江戸期版本を読む

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カテゴリ:上方落語速記本・原典 > 曽呂利茶室落語十五(立切れ線香)

【翻字】
若旦那は承諾致しましたか
ら番頭は若旦那をば一番の土蔵(くら)へさして案内致しました、土蔵(くら)の戸前
をガラガラガラ若旦那を放り込みましてピシヤツと錠前を鎖(おろ)しまし
た 若旦那「番頭、無茶やなア此様(こん)な湿気臭い処へ放り込まれて此様(こん)な処
に百日も居(ゐ)られる者か……」ワアワアと若旦那は土蔵(くら)の中で泣(ない)て居(を)り
ます番頭は大きな顔を為(し)て台所に這入つて参りました一家(け)親類の御(お)
仁(かた)は簀子(すのこ)の下から蜘蛛の巣だらけになつて匍匐(はふ)て出る御仁(おかた)もあれば
縁先の飛石(とびいし)に頭を打(うつ)て額口(ひたへぐち)に凸凹(でこぼこ)を拵(こしら)へて出てくる御仁(おかた)もあれば種(いろ)
々(いろ)で御座います 一同「番頭どんアゝ貴公(こなた)なればこそ彼(あれ)程迄に意見を
言つて下すつた何分此(この)上ながら番頭どんお頼み申します 番頭「寄(よつ)て
集(たか)つて番頭どん番頭どんと扇で其様(そない)にしてお呉れなさいますと旦那
様風を冐(ひ)きますわいナ……」親類の御仁(おかた)は此(この)番頭に万事頼むと申して
引取(ひきと)りました旦那も大きに是(これ)で御安心になりましたが何故(なにゆゑ)に此(この)番頭

が若旦那をば百日も土蔵(くら)に放り込みましたかと云ふ其(その)原因は至つて
優(おとな)しい若旦那で御座いましたが放蕩にはなり易い者で町内に懇親会
がありまして御町内の息子達に誘(さそは)れて一寸(ちよつと)遊んで来やうかと云ふの
で難波新地へ遊びに参りまして数多(あまた)芸妓(げいぎ)を聘(よ)んで散財を致しました
処が三栄の店から出て居(を)ります小糸と云ふ十七八の芸妓(げいぎ)が不図(ふと)眼に
止まりました「アゝ容顔美麗(うつくしいをんな)ぢやなア」と思つたんです、小糸の方でも川
竹に美(い)い男の俳優(やくしや)も沢山あるが俳優(やくしや)にもおさおさ劣らん美(い)い男ぢや
ナ妾(わたし)も褄(つま)持つてる限りには此様(こん)な美(い)い男と仮令(たとへ)一夜(や)でも添寝(そひね)がして
見度(た)いと云ふ処から互ひに深い交情(なか)になりました、此(この)小糸の妓宅(やかた)は相
生町で御座います若旦那は此(この)小糸の御宅(おうち)をば我宅(わがうち)のやうにして間(ま)が
な暇(すき)がな小糸の宅(うち)に許(ばつ)かり這入込(はいりこ)んでお在(い)でありましたがお茶屋へ
揚代(はな)を附けといて而(そ)して小糸の宅(うち)に遊んで居(ゐ)ると云ふのですから更
に小言を云ふ処も無し若旦那は遊びにお入来(いで)に成りますると散財(きればなれ)が

鮮(あざや)かですから花街(さと)の妓輩(をなご)は申すまでもなく立つ児(こ)匍匐(いざる)子までも若旦
那若旦那と槌で庭掃くやうに申します

【語釈】
・難波新地…当時遊郭があり繁盛していた。
・芸妓…歌や三味線、舞踊などの芸を酒宴で披露して客をもてなす女性。
・三栄…不詳。当時あった置屋(おきや:芸妓を抱えている店)の名か。
・川竹…不詳。当時道頓堀にあった芝居小屋の名か。
・褄(つま)持つてる限り…芸妓である以上は。「褄」は着物の裾の左右両端の部分。芸妓は左褄を持って歩いたことから、「褄(を)持つ」で「芸妓である」意。
・間(ま)がな暇(すき)がな…ひまさえあればいつでも。
・お茶屋…遊郭にあった色茶屋。客に座敷と酒食を提供し、客は置屋から芸妓を呼んで遊んだ。
・揚代(はな)…花代(はなだい)。芸妓を揚げて遊ぶ代金。揚げ代。
・散財(きればなれ)…金ばなれ。気前。
・立つ児(こ)匍匐(いざる)子…不詳。
・槌で庭掃く…急な客に慌てふためきながらも、手厚く持て成そうとすること。転じて、露骨に世辞を言ったり、追従したりすることの喩え。

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【解説】
 番頭に迫られ百日の土蔵住まいとなった若旦那の放蕩について噺家がその背景を物語るくだりです。
 大筋は現行形「立ち切れ線香」と同じですが、本書古形版「線香の立切」の方は、固有名詞も使われており、現行形より具体性に富み、はるかに詳しい説明となっています。

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【翻字】
其(その)若旦那が一日断然(ふツつり)御入来(おこし)がな
いので 小糸「お母(かあ)はん若旦那昨日終日(いちにち)御出(おいで)やなかつた、今日も御出(おいで)が
ない如何(どう)為(し)たんであらうナ 母「さいな奈是(なぜ)御入来(おこし)がないので有らう
何(なに)か若旦那にも手の外(し)けん要事(えうじ)でも出来たのであらう 小糸「夫(それ)だつ
て今日も又御出(おいで)がないお母さん一本手紙上げたら如何(どう)であらう 母「
成程手紙書きでへ飛脚を聘(よび)に遣(や)るよつて……コレお松、和女(おまへ)横町へ行
つて○○の店で誰方(どなた)ぞ一寸(ちよつと)来てと早う行いてお出(い)で お松「ハイ」と少(おち)
婢(よぼ)は戸外(おもて)へ飛出(とびだ)しました引返(ひつかへ)して使(つかひ)の者「ヘエ只今は…… 母「オゝ使
ひノ此(この)手紙船場のお前知つてやらう若旦那の処へお返辞をと云ふて
之(こ)れ持ツて行つてお呉れ 使丁「ヘエ成程彼(あ)の若旦那様までヘエ心得
ましてお返辞を承(うけたま)はつて参ります 母「速う行(い)て来てお呉れ 使丁「ヘ
エ承(かしこま)りました」と船場の若旦那の宅(たく)へ出て参りました番頭は結界の内

座(ら)で何(なに)か二一天作と算盤(そろばん)はじゐて居(を)ります処へ 使丁「ヘエ今日(こんにち)は
番頭「ヘイお前は 使丁「南地(みなみ)の小糸さんの方(はう)から参りました 番頭「ハ
イ何(なに)か御用かな 使丁「此(この)お手紙を若旦那様にお返事を承(うけたま)はつて参れ
との事で 番頭「若旦那様は只今お不在(るす)じやお帰りなすつたら渡して
置きませう 使丁「何分(なにぶん)宜しう左様なら……」番頭は其(その)手紙をば帳箱(ちやうばこ)の
抽匣(ひきだし)の錠前の下りる処へ放り込んで錠を鎖(おろ)して仕舞ひました小糸の方(はう)
では早晩(いま)に便りが有ることかと待つて居(を)りましたが翌日になつても何(なん)
の便りも御座いませんから又飛脚に手紙を持たして遣(や)りました 使丁「
ヘエ今日(こんにち)は何卒(どうぞ)此(この)お手紙を若旦那様へ 番頭「ハイ今お不在(るす)じやお帰
りなすつたら渡して置きます 使丁「何分(なにぶん)宜しう左様なら……」番頭は
又ぞろ以前の通り仕舞ひ置く又翌日になつても便りが無いから又飛
脚に手紙を持たして遣(や)る、若旦那はお不在(るす)ぢや帰りになつたら渡して
置きます何度(なんべん)言ふても之(こ)りや同じ事です、

【語釈】
・手の外(し)けん…不詳。
・手紙書きでへ…不詳。
・和女…二人称。女性に対して親しみの気持ちをこめて用いる語。
・少婢(おちよぼ)…揚屋・茶屋などにいて娼妓の用を足す十三,四歳の少女。
・結界…商店などで、帳場のかこいに立てる低い衝立格子。帳場格子。
・二一天作…旧式珠算での割算の九九の一つ。十を二で割るとき、十の位の一の珠をはらい、桁の上の珠を一つおろして五とおくことを「二一天作の五」と言った。
・帳箱…帳場に置いて、帳簿や筆記用具などを入れておく箱。

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【解説】
 ある日若旦那が突然来なくなり、小糸が手紙を書くのですが、飛脚から受け取った番頭はそれを仕舞ってしまい、以降それが繰り返された、というくだりです。
 故・五代目文枝等による現行版「立ち切れ線香」では、この段階で小糸やその母は登場しませんが、本書の古形版「線香の立切」では、小糸と母を登場させて、若旦那の来ないのを心配して相談し、手紙を書いて使いに持たせる場面を詳しく語っています。

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【翻字】
ガ最初(のつけ)二三日(にち)は二本か三本

の手紙でしたが十日目当(あた)りになると十四五本の手紙二十日目頃にな
りますると三十四五本三十日目には五十四五本六十本四十日目には
七八十本九十本と漸々(だんだん)夥多(おびたゞ)しい数になりましたが八十日目の夕景よ
り如何(どう)為(し)た事か一本の手紙も来ないやうに成りましたから番頭は「ア
ゝ勤(で)て居(ゐ)る妓婦(おこ)と云ふものは実意の有るやうな者でも無い者ぢやナ
先方(さき)さまでは百日と云ふ期限(かぎり)は御存知あるまいけれどもアゝ是迄手
紙を寄越(おこ)したなれば最(も)う僅(わずか)な日限ゆゑ続(つゞい)て寄越(おこ)しさうな者ぢや今
一つと云ふ処が不人情な者じやなア」と申して居(を)ります中(うち)に早(は)や百日
の期限になりました、御両親は申すに及ばず家内の者まで一方(ひとかた)ならぬ
大喜悦(おほよろこび)で御座いました、ヤ、小豆の入(い)った御飯(おまんま)を焚(た)くやらソラお膾(なます)じや
焼物(やきもの)じやと云ふので料理人が這入つて大層(たいへん)な御饗応(ごちそう)で番頭は土蔵(くら)の
戸前(とまえ)をガラリツと開けまして 番頭「ヘエ若旦那今日(こんにち)は 若旦那「オゝ番
頭かアゝ久しいナ 番頭「若旦那今日(こんにち)は百日の満期(あがり)になりました永(なが)の

間(あひだ)の土蔵(くら)住居(ずまゐ)、嘸(さぞ)かし御窮屈に在(いら)つしやいましたので御坐いませう親旦
那様も大層(たいへん)のお喜悦(よろこび)で御坐います今日(こんにち)は一同お祝ひと云ふので貴君(あなた)
様にも氏神様へ御参詣遊ばすやう最(も)う只今お風呂も沸きます床清(とこせい)も
来て居(を)ります散髪も一度(ぺん)揃へてお貰(もら)ひ遊ばして而(そ)して南地(みなみ)の小糸さ
まの処へもお出(いで)遊ばしますやう 若旦那「番頭然(さ)うすと最(も)う今日(けふ)は百日
の満期(あがり)か 番頭「御意に御坐います 若旦那「アゝ光陰は矢を射るが如く
月日に関守無いとは能(よ)う言ふたもんじや私(わたし)が此処(こゝ)へ這入つた二三日(にち)
と云ふ者は寝るどころの騒ぎではない日夜(よるひる)泣いて許(ばつ)かり居(ゐ)たアゝ是(これ)
と云ふものも皆(みん)な予(わし)が悪いのじや我身(わがみ)を口惜(くやん)で居(ゐ)たが頃日(けふび)になつて
見ると浮世(うきよ)の事は悉皆(すつかり)忘却(わすれ)て仕舞ふて結句土蔵(くら)の裡(うち)の住居(すまゐ)が閑静で
至極宜しい番頭今日(けふ)から最(も)う百日此処(こゝ)に居度(ゐた)いよつて如何(どう)じや貴君(おまへ)
百日だけ附合(つきあは)んか 番頭「滅相な夫(それ)にやア及びません併(しか)し若旦那へ南地(みなみ)の小糸さんの方(はう)から貴君(あんた)にさしてお手紙が来て御坐いますので

【語釈】
・満期(あがり)…「満」は活字が上下逆。「あがり」は「物事が一段落すること」。
・床清(とこせい)…不詳。髪結の名か。

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【解説】
 小糸からの手紙は日に日に増えたが、八十日目で途切れ、一方若旦那は百日経ってようやく土蔵住まいから外へ出た、というくだりです。
 現行版「立ち切れ線香」とは大きな差異はありませんが、本書古形版「線香の立切」の方が現行版よりも幾分詳細に語っています。
 

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【翻字】
若旦那「アゝ最(も)う番頭最(も)う其様(そん)な事云ふて山行け里行け、最(も)う悉皆(すつかり)小糸
の事を忘却(わすれ)て居(ゐ)たのに彼婦(あいつ)の事を言出(いひだ)して呉れてやと寝て居(ゐ)る小児(こども)
を起(おこ)すやうな者じや最(も)う其様(そん)な事は少しも言(いひ)ツこなしアゝ謹請(きんじやう)再拝
番頭「アゝ否々(いやいや)若旦那左様(さう)じや御坐いません申さん事は分(わか)りません貴(あな)
君(た)をば土蔵(くら)へお入れ申した其(その)翌日小糸さんの方(はう)からお手紙が参りま
した処で何分に若旦那がお不在(るす)で御坐いますゆゑお帰りになりまし
たらお渡し申しますと云ふて其(その)日は飛脚を返(か)へしました又翌日手紙
が参りました之(これ)もお不在(るす)だと云ふて返(か)へしました処が来た来た毎日
毎日何本来ましたか若旦那八十日目に至りますまで来ました手紙の
数が何本とも云へません帳箱の抽匣(ひきだし)に充満(いつぱい)になつて這入りませんか
ら硯箱の抽斗(ひきだし)に入れました又半櫃(はんびつ)に充満(いつぱい)詰めました尚(まだ)這入らないで
明櫃(あきびつ)に充満(いつぱい)彼(あ)の半切(はんぎり)や状袋だけでも些少(はした)な金銭(ぜに)じや御坐いません処
が八十日目の夕景限り只の一本も手紙が来ません悉皆(すつかり)鼬の道切(みちきり)と云

ふ奴で若旦那勤(で)て居(ゐ)るお妓(こ)と云ふ者は真(しん)に浮気稼ぎですナ先方(さき)では
百日と云ふ期限(かぎり)のあることは夫(そ)りや知りますまいダガ最(も)う二十日(はつか)程
の日で百日の期限(きげん)になるのに一本の手紙も寄越さんと云ふは真(しん)に不
実なもんで御坐(ごあ)すナ、だから最(も)う若旦那へ余(あん)まり花街(いろまち)へは深陥(ふかはま)りを遊
ばさんやうに月の中(うち)先(ま)づ一度か二度か能(よ)う行(い)て三度位(くら)ゐなことに遊ば
すやう 若旦那「番頭私(わし)ア最(も)う花街(いろまち)へ再び行(いか)うとは思はんモウモウ眼が
覚めました 番頭「イエイエ然(さ)うぢや御坐いません花街(いろまち)は気保養に行
く処であります行くべき処なればこそ政府(かみ)からも公許(ゆる)して有る処で
御坐いますが一二度なら御出(おいで)遊ばせ其(その)節には番頭お供を致します若
旦那マア此(この)手紙一本だけ御覧(ごらう)じませ 若旦那「アゝ番頭最(も)う其様(そん)な言(こと)を
言ふて……最(も)う夫(それ)にや及ばん 番頭「イエ然(さ)うぢや御坐いません夫(それ)ぢ
や私(わたし)の念が届きません彼(あれ)程迄に番頭に頼んであるのに若旦那に一本
の手紙も見せて呉れんのかアゝ彼(あ)の番頭は不深切な者やと云はれて

も嫌ですからマアマア万望(どうぞ)一本御覧(ごらう)じなすつて 若旦那「否々(いやいや)……」

【語釈】
・山行け里行け…不詳。
・謹請(きんじやう)再拝…神仏に願い事をする祭文に使われる定型句。
・半櫃(はんびつ)…長櫃(ふたが上に開く大形の箱)の半分ぐらいの大きさの櫃。衣類・夜具などを入れる。
・明櫃(あきびつ)…不詳。「空き櫃(空の櫃)」の意か。
・半切(はんぎり)…半切紙の略。縦が短く横に長い和紙で、書簡用の巻紙とした。
・状袋…手紙や書類などを入れる紙の袋。封筒。
・鼬の道切(みちきり)…交際や音信がぱったりと途切れることのたとえ。

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【解説】
 番頭が百日の間に来た手紙について若旦那に報告し、一本の手紙を読むように勧めるくだりです。
 現行版「立ち切れ線香」と基本的に同じ内容ですが、本書古形版「線香の立切」の方が、二人のやり取りをやや詳しく語っています。

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【翻字】
否(いや)と
云ふ若旦那に番頭は一本の手紙を突付(つきつ)けました其(その)手紙は数多(あまた)
来た手紙の中でも一番最後の日の最終(をはり)に来た手紙で若旦那には開封し
て御覧になりますとイヤモウ婦女(をんな)の手紙の文句は大抵お定(さだま)りで御座
います一筆(ひとふで)しめし参らせ候左様候へばと書(かい)て中程に此(こ)の手紙が貴郎(あなた)
のお手に落手(はいつ)て今夕(こよひ)来て下さらなければ之(これ)が現世(このよ)の別れにならうか
も知れぬおしき筆とめ候かしこと読む中(うち)に若旦那は身の毛が慄(ぞつ)と粟生(よだつ)
やうに成りました 若旦那「番頭……髪結(かみゆひ)は来て居(ゐ)るか 番頭「参つて居(を)
ります 若旦那「ウン湯も沸(わい)てるか 番頭「ヘイ 若旦那「よし湯に入(いら)う……」
是(これ)から若旦那はお湯にお入浴(はいり)になりまして散髪をば刈り、ちやんとお
身装(みなり)をばお扮飾(こしらへ)になりまして 若旦那「番頭其様(そん)なら私(わし)や氏神へ参詣し
て来る 番頭「アゝモシ若旦那氏神さんへ御参詣ならば万望(どうぞ)小糸さん
の処へ一寸(ちよつと)でも行(い)てあげて下さいまし左(さ)もない時は私(わたし)が小糸さん

に何(なん)とも申様(まをしやう)が御座いませんゆゑ是非行(い)てあげて下さいますやう
若旦那「ウン諾(よし)行きます 番頭「夫(それ)では若旦那お紙入(かみいれ)にお金が入(い)つて御座います……コリヤ丁稚(こども)若旦那のお供をして 丁稚「畏(かしこま)りました 若
旦那「サア丁稚(こぞう)……」と若旦那は丁稚を伴(つ)れて戸外(おもて)へさして御出(おでま)しにな
りました却々(なかなか)氏神様へ参詣する気色(けしき)は更に御座いません最早足の地
に着いては居(を)りませんスタスタスタと一散(さん)走(ばし)り丁稚は途中から若旦
那に反途(はぐ)れましたやうなことで若旦那は南地(みなみ)の小糸の許(もと)へお出(いで)で御
座いましたが

【語釈】
・貴郎(あなた)…ルビ漢字ともに不鮮明。
・今夕(こよひ)…ルビ不鮮明。
・おしき筆とめ候かしこ…当時の女性の手紙の末尾に書く定型句。
・読む中(うち)に…ルビ不鮮明。
・若旦那「サア…原文「若「旦那「サア」。誤植は明らかで、訂正した。

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【解説】
 若旦那が小糸から来た最後の手紙を読み、身なりを改めて小糸を訪ねるくだりです。
 この場面、現行版「立ち切れ線香」との大きな相違点が認められます。故・五代目文枝等の現行版「立ち切れ線香」では、番頭は最後の手紙を読ませはしますが、小糸のもとを訪ねるようにとは若旦那に勧めません。若旦那が「天満の天神さんに願掛けした、そのお礼参りに行かせてほしい」と、番頭を騙すようにして小糸を訪ねます。本書古形版「線香の立切」では、番頭が小糸に会いに行くように、若旦那に頼むように勧めています。これは大きな違いです。

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