【翻字】
檀林皇后(だんりんくはうごう)
檀林皇后(だんりんくはうごう)
もろこしの 山(やま)の あな た に たつ雲(くも)は こゝにたく火(ひ)の けむり也けり
〇聖后(せいこう)御諱(いみな)は嘉智子(かちし)人王五十二 代嵯峨帝(さがてい)の后(きさき)也篤(あつ)く禅法を信(しん) じ唐国(たうごく)の義空(ぎくう)禅師を檀林寺に迎(むか) へて法要(はふよう)を尋(たづ)ね遂(つひ)に所悟(しよご)あり て此うたを詠(ゑい)じ給ふ唐土(もろこし)の斎安(さいあん) 国師(こくし)はるかにその哥を聞(きい)て深(ふか)く 仏乗(ふつじよう)を得(え)たる人なりと感(かん)ぜられし とぞ嘉祥(かじよう)二年寿(ことぶき)六十五にして崩(ほう) じ給ふ御遺語(ごゆいご)ありて尊骸(そんがゐ)をさが
野に捨(すて)しめ容色変(ようしよくへん)じて乱穢(らんゑ)の 姿(すがた)をしめし人をして愛着(あいぢやく)の念 を断(たゝ)しめ給へり又御哥に われ死(し)なば焼(やく)な埋(うづ)むな野(の)に 捨(すて)てやせたる犬の腹(はら)を肥(こや)せよ
野に捨(すて)しめ容色変(ようしよくへん)じて乱穢(らんゑ)の 姿(すがた)をしめし人をして愛着(あいぢやく)の念 を断(たゝ)しめ給へり又御哥に われ死(し)なば焼(やく)な埋(うづ)むな野(の)に 捨(すて)てやせたる犬の腹(はら)を肥(こや)せよ
【校訂本文】
檀林皇后(だんりんくはうごう)
唐土の 山のあなたに 立つ雲は ここに焚く火の 煙なりけり
聖后(せいこう)、御諱(いみな)は嘉智子(かちし)。人王五十二代・嵯峨帝の后(きさき)なり。
篤く禅法を信じ、唐国の義空禅師を檀林寺に迎へて、法要を尋ね、遂に所悟ありて、この歌を詠じ給ふ。唐土(もろこし)の斎安国師、遥かにその歌を聞いて、「深く仏乗を得たる人なり」と感ぜられしとぞ。嘉祥二年、寿六十五にして崩じ給ふ。御遺語ありて、尊骸を嵯峨野に捨てしめ、容色変じて乱穢の姿を示し、人をして愛着の念を断たしめ給へり。
又、御歌に、
我死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 痩せたる犬の 腹を肥やせよ
篤く禅法を信じ、唐国の義空禅師を檀林寺に迎へて、法要を尋ね、遂に所悟ありて、この歌を詠じ給ふ。唐土(もろこし)の斎安国師、遥かにその歌を聞いて、「深く仏乗を得たる人なり」と感ぜられしとぞ。嘉祥二年、寿六十五にして崩じ給ふ。御遺語ありて、尊骸を嵯峨野に捨てしめ、容色変じて乱穢の姿を示し、人をして愛着の念を断たしめ給へり。
又、御歌に、
我死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 痩せたる犬の 腹を肥やせよ
【語釈】
檀林皇后:橘嘉智子(たちばなのかちこ)。第52代・嵯峨天皇(在位:大同4年(809年)~弘仁14年(823年))の皇后。
義空:唐の禅僧。承和14年(847年)来日し、檀林寺の開基となる。
檀林寺:承和年間(834年~848年)に檀林皇后が嵯峨野に創建した日本最初の禅寺
法要:仏法のかなめ。仏の教えの大切な要点。
所悟:悟るところ。悟ること。
斎安国師:中国禅宗の高僧。『景徳伝灯録』巻七の伝記には生没年の記載はない。
仏乗:自分が仏になるとともに、他をも悟りに至らせる教法。大乗。菩薩乗。
義空:唐の禅僧。承和14年(847年)来日し、檀林寺の開基となる。
檀林寺:承和年間(834年~848年)に檀林皇后が嵯峨野に創建した日本最初の禅寺
法要:仏法のかなめ。仏の教えの大切な要点。
所悟:悟るところ。悟ること。
斎安国師:中国禅宗の高僧。『景徳伝灯録』巻七の伝記には生没年の記載はない。
仏乗:自分が仏になるとともに、他をも悟りに至らせる教法。大乗。菩薩乗。
【解説】
1人目は、日本で初めて禅寺を建立し、禅僧を中国から招いて日本禅宗史の出発点となった檀林皇后です。歌意自体は平易ですが、禅的な含意は難解で、この世の全てが仏法の因果の理に支配されていて、根本においては何の区別もないことを詠んでいるのであろうと思います。
斎安国師は臨済宗の基礎を作った高僧・馬祖道一の高弟で、義空の師としてその日本行きを勧めた人物です。ただここでの逸話はおそらくはフィクションでしょう。
檀林皇后の遺骸処置については、「檀林皇后九相図絵」として描かれ、現存しています。同図絵は、京都市東山区の西福寺で、毎年夏に一般公開されています。
【追記】2020.10.13
本章の歌と解説の出典の一つが判明しました。
中古の歌物語の一つ、『女郎花物語』です。国立国会図書館デジタルコレクションにある『新註女郎花物語』(1927年刊・鳥野幸次著)15/155にあります。本章はほぼその要約と言えます。