江戸期版本を読む

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カテゴリ:上方落語速記本・原典 > 速記の花 百年目

【翻字】
芸妓「次(つぎ)さん
遅かツたやおまへんか、待たるゝより待つ身になるなと真(ほんま)
にモウ退屈でした 次兵「而(さ)うやらう、早う来る積(つも)りやツたけ
れど、此(こ)の男が乃公(おれ)所(とこ)の戸外(かど)をマア何遍か彼方(あつち)へ行(いつ)たり此(こつ)
方(ち)へ来たり空手(てぶら)でも通る事か八百屋の荷を担(かた)げたり小便
桶(たご)を担(かた)げたり、土台気がさして出るにも出られず、夫(そ)れゆゑ

斯様(こない)に遅く成ツたのや 芸妓「左様か繁八さん真(ほんま)に確乎(しつかり)しイ
でエな、お前はんも古い芸者さんだに目先(めさ)きの見えぬ盆暗(ぼんくら)
やしなア 繁八「ホイホイ叱られ通し 次兵「併(しか)し船を出す事に
しやうぢやないか、繁八其(その)障子皆閉めて呉れ、其所(そこ)の戸も閉
めて仕舞はんと此(この)北の方(はう)にお得意先(さ)きが一軒有る、夫(そ)れに
又知れるやうな事が有ツては大きに不都合ぢやよツてに、
皆閉め切ツて呉れ 繁八「宜しうござります、船頭さんサア何(どう)
卒(ぞ)早う船を出してお呉んなさい 船頭「畏まりました、左様なら
モウ何も御用事はござりませんか、ヘエぢやア船を出す事
に致しませう 繁八「早う出した出した 船頭「ヤツ心得ました、ウ
ーントシヨオー」船は東堀をば段々上流(かみ)へ上(のぼ)ツて参ります
次兵「繁八真(ほんま)に少(ちツ)と勉強せんと不可(いかん)ぜ気が利かんから時間(ひま)
が要(い)ツた上に他(はた)に破糞(ぼろくそ)に云はれにーアならんやうな事に

成るのぢや 繁八「ヘエ誠に何(ど)うも 次兵「サア叱る事は叱ツて
…………此(こ)れはお賃ぢや 繁八「大きに有り難う毎度、誰方(どなた)も宜し
うお礼を 次兵「マア一盞(ひとつ)献(い)かう 繁八「ヘエ頂戴致します」杯(さかづき)を
彼方(あちら)へ献(や)り此方(こちら)へ廻(ま)はし、グルグル廻(めぐ)らして居(を)ります、船は
追々(おひおひ)と上流(かみ)へ上(のぼ)して来ました 船頭「オイ荷船(うはに)イ扣(ひか)えて来い扣(ひか)えて来い、扣(ひか)えて来いと云ふに……………而(さ)う船を、コレ何(ど)うするのぢ
や」と船を避(よ)けて後方(うしろ)を見ると 船頭「アゝ臭(く)さ甚(えら)い処へ糞船(こえぶね)
を繋(つな)ぎ居(を)ツた、オゝ松やイ桜宮(みや)へ行くかエ 松「アゝ 船頭「如何(どう)
ぢやい桜は 松「アゝモウ一両日の内に満開ぢやなア乃公(おら)ア
昨日(きのふ)桜宮(みや)へ行ツたが今年ア大変に能(よ)く人が出るぜ、昨夜(ゆんべ)、汝(きさま)
処(とこ)へ乃公(おら)ア行ツたら居(ゐ)なかツたが何処(どこ)へ行(い)た、又松島の一
件の娼妓(をなご)に蕩惚(かたいれ)して居(ゐ)るだらう 船頭「馬鹿云へエ、而(そ)んな懐(ふと)
中(ころ)ぢやア無いわい、オゝ扣(ひか)え扣(ひか)え、旦那今云ツてますが朋輩(ともだち)

が昨日(きのふ)桜宮(みや)へ行ツたさうですが、モウ一両日が盛(さか)りぢやさ
うです」船は段々と大川へさして出ましたから、最(も)う此処(こゝ)ま
で来たら差支(さしつか)へは無いと云ふので、障子をば皆ガラガラと
開放(あけはな)し「サアモツと大きなのを持ツて来い」と云ふので半猪(はんちよ)
口(く)でグウグウと酒を飲み、彼(か)れ是(こ)れ致して居(を)りまする内に
三橋(けう)も越しまして、此方(こなた)には造幣局、桜の宮の漸々(やうやう)河岸(かし)にさ
して船をばちやんと結(いは)へ付けました

【語釈】
・杯(さかづき)を…原文「杯(さかづ)を」。誤植は明らかで、訂正した。
・荷船(うはに)…上荷船(うわにぶね)。港と船の間を往復して、荷物を積み下ろしするのに使っていた小船。
・半猪口(はんちよく)…不詳。五勺(一合の半分。約90ml)入る大型の猪口を指すか。
・三橋(けう)…天満橋・天神橋・難波橋の三つの橋。

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【解説】
 番頭が船に乗り込み、桜宮へ着くまでのくだりです。
 本書古形版はこのくだりでも、故・桂米朝等による現行版とかなりの差異があります。本書古形版には現行版にある船中の暑さに関する描写や会話は全くありません。その代わりに、船頭が他の船の船頭と交わす会話の描写があります。本書古形版は、花見に向かう船遊びの情景描写がリアルであると言えます。

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【翻字】
番頭次兵衛(じへゑ)はドロド
ロに熟酔(ゑう)て居(を)りまするから暫(しば)らく土堤(つゝみ)をば酔醒(ゑひざま)しにお歩(ある)
行(き)なすツたら如何(どう)ぢやと云ふので、素(もと)より番頭は華美(はで)な事
が好きですから、友染(いうぜん)の襦袢鹿子(かのこ)の襦袢取交(とりま)ぜ四五枚も重(かさね)
着(ぎ)をして、舞子さんの燦(きらめ)く金の扇をば額(ひたへ)に翳(かざ)し、鹿子(かのこ)のヒシ(〇〇)
ゴキ(〇〇)で頬被(ほゝかむ)り、雑沓する堤をば芸妓(げいこ)幇間(はうかん)に取囲(とりかこ)まれて大道(だいどう)
を我儘(わがま)一杯(ぱい) 次兵「ハアヨイトヨイト、何(なん)たアら愚痴イなアエ、チ

ゝチンチツゝ、牡丹は持たアねエど、越後オの獅子イは、ツゝ
ンツンツゝツ、ツゝテン、テン、トテチンテ、ツンツチテツ、ツチツテ
ツルンテ、チレトツテン 芸妓「待(まツ)てお呉んなはれエなア」芸妓(げいこ)
舞子は前後(あとさき)に従(つ)いて踊ツて居(を)りますると、向(むか)ふの方(かた)から老
体のお方(かた)杖を頼(たより)に一人(にん)の幇間医者(おたいこいしや)を連れて遣(や)ツてお越(い)で
に成りました 老人「何(なん)と玄伯老(げんぱくらう)桜の盛(さか)りは一入(ひとしほ)結構ぢやな
ア 玄伯「御意にござります、瓢箪も何方(どちら)向いても桜かな、桜の
盛(さか)りは結構な者でござりまする……………モシ旦那さま、向(むか)ふか
ら踊ツてお出(い)でに成るお方(かた)、貴老(あなた)さま能(よ)く御存じでござり
ませう 老人「是(こ)れは仕(し)たり玄伯老(げんぱくらう)、私等(わたしら)の知己のお方(かた)に彼(あ)ん
な華美(はで)な遊びをしなさるお方(かた)は一人もござりません 玄伯「
イエイエ知るも知らぬも至ツて貴老(あなた)能(よ)く御存じのお方(かた)で
ござります 老人「ハイー私(わたし)の知己のお方(かた)、玄伯老(げんぱくらう)殿何処(どこ)のお

方(かた)じやな、宅(うち)の御町内のお方(かた)かな 玄伯「御町内処(どころ)じやアござ
りません、貴老(あなた)のお店(うち)の番頭の次兵衛(じへゑ)さまでござります 老
人「アツハゝゝ玄伯老(げんぱくらう)何(なに)を云はツしやるやら、店(うち)の番頭の次(じ)
兵衛(へゑ)が何(なん)の貴下(あなた)彼様(あん)な遊びを致しまするものか、彼(あ)れは実
に石部金吉(いしべきんきち)鉄兜(かなかぶと)堅過(かたす)ぎてからに私(わたし)が困る位(くら)ゐです、今日も
お前さん私(わたし)が台所から聞いて居(を)りますると、店(みせ)の者を叱る
のに、此(こ)の年に成るけれども、芸妓(げいこ)と云ふ子が如何(どない)な子やら、
幇間(たいこもち)が一貫目何程(なんぼ)するやら、三味線が何(なん)のお前さん、彼様(あん)な華(は)
美(で)な遊びを致(いたし)まするものか、夫(そ)りやアお前さんの見違(みちが)ひじや
世の中には似た人が沢山(たんと)有ります 玄伯「ヘエ左様かな何(ど)ふ
も見違(みちが)ひのやうには思ひません………イエ旦那貴老(あなた)マア篤(トツく)り
と御覧遊ばせ、次兵衛(じへゑ)さんに違ひございません 老人「而(さ)うか

のオドレドレ斯(か)う云ふ時は眼鏡(めがね)で見んと判りません………オ
ゝ眼鏡(めがね)で見たら真黒(まツくろ)けに成ツて向(むか)ふが見えんやうに成り
ました 玄伯「オヤ旦那さま貴老(あなた)夫(そ)りやア眼鏡(めがね)の鞘(さや)が除(と)れて
ござりません 老人「オゝほんに而(さ)うぢや鞘(さや)が除(と)ツて無(なか)ツた
………ドレドレ?ゝ?ゝ真(ほん)に番頭ぢや、ヤツ次兵衛(じへゑ)ぢや、マア常
に物堅(ものがた)う云うて居(ゐ)るのと大きな違ひ知らぬ処(どころ)が塩焼にも
お作りにも煮附(いりつけ)にもして喫(た)べて居(ゐ)をるのぢや常から物堅(ものがた)
う云うて居(ゐ)る番頭、茲(こゝ)に来て出会うたら大いに赤面するで
有らう、ト云うて後(あと)に戻れば余程大儀で有るし、玄伯老(げんぱくらう)何卒(どうぞ)
見て見ぬ振りをして道を躱(かは)して遣(や)ツて下され 玄伯「畏まりま
した」

【語釈】
・ヒシゴキ…不詳。「しごき(しごき帯。一幅の布地をしごいただけの飾りの帯)」の転か。
・一杯…原文「一抔」。誤植は明らかで、訂正した。
・何(なん)たアら愚痴イなアエ、チゝチンチツゝ、牡丹は持たアねエど、越後オの獅子イは…以下、長唄「越後獅子」の文句と演奏を、次兵衛は口で再現している。
・待(まツ)てお呉んなはれエなア」…原文に」はない。誤植と思われ、訂正した。
・幇間医者(おたいこいしや)…金持ちの患者の機嫌をとったりするのはうまいが,技術はへたな医者。
・瓢箪も何方(どちら)向いても桜かな…不詳。
・是(こ)れは仕(し)たり…意外なことに驚きあきれたり、失敗に気づいたときにいう語。
・一貫目…3.75kg。
・?ゝ?ゝ…印字不鮮明。あるいは「ア」か。
・畏まりました」…原文に」はない。誤植と思われ、訂正した。

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【解説】
 桜宮に上陸し、芸妓舞子を引き連れて派手に遊ぶ番頭を、医者を連れて静かに花見に来ていた店の主人が目撃してしまうくだりです。
 ここで本書古形版と現行版に大きな相違があるのは、番頭が船から上がり、派手に遊ぶ前半です。故・桂米朝等による現行版では、番頭は最初人目に付くのを恐れて船から上がろうとせず、幇間らが扇子で顔を隠す工夫をして無理に番頭を花見に連れ出す、というふうに語ります。本書古形版は、酒に十分に酔った番頭は、頬かむりをして扇子をかざしますが、特に人目を気にする様子は見せません。また、長唄を口ずさむなど、終始リラックスしています。
 店の主人が医者と花見をし、主人が番頭を目撃する後半は、現行版と本書古形版の間に大きな差異はありません。

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【翻字】
此方(こなた)は番頭の次兵衛(じへゑ)益々声を揚げて 次兵「アゝヨイト
ヨイト己(おの)が姿を花と見て、庭に咲いたり咲かアせたり………」如何(どう)
も此(この)酒酔ひの癖として、道で出会ひますと片方(かたかた)が避(よ)けて右

へ寄らうとすると右の方に途切(はつと)をします、左に寄らうとす
ると左の方に途切(はつと)をします、大手(おほて)を広げて 次兵「ヤア遣(や)らん
遣(や)らん」と申しますから今は老人止むを得ずして顔を突合(つきあは)す
やうな事に成ります 老人「イヤア番頭どん」云はれて番頭驚
きまして 次兵「フワーイ………ヤツ是(こ)れは旦那さまでござりま
すか、真(まこと)に其(その)後(のち)は打絶(うちた)えて御無沙汰を致します、御家内(ごかない)さま
皆お揃い遊ばして御機嫌宜しうござりまするか、一応お尋
ね申さねば済まぬのでござりまするが、何分(なにぶん)貧乏暇なしで
ツイツイ御無沙汰に成りましてござります、お帰り遊ばし
ましたら何方(どなた)さまにも宜しう御伝言を願ひます 老人「ヘエ
ヘエハイハイ是(こ)れは是(こ)れは御叮嚀(ていねい)なる御挨拶恐れ入ります、番
頭どんや、何卒(どうぞ)マア緩(ゆつく)り遊んで夕景には早う帰ツて下さる
やう頼みましたぞや………玄伯老(げんぱくらう)アゝ汗エ掻(かゝ)し居(を)ツた、サア行(ゆこ)きま

せう 芸妓「オヤ次(つぎ)さん何(なん)だすね、貴郎(あんた)盲人(めくら)の乞食見た様(やう)
に地面(ぢべた)へ頭着けて額(ひたへ)砂沫(だら)けだすがなア、サア踊りまはう、ア
ーヲゝンツンツンツ………次兵「エーヲゝンツ所(どころ)が大変(どろかい)じや
芸妓「今のお仁(かた)ありやア何処(どこ)のお仁(かた)だすね、彼(あの)兀頭(ちやびん)のお仁(かた)は
次兵「ありやア宅(うち)の旦那様じや 芸妓「彼(あの)お仁(かた)が、オー可笑(をかし) 次兵
「何(なん)の可笑(をかし)い事が有るものか、サア船へ行かう」番頭酒の為(ため)に
どろんけんに酔ツて真(ま)ツ赤(か)に成つて居(ゐ)た奴が、思ひ掛けな
い処で旦那に逢ひましたから、色青醒(ざ)めて土色に成ツて仕
舞ひました、

【語釈】
・己(おの)が姿を花と見て、庭に咲いたり咲かアせたり…長唄「越後獅子」の文句。
・」如何(どう)も…原文「「如何(どう)も」。誤植は明らかで、訂正した。
・途切(はつと)…不詳。「法度」は「禁じられていること。してはならない事柄」。ここでは「通せんぼ(通行禁止)」の意か。
・サア行(ゆこ)きませう…ルビ不鮮明。
・大変(どろかい)じや…ルビ不鮮明。
・兀頭(ちやびん)…茶瓶頭(ちゃびんあたま)。はげ頭。

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【解説】
 見て見ぬふりをしてやり過ごそうとする主人に、酔った番頭は絡んでしまい、顔を合わせてしまいます。混乱した番頭は土下座して訳の分からない丁寧な挨拶をし、主人もまた丁寧に挨拶を返してその場を去ります。芸子に尋ねられて番頭は店の主人だと答え、皆を連れて船に帰ります。
 このくだりも現行版と本書古形版には大きな差異があります。故・桂米朝等による現行版では、酔った番頭に絡まれた主人は、自分をそれと明かさずに、あくまで酔客の絡みから逃げようとします。本書古形版では、番頭に絡まれた主人はあっさりと「番頭どん」と、自分から相手を名指しして主人であることを明かします。
 ここを翻字していて、主人の冷静で鷹揚な返答に思わず噴き出してしまいました。現行版の、いい気持に酔った番頭が慌てふためく展開もおかしいのですが、本書古形版の、慌てる番頭と鷹揚な主人の対照落差から生じる笑いもすばらしいと思います。、

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【翻字】
船へ乗りまして青(あを)しい顔をして 次兵「アーアこ
りや失敗(しま)うたわい」と思ふ心配から逆上して又真(ま)ツ赤(か)い色(け)
になりました、七面鳥程顔の色を変へまして早う船を下げ
て呉れエと云ふので船を下流(しも)に下げましたが平生(いつも)の都合
の好(よ)い処の浜へふねを着けますると、芸妓(げいこ)舞子皆々が「お近(ち)

日(か)い中(うち)にー」と云ふ声を後(うしろ)にして、番頭は船から飛び上(あが)りま
した何(なに)しろ足が地に付いて居(を)りません 次兵「ゑらい事を為(し)
たマア世の中に似た人も沢山(たんと)有るから、此方(こツち)の神経で旦那
やと思ツた様な事なら宜(よ)いが夢じやア有るまいかと自身(おの)
が手で頬辺(ほゝべた)を抓(つめ)ツて見て 次兵「アー捻(ひね)ると矢ツ張(ぱり)痛い夢で
もない様子じゃ、宅(うち)へ帰れば様子が判るであらう」と悄然(しほしほ)立(たち) 
帰ツて参り 次兵「ハイ今帰りました 丁稚「ヘエお帰りお帰り 次
兵「旦那様は 丁稚「ヘエ今日(こんにち)玄伯老(げんぱくらう)伴(つ)れて、桜の宮へ花観にお
出(いで)になりました 次兵「ナニツ旦那が花観に 丁稚「ヘエ 次兵「こ
りやア不可(いか)んわい、全く夢でもなければ似たお仁(かた)でも無か
つた、愈々こりやア足袋屋の看版じやわい 丁稚「ヘエ足袋屋
の看版如何(どう)致しますのです 次兵「否(いや)千日に苅(か)ツた茅(かや)ぢや 丁稚
「ヘエ千日まで蚊帳買ひに行きますので 次兵「阿房(あほ)吐(ぬか)せ…………

アー痛々々……… 丁稚「如何(どう)ぞなすつたのですか 次兵「お腹(なか)が
シクシク痛い様で、アツ痛、アー旦那がお帰宅(かへり)になツて番頭
はとお尋ねになつたら腹痛(おなかいた)で二階に寝(やす)んでお在(いで)やと云う
て置け 丁稚「ヘエ」番頭は二階へ昇(あが)りました、

【語釈】
・似たお仁(かた)…原文「似たお仕(かた)」。誤植は明らかで、訂正した。
・足袋屋の看板…不詳。「足が上がる(解雇される)」の洒落か。
・致しますのです…原文「致しまのです」。誤植と思われ、訂正した。
・千日に苅(か)ツた茅(かや)…諺「千日の萱を一日に焼く(長年苦労して築いたものを、一瞬にしてなくしてしまうことのたとえ)」。
・千日まで蚊帳買ひに…「千日」は地名「千日前」の略か。法善寺(今の大阪市中央区難波にある寺)の別称である千日寺周辺を千日前と呼んだ。

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【解説】
 番頭は店へ帰り、主人が花見に出かけて居る事を聞き、解雇されることを心配し、腹痛がすると言って二階に上がって休む、というくだりです。
 このくだりでは、現行版と本書古形版との間に大きな差異はありません。

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【翻字】
其辺(そこ)は番頭丈(だ)け
にチヤーンと室(しつ)を設けて居(を)りますから、一室(ひとま)には洗ひ杉の
火鉢に火を沢山拵(こさ)へてござりまして、白湯(さゆ)もチンチンと沸
いて居(を)りますから、煎茶の道具を取り寄せて一煎(せん)入れて飲
みましたが、中々胸へは通り兼ぬる様な事、併(しか)し番頭職丈(だけ)に
小袖箪笥に革盤(かばん)の一個(ひとつ)も片方(かたへ)に置き、床(とこ)には懸物の一幅(ひとつ)も
懸けてチーンと番頭の部屋らしく致してござりますが次(じ)
兵衛(へゑ)座蒲団の上へチーンと座つては見たが魂が落ち着い
てござりませぬ 次兵「アーゑらい事を為(し)たわい、因果と又今
日あんな処(とこ)で旦那に逢はうとは思ひも寄らん事で有ツた

なア悪い事は出来んものぢや、是(こ)れまで番頭は堅い者ぢや
堅い者ぢやと思うて居(ゐ)なすつたらうが、斯(か)う云ふ事になると云ふ
のも、アーア天が許さん、迚(とて)も帰参は叶ふとは思はれん、然(さ)う
だせめて是(これ)まで拵(こさ)へた物丈(だ)け皆(みん)な着て帰(い)んでやらう」箪笥
革盤(かばん)の衣類(きもの)を其処(そこ)へ皆取り出(いだ)しまして、襦袢を三枚着まし
た上に胴着を三枚綿入(わたいれ)をば五枚、其(その)上へ指して袷をば七枚
又其(その)上に単衣(ひとへもの)をば九枚、其(その)上から浴衣から帷子(かたびら)薄羽織などを
引掛(ひつか)けて、帯をばグルグル巻きまして、有る丈(だ)けの烟草入(たばこいれ)を
何本となく腰に挿し、一寸(ちよいと)見ると恰(まる)で小錦を一遍水へ没(つ)け
た様な塩梅式で 次兵「否(いや)々此様(こん)な事をして帰ツたら、番頭は
平生(ふだん)に支度を為(し)て居(ゐ)たものぢやと云はれる様な事になる
と、却(かへ)ツて可愛さ余ツて悪(にく)さが百倍と云ふので、叶ふ帰参も

叶はぬ様な事になるかも知れん、ナア此方(こつち)の欲眼かは知ら
んけれど、矢ツ張(ぱり)着の身着の儘(まゝ)で去(い)ぬ方(はう)が可(よ)からう」と脱い
だ衣類(きもの)をば又畳んで元の如く箪笥革盤(かばん)へ納めました

【語釈】
・洗ひ杉…。表面をよく磨いて木目を浮き立たせた杉。
・単衣(ひとへもの)…原文「単衣(ひとへ の)」。誤植と思われ、訂正した。
・小錦…不詳。おそらくは第17代横綱小錦を指すか。本書出版当時(明治25年)小錦は力士として全盛期にあり、人気も高かった。

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【解説】
 腹痛と称して二階の自室に上がった番頭が、解雇を言い渡されるのではと恐れ、悶々と懊悩するくだりです。
 このくだりでは、現行版と本書古形版との間に大きな差異はありません。本書古形版は、番頭の部屋の様子が細々と描写されていて、ほとんどそういった描写のない現行版よりもかなりリアルに商家の様子を伺い知ることが出来ます。


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