江戸期版本を読む

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カテゴリ:上方落語速記本・原典 > 滑稽曽呂利叢話 雁風呂

【翻字】
鳫風呂

第二世 曽呂利新左衛門 口演
        丸山平次郎 速記

エゝ旧幕の頃は参勤交代と申しまして、江戸表へ諸国の
御大名様方が入れ代わり御詰めに相成ります、駅路(えきろ)は下に
居(ゐ)ろ下に居(ゐ)ろで、中々厳格(やかまし)いものでござりましたが、当
今では総て物事がお手軽に成りましてござりますから、
大臣華族の御方様でも腕車(くるま)でポイポイと御他出(おでまし)に成りま
すやうな事で、実にお身軽い事に成りましてございます、
さて是(こ)れは極(ごく)お古いお話で、講釈師さんがお饒舌(はなし)を致
します種を一席の落語(おとしばなし)に致しまして御機嫌を伺ひます、

東京では総て人情続き話しを本(もと)と致しますが、京阪(けいはん)では
落語(おとしばなし)でないとどうも御機嫌が取り悪(にく)うございます、ト申
しますも矢張り京阪(とち)の慣習(ならひ)でございますが、田舎から大
阪へお越しに成りまして、落語(らくご)をお聞きになりましたお
仁(かた)は、人を馬鹿に為(し)たなどゝ申されますが、人情話しは
お聞き込みになりましたる処でこの続きは明晩(みやうばん)と云ふお別
れになりますと、惜しい処で切りをツた、今少し聞きた
い、あの後(あと)は如何(どう)ならう、明晩(あす)も行ツて聞かうかと云ふ
やうな事に成りますが、落語(らくご)は唯(たゞ)罪の無い処を聞いて頂
きますのでございますゆゑ、左様御承知下されてお聞き
取りを願ひます、

【語釈】
・腕車(くるま)…人力車の異称。


【解説】
 本書『滑稽曽呂利叢話』(明治26年刊)は、第二世曽呂利新左衛門口演の筆記本です。本話「雁風呂」は丸山平次郎による速記です。
 今回この本を取り上げたのは、上方落語の現行形の一つ、故・桂米朝「雁風呂」との相違が興味深かったからです。故・桂米朝「雁風呂」は、このお話の原話であるとされる「水戸黄門漫遊記」の講談本、初代桃川如燕講述『水戸黄門記』(明治44年刊)「第四席 東海道御遊歴 日坂の宿の雁風呂」や、『講談十八番』(大正3年刊)「水戸黄門『雁風呂』」の内容を踏襲しています。一方、本書の古形「雁風呂」は、講談本及び現行形「雁風呂」とは微妙な一点において相違し、結果として話の趣旨が異なります。
 それが興味深く思われ、ここに翻字しました。

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【翻字】
さて是(こ)れは徳川御三家の一なる前(さき)の中
納言水府公、御微行(おしのび)にて僅かお供は早見藤作(とうさく)上村兵十郎
外(ほか)二三人の近習をお伴(つ)れ遊ばして、お越しに成りました

る処は東海道は掛川の駅でございます、其(その)出尽端(ではづれ)に一軒
の茶店がございまして、それも藁屋にて表は葭簀(よしず)にて囲
ひ、チヨイと煮売(にうり)も致すと見えて、一ぜんめしの看版を
懸け、宅(うち)には年の頃六十三四とも思はれます老爺(ぢい)さんが
茶釜の下を吹きつけて居(を)ります、処へ戸外(おもて)より 〇「アー
老爺(おやぢ)座敷は空(あ)いて居(を)るか 老爺「ハイ空(あ)いてござります、何(どう)
卒(ぞ)彼処(あれ)へお通り下されませ 〇「我(わが)君様 君公「オゝ藤作 〇「
彼(あ)れなる席へ 君公「オゝ…… 老爺「ハイお茶を召上(めしあが)りませ、
唯今お煙草盆を差上(さしあ)げます 〇「老爺(ぢゞい)御中食(おちうじき)の拵へを致し
呉(く)れへ 君公「ハイ畏まりましてござります、直(すぐ)にお熱いの
を炊いてお上げ申します 〇「オゝ左様致せ、早く致し呉
れへ 老爺「ハイハイ畏まりましてございます 君公「藤作 〇
「ハゝツ 君公「何(な)にか臭(あし)きかをりが致すではないか 〇「ハア

左様にござります……アーコリヤ老爺(ぢゞい)老爺(ぢゞい) 老爺「ハイお呼
び遊ばしませ何(なん)ぞ御用でござりますか 〇「老爺(ぢゞい)怪(け)しから
ん悪(あ)しき臭気(にほひ)が致す、早く臭気(かをり)の致さぬやうに致せ 老爺
「ハイ対方(むかふ)に肥料桶(こえつぼ)がござりますので、誠にお気の毒さま
でござります 〇「ナニ下肥桶(こえつぼ)か 老爺「ハイ左様でござりま
す 〇「老爺(ぢゞい)早速何処(どこ)へか取片付(とりかたづ)けを致せ 老爺「ハイ旦那様
あの桶(おけ)は地中(ぢべた)へ埋め込んでござりますゆゑ、中々容易(ちよつと)の
ことで只今取片付(とりかたづ)けると云ふ訳には参りませぬ、何卒(どうぞ)些(しば)
時(ら)く御辛抱を下さりませ、ツイ其処(そこ)が私(わたく)しの本宅(おもや)でござ
りますゆゑ、本宅(おもや)へ参りまして屏風を借りて参ります、
そして其(その)屏風にて其処(そこ)を囲ひますれば、悪(あ)しき臭気(かをり)は少
々防げませうほどに、チヨイとお待ち下さりませ 〇「ム
ゝ左様か、然らば早く左様に致せ 老爺「ハイハイ畏まりま

してござります、直(すぐ)行ツて参ります

【語釈】
・前(さき)の中納言水府公…水戸光圀(1628-1701)。常陸水戸藩第二代藩主。後年、いわゆる「水戸黄門」として脚色され、歌舞伎・講談・映画・TVドラマ等で広く親しまれた。「水府」は「水戸 (みと:現在の茨城県水戸市)」 の異称。
・中食(ちうじき)…一日二食の頃,朝食と夕食との間にとった軽い食事。後には昼食をさす。
・肥料桶(こえつぼ)…便所にすえて大小便をためる壺。

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【解説】
 「雁風呂」の話の舞台は、講談本『水戸黄門記』(1902)では「日坂(今の掛川市日坂)」とされ、『講談十八番』(1905)では「岡崎」とされています。本書では「掛川」とあり、東海道の宿場としては25・38・26と、舞台が全て異なっています。「黄門漫遊記」自体もともとフィクションですから、場所はどこでも良かったのでしょう。
 本書では、松に雁の絵が登場する段取りが凝っています。場末の汚い茶店に入った黄門様が、臭い匂いに困り、家来が茶店の老爺に苦情を言った結果、絵の描いてある屏風が出てきます。『水戸黄門記』では唐紙に、『講談十八番』では衝立に描かれている絵ですが、ともに最初から店の中に置かれています。本書では老爺が本宅からわざわざ運び込んでくる趣向になっています。

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【翻字】
君公「藤作(とうさく)始め皆の
者 皆々「ハゝツ…… 君公「斯(か)う見渡した処は格外(よほど)眺望の好(よ)き
処ぢやのウ 〇「ハツ、余程宜しき見晴しにござります 君
公「ムゝ好(よ)き眺めぢや 老爺「ハイ旦那様お待遠(まちどほ)さまでござり
ました、エゝ一寸(ちよつ)と御免下されませ……サア斯(か)うして囲
ひましたれば、旦那様如何(いかゞ)でござりませう、些(すこ)しはこれ
で臭気(かをり)も薄らぎましてござりませう、それに斯(か)う致して
置きますれバ見苦しい処も隠れまして 〇「ムゝ好(よ)し好(よ)し
 君公「藤作 〇「ハゝツ 君公「此画(これ)は土佐将監光定の画(ゑ)で
はないか 〇「御意にござります 君公「光定は画(ゑ)は名人と聞
き及びしが、斯様(かやう)なる事を描(か)きをるは名人ではない、余
程下手ぢやのウ 〇「左様にござります 君公「見れば松に鳫(かり)
を描(ゑが)きあるが、鳫なれば芦(あし)を描(か)くべき筈、また松なれば

鶴、然るに斯様な図画(づぐわ)を描(ゑが)くとは、光定は狼狽を致せし
ものか、但しは心懸けなきか、余り馬鹿馬鹿しいではな
いか、藤作余が家には将監光定が描(ゑが)きしものは沢山あれ
ど、斯様なる事を描(ゑが)く光定なれば向後(けふかう)光定が画(ゑ)は眺むる
所存なきゆゑ、国許(くにもと)へ立帰(たちかへ)りなば、悉皆(のこらず)光定の描(ゑが)きし物
は焼捨て(やきす)てゝ仕舞へ 〇「ハツ委細承知仕(つかまつ)りましてござりま
する」と申して居(を)ります処へ二人の旅人(りよじん)が、此(この)茶店の床(しよう)
机(ぎ)に腰を掛け △「老爺(おとつ)さんお茶一ツお呉れんか 老爺「ハイ
只今お上げ申します、何卒(どうぞ)マア此方(こちら)へお掛け遊ばしませ
 △「ハイハイ、やれやれ久七辛動(しんど)かツたナア 久七「ヘエ旦那今(こん)
日(にち)は余程歩きましたナア △「ムゝ余程歩いた、老爺(おとつ)さん
モウ一杯(ぱい)お呉(く)れんか 老爺「ハイ畏(かしこ)まりました △「や有難(ありがた)う
……久七一寸(ちよつ)と 久七「ヘエ △「彼(あ)の屏風を見ひ 久七「旦那ア

ゝ彼(あ)の屏風は御宅(おうち)にありました屏風と同じ画(ゑ)ですナア △
「久七宅(うち)に有ツた光定が描(ゑが)いた鳫風呂(がんぶろ)の屏風、如何(どう)やら是(こ)
れも光定らしい、此(この)屏風片方(かたほ)には函館の城が描(か)いてある
が 久七「モシ旦那様是(こ)れも矢張り光定の筆と記(しる)してござりま
す △「ムゝ然(さ)うぢやろ、此(この)位(くら)ゐの事を描(か)く人は光定より他
にあるまい、久七好(よ)いナア、アー光定は名人ぢやナア、
併(しか)し世間は広いから、何(な)にも知らぬ仁(ひと)が見たら松には必(かな)
らず鶴を描(か)く筈なのに、鳫(かり)を描(か)くとは心得のない画師(ゑし)だ
抔(など)と云ふ人もあらう 久七「左様です、併(しか)し旦那此(この)画(ゑ)を見て
其様(そん)な事を云ふ奴なら、真に何(な)にも知らぬ唐変木ですな
ア △「ムゝ其様(そん)な物知らぬ奴に見られては光定先生も御
気の毒だ」 と両人(ふたり)が話しをお聞き遊ばしたる水府公近習
の者と顔見合わせて

【語釈】
・格外(よほど)…ルビ不鮮明。
・土佐将監光定…土佐派は室町以降の日本画の名派だが、光定という人物は不詳。
・△「ムゝ然(さ)うぢやろ…原文「「ムゝ然(さ)うぢやろ」。誤植は明らかで、訂正した。
・唐変木…気のきかない人物、物分かりの悪い人物をののしっていう語。

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【解説】
 茶店の老爺が臭気防ぎに持って来た屏風の絵を見、黄門一行はさんざんにくさした後へ、茶店にやって来た町人が激賞し、雁風呂の絵を知らない者は物を知らない者だと散々にくさし、聞いていた黄門一行が唖然とするくだりです。
 身分の高い人を、それと知らない者がさんざんに扱うというエピソードは、ある意味大衆芸術の定番的要素です。水戸黄門に限らず、日本の映画やTVの娯楽時代劇や、韓国の歴史TVドラマなどでもよく見られます。

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【翻字】
君公「藤作藤作 〇「ハゝツ 君公「彼(あ)れなる

町人これへ呼べ 〇「ハゝツ、こりやこりや其処(それ)に居(を)る町人
、我(わが)君様がお召しだ、これへ参れ △「ヘエ……久七何(なん)の
御用であらう、お前も一緒に来て、ヘエ何(なに)か御用でござ
りますか 君公「町人此(この)屏風の画(ゑ)は巧(よ)く描(か)いてあるか △「ヘ
エ土佐将監光定先生は名人でござりますやうに存じます、
ナア久七 久七「ヘエ旦那様此(この)松に鳫(かり)の画(ゑ)は私(わたくし)共の眼で見ま
しても宜しき様に存じますが、何(な)にも知らぬ唐変木の眼
で見る時は松には鶴を描(か)く筈ぢやに、松に鳫とは馬鹿な
画師(ゑし)ぢや抔(など)と云ふ、其奴(そやつ)こそ馬鹿ですナア 〇「コリヤ町
人控へ居(を)れ、是(こ)れに御座るは誰様(どなた)だと思ふ、勿体なくも
水戸光圀公なるぞ、控へ控へ控へ居(を)らう △「ハ
ツハツ……久七お前横手から饒舌(しやべ)るさかいに 君公「藤作待
て待て、コリヤコリヤ町人苦しうない、近う進め、可(よ)い可(よ)い

これへ参れ △「ヘエー…… 君公「可(よ)い可(よ)いズツと是(こ)れへ参
れ △「ヘエー 君公「此(この)画(ゑ)は余程巧手(よい)と申したが、余は心懸
けなきゆゑ、其方(そのはう)此(この)画(ゑ)の由来(いはれ)を存じて居(を)らば申し聞かせ
て呉れよ △「ヘイ私(わたく)しも詳しき事は存じませぬが、只存
知(ぢ)て居(を)ります丈(だ)けを申し上げますでござります、此(この)屏風
の片方(かたし)には函館の城が描(か)きてござります、ヘエそれ御覧
遊ばしませ、この松の下に柴の落ちてござります処が描(か)
いてござりますのは、鳫が常盤(ときは)とか申す国から秋に我(わが)日(ひの)
本(もと)へ参ります際(とき)、口にて柴を咥(くは)へて参ります、途中にて
羽翼(はがひ)をば休め、また起(た)つ際(とき)はその柴を咥(くは)へて、
漸(やうや)く此(この)函館の松の樹に来(きた)り、茲(こゝ)で柴を捨て、来た鳫は彼(あ)
方(ちら)此方(こちら)へと別れて起(た)ち退(の)いて仕舞ひます、翌年の春と成
りますと、花の咲くのを跡に致しまして、此(この)函館の松に
帰り、各自(めいめい)来た時咥(くは)へて参ツた柴を咥(くは)へ常盤(ときは)の国へ帰り
ます、燕はまた鳫の帰る頃に日本(こちら)へ参ります、鳫の帰る
のと燕が来ますのと丁度行違(ゆきちが)ひに成ります、仍(そこ)で燕の便
り鳫の文(ふみ)と申してござります、此(この)鳫が常盤へ帰りました
跡に柴がまだ沢山残ツてござります、其(その)残ツた柴を一(ひと)ツ所に
集め旅の難渋な人へ施行(ほどこし)の為(た)め、此(この)柴で湯を沸かし風呂
へ入れて遣(や)ります、これは死亡(しん)だ鳫への吊慰(とむらひ)の為(ため)に致し
ます、仍(そこ)でこれを鳫風呂(がんぶろ)と申すさうでござります、此(この)
鳫風呂の画(ゑ)には紀貫之の古歌が添ふてござります、常盤な
る国へ帰らんかりがねの、羽(は)がひやすめん函館の松」と、

ヘエ旦那様鳫風呂のお話はマア大略(ざつと)斯様(こん)なものでござ
ります

【語釈】
・片方(かたし)…二つあるもののうちの一つ。片方。
・吊慰(とむらひ)…「吊」は「弔」の俗字。
・紀貫之の古歌…不詳。『水戸黄門記』には古歌は登場せず、『講談十八番』には「古今集」の歌として「常盤なる国から来たる雁がねのしばしやすらふ函館の松」とある。
・国へ帰らん…原文「国へ帰かん」。誤植は明らかで、訂正した。

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【解説】
 黄門は町人を呼び、屏風の絵について聞きます。町人は、雁風呂の絵であると、その由来を語ります。
 町人が引用する古歌は、調べても出典がわかりません。『水戸黄門記』にはないし、『講談十八番』に引かれる歌とは細部が異なり、作者・出典の情報も整合しません。恐らくは偽作でしょう。

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【翻字】
君公「ムゝウ初めて聞いた鳫風呂の由来(いはれ)、余は満足
に思ふぞよ、シテ其方(そのはう)は何国(いづく)の者であるぞ △「ヘエ私(わたく)し
は大阪でござります 君公「ムゝ大阪の何(な)んと申す…… △「ヘエ
淀屋辰五郎と申します 君公「ムゝ、シテ其方(そのはう)は何方(いづれ)へ参る
 辰五「ヘエ江戸表へ参ります 君公「江戸表へ参るのか、余は
大阪へ参るが、其方(そち)が大阪へ帰る事なれば余も同道を致
すものを、江戸表へ参るとあらば致方(いたしかた)もなき次第、残念
であるぞ、シテ江戸表は見物にでも参るのか 辰五「イエ見
物ではござりませぬ、柳澤様へ三千両御用達(ごやうだて)ましたる処、
其儘(そのまゝ)にて御催促致しますれど、未(いま)だ御下(おさ)げ渡しがござり
ませぬ、甚だ迷惑致しますゆゑ、這回(このたび)江戸表へ態々(わざわざ)お願
ひに参りますのでござります 君公「爾(さ)うか、柳澤が下げ渡

せぬ筈(はず)はなけれども、掛(かゝ)り役人が悪いのであらう、アゝ
藤作 〇「ハゝツ 君公「其方(そのはう)余が代筆を致し、三千両下げ渡
すべき様、一筆認(したゝ)めて取らせエ 〇「ハゝツ畏まりまして
ござります」 と、藤作料紙硯箱(れうしすゞり)を取寄(とりよ)せ、三千両下げ渡し
の証を認(したゝ)めました 君公「辰五郎、柳澤へ参りて若(も)し三千両
渡さずば、小石川の上屋敷へ参り、此(この)証をもツて三千両
持ち出せ 辰五「ヘエ……有難う存じます」 折柄老爺(おやぢ)は膳部(ぜんぶ)を
持ち出(い)で 老爺「ヘエ旦那様お支度が出来ました 〇「オゝ出
来たか、我(わが)君様召し上(あが)られませエ」 と是より御(お)仕度をお
済ましに相(あひ)成りまして、辰五郎に別れを告げて水府公に
はお立ちに相(あひ)成ります、

【語釈】
・大阪の何(な)んと申す…… △「ヘエ…原文に「△」はない。誤植は明らかで、訂正した。
・淀屋辰五郎…江戸元禄期の大阪の豪商(1684~1718)。宝永2(1705)年、過度の豪奢を幕府に咎められ、財産没収を伴う闕所の処分を受けた。
・畏まりましてござります」 と…原文に「」」はない。誤植は明らかで、訂正した。
・柳澤様…不詳。暗に柳沢吉保(1659~1714)を指すか。
・証…証明のための文書。
・膳部(ぜんぶ)…膳にのせる料理。

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【解説】
 黄門に所と名を聞かれた町人は、大阪の淀屋辰五郎と名乗り、柳沢公への貸金三千両催促のために江戸へ行く途中だと告げます。黄門は、貸金回収できない際の立替証を近習に代筆させ、雁風呂の由来を語った礼として淀屋に渡し、大阪へ向けて先に出立する、というくだりです。

 『水戸黄門記』『講談十八番』といった講談本、故・桂米朝「雁風呂」では、淀屋辰五郎はすでにお上の御咎めを受けて巨万の富を失っている、という設定で、それを水戸黄門が口添えをして助けるという内容です。しかし、本書では淀屋はただ、滞っている貸金の催促に赴くというだけです。この違いについて、私は本書が勝るというふうに思いました。理由は単純で、歴史的事実と矛盾しないということです。講談本及び故・桂米朝版は、明らかに歴史的事実と矛盾します。淀屋がおとがめを受けた(1705)のは水戸光圀の死(1701)後だからです。
 水戸黄門説話は、幕政の不正・矛盾に苦しむ庶民を水戸黄門の公正と慈愛が救うというのが基本です。講談本及び故・桂米朝版の設定は、この点において本書よりも一層水戸黄門性が鮮やかです。ただ、歴史的事実と明らかに矛盾する設定まで必要であったのかと考えると、大いに疑問です。本書でも水戸黄門の公正仁慈と幕政の不正は十分に描けているからです。
 確かに本話はもともと虚構であり、講談本をそのまま落語にしたのであるから、虚構として楽しめるならそれで良いという立場もあるでしょう。故・桂米朝もそのように考えたかと推察はされます。けれども、淀屋辰五郎は実在の人物です。明らかな歴史的事実との矛盾は、虚構としての質を下げる要素となります。また、一般読者や聴衆は、歴史的事実に詳しくなく、こだわりもないという考え方で、このマイナス要素は問題にならないと考える立場もあるでしょう。しかし、本書においても、淀屋の闕所云々については特に言及していません。かつ、淀屋の闕所事件は時代を遡るにつれて一般大衆の認知度は高かったはずです。それは、この事件が講談化される以前に、「淀鯉出世滝徳」として浄瑠璃化(1708)、さらに歌舞伎化(1904)されていたことからも明らかです。本書出版当時であれば、「淀屋辰五郎」と聞いた聴衆の多くは、闕所処分を連想したはずです。歴史的事実に反することをわざわざ明確にする必要はなかったはずです。
 今後もしこの「雁風呂」を高座で語る噺家がいるなら、故・桂米朝版でない、二世曽呂利新左衛門版「雁風呂」を語ってほしいと、私は願っています。淀屋の闕所事件はマクラで語るなどに止め、聴衆に「連想させる」だけにしても、水戸黄門説話の面白さは十分に実現できると思います。

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