【翻字】
胴乱の幸助
笑福亭福松口演
丸山平次郎速記
胴乱の幸助
笑福亭福松口演
丸山平次郎速記
エー一席申上げます、この春先と申すものは工合の好い
時候(しゆん)でござります、池の水もホンノリ温(ぬく)うなる、観音様
さへ襟の端(はし)をばゾロゾロウワウワ致さうと云ふ、暑うも
なく寒うもなく、実に宅(うち)に籠居(じツと)は為(し)て居(ゐ)られません、皆
ブラブラとお出まし遊ばす
〇「喜八(きはツ)さんマア些(ちツ)と此方(こツち)へお這入り、何と好天気(いゝひより)やな
ア
時候(しゆん)でござります、池の水もホンノリ温(ぬく)うなる、観音様
さへ襟の端(はし)をばゾロゾロウワウワ致さうと云ふ、暑うも
なく寒うもなく、実に宅(うち)に籠居(じツと)は為(し)て居(ゐ)られません、皆
ブラブラとお出まし遊ばす
〇「喜八(きはツ)さんマア些(ちツ)と此方(こツち)へお這入り、何と好天気(いゝひより)やな
ア
喜八「サア皆(み)なブラブラと出掛けるなア
〇「出掛けいで、此頃籠居(じツと)して居(ゐ)られるものかいナ、瓢
箪弁当でブラブラ彼(あ)アやツて愉快ぢや
喜八「源兵衛さん何(なに)やなア、人間も彼(あ)れでこそ生れた甲斐
が有るのやなア、働く事は働いて置いて、稀(たま)に休業(やすん)
で彼(あ)ア遣ツて瓢箪持ツて遊びに行(ゆ)く仁(ひと)もあるし、ま
たお前や私(わし)の様に一生懸命に働いて居ても稀(たま)に休業(やすん)
で一杯の酒も飲めぬとして見ると、最(も)う人間廃(や)め度(た)
うなるなア
源兵「フゝゝ人間廃(や)める、其様(そん)な哀れな事を云ふナ、何も
他人(ひと)の事を羨(けな)るがらいでも好い、此世は夢の浮世や
彼(あ)の人等は好い夢見てはると断念(あきらめ)たら可(よ)いのや
喜八「然(さ)うや然(さ)うや彼(あ)の人等ア好い夢見てはるね、お前やの
私(わし)は年中魔(おそ)はれて居るのや
箪弁当でブラブラ彼(あ)アやツて愉快ぢや
喜八「源兵衛さん何(なに)やなア、人間も彼(あ)れでこそ生れた甲斐
が有るのやなア、働く事は働いて置いて、稀(たま)に休業(やすん)
で彼(あ)ア遣ツて瓢箪持ツて遊びに行(ゆ)く仁(ひと)もあるし、ま
たお前や私(わし)の様に一生懸命に働いて居ても稀(たま)に休業(やすん)
で一杯の酒も飲めぬとして見ると、最(も)う人間廃(や)め度(た)
うなるなア
源兵「フゝゝ人間廃(や)める、其様(そん)な哀れな事を云ふナ、何も
他人(ひと)の事を羨(けな)るがらいでも好い、此世は夢の浮世や
彼(あ)の人等は好い夢見てはると断念(あきらめ)たら可(よ)いのや
喜八「然(さ)うや然(さ)うや彼(あ)の人等ア好い夢見てはるね、お前やの
私(わし)は年中魔(おそ)はれて居るのや
源兵「魔(おそ)はれて居る、そんなにホロ(○○)なやしなはんナ、人間
ちウ者は上見たら際限(はうづ)の無いものや
喜八「然(さ)うや然(さ)うや七八月頃に成ツて橋の上へ行て見い、橋(し)
下(た)は遊山の船で大賑(にぎや)か、お前や私(わし)は下見ても際限(はうづ)が
ないワ
源兵「其様(そない)に哀れに云ふなへ、お前が其様(そない)に云ふと気の毒
に成ツて来る、マア一杯飲まうか
喜八「ヤア最(も)う水なら堪忍して
源兵「ウダウダ言ふなへ、水はのましやせぬ酒ぢや、ト云
ツて私(わし)はよう飲まさんが、飲まして呉れる人がある
か
喜八「ムー……飲まして呉れる人ツて何者(なに)や
ちウ者は上見たら際限(はうづ)の無いものや
喜八「然(さ)うや然(さ)うや七八月頃に成ツて橋の上へ行て見い、橋(し)
下(た)は遊山の船で大賑(にぎや)か、お前や私(わし)は下見ても際限(はうづ)が
ないワ
源兵「其様(そない)に哀れに云ふなへ、お前が其様(そない)に云ふと気の毒
に成ツて来る、マア一杯飲まうか
喜八「ヤア最(も)う水なら堪忍して
源兵「ウダウダ言ふなへ、水はのましやせぬ酒ぢや、ト云
ツて私(わし)はよう飲まさんが、飲まして呉れる人がある
か
喜八「ムー……飲まして呉れる人ツて何者(なに)や
【語釈】
【解説】
『胴乱の幸助 完』は明治27年刊、初代笑福亭福松の口演筆記本です。
「胴乱の幸助」は現在も多くの噺家によって演じられている上方落語の名作です。
この噺には京阪間の鉄道が出てきます。営業運転を始めたのは、明治9年(1870)です。この噺は、それ以降に作られたことになります。本書の口演当時は、当時としての新作落語であったと思われます。作られた当時の口演筆記は、現行版の「胴乱の幸助」とどのように違うのか、順次見て行きたく思います。
第一回は、胴乱の幸助が登場する前の、二人のやりとりのくだりです。このくだりは現行版と全く違います。本書古形版のこのくだりはむしろ、故・五代目桂文枝「天神山」に部分的に採用されています。