【翻字】
する
とこの時前(ぜん)にお泊りになツたお武士(さむらひ)でございますナ、お国許(くにもと)
へさして書面を出(いだ)さうといふので、料紙を取寄せて、片手に
する
とこの時前(ぜん)にお泊りになツたお武士(さむらひ)でございますナ、お国許(くにもと)
へさして書面を出(いだ)さうといふので、料紙を取寄せて、片手に
半切(はんぎれ)を持ち、何か手紙をばお認め掛けになりましたが、何分
にも床板が弛(ゆる)んでゐたと見えて、隣がドシドシと踊出(おどりだ)しまし
たので、手紙が真直(まんぞく)に書けません、半切(はんぎれ)へさして点々(ちよぼちよぼ)ばかり
書いて在(ゐ)らツしゃる、お武士(さむらひ)も大きに立腹を致しまして、ポ
ンポン手を拍(う)ちながら 五平「伊八伊八、コリヤコリヤ伊八、コリ
ヤ伊八イー 〇「オイ伊八どん、奥の茶の室の旦那が、手が鳴
るぜ 伊八「然(さ)うか………ヘエ旦那、御免あそばせ」 と唐紙(からかみ)を開い
て這入(はひ)ツて参り 伊八「エー何か御用でございますか 五平「伊八、
宵の泊りに其方(そのはう)に何と申した、昨夜は藤堂和泉守様の御領分
名張の小竹屋彦兵衛方にて一泊を致した、ところがイヤハヤ
女子(じやこ)も赤子(もうざう)も一所(ひとつ)に寝かし居(を)ツた、相撲取は歯切(はぎり)を噛むやら
順礼が寝言をいふやら、駈落者が夜通(よどほし)イチヤイチヤと狎戯(いちやつ)きを
る、由(よ)ツて徹夜(よつぴて)寝られなかツたから、今宵は間狭(ませば)な所にても
にも床板が弛(ゆる)んでゐたと見えて、隣がドシドシと踊出(おどりだ)しまし
たので、手紙が真直(まんぞく)に書けません、半切(はんぎれ)へさして点々(ちよぼちよぼ)ばかり
書いて在(ゐ)らツしゃる、お武士(さむらひ)も大きに立腹を致しまして、ポ
ンポン手を拍(う)ちながら 五平「伊八伊八、コリヤコリヤ伊八、コリ
ヤ伊八イー 〇「オイ伊八どん、奥の茶の室の旦那が、手が鳴
るぜ 伊八「然(さ)うか………ヘエ旦那、御免あそばせ」 と唐紙(からかみ)を開い
て這入(はひ)ツて参り 伊八「エー何か御用でございますか 五平「伊八、
宵の泊りに其方(そのはう)に何と申した、昨夜は藤堂和泉守様の御領分
名張の小竹屋彦兵衛方にて一泊を致した、ところがイヤハヤ
女子(じやこ)も赤子(もうざう)も一所(ひとつ)に寝かし居(を)ツた、相撲取は歯切(はぎり)を噛むやら
順礼が寝言をいふやら、駈落者が夜通(よどほし)イチヤイチヤと狎戯(いちやつ)きを
る、由(よ)ツて徹夜(よつぴて)寝られなかツたから、今宵は間狭(ませば)な所にても
苦しうない、何卒(どうぞ)静かな所へ寝かしてお呉りやれと、其方(そのはう)に
南鐐一片遣(つかは)したではないか 伊八「ヘエ 五平「何だ、国許(くにもと)へさして
書面を出(いだ)さうと、料紙を借受け、今一筆認(したゝ)めんとしたが、隣
の客人(きやくじん)がドンドコドンドコと、床板も打抜かんばかりに騒ぎ立て
ゝ居(を)る、何(ど)うもこれを見い、この通り一字(いちじ)も書くことが出来ぬ
わい、点々(ちよぼちよぼ)ばかり書いて居(を)る、困るぢやアないか、サア、静
かに致すか、但しは座敷をば取替へるか、貴様の方に静かな
座敷がなければ、隣家へさして旅宿(やど)を取替へるか、如何(どう)ぢや
伊八「誠に何(ど)うも恐れ入ります、何(ど)うか隣の客人(きやくじん)へ密(ひそ)かに致し
まするやうに申入れまするから、暫時(しばらく)御辛抱を願ひます 五平「
密(ひそ)かに致せば可(よ)い、致さぬければ旅宿(やど)を取替へるから、よい
か 伊八「宜しうございます 五平「然らば隣座敷へ然(さ)う申して来い
伊八「畏まりましてございます」 伊八はお武士(さむらひ)の座敷を立ツて
南鐐一片遣(つかは)したではないか 伊八「ヘエ 五平「何だ、国許(くにもと)へさして
書面を出(いだ)さうと、料紙を借受け、今一筆認(したゝ)めんとしたが、隣
の客人(きやくじん)がドンドコドンドコと、床板も打抜かんばかりに騒ぎ立て
ゝ居(を)る、何(ど)うもこれを見い、この通り一字(いちじ)も書くことが出来ぬ
わい、点々(ちよぼちよぼ)ばかり書いて居(を)る、困るぢやアないか、サア、静
かに致すか、但しは座敷をば取替へるか、貴様の方に静かな
座敷がなければ、隣家へさして旅宿(やど)を取替へるか、如何(どう)ぢや
伊八「誠に何(ど)うも恐れ入ります、何(ど)うか隣の客人(きやくじん)へ密(ひそ)かに致し
まするやうに申入れまするから、暫時(しばらく)御辛抱を願ひます 五平「
密(ひそ)かに致せば可(よ)い、致さぬければ旅宿(やど)を取替へるから、よい
か 伊八「宜しうございます 五平「然らば隣座敷へ然(さ)う申して来い
伊八「畏まりましてございます」 伊八はお武士(さむらひ)の座敷を立ツて
隣の唐紙を開いて這入りますると、下女(をなごし)は三味線を弾ひて居(を)
りまして、二人は全(まる)の裸体(はだか)で、ヤレヤレ、えらい奴ちやツてな
事を言ツて、頻(しき)りに踊ツて居りますから 伊八「ヘエ、御免下さ
いませ 似多「ヤア伊八か、此処(こゝ)へ来て呉れ来て呉れ、どうぢや、お前
も此処(こゝ)へ来て裸体(はだか)になツて一ツ踊れ 伊八「エゝ恐れ入りました
何(ど)うか一ツお静かに願ひたいことで 似多「ナニ静かに、何(ど)うせい
と言ふのぢや 伊八「実は隣のお客人(きやくじん)が、騒々しうて困ると仰し
やいますので、何(ど)うか成るだけ一ツお静かに願ひたいことで
似多「オイ伊八、乃公(おら)ア斯(か)うやツて旅をして、マア宿屋にでも
着いて、一盞(いつぱい)酒でも飲んで、踊ツたり跳ねたりするのが楽し
みだ、此方(こつち)で踊ツてゐるのを、隣の客が何とか小言(こゞと)を言ツて
るのか、如何(どう)いふ不足を言ツてるのぢや、えらい面白い、乃(お)
公(れ)が一ツ行ツて掛合(かけあひ)をしてやる、乃公も愉快で踊ツて居(ゐ)るの
りまして、二人は全(まる)の裸体(はだか)で、ヤレヤレ、えらい奴ちやツてな
事を言ツて、頻(しき)りに踊ツて居りますから 伊八「ヘエ、御免下さ
いませ 似多「ヤア伊八か、此処(こゝ)へ来て呉れ来て呉れ、どうぢや、お前
も此処(こゝ)へ来て裸体(はだか)になツて一ツ踊れ 伊八「エゝ恐れ入りました
何(ど)うか一ツお静かに願ひたいことで 似多「ナニ静かに、何(ど)うせい
と言ふのぢや 伊八「実は隣のお客人(きやくじん)が、騒々しうて困ると仰し
やいますので、何(ど)うか成るだけ一ツお静かに願ひたいことで
似多「オイ伊八、乃公(おら)ア斯(か)うやツて旅をして、マア宿屋にでも
着いて、一盞(いつぱい)酒でも飲んで、踊ツたり跳ねたりするのが楽し
みだ、此方(こつち)で踊ツてゐるのを、隣の客が何とか小言(こゞと)を言ツて
るのか、如何(どう)いふ不足を言ツてるのぢや、えらい面白い、乃(お)
公(れ)が一ツ行ツて掛合(かけあひ)をしてやる、乃公も愉快で踊ツて居(ゐ)るの
だ、隣の客も此方(こちら)に負けず劣らず踊ツたら如何(どう)ぢや、分らぬ
奴ぢや、然(さ)う言ツて来い 伊八「ヘエ、誠に何(ど)うも恐れ入ります
けれども隣のお客様はれこ(〇〇)でございまして 似多「れこ(〇〇)、何だ、
指を二本出して、ムゝウ、隣のお客に銭を二百文貰ツたとい
ふのか 伊八「イエ然(さ)うぢやアございません 似多「れこ(〇〇)とは何だ
伊八「相手はりやんこ(〇〇〇〇)で 似多「アゝ田舎武士(さぶ)かエ 伊八ヘエ御推量
の通り 似多「武士(さむらひ)か、武士(さむらひ)が何ぢやエ、二本穿(ざ)しが怖くツて田(でん)
楽(がく)が喫(く)へるかエ、そんな事に遠慮があるものか、やれやれ」と
似多八は又候(またぞろ)踊りかけます奴を、紛郎兵衛は止めまして、紛郎「
オイオイ、そんな馬鹿な事を言ふナ、何しろ相手はお武士(さむらひ)だ、
こんな事が如何(どん)な間違ひにならうも知れぬぜ、オイオイ伊八
お前気の毒だけれども、隣のお客様に味好(あんぢよ)う言訳(ことわけ)を言うて、
ツイ一杯機嫌で踊りましたが、誠に済まぬことで、これから静
奴ぢや、然(さ)う言ツて来い 伊八「ヘエ、誠に何(ど)うも恐れ入ります
けれども隣のお客様はれこ(〇〇)でございまして 似多「れこ(〇〇)、何だ、
指を二本出して、ムゝウ、隣のお客に銭を二百文貰ツたとい
ふのか 伊八「イエ然(さ)うぢやアございません 似多「れこ(〇〇)とは何だ
伊八「相手はりやんこ(〇〇〇〇)で 似多「アゝ田舎武士(さぶ)かエ 伊八ヘエ御推量
の通り 似多「武士(さむらひ)か、武士(さむらひ)が何ぢやエ、二本穿(ざ)しが怖くツて田(でん)
楽(がく)が喫(く)へるかエ、そんな事に遠慮があるものか、やれやれ」と
似多八は又候(またぞろ)踊りかけます奴を、紛郎兵衛は止めまして、紛郎「
オイオイ、そんな馬鹿な事を言ふナ、何しろ相手はお武士(さむらひ)だ、
こんな事が如何(どん)な間違ひにならうも知れぬぜ、オイオイ伊八
お前気の毒だけれども、隣のお客様に味好(あんぢよ)う言訳(ことわけ)を言うて、
ツイ一杯機嫌で踊りましたが、誠に済まぬことで、これから静
かにして最(も)う寝(やす)みますと、宜しく断りをお前から然(さ)う言ツて
お呉れ 伊八「大きに何(ど)うもお気の毒さまで、似多「ぢやア伊八、お
前にえらい迷惑をかけて済まなかツた、これから寝ることにす
るから 伊八「何(ど)うか一ツお静かに願ひます
お呉れ 伊八「大きに何(ど)うもお気の毒さまで、似多「ぢやア伊八、お
前にえらい迷惑をかけて済まなかツた、これから寝ることにす
るから 伊八「何(ど)うか一ツお静かに願ひます
【語釈】
・半切…ルビ不鮮明。書簡用の、縦が短く横に長い和紙。
・点々(ちょぼちょぼ)…ルビ不鮮明。踊り字を表す記号や「…」などを指す。
・旦那が、…原文「旦那が 」。、の欠落は明白であり、補った。
・狎戯(いちやつ)き…ルビ不鮮明。
・徹夜(よっぴて)…「よっぴて」は「一晩中。夜どおし」。
・一字(いちじ)…ルビ不鮮明。
・小言(こゞと)…ルビ不鮮明。
・掛合(かけあひ)…要求などについて先方と話し合うこと。交渉。談判。
・れこ(〇〇)…「これ」を逆にした語で、あからさまに言うのを避けるときに用いる。(〇〇)は強調のための傍点。
・りやんこ…両個。《両刀を腰に差しているところから》武士を指す隠語。
・田舎武士(さぶ)…ルビ不鮮明。「さぶ」も不詳。似多は、伊八が「れこ」と「さむらい」をあからさまに言わなかったのに合わせて、「さむらい」と明言するのを避けてこう言ったものか。
・二本穿(ざ)しが怖くツて田(でん)楽(がく)が喫(く)へるかエ…「田楽」は味噌田楽。上方ではふつう食材を刺すのに二股に分かれた串を使うところから言った洒落。
・又候(またぞろ)…ルビ不鮮明。「またぞろ」は「同じようなことがもう一度繰り返されるさま。またしても。またもや」。
・言訳(ことわけ)…事の理由。事情。
・半切…ルビ不鮮明。書簡用の、縦が短く横に長い和紙。
・点々(ちょぼちょぼ)…ルビ不鮮明。踊り字を表す記号や「…」などを指す。
・旦那が、…原文「旦那が 」。、の欠落は明白であり、補った。
・狎戯(いちやつ)き…ルビ不鮮明。
・徹夜(よっぴて)…「よっぴて」は「一晩中。夜どおし」。
・一字(いちじ)…ルビ不鮮明。
・小言(こゞと)…ルビ不鮮明。
・掛合(かけあひ)…要求などについて先方と話し合うこと。交渉。談判。
・れこ(〇〇)…「これ」を逆にした語で、あからさまに言うのを避けるときに用いる。(〇〇)は強調のための傍点。
・りやんこ…両個。《両刀を腰に差しているところから》武士を指す隠語。
・田舎武士(さぶ)…ルビ不鮮明。「さぶ」も不詳。似多は、伊八が「れこ」と「さむらい」をあからさまに言わなかったのに合わせて、「さむらい」と明言するのを避けてこう言ったものか。
・二本穿(ざ)しが怖くツて田(でん)楽(がく)が喫(く)へるかエ…「田楽」は味噌田楽。上方ではふつう食材を刺すのに二股に分かれた串を使うところから言った洒落。
・又候(またぞろ)…ルビ不鮮明。「またぞろ」は「同じようなことがもう一度繰り返されるさま。またしても。またもや」。
・言訳(ことわけ)…事の理由。事情。
【解説】
紛郎兵衛・似多八の騒ぎに五平太が迷惑し、伊八を通して苦情を入れ、二人も納得して詫びを入れる場面です。大筋は現行の「宿屋仇」と同じですが、細部はやはり現行が簡略なのに対し、本書は成り行きも描写もかなり詳細かつリアルなものになっています。特に、侍と聞いて似多が「かまうものか」と不服を言い、伊八に従わない姿勢を見せるのは、現行版よりも説得力があると言えます。紛郎兵衛がなだめ、似多八もすぐに態度を改めているところから、似多八も本気で談判し抗おうとしたのではなく、抵抗自体が一つの洒落でありポーズであったことがわかります。武士と町人のいわば「ニアミス」を、伊八という接客のプロが間に入って、大事に至らないように両者をなだめ、うまく処理していく緊張感と、その過程の紆余曲折自体を丁寧に描くところに、本書における古形「宿屋仇」の狙いがあったようです。








