞夫さんの記憶を今一度確かめて頂くよう依頼しました。8月15日、藪本さんからの回答は、「よく覚えてみえない」ということでした。大原さんにとって座敷は、祖父の政大氏から「ここで遊んではいけない」とされている部屋でした。大原さんはたいへんいい記憶力の持ち主ではありますが、床柱に関しては「多分あったようにも思います」というあいまいな記憶でした。
旧山名邸は、上から見た平面図は正方形に近い形をしています。そして、屋根は南北に勾配を持つ切妻屋根です。中央の棟から南北端の軒まで、水平距離で3間、約5.4mあります。一階は東に2間幅の和室が並び、西端は1間幅の土間があります。屋根を支える通し柱がどうしても立たない場所が東に5カ所、西に2カ所、都合7カ所あります。しかし、建物の中央に南北二列に並ぶ柱は通し柱です。この通し柱が東西に太い梁を載せて、通し柱でない柱が大きな切妻屋根を安定して支えることを可能にしていたと推測できます。そうした設計が旧山名邸を200年あまりもの長期間、風雪に耐えさせたと考えられます。山内勇さんは「これを建てた大工は賢かったですね。よく考えて設計してあります」と評価されました。
ここで一つ注釈を加えます。これまでに示した復原図は全て、大原さんの書いた間取図をもとにしています。しかし、上に書いた「建物の中央に南北二列に並ぶ柱は通し柱です」という記述は、実は復原図と矛盾しています。そのうちの一本だけは、赤い色で示した、一階部分に柱のない柱だからです。しかし、私はそれも通し柱ではなかったかと推測しています。その点をここで説明します。
大原さんの書いた間取図は詳細です。ただ、私は次の一点だけ、加筆すべきだと考えています。それは床柱です。北東の座敷には、違い棚と床の間があり、その間には一本の線が引かれています。この線は「壁ではないが、仕切られていた」という大原さんの記憶を表しています。そこには床柱は書き加えられていません。私は、この線の東端に床柱があったのではなかったかと推測しています。その理由は次の二つです。一つは、伊勢山名家の当主が自邸の座敷に床柱を持たない床の間を作ることはなかったであろうという推測、もう一つは、建物の構造上、設計者はこの位置に通し柱を立てたかったはずだという推測です。
間取図には壁の書き込みはありますが、柱の書き込みはありません。間取図からは柱の有無はわかりません。復原図は、間取図を基に作成していますから、赤で示しています。しかし実際には通し柱であっただろうというのが私の推測です。この点について、藪本さんに大原瑞夫さんの記憶を今一度確かめて頂くよう依頼しました。8月15日、藪本さんからの回答は、「よく覚えてみえない」ということでした。大原さんにとって座敷は、祖父の政大氏から「ここで遊んではいけない」とされている部屋でした。大原さんはたいへんいい記憶力の持ち主ではありますが、床柱に関しては「多分あったようにも思います」というあいまいな記憶でした。
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