江戸期版本を読む

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カテゴリ:上方落語速記本・原典 > 滑稽大和めぐり 第一回(宿屋仇)

 『滑稽大和めぐり』は明治31年刊の活字本です。崩し字で書かれた江戸期版本ではありませんが、WEB公開されている画像が非常に読み難く、普通に閲覧するのでは到底読み通せないため、今回このブログの対象として取り上げ、読みやすい活字にしてみました。
 本書は落語の速記本です。演者は二世曽呂利新左衛門、初代笑福亭松鶴門下で、明治期に活躍しました。筆記者は丸山平次郎とあります。演者の発音は主にルビで表記し、その意味を表す漢字を適宜宛てて、上方方言なども読者に理解できるように工夫されています。
 WEBで閲覧できる画像は、文字、特に小さなルビがつぶれたりかすれたりしている個所が多く、きわめて読み難い状態です。翻読に当たっては、確かに読めない箇所も、同じ語の他の箇所と照らし合わせたり、意味・文脈から確からしいと推測できるものは推測して翻読し、注記にその旨を記しました。推測すら不可能なものは「?」としました。

 第一回は、現在「宿屋仇」と言われる演目と同じ内容です。きわめて古い形のもので、登場人物の名や人数、舞台となる地名も今とは異なっています。しかし、噺の眼目は同じで、大阪の町人が旅先の宿で騒ぎ、侍から逆に懲らしめられる滑稽譚です。現在の「宿屋仇」の代表的な形は、目次に載せたサイトおよび動画でご確認下さい。そして、順次UPしていく明治の古形との違いをお楽しみ頂けたらと思います。


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【翻字】
滑稽 大和めぐり
二世 曽呂利新左衛門口演
丸山平次郎速記

第一回

エー本日より伺ひまするは、滑稽大和巡廻(めぐり)のお話で、彼(か)の紛(まぎ)
郎兵衛(ろべえ)、似多八(にたはち)は、伊勢参宮を致しまして、伊勢から帰るの
でありますが、尚(ま)だ少々懐裡(ふところ)に路銀もありますから、寧(いつ)そ大
和巡廻(めぐり)をしやうではないかと相談の上、山田をば離れまして
松阪、六軒、小川と、段々やツて参りましたのが丁度畑(はた)の駅(しゆく)
最(も)う日が暮れて、宿屋では戸外(おもて)の行燈(あんど)に火を点(とも)し、一人(にん)でも
客人(きやくじん)を余計に泊めやうといふので、若者(わかいもの)下女などは往来へ出
まして、ワイワイと修羅でございますナ 〇「ヘエ貴郎(あなた)方お泊(とま)

りぢやアございませんか △「ヘエ私(わたくし)の方は丸屋でございます
 ◎「私は万屋(よろづや)でございます、貴郎方お泊りぢやアございませ
んかナ、オイお松どん、少(ち)とくすぼらんやうにしてんか、戸(おも)
外(て)で客を引く身になツて見い、煙(けむ)たうて何(どう)もならぬ、エー貴
郎方お泊りぢやアございませんかナ、オイ乳母(をんば)、坊子(こども)を伴(つ)れ
て其方(そつち)へ遊びに行きいな、気のない女(をなご)だ、然(さ)う子供をギヤア
ギヤアと泣かしないな、子供に小便(しゝ)をやらんかいな、ヘエ貴郎方
お泊りぢやアございませんかエ、オイお梅どん、焼物の拵へ
は好(い)いかな、お座敷の掃除は味好(あんぢよ)うしてあるかエ、不都合な
事をして置いては親方に小言を喫(く)はにやならぬ、ヘエ貴郎方
お泊りぢやアございませんかエ、オイ乳母(をんば)いナ、何をワイワイ
言ツてるのぢや、エゝ何(ど)うした、仁助(にすけ)どんが尻(おいど)を捻(ひね)ツた、仕(し)
様(やう)むない事をするなエ、日暮紛れに忙しい所で、また尻(おいど)を捻(ひね)

られたからツて何ぢやいナ、お前の尻(けつ)は人並勝れて大きいの
ぢや、庖丁以(もつ)て切ツて取るツたかて知れたものぢやエ、ほたえ
ナと言うてるのに、ヘエ貴郎方お泊りぢアございませんか、
ヘエお泊りではございませんか」と宿引は戸外(おもて)でワイワイ言
ツて居ります、

【語釈】
 ・彼の…この二人が登場する噺は他にもあり、本書末尾にも「彼の紛郎兵衛、似多八の両人がこれから播州巡廻をしやうといふ滑稽のお話は」云々とある。
・紛郎兵衛、似多八…『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八をもじり、駄洒落(紛らわしい/似た)も加味しての命名か。
・懐裡(ふところ)…演者の口演する言葉(ふところ)をルビで示し、意味(懐の裡=懐中)を漢字で明示する、独特の表記法。以下、本書で多用されている。
・山田…現在の三重県伊勢市。伊勢神宮外宮がある。
・松阪、六軒、小川…伊勢と大和を結ぶ初瀬街道にある宿場。現在は松阪市にある。
・畑…現在の津市一志町八太。
・修羅…仏教における六道の一つの修羅道。ここでは以下描写される宿駅の騒々しい様子を比喩した表現。

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【解説】
 本書は全8回、八つの話が収録されています。第一回の本話は、現在の上方落語の演目「宿屋仇」の原型ともいうべきお話です。書名は「大和めぐり」ですが、本話の舞台は伊勢国、今の三重県です。
 時代は江戸時代で、本書が出版された明治31年からすると、二昔ほど前の話です。ただ、読者或いは聴衆の中には無論、当時をよく知る人も多くいたはずです。初瀬街道にほぼ沿った形で伊勢-奈良間に鉄道が開通したのは1929年です。伊勢と大和を結ぶ初瀬街道の旅は、演者にとっても聴衆・読者にとってもなじみ深いものだったのでしょう。

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【翻字】
所へやツて参りましたのは、一人(ひとり)のお武家様
でございます、袴をば高らかに掲(から)げて、大小刀(だいせう)立派に穿(さ)しこ
なし 武家「アゝ一寸(ちよつと)物を尋ねるぞ、畑の駅(しゆく)の万屋利兵衛と申す
旅宿(やど)はこの辺であるかナ ◎「ヘエ、エー万屋利兵衛は手前で
ございます 武家「ハゝア、それは何軒程手前だナ ◎「エー私(わたくし)の
方(はう)が万屋利兵衛でございます 武家「アゝ貴様が万屋の利兵衛で
あるか ◎「イエ、私は番頭の伊八でございます 武家「アー貴様
が番頭の鼬(いたち)か 伊八「イエ鼬ではございません、伊八でございま
す 武家「アー拙者(それがし)は芸州の藩に於(おい)て黒煙(くろけむり)五平太と申す者である

が、一人(にん)にて汝方(なんぢかた)で一泊を致したいが苦しうないか 伊八「ヘエ
何卒(どうぞ)お泊りを願ひます 五平「ムゝ、然らば其方宅(そのはうかた)にて一泊を致
す、併(しか)し伊八、これは甚だ些少であるが、南鐐一片遣(つかは)すから
何(ど)うか静かな所へ寝かして貰ひたい、と申するは、余の儀で
もないが、昨夜は伊賀の名張に泊ツたが、この名張といふ処(ところ)
は藤堂和泉守様の御領分、その城下の小竹屋彦兵衛方にて一
泊いたした、ところが間狭(ませば)な所へさして、女子(じやこ)も赤子(もうざう)も一所(ひとつ)
に寝かし居(を)ツたので、相撲取(すまふとり)が歯切(はぎり)を噛むやら、順礼が寝言
を云ふやら、駆落者(かけおちもの)は夜通(よどほし)もう意茶々々苦茶々々と申したゆ
ゑに、到頭(たうどう)徹夜(よつぴて)寝られなかツた、それゆゑ今宵は幾ら間狭い
所でも苦しうない、密(ひそ)やかな所に寝かして呉(く)れゝばそれで可(よ)
いが、その辺は前以(もつ)て頼み置くから 伊八「イヤ承知仕(つかまつ)りまして
ございます、オイお松どん、お泊りの旦那様をば茶の室(ま)へさ

して御案内をしなさい、彼処は密かで好いから お松「アゝモシ
旦那様、お荷物は私(わたくし)が持ツて参ります 伊八「オイお松どん頼む
ぜ お松「サア何卒(どうぞ)此方(こちら)へ」 と下女に案内(あない)をされまして、このお
武士(さむらひ)は奥の茶の室(ま)へさして通りました 伊八「オイ、お茶を持ツ
て行けよ、アゝお火鉢は好いかナ、チヤンと気を付けて、ヘ
エ貴郎方お泊りぢやアございませんか、ヘエお泊りではござ
いませんか」と戸外(おもて)へ出て伊八は頻(しき)りに客を引いて居ります

【語釈】
・掲(から)げて…ルビ不鮮明(特に「か」)。形からの推測と意味から判断して判読。
・ございます…画像では「す」が「四」で、しかも右に90度倒れている。明らかに誤植であり訂正した。
・南鐐…二朱銀貨。二朱は一両の八分の一。
・女子(じやこ)も赤子(もうざう)も…不詳。漢字に「女子」「赤子」とある以上、「乳幼児を連れた婦人」という意味であったと筆記者が判断していたことがわかる。
・はぎり(歯切)…歯ぎしり。
・よっぴて(徹夜)…一晩中。
・密か(ひそ)…ルビ不鮮明(特に「ひ」)。他に数箇所あり、比較的鮮明な個所から判読。

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【解説】
 「宿屋仇」に登場する侍と宿の者がここで登場します。現行の噺と比較すると、宿の名(万屋)と侍の名(黒煙五平太)は違いますが、宿の者の名は同じ(伊八)です。侍が伊八に茶代を渡し、昨夜は寝られなかったから静かな部屋に案内せよと求めるのは、今の話と全く同じ設定です。

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 【翻字】
ところへやツて参りましたのは、前(ぜん)申(まをし)上げました紛郎兵衛、
似多八の両人でございます、紛郎「似多さん、此処(こゝ)は畑の駅(しゆく)ぢや
ぜ、今夜此処で泊らうか 似多「左様サ 紛郎「この辺で立派な旅宿(やど)
は万屋だ、オイ、万屋利兵衛ツてのはお前の方(はう)か 伊八「ヘエ左
様でございます 紛郎「私等(わしら)ア始終二人達(ににんづれ)ぢやが、お前の方で泊
めて貰へるかナ 伊八「ヘエヘエ、イヤ承知いたしましてございま

す 紛郎「モウ狭(せま)い所に泊ると窮屈でならぬ、由(よ)ツて成るだけ間
広(びろ)い座敷へ案内(あない)をして呉れ 伊八「承知いたしました、オイお松
どん、大勢のお泊りだから、彼(あ)の座敷の都合は好いかナ、蒲
団万端から焼物、皆都合して置いてお呉れ、四十二人さんだ
と仰(おツ)しやるから、さうして御飯(おまんま)の所も一斗ほどお米を洗(か)して
置かねばならぬ。エー併し貴郎方は宿取様(やどとりさま)とお察し申します
が、そのお笠をばお借り申しまして、この軒下に斯(か)う吊(つる)して
て置きますから 紛郎「ハゝア何(なん)の為(た)めにこの笠を此処に斯う吊(つ)ツ
て置くのぢや 伊八「エゝまた跡の四十人様がお出でになりまし
た時に、旅宿が間違ひましてはなりませんから 紛郎「跡の四十
人、乃公等(おいら)はたツた二人(ふたり)だけの旅だぜ 伊八「イエ、只今貴郎四
十二人連(づれ)ぢやと仰せでございましたが 紛郎「サア何処(どこ)へ行くに
もこの男と私(わたし)と二人(ふたり)が意気投合(うまあひ)ぢやから、何時(いつ)も二人連(ふたりづれ)で旅

をして居(お)るのぢや 伊八「イエその四十二人連(づれ)ぢやと……… 紛郎「イ
ヤ何処へ行くのでも始終二人連(づれ)ぢやと斯(か)う言うて居(ゐ)るのだ 
伊八「ヘエーすると只お二人(ふたり)ぎりでございますか 紛郎「アゝ、然(さ)
うぢや 伊八「オイお松どん違ふ違ふ、四十二人連ぢやアない、始
終お二人連(ふたりづれ)ぢや、焼物は如何(どう)した、ナニ切ツた、さうしてお
米を一斗洗(あら)うた、そりやア何をさらすのぢや、無茶苦茶だ、
たツた二人(ふたり)だがナ 紛郎「オイオイ若衆(わかいしゆ)、たツた二人で気に適(い)ら
ぬやうなことなら、他の旅宿(やど)へでも取替へやうか 伊八「滅相な事
仰(おつ)しやいませ、お二人様でも泊ツて戴きませんと台なしでご
ざいます 紛郎「ぢやア二人でも大事ないか 伊八「ヘエヘエ、結構で
ございます 紛郎「そんなら二人泊ツても好いかナ 伊八「宜しうご
ざいます 紛郎「ヤアートコセー、ヨーイヤナ、アリヤリヤ、コ
レワイセ、ソリヤナンデモセー 伊八「アゝモシ、何(ど)うか一ツお

静かに願ひます 紛郎「ハゝア、お前所(とこ)の宅(うち)でヤアートコセヨー
イヤナ位(くら)ゐな事が云へぬのか 伊八「イエそんな事は決してござ
いません 紛郎「それに何で小言をいふのぢや 伊八「エー貴郎はそ
れで宜しうございますが、背後(うしろ)のお同伴(つれ)さんは草鞋穿(わらじは)いた儘(まま)
上を歩いてお在(ゐ)でなさいますので 紛郎「オイ似多、そんな無茶
アするなエ、宅内(おいへ)へ草鞋を穿いて上(あが)る奴があるものか 似多「オ
イ若衆(わかいしゆ)、堪忍して呉れ、迂闊(うつかり)して居た、併し何処の座敷ぢや
ナ 伊八「エーこのお座敷でございますので 似多「アゝ然うか 伊八「
お荷物は此処に置いておきます、エーお客様、草鞋は此方(こちら)へ
さして確(しつ)かりお預(あつか)り申して置きますので 似多「オイ若衆 伊八「ヘ
エヘエ 似多「乃公等(おいら)ア憚りながら大阪の若者(わかいもの)だ 伊八「ヘエヘエ 似多「
草鞋(わらんじ)何(なん)かア足に一遍かけたら、二度とかけぬ方ぢや、そんな
物は棄(ほ)ツて仕舞へ 伊八「イヤ何うも大きに御無礼申しました、

それぢやア脚絆も甲掛(かふかけ)も皆な棄ツて仕舞ひませうか 似多「イヤ
それは除(の)けて置いて呉れ 伊八「併しお客様、最う直(すぐ)にお風呂が
沸きますに居(よ)ツて、沸きましたら御案内(ごあんない)を致します 似多「アゝ
若衆(わかいしゆ)、お前は何(なん)といふのだ名前は 伊八「私(わたくし)は当家の番頭で伊八
と申します 似多「それぢやア女中さんに、風呂は何(ど)うでも可(い)い
から、御飯(おまんま)ア出来次第に持ツて来て呉(く)れるやうに吩附(いひつ)けて置
け 伊八「承知いたしましてございます」 二人はアゝ草臥(くたび)れたと
いふので、打寛(うちくつろ)いで一服いたして居ります、

【語釈】
・一斗…約18L。一升の10倍、一石の1/10。
・うまあひ…本書でも「意気投合」が宛てられており、「馬が合う(気が合う)者同士」という意味には違いないが、なぜか辞書には見えない。
・宅内(おいへ)…ルビ不鮮明。
・脚絆…長時間の歩行等において保護・防寒等の目的で脚のすねに着ける着衣。
・甲掛…長時間の歩行等において保護・防寒等の目的で足の甲に着ける着衣。
・吩附(いひつ)けて…ルビ不鮮明。「吩咐」(「言いつける」意)の誤りか。

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【解説】
 侍に続き、紛郎兵衛と似多八が万屋に投宿します。「私等ア始終二人達」という紛郎兵衛の紛らわしい言い方に、伊八は「四十二人連」と勘違いします。この本の読者であれば、漢字を見ますからわかりますが、寄席の客は耳で聞きますから、伊八の勘違いを無理もないと受け止めたことでしょう。以下、細部には違いはあるものの、大きな流れは現行の「宿屋仇」とほぼ同じです。やはり両者の大きな違いは、現行「宿屋仇」が喜六・清八・源兵衛の三人連れであるのに対し、本書では紛郎兵衛・似多八の二人連れである点です。

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【翻字】
ところへさして
下女(をなごし)は、チヤンと御飯(ごぜん)も拵へて持ツて参りました 下女「サア何(どう)
卒(ぞ)誠に粗末でございますけれども、御飯(ごぜん)をお召喫(めしあが)り遊ばして
 紛郎「オウ姐(ねへ)さん、チヨイと膳の上で一盞(ひとくち)やらうと思ツて居る
のだが、一本燗(つ)けてんか 下女「承知いたしましてございます 
 紛郎オイ姐さん、此処(こゝ)にお金が一分ある依(よ)ツて、此金(これ)をお前

持ツて行ツて、何でも大事(だん)ない、チヨツと作身(つくりみ)を少し拵へて
来てお呉れんか、余計は要(い)らんぜ、旨かツたら可(い)いから 下女「
承知いたしました、併しこれぢやア沢山残りまするが 紛郎「ハ
ゝア残るかいナ、残ツたらえらい失礼ぢやけれども、お前に
進(あ)げるから取ツといてお呉れ 下女「大きに何うも有難うござい
ます 紛郎「オイ姐さん、一寸待ツて、序(つい)でながら何でも大事(だん)な
い、チヨツと吸物を二ツだけ別に拵へて来てお呉れんか 下女「
承知致しました 紛郎「残るやらうナ 下女「ヘエ 尚(ま)だ沢山残りま
す 紛郎「残ツたらえらい失礼ぢやけれども、お前取ツといてお
呉れ 下女「有難うございます 紛郎「チヨイと山葵(わさび)をガリガリと卸(おろ)
して、さうして海苔を少しかけた刺身を一(ひ)ト鉢だけチヨツと
拵へて来てんか、余計は要(い)らぬぜ、ホン少うしで可(い)いに依ツ
て、お剰余金(つり)は残るかナ 下女「ハイ沢山残ります 紛郎「残ツたら

お前取ツてお置き、失礼ぢやけれども進(あ)げる依ツて、それに
少うし握鮓(にぎりずし)でも、出来にやア箱鮓でも巻鮓でも可(い)いが、チヨ
イと二切(ふたきれ)か三切程持ツて来てんか 下女「承知いたしました 紛郎「
えらい気の毒だけれども、残ツたら取ツといてや、で、茶箱(ちやばこ)
を一ツ持ツて来て欲しいなア、菓子はチヨイと羊羹が好(い)いが
なけりやア薯蕷饅頭(じようようまんぢう)でも大事ないぜ、残ツたら取ツてお置き
下女「お客様、チヨイとお待ちなすツて、残ツたら取ツとけ取ツとけ
と仰しやいますが、全切(まるき)り足りやア致しませんがナ 紛郎「アゝ
足らぬか、けれども残ツたら取ツとけといふのは、私(わし)の親切
ぢや依ツて、足らにやアお前の給金で出してお置き 下女「よう
戯言(うだうだ)と仰しやいます 紛郎「嘘だ嘘だ、そりやアホンの洒落に言ツ
たんだが、いゝか、要るだけの物は皆(みん)な勘定して持ツて来て
お呉れ、前(ぜん)にお前に云ツた通り、一ト鉢二鉢持ツて来たら、

残金(あと)はお前に御纏頭(ごしうぎ)ぢや 下女「有難う存じます」 暫時(しばらく)すると女
中は、二鉢ばかりお盆へ載せて持ツて参りました 紛郎「ナア姐
さん 下女「ハイ 紛郎「チヨイと三味線一挺持ツて来てんか 下女「何(ど)
う致しまして、妾等(わたしら)ア田舎者で、貴郎方(あなたがた)のお粋家様(すい?さま)の前で、
三味線などは迚(とて)も弾けません 紛郎「何を言ふね、チヨイと斯(か)う
見るところが、糸道(いとみち)が附いてゐるが、鼠(ねづ)取る猫爪隠す、可(い)い
がナ、サア、こりやア些金(すこし)だが取ツてお置き 下女「こりやア重
ね重ね有難う存じます」 これから下女は即功紙(そくこうし)を貼ツたやう
な怪しい三味線を持ツてきました、献(さ)しつ酬(おさ)へつ酒を飲み始
めましたところから、紛郎兵衛、似多八の二人は、面白くな
ツてお出(い)でたと、到頭素裸体(すつぱだか)になツて踊り始めました、

【語釈】
・一盞(ひとくち)…ルビ不鮮明(特に「ち」)。「一口やる」で「一杯飲む(「飲酒する)」の意を表す用例が島崎藤村「岩石の間」にある。
・紛郎「オイ…原文「紛郎オイ」。「の欠落は明白であり、補った。
・一分…一両の1/4。
・握鮓(にぎりずし)…ルビ不鮮明(特に「ず」)。
・箱鮓…ルビ不鮮明(特に「ず」)。「はこずし」は、木製の型にエビや魚の切り身と酢飯を重ねて詰め、押して四角い形に整える寿司。
・二切(ふたきれ)か三切…寿司の数詞は現在では「貫」とされているが、昭和中期以前は単に「つ」「個」であったらしい。寿司の数詞として「切」が、地方(大阪)ではあるが当時使用されていたことをうかがわせる貴重な文献例。
・茶箱…不詳。辞書に「②旅持ちまたは野点などの際、茶道具を入れて持ち運ぶ箱」とあり、「など」の中に本書のように、旅館で客の接待用に使用されていたか。
・薯蕷饅頭…「薯蕷」(じょうよ)は山芋。饅頭の皮に使った。
・御纏頭(ごしうぎ)…漢字不鮮明。「纏頭(てんとう)」は「当座の祝儀として与える金品。はな。チップ」。
・お粋家様…ルビ不鮮明。「粋(すい)」は「とりなしがさばけていて、言動などがあかぬけていること」。粋家で「粋(すい)な人」。
・糸道…三味線・琴などを弾く技能。
・鼠取る猫爪隠す…諺。「能ある鷹は爪を隠す(すぐれた才能や力量を持つ者は、謙虚であり、むやみにそれを人に誇示したりはしないものだ)」と同義。
・即功紙…清涼剤・鎮痛剤を塗った紙。頭痛などのとき,患部に貼った。
・献(さ)しつ酬(おさ)へつ…酒杯をさしたり、相手のさしてくれるのを押し返してすすめたりして酒を飲むさま。

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【解説】
 紛郎兵衛・似多八の二人は部屋で女中をからかい、かつうまくおだてて女中に三味線を弾かせ、酒宴を始めます。現行「宿屋仇」の舞台は大阪日本橋の紀州屋であり、酒宴で騒ぎ出すまでの過程は簡単に処理されています。それに対し、初瀬街道畑宿(現三重県津市)という田舎宿を舞台にした本書では、そこを非常に丁寧・詳細かつリアルに描写しています。

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