江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

カテゴリ: 秋の初風 -法然源空和歌集-

 今回翻字する古書は『秋の初風-元祖大師御詠歌-』です。本邦浄土宗の開祖・法然が詠んだとされる和歌を集め、それに絵を添えてかんたんな解説を付した版本です。出版は明治16年(1883年)、「翻刻人 小林大空」と刊記にあります。本書は10年ほど前にWEBオークションで購入しました。文庫本サイズに近い小さな本で、頁数50頁に満たない、ごく小さな本です。過去に翻字・翻刻はされていないようで、「浄土宗全書テキストデータベース」にも収載されていません。
 本書は国立国会図書館に所蔵があり、同館のデジタルライブラリーで画像を公開していて、閲覧できます。国立国会図書館以外では愛媛大学図書館に同名資料の所蔵があります。但しこちらは元禄9年(1696年)刊で、本書のオリジナルにあたります。つまり、明治16年刊の本書は、元禄9年本の改版・復刻本です。この元禄9年本は、国文学研究資料館が提供する新日本古典籍総合データベースでWEB公開されています。
 刊記の「翻刻人」という表記は、元禄9年本を小林大空が翻刻したことを意味します。本書と元禄9年本を比較してみますと、歌や文章、絵柄等は同じですが、使用されている変体仮名や、挿絵の細部に差異があり、新たな版であることがわかります。
 元禄9年本の編著者の湛澄には、同年刊の『空華和歌集』3巻があります。『秋の初風』が一般向けの平易簡明な内容であるのに対し、こちらは詳細な引用と注解を備えた大部の書です。『空華和歌集』の序文には「元禄六とせの春」、『秋の初風』の序文には「元禄八とせの秋」とあります。湛澄は『空華和歌集』をまとめた後に、より多くの人に読みやすくするために、内容を簡略化して『秋の初風』を書いたのでしょう。その後者を、明治の人である小林大空は、同時代の人々のために改めて翻刻したのです。

 法然と『空華和歌集』および湛澄については、WEB版新纂浄土宗大辞典が詳しいです。以下、簡単に解説します。
 法然源空(長承2年(1133年)~建暦2年(1212年))は美作国(現岡山県)の人で、若くして出家し、比叡山延暦寺に入って天台宗を学びますが、その教義に飽き足らず、やがて「専修念仏」の教えに至り着き、建久9年(1198年)、後に浄土宗の根本聖典となる『選択本願念仏集』を著します。その詠歌は勅撰和歌集にも入撰するなど、一定の評価を受けています。
 湛澄染問(慶安4年(1651年)~正徳2年(1712年))は浄土宗の僧で、山城国(現京都府)報恩寺14世です。『空華和歌集』は元禄9年(1696年)刊の法然の和歌集で、19首を収め、湛澄による詳細な注解が付されています。本文は「浄土宗全書テキストデータベース」の「続浄土宗全書8巻」に収められていて、WEB上で閲覧できます

 最後に、翻刻人である小林大空(嘉永7年(1854年)~昭和5年(1930年))についてですが、彼は、浄土宗から別れた時宗の僧で、後に時宗法主である遊行66代・藤沢第49世となる人物です(「佐原薩応と山崎弁栄 ―近代「時宗」の様相―」古賀克彦(『印度学佛教学研究)49-1 199頁下))。

 では、以下、本書画像と共に翻字・校訂本文・現代語訳を上げ、若干の補説を付していきます。
 
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【翻字】
秋の初風
それやまと哥は千早振神(ちはやふるかみ)の
御代(みよ)より事おこりて難波(なには)の
よしあしをすゝめいましむる
なかだちなれはわが法然上人も
三十一字(みそじひともし)の詞(ことは)の花をつらねて
法(のり)の林(はやし)のしるべとなしたまへり

されば極楽(ごくらく)の道にまどへる世中
の人にあまねくその哥をしら
しめ常(つね)にそのをしへをたもた
しめんがために黒谷(くろだに)の落葉(をちは)かき
あつめて一巻(ひとまき)となしぬ且(かつ)はみづ
から老(おひ)の心をなぐさめむとて色
なき詞(ことば)を墨絵(すみゑ)にうつしつたなき

注語(ちうご)をさへくわへぬるぞあやしきや
 時に元禄八とせの秋百々(とゝ)川の
 草の庵にしてしるし侍る
  洛北報恩寺隠居 湛澄

【校訂本文】
 秋の初風
 それ和歌は、千早振る神の御代より事起こりて、難波のよしあしを勧め戒むる仲立ちなれば、我が法然上人も、三十一文字の詞の花を連ねて、法の林の標となし給へり。
 されば、極楽の道に惑へる世の中の人に、あまねくその歌を知らしめ、常にその教へを保たしめんがために、黒谷の落葉かき集めて、一巻となしぬ。
 且は、自ら老ひの心を慰めむとて、色なき詞を墨絵に写し、拙き注語をさへ加へぬるぞ、怪しきや。
 時に元禄八年の秋、百々川の草の庵にして記し侍る。
 洛北報恩寺隠居 湛澄

【語釈】
難波のよしあし:「難波の葦(「あし」/「よし」とも)」と「良し悪し(善悪)」を掛けた表現
三十一字:和歌の異名(五・七・五・七・七の総和であるところから)
法の林:「仏の多くの教説」の意
黒谷:比叡山延暦寺の別所の一。ここの青龍寺で長年、法然は修業した。
元禄八年:1696年
百々川:当時、京都市中を流れていた小さな川
報恩寺:浄土宗の寺院。京都市上京区に現存。
湛澄:慶安4年(1651年)~正徳2年(1712年)。浄土宗の僧で、報恩寺14世。法然の歌集『空華和歌集』3巻の編著者。

【現代語訳】
 秋の初風
 そもそも和歌は神代の発祥で、善を勧め悪を戒める仲立ちであるから、我が法然上人も、三十一文字の言葉の精華を連ねて、仏法の多くの教説の道しるべとなされた。
 だから、極楽往生への道に迷っている世の中の人びとに、広く上人の歌を知らしめ、常に上人の教えを持ち続けさせるために、上人ゆかりの黒谷の落葉をかき集めるようにその御詠草を集めて、一巻とした。
 また、自分自身の老いの心を慰めようと、色のない言葉を墨絵に書き写し、稚拙な注語までも書き加えたのは、我ながら妙なものであることよ。
 時に元禄8年の秋、百々川のほとりの草庵で書き記します。
 洛北・報恩寺隠居 湛澄

【補説】
 この序文は、『空華和歌集』の序文とかなりの相違があります。まず、末尾の日時と場所が違います。本書では「元禄八年の秋、百々川の草の庵にして」となっていますが、『空華和歌集』では「元祿六とせの春 難波津の新別所にして」となっています。また、執筆の趣旨も異なります。本書では「極楽の道に惑へる世の中の人に、あまねくその歌を知らしめ、常にその教へを保たしめんがため」と、布教と信者教育が目的であることをシンプルに謳っています。一方、『空華和歌集』では、同じ趣旨を書いてはいるものの、副次的な目的として後半にさらりと書いているだけです(「亦ねがはくは。此和歌をひろく世に傳へて惡をこらし。善をすゝむる媒とし。世をいとひ佛を念ずるしるべとなして。石木ならぬ諸人の心に。ふかきめぐみをも。いさゝか思ひしらしめんとて」)。最初に謳っている趣旨は、同門宗徒に対する教戒、すなわち、法然上人の歌に対する浄土宗僧侶・宗徒らの誤った理解を正すことです(「しかるに近來。さすがにひろき歌の書の。片端をもよまずして。あやめもしらぬ。あやしのともがら。たやすく上人の歌を議す。これはなはだ。をこなる事なり(中略)よのみだりなる沙汰を聞くにたへず。なまじゐにこれを注せり」)。
 以上をまとめると、両書の基本性格は次のようになります。『空華和歌集』は、湛澄が同門の宗徒に向けて書いた教戒の書です。それに対して、それを簡略にした『秋の初風』は、和歌による浄土宗の布教書であり、一般の人が読みやすいようにした啓蒙書であると言えます。

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【翻字】
さへられぬ ひかりも あるを をし なへ て
へたて かほ なる あさ 霞かな

春の哥なり阿弥陀仏の無碍光(むけくわう)を
よめり花をさへ月をへだつる霞にも
かの佛の光(ひかり)のみはさへられぬものを
へたてがほにたつ霞かなとの
こゝろなり

【校訂本文】
 障へられぬ光もあるを 押し並べて隔て顔なる朝霞かな

 春の歌なり。阿弥陀仏の無碍光を詠めり。「花を障へ、月を隔つる霞にも、かの仏の光のみは障へられぬものを、に立つ霞かな」との心なり。

【語釈】
阿弥陀仏:阿弥陀如来。浄土宗・浄土真宗の本尊。
無碍光:阿弥陀仏の発する十二光の一。何ものにも妨げられない救いの光明。

【現代語訳】
 世の中には阿弥陀仏の無碍光という何ものにも遮られない光もあるのに、一様に全てを隔てて見えなくさせているかのような顔をしているこの一面の朝霞よ

 春の歌である。阿弥陀仏の無碍光を詠んでいる。「花や月を遮り隔てる霞にも、あの仏の光だけは遮ることはできないのに、まるで『隔ててやったぞ』と言わんばかりの顔をしている霞だなあ」という歌の主旨である。

【補説】
 『空華和歌集』の注解をただ平易にした解説です。「此歌。霞によせて無礙光の心をあそばせり(中略)月をさへ。花をへだつる露にも。かの無礙光のみはさへられぬものを。へだてがほにもたつ霞かなと。かすめる空に打むかひて。人にいふやうによめる歌也」(『空華和歌集』)。

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【翻字】
われはたゝ 仏にいつか あふひ 草
心の つまに かけぬ 日そ なき

夏の哥なり見仏(けんぶつ)の思ひのたえざる
事をよめり葵(あふひ)を逢(あふ)といふ詞に取
なして我にはいつか阿弥陀佛にあひ
あはんと日ごとに心にかくるとなり
つまといひかくるといふもあふひ草
の縁(ゑん)の詞(ことば)なり

【校訂本文】
 我はただ仏にいつかあふひ草 心の端に掛けぬ日ぞなき

 夏の歌なり。見仏の思ひの絶えざる事を詠めり。「葵」を「逢ふ」といふ詞に取りなして、「我には『いつか阿弥陀佛に相逢はん』と日毎に心に掛くる」となり。「端」と言ひ、「掛くる」と言ふも、「あふひ草」の縁の詞なり。

【語釈】
葵:フタバアオイ。京都・賀茂神社の葵祭で用いられる。
つま:はし。へり。
見仏:仏の姿や光、あるいは浄土のさまを目のあたりに見ること

【現代語訳】
 私はただもう仏にいつか会う事を心の端に掛けない日はない

 夏の歌である。仏に会う願いが途切れない事を詠んでいる。「葵(あふひ)」を「逢(あ)ふ」という言葉に掛けて、「私は『いつか阿弥陀仏に会いたい』と毎日心に掛けている」と詠んでいる。「端(つま)」「掛くる」は共に、「葵(あふひ)草」の縁語である。

【補説】
 ここの解説も、『空華和歌集』の注解の要点を平易にまとめたものです。「あふひを逢といふにそへて。見佛の念のたえざることをよめり。我は常に餘事をおもはず。ただかの佛にまみえんことをねがふ。いつか往生の業成じて。彌陀の慈父にあふべきぞとなり」(『空華和歌集』)。
 なお、この歌は至徳元年(1384年)成立の20番目の勅撰和歌集『新後拾遺和歌集』に入撰しています(巻十八 釈教・一四七四。但し五句目は「かけぬまそなき」)。

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【翻字】
阿弥陀仏にそむる
心の色に出は秋
の木すゑのた
くひならまし

秋の哥なりそむるとはかの仏のみを
念(ねん)ずる義(ぎ)なりあけくれ心にかけて
信仰(しんかう)のふかきをそむるといふなり
その心の色をたとへていはゝ千入(ちしほ)
の紅葉(もみぢ)にたくふべしとなり

【校訂本文】
 阿弥陀仏に染むる心の色に出でば 秋の木末の類ならまし

 秋の歌なり。「染むる」とは、かの仏のみを念ずる義なり。明け暮れ心にかけて信仰の深きを「染むる」と言ふなり。「その心の色を譬へて言はば、千入の紅葉にたぐふべし」となり。

【語釈】
阿弥陀仏:大乗仏教で西方の極楽浄土にいるとされる仏。なお、本歌集では全て「あみだぶ」と読む。
千入(ちしほ):繰り返し幾度も染めること。また、その色や染めた物。

【現代語訳】
 阿弥陀仏に心を傾ける心がもしも色に表れるなら、秋の梢のようなものであろうか

 秋の歌である。「染むる」とは、阿弥陀仏だけを心に強く願うという意味である。昼も夜も心に掛けて、信仰心が深いのを「染むる」と言うのである。「その心の色を譬えて言うと、繰り返し何度も染めた紅葉になぞらえるのが当然である」と詠んでいる。

【補説】
 この歌の解説も、『空華和歌集』の注解の要点を平易にまとめたものです。「そむるとは。信樂のふかきをいふ。一朝一夕の信心にあらず。年久しく本願に歸し。日を逐て染習する義也(中略)秋の梢とは。深心の分齊を千入の紅葉にたとへてよみ給へり(中略)此雅詠をよくよく腹に味はひて。今より後は。心を阿彌陀佛に染べし(中略)かくてやうやう染るならば。誰か色にも出ざらんや」(『空華和歌集』)。

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