江戸期版本を読む

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カテゴリ:道歌心の策(禅林五十人一首) > 道歌心の策 1~25

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【翻字】
檀林皇后(だんりんくはうごう)
もろこしの 山(やま)の あな た に たつ雲(くも)は こゝにたく火(ひ)の けむり也けり
〇聖后(せいこう)御諱(いみな)は嘉智子(かちし)人王五十二 代嵯峨帝(さがてい)の后(きさき)也篤(あつ)く禅法を信(しん) じ唐国(たうごく)の義空(ぎくう)禅師を檀林寺に迎(むか) へて法要(はふよう)を尋(たづ)ね遂(つひ)に所悟(しよご)あり て此うたを詠(ゑい)じ給ふ唐土(もろこし)の斎安(さいあん) 国師(こくし)はるかにその哥を聞(きい)て深(ふか)く 仏乗(ふつじよう)を得(え)たる人なりと感(かん)ぜられし とぞ嘉祥(かじよう)二年寿(ことぶき)六十五にして崩(ほう) じ給ふ御遺語(ごゆいご)ありて尊骸(そんがゐ)をさが
野に捨(すて)しめ容色変(ようしよくへん)じて乱穢(らんゑ)の 姿(すがた)をしめし人をして愛着(あいぢやく)の念 を断(たゝ)しめ給へり又御哥に われ死(し)なば焼(やく)な埋(うづ)むな野(の)に 捨(すて)てやせたる犬の腹(はら)を肥(こや)せよ

【校訂本文】
 檀林皇后(だんりんくはうごう)
 唐土の 山のあなたに 立つ雲は ここに焚く火の 煙なりけり
 聖后(せいこう)、御諱(いみな)は嘉智子(かちし)。人王五十二代・嵯峨帝の后(きさき)なり。
 篤く禅法を信じ、唐国の義空禅師を檀林寺に迎へて、法要を尋ね、遂に所悟ありて、この歌を詠じ給ふ。唐土(もろこし)の斎安国師、遥かにその歌を聞いて、「深く仏乗を得たる人なり」と感ぜられしとぞ。嘉祥二年、寿六十五にして崩じ給ふ。御遺語ありて、尊骸を嵯峨野に捨てしめ、容色変じて乱穢の姿を示し、人をして愛着の念を断たしめ給へり。
 又、御歌に、
 我死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 痩せたる犬の 腹を肥やせよ

【語釈】
檀林皇后:橘嘉智子(たちばなのかちこ)。第52代・嵯峨天皇(在位:大同4年(809年)~弘仁14年(823年))の皇后。
義空:唐の禅僧。承和14年(847年)来日し、檀林寺の開基となる。
檀林寺:承和年間(834年~848年)に檀林皇后が嵯峨野に創建した日本最初の禅寺
法要:仏法のかなめ。仏の教えの大切な要点。
所悟:悟るところ。悟ること。
斎安国師:中国禅宗の高僧。『景徳伝灯録』巻七の伝記には生没年の記載はない。
仏乗:自分が仏になるとともに、他をも悟りに至らせる教法。大乗。菩薩乗。

【解説】
 1人目は、日本で初めて禅寺を建立し、禅僧を中国から招いて日本禅宗史の出発点となった檀林皇后です。歌意自体は平易ですが、禅的な含意は難解で、この世の全てが仏法の因果の理に支配されていて、根本においては何の区別もないことを詠んでいるのであろうと思います。
 斎安国師は臨済宗の基礎を作った高僧・馬祖道一の高弟で、義空の師としてその日本行きを勧めた人物です。ただここでの逸話はおそらくはフィクションでしょう。
 檀林皇后の遺骸処置については、「檀林皇后九相図絵」として描かれ、現存しています。同図絵は、京都市東山区の西福寺で、毎年夏に一般公開されています。

【追記】2020.10.13
 本章の歌と解説の出典の一つが判明しました。
 中古の歌物語の一つ、『女郎花物語』です。国立国会図書館デジタルコレクションにある『新註女郎花物語』(1927年刊・鳥野幸次著)15/155にあります。本章はほぼその要約と言えます。

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【翻字】
栄西禅師(ゑいさいぜんじ)
奥山(をくやま)の 杉(すぎ)の むらだち ともすれば おのが身(み)よりぞ 火(ひ)を出(いだ)しける
〇師(し)名(な)は栄西号は明菴(みやうあん)初(はじ)め台(たい) 密(みつ)の蘊奥を究(きはめ)後(のち)宋国(そうこく)に入(いる)事 両回(りやうくはい)疫病(ゑきびやう)を除(のぞき)て其徳(そのとく)を顕(あらは)す 宋帝(そうてい)感(かん)じて千光(せんくはう)の号を給(たま)ふ 虚菴敞(きよあんのせう)禅師に法(はふ)を嗣(つぎ)帰朝(きてう)して寿福聖福建仁の三寺を開(ひらく) 是日本禅宗弘通(ぐづう)の始(はじめ)也茶(ちや)の実(み) を採(とり)来り初(はじめ)て筑前背振山に植(うへ) 且(かつ)喫茶養生記(きつさようじやうき)を著(あらは)して茶(ちや) の功(こう)を賞(しよう)せらる本朝茶(ちや)を用(もちゆ)る 事もまた師(し)を権輿(はじめ)とす建保(けんほ) 三年微疾(びしつ)を示(しめ)し遂(つい)に初秋五 日示寂(じじやく)せらる時に春秋(しゆんじう)七十五也 △此哥は自業自得(じごうじとく)の心をよみ 給ひし也

【校訂本文】
 栄西禅師
 奥山の 杉の群立ち ともすれば 己が身よりぞ 火を出だしける
〇師、名は栄西、号は明菴。
 初め、台密の蘊奥を究め、後、宋国に入る事両回、疫病を除きてその徳を顕す。宋帝、感じて「千光」の号を給ふ。虚菴(懐)敞禅師に法を嗣ぎ、帰朝して、寿福・聖福・建仁の三寺を開く。これ、日本禅宗弘通の始めなり。
 茶の実を採り来(きた)り、初めて筑前背振山に植へ、且、『喫茶養生記』を著して、茶の功を賞せらる。本朝、茶を用る事もまた、師を権輿とす。
 建保三年、微疾を示し、遂に初秋五日、示寂せらる。時に春秋七十五なり。
 △この歌は、自業自得の心を詠み給ひしなり

【語釈】
むらだち:群がって生えていること
台密:日本天台宗の密教のこと
宋国に入事両回:1度目は仁安3年(1168年)、2度目は文治3年(1187年)~建久2年(1191年)。
疫病を除て~千光の号を給ふ:聖福寺の栄西禅師年表によると、文治4年(1188年)「疫病退散の祈祷、雨祈祷により南宋の孝宗より「千光」の号を賜る」とある。
虚菴敞:虚菴懐敞。中国の禅僧。栄西の師。
寿福:寿福寺。正治2年(1200年)、北条政子の創建した禅寺。鎌倉五山の一。
聖福:聖福寺。建久6年(1195年)、源頼朝の寄進により創建された日本最初の禅寺
建仁:建仁寺。建仁2年(1202年)源頼家の創建した禅寺。京都五山の一。
弘通:教法・経典をあまねく世にひろめること
実:植物の種子
初て筑前背振山に植:この山の中腹にあった霊仙寺に栄西がいた建久2年(1191年)の事績とされる
権輿:物事の始まり。事の起こり。発端。
建保三年:1215年

【解説】
 2人目は日本臨済宗の開祖・栄西明菴です。歌意は紹介文にある通りで、山林の自然発火現象を詠むことで、人が集団の中でいがみ合うなどして災いを招くことを戒めています。
 紹介文の前半は日本で禅宗を開いた宗教的事績の紹介ですが、後半は飲茶を日本に広めたという非宗教的事績の紹介であり、序には言及されていなかった本書の持つもう一つの側面、すなわち一般教養書的な性格が明瞭に認められます。

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【翻字】
明慧上人(みやうゑしやうにん)
いつまでか 明(あけ)ぬ くれぬと いとなまん 身(み)は限(かぎ)りあり 事(こと)は尽(つき)せず
〇師名は高弁(かうべん)号は明慧幼ふし て父母をうしなひ高尾に登(のぼり)て 薙髪(ちはつ)す然(しかつ)しより深山(しんざん)の岩上(がんじやう) に静坐(せいざ)しまた栄西に見(まみへ)て禅 要を究(きは)め達磨(だるま)大師の講式(かうしき)を 述作(じゆつさく)せらるまた春日神君(かすがしんくん)常に 師(し)が室(しつ)に来遊(らいゆ)し給ふといへり 建永(けんゑい)元年栂尾(とがのを)を開きて賢首(げんじゆ) 宗(しう)を中興(ちうこう)し同四年正月十九日 慈氏(じし)の宝号(ほうごう)を唱(とな)へ右脇(うけう)にし て化(け)す春秋六十才也

【校訂本文】
 明慧上人
 いつまでか 明けぬ暮れぬと 営まん 身は限りあり 事は尽きせず
〇師、名は高弁、号は明慧。幼ふして父母を失ひ、高尾に登りて薙髪す。然つしより、深山の岩上に静坐し、また栄西に見へて禅要を究め、達磨大師の講式を述作せらる。また「春日神君、常に師が室に来遊し給ふ」といへり。
 建永元年、栂尾を開きて、賢首宗を中興し、同四年正月十九日、慈氏の宝号を唱へ、右脇にして化す。春秋六十才なり。

【語釈】
薙髪:髪をそり落とすこと。剃髪。
禅要:「要」は「もと、かなめ」の意
達磨大師:6世紀初頭にインドから中国に渡り、中国禅宗を開いた
講式:仏教法会の儀式次第。特に仏・菩薩、祖師などの徳を講讃する儀式。
春日神君:春日大社の祀る春日神4神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神)
栂尾:高山寺を指す
賢首宗:華厳宗の別称。賢首は唐の賢首大師法蔵であり、華厳宗の第3祖。
慈氏:弥勒菩薩の異称。慈氏尊。
宝号:仏・菩薩(ぼさつ)の名
右脇:右脇臥。僧侶の寝る姿勢。右わきを下にして臥し、足を重ねる。

【解説】
 3人目は明慧高弁です。明慧は華厳宗を中興した僧であり、禅僧ではありませんが、栄西と交流があり、栄西からその修行実践を高く評価されていて、請われてその弟子を引き受けていたほどでした。それを編者が認めて採用したものと思われます。
 歌は、修行実践を重視した、いかにも明慧らしい歌意です。在世当時から今に至るまで、同時代で(後鳥羽上皇・西行・北条泰時・九条兼実・建礼門院徳子)、そして後世でも多くの人の尊崇敬愛を受けてきた明慧。禅宗の僧でなくとも本書にふさわしいといえます。

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【翻字】
道元和尚(だうげんくわしやう)
水鳥(みづとり)の ゆくも かへるも 跡(あと)きえて されども道は 忘(わす)れざりけり
〇師名は道元号は希玄(きげん)久我(くが) 通忠卿(みちたゞきやう)の子(こ)なり十三にて叡山(ゑいさん)に 登(のぼ)りて出家(しゆつけ)せらる后(のち)宋国(そうこく)に渡(わた) つてあまねく諸(しよ)師に参(さん)じ遂(つひ)に 天童如浄(てんどうのによじやう)禅師に法を伝(つた)へ帰(かへ)り 来(きたつ)て興聖永平の二寺を開創(かいそう)す建長五年八月廿八日寿五十 四にて化(け)す勅(ちよく)して仏法(ぶつはふ)禅師と 諡(おくりな)す師(し)宋(そう)にありし時一夜(いちや)荒村(くはうそん) に宿(しゆく)するに一の虎(とら)来(きたつ)て害(がい)を加(くわ)へん とす時(とき)に師(し)が杖(しゆじやう)忽(たちま)ち竜(りやう)と化(け)し て虎(とら)を逐退(おいしりぞ)けしとなん今も 虎(とら)はねの拄杖と号し本山(ほんざん)の 什宝(しうはう)たり

【校訂本文】
 道元和尚
 水鳥の 行くも帰るも 跡消えて されども道は 忘れざりけり
 〇師、名は道元、号は希玄、久我通忠卿の子なり。十三にて叡山に登りて、出家せらる。後、宋国に渡つて、あまねく諸師に参じ、遂に天童如浄禅師に法を伝へ、帰り来たつて、興聖・永平の二寺を開創す。建長五年八月廿八日、寿五十四にて化す。勅して仏法禅師と諡す。
 師、宋にありし時、一夜、荒村に宿するに、一の虎来たつて、害を加へんとす。時に、師が拄杖、忽ち竜と化して、虎を逐い退けしとなん。今も、「虎はねの拄杖」と号し、本山の什宝たり。

【語釈】
久我通忠:鎌倉時代中期の公卿。正二位大納言。但し道元の出生については現在のところ定説はない。
天童如浄:中国曹洞宗の禅僧。
興聖:興聖寺。天福元年(1233年)に道元が創建した日本最初の曹洞宗寺院。
永平:永平寺。寛元2年(1244年)に道元が創建。總持寺と並び日本曹洞宗本山。
勅して仏法禅師と諡す:建長2年(1250年)、後嵯峨上皇により下賜された。但し「諡」は「死者に贈る名」であり、事実とは異なる。
拄杖:禅僧が行脚のときに用いるつえ(「拄」は手偏に主)
什宝:家宝として秘蔵する器物

【解説】
 4人目は希玄道元です。紹介文の前半はその略歴、後半は「虎はねの拄杖(しゅじょう)」の逸話の紹介です。「虎はねの拄杖」の逸話自体は、15世紀後半に編集された道元の伝記『建撕記』に見えます。しかし本書の内容は、宝暦4年(1754)刊の『訂補建撕記』のものであり、『建撕記』とは異なる内容のものです。『訂補建撕記』には「祖師の在世には知るものなかりき」とあり、事実性の疑わしい逸話と言えます。
 和歌は『建撕記』に見え、その詞書に「應無所住而生其心を詠む」とあります。「応(まさ)に住する所無くして而(しか)も其の心を生ずべし」は般若経典の一つ、『金剛経』にある言葉で、絶えず変化する心の本質を言う言葉です。確かに上の句の意味はそうですが、「道」が仏道であるとすると、歌全体としての歌意は「絶えず変化する心ではあるが、仏道心は変わらず存在する」となり、むしろ、人は誰しも仏になり得る本姓を持つという「仏性」を詠んだと考えるべきです。『建撕記』を編集したのは永平寺14世の建撕です。『金剛経』は曹洞宗が重視する経典です。建撕にすれば、祖師道元の詠んだ歌を『金剛経』に関係づけたかったのでしょう。関係が弱いからこそ、詞書が書き加えられたのでしょう。しかし、禅宗は元来、「仏性」を前提とした宗派です。人には皆仏性が備わっているからこそ、座禅によって悟りが得られるというのが禅宗の立場です。道元のこの歌を、仏性を詠んだと単純に解釈しても、何もおかしくはないはずです。

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【翻字】
法灯国師(ほつとうこくし)
何事(なにごと)も 夢(ゆめ)まぼ ろしと さとりては 現(うつゝ)なき世(よ)の 住居(すまゐ)也けり
〇師名は覚心(かくしん)号は心地(しんち)初め東大寺 の檀(だん)に登(のぼ)り又高野(かうや)に密法(みつはふ)を学ぶ 后宋国に入て無門開(むもんのかい)公に印記(いんき)を 受(うけ)帰朝(きちう)して紀州鷲峯(じゆほう)西芳寺を 開(ひら)く其地元(もと)より妖魅(ようみ)有て人を悩(なや) ます師悉く之(これ)を降伏す又宋国に 有時五台(だい)山に登(のぼ)るに文殊(もんじゆ)出現して藕(はす) 糸(いと)の袈裟(けさ)を授(さづく)帰朝の後いせの神祠(やしろ)に 詣す太神宮来現して其けさを求め 給ふ師則(すなはち)之を献ず其余平日の霊(れい) 感(かん)しるすにいとまあらず永仁六年十月 十二日寿九十三にして化す 勅して法灯国師と諡す

【校訂本文】
 法灯国師
 何事も 夢幻と 悟りては 現なき世の 住居なりけり
 〇師、名は覚心、号は心地。初め東大寺の檀に登り、又、高野に密法を学ぶ。後、宋国に入りて、無門開公に印記を受け、帰朝して、紀州鷲峯西芳寺を開く。その地、元より妖魅有りて、人を悩ます。師、悉くこれを降伏す。
 又、宋国に有る時、五台山に登るに、文殊出現して、藕糸の袈裟を授く。帰朝の後、伊勢の神祠に詣す。太神宮来現して、その袈裟を求め給ふ。師、則ちこれを献ず。その余、平日の霊感、記すに暇あらず。
 永仁六年十月十二日、寿九十三にして化す。勅して法灯国師と諡す。

【語釈】
無門開公:無門慧開。中国の臨済宗の僧。
印記:ここでは、禅宗で師僧が弟子に法を授けて悟りを得たことを証明・認可する印可状を書くこと
鷲峯西芳寺:鷲峯山西方寺。正嘉2年(1258年)、心地覚心を開山として創建。
妖魅:あやしいばけもの。妖怪。
降伏(ごうぶく):神仏の力や法力によって悪魔や敵を防ぎおさえること。調伏。
五台山:中国山西省にあり、5・6世紀に多数の仏教寺院が建立された。文殊菩薩の聖地とされる。
藕:はす(蓮)。「藕糸」はハスの茎や根の繊維。ハスの茎や根を折ったときに出る糸。
いせの神祠:伊勢神宮
平日:ふだん。平生。平素。
霊感:神仏が示す霊妙な感応
勅して法灯国師と諡す:亀山上皇、後醍醐天皇によりなされた

【解説】
 5人目は心地覚心、日本禅宗の一派・普化宗の祖とされる臨済宗の禅僧です。紹介文の前半は華厳宗・真言宗を学んだ後、渡宋して臨済禅の印可を受けたことをまとめ、後半は一転してその霊異譚をまとめています。
 歌は意味が取りにくいのですが、下の句が現生を詠んだものと考えると、「こうして生きているのはかりそめである」という、無常を詠んだ歌意であるとほぼ了解できます。

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