江戸期版本を読む

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カテゴリ:和歌集 > 道歌心の策(禅林五十人一首)

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【翻字】
明慧上人(みやうゑしやうにん)
いつまでか 明(あけ)ぬ くれぬと いとなまん 身(み)は限(かぎ)りあり 事(こと)は尽(つき)せず
〇師名は高弁(かうべん)号は明慧幼ふし て父母をうしなひ高尾に登(のぼり)て 薙髪(ちはつ)す然(しかつ)しより深山(しんざん)の岩上(がんじやう) に静坐(せいざ)しまた栄西に見(まみへ)て禅 要を究(きは)め達磨(だるま)大師の講式(かうしき)を 述作(じゆつさく)せらるまた春日神君(かすがしんくん)常に 師(し)が室(しつ)に来遊(らいゆ)し給ふといへり 建永(けんゑい)元年栂尾(とがのを)を開きて賢首(げんじゆ) 宗(しう)を中興(ちうこう)し同四年正月十九日 慈氏(じし)の宝号(ほうごう)を唱(とな)へ右脇(うけう)にし て化(け)す春秋六十才也

【校訂本文】
 明慧上人
 いつまでか 明けぬ暮れぬと 営まん 身は限りあり 事は尽きせず
〇師、名は高弁、号は明慧。幼ふして父母を失ひ、高尾に登りて薙髪す。然つしより、深山の岩上に静坐し、また栄西に見へて禅要を究め、達磨大師の講式を述作せらる。また「春日神君、常に師が室に来遊し給ふ」といへり。
 建永元年、栂尾を開きて、賢首宗を中興し、同四年正月十九日、慈氏の宝号を唱へ、右脇にして化す。春秋六十才なり。

【語釈】
薙髪:髪をそり落とすこと。剃髪。
禅要:「要」は「もと、かなめ」の意
達磨大師:6世紀初頭にインドから中国に渡り、中国禅宗を開いた
講式:仏教法会の儀式次第。特に仏・菩薩、祖師などの徳を講讃する儀式。
春日神君:春日大社の祀る春日神4神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神)
栂尾:高山寺を指す
賢首宗:華厳宗の別称。賢首は唐の賢首大師法蔵であり、華厳宗の第3祖。
慈氏:弥勒菩薩の異称。慈氏尊。
宝号:仏・菩薩(ぼさつ)の名
右脇:右脇臥。僧侶の寝る姿勢。右わきを下にして臥し、足を重ねる。

【解説】
 3人目は明慧高弁です。明慧は華厳宗を中興した僧であり、禅僧ではありませんが、栄西と交流があり、栄西からその修行実践を高く評価されていて、請われてその弟子を引き受けていたほどでした。それを編者が認めて採用したものと思われます。
 歌は、修行実践を重視した、いかにも明慧らしい歌意です。在世当時から今に至るまで、同時代で(後鳥羽上皇・西行・北条泰時・九条兼実・建礼門院徳子)、そして後世でも多くの人の尊崇敬愛を受けてきた明慧。禅宗の僧でなくとも本書にふさわしいといえます。

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【翻字】
道元和尚(だうげんくわしやう)
水鳥(みづとり)の ゆくも かへるも 跡(あと)きえて されども道は 忘(わす)れざりけり
〇師名は道元号は希玄(きげん)久我(くが) 通忠卿(みちたゞきやう)の子(こ)なり十三にて叡山(ゑいさん)に 登(のぼ)りて出家(しゆつけ)せらる后(のち)宋国(そうこく)に渡(わた) つてあまねく諸(しよ)師に参(さん)じ遂(つひ)に 天童如浄(てんどうのによじやう)禅師に法を伝(つた)へ帰(かへ)り 来(きたつ)て興聖永平の二寺を開創(かいそう)す建長五年八月廿八日寿五十 四にて化(け)す勅(ちよく)して仏法(ぶつはふ)禅師と 諡(おくりな)す師(し)宋(そう)にありし時一夜(いちや)荒村(くはうそん) に宿(しゆく)するに一の虎(とら)来(きたつ)て害(がい)を加(くわ)へん とす時(とき)に師(し)が杖(しゆじやう)忽(たちま)ち竜(りやう)と化(け)し て虎(とら)を逐退(おいしりぞ)けしとなん今も 虎(とら)はねの拄杖と号し本山(ほんざん)の 什宝(しうはう)たり

【校訂本文】
 道元和尚
 水鳥の 行くも帰るも 跡消えて されども道は 忘れざりけり
 〇師、名は道元、号は希玄、久我通忠卿の子なり。十三にて叡山に登りて、出家せらる。後、宋国に渡つて、あまねく諸師に参じ、遂に天童如浄禅師に法を伝へ、帰り来たつて、興聖・永平の二寺を開創す。建長五年八月廿八日、寿五十四にて化す。勅して仏法禅師と諡す。
 師、宋にありし時、一夜、荒村に宿するに、一の虎来たつて、害を加へんとす。時に、師が拄杖、忽ち竜と化して、虎を逐い退けしとなん。今も、「虎はねの拄杖」と号し、本山の什宝たり。

【語釈】
久我通忠:鎌倉時代中期の公卿。正二位大納言。但し道元の出生については現在のところ定説はない。
天童如浄:中国曹洞宗の禅僧。
興聖:興聖寺。天福元年(1233年)に道元が創建した日本最初の曹洞宗寺院。
永平:永平寺。寛元2年(1244年)に道元が創建。總持寺と並び日本曹洞宗本山。
勅して仏法禅師と諡す:建長2年(1250年)、後嵯峨上皇により下賜された。但し「諡」は「死者に贈る名」であり、事実とは異なる。
拄杖:禅僧が行脚のときに用いるつえ(「拄」は手偏に主)
什宝:家宝として秘蔵する器物

【解説】
 4人目は希玄道元です。紹介文の前半はその略歴、後半は「虎はねの拄杖(しゅじょう)」の逸話の紹介です。「虎はねの拄杖」の逸話自体は、15世紀後半に編集された道元の伝記『建撕記』に見えます。しかし本書の内容は、宝暦4年(1754)刊の『訂補建撕記』のものであり、『建撕記』とは異なる内容のものです。『訂補建撕記』には「祖師の在世には知るものなかりき」とあり、事実性の疑わしい逸話と言えます。
 和歌は『建撕記』に見え、その詞書に「應無所住而生其心を詠む」とあります。「応(まさ)に住する所無くして而(しか)も其の心を生ずべし」は般若経典の一つ、『金剛経』にある言葉で、絶えず変化する心の本質を言う言葉です。確かに上の句の意味はそうですが、「道」が仏道であるとすると、歌全体としての歌意は「絶えず変化する心ではあるが、仏道心は変わらず存在する」となり、むしろ、人は誰しも仏になり得る本姓を持つという「仏性」を詠んだと考えるべきです。『建撕記』を編集したのは永平寺14世の建撕です。『金剛経』は曹洞宗が重視する経典です。建撕にすれば、祖師道元の詠んだ歌を『金剛経』に関係づけたかったのでしょう。関係が弱いからこそ、詞書が書き加えられたのでしょう。しかし、禅宗は元来、「仏性」を前提とした宗派です。人には皆仏性が備わっているからこそ、座禅によって悟りが得られるというのが禅宗の立場です。道元のこの歌を、仏性を詠んだと単純に解釈しても、何もおかしくはないはずです。

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【翻字】
法灯国師(ほつとうこくし)
何事(なにごと)も 夢(ゆめ)まぼ ろしと さとりては 現(うつゝ)なき世(よ)の 住居(すまゐ)也けり
〇師名は覚心(かくしん)号は心地(しんち)初め東大寺 の檀(だん)に登(のぼ)り又高野(かうや)に密法(みつはふ)を学ぶ 后宋国に入て無門開(むもんのかい)公に印記(いんき)を 受(うけ)帰朝(きちう)して紀州鷲峯(じゆほう)西芳寺を 開(ひら)く其地元(もと)より妖魅(ようみ)有て人を悩(なや) ます師悉く之(これ)を降伏す又宋国に 有時五台(だい)山に登(のぼ)るに文殊(もんじゆ)出現して藕(はす) 糸(いと)の袈裟(けさ)を授(さづく)帰朝の後いせの神祠(やしろ)に 詣す太神宮来現して其けさを求め 給ふ師則(すなはち)之を献ず其余平日の霊(れい) 感(かん)しるすにいとまあらず永仁六年十月 十二日寿九十三にして化す 勅して法灯国師と諡す

【校訂本文】
 法灯国師
 何事も 夢幻と 悟りては 現なき世の 住居なりけり
 〇師、名は覚心、号は心地。初め東大寺の檀に登り、又、高野に密法を学ぶ。後、宋国に入りて、無門開公に印記を受け、帰朝して、紀州鷲峯西芳寺を開く。その地、元より妖魅有りて、人を悩ます。師、悉くこれを降伏す。
 又、宋国に有る時、五台山に登るに、文殊出現して、藕糸の袈裟を授く。帰朝の後、伊勢の神祠に詣す。太神宮来現して、その袈裟を求め給ふ。師、則ちこれを献ず。その余、平日の霊感、記すに暇あらず。
 永仁六年十月十二日、寿九十三にして化す。勅して法灯国師と諡す。

【語釈】
無門開公:無門慧開。中国の臨済宗の僧。
印記:ここでは、禅宗で師僧が弟子に法を授けて悟りを得たことを証明・認可する印可状を書くこと
鷲峯西芳寺:鷲峯山西方寺。正嘉2年(1258年)、心地覚心を開山として創建。
妖魅:あやしいばけもの。妖怪。
降伏(ごうぶく):神仏の力や法力によって悪魔や敵を防ぎおさえること。調伏。
五台山:中国山西省にあり、5・6世紀に多数の仏教寺院が建立された。文殊菩薩の聖地とされる。
藕:はす(蓮)。「藕糸」はハスの茎や根の繊維。ハスの茎や根を折ったときに出る糸。
いせの神祠:伊勢神宮
平日:ふだん。平生。平素。
霊感:神仏が示す霊妙な感応
勅して法灯国師と諡す:亀山上皇、後醍醐天皇によりなされた

【解説】
 5人目は心地覚心、日本禅宗の一派・普化宗の祖とされる臨済宗の禅僧です。紹介文の前半は華厳宗・真言宗を学んだ後、渡宋して臨済禅の印可を受けたことをまとめ、後半は一転してその霊異譚をまとめています。
 歌は意味が取りにくいのですが、下の句が現生を詠んだものと考えると、「こうして生きているのはかりそめである」という、無常を詠んだ歌意であるとほぼ了解できます。

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【翻字】
大覚禅師(だいかくぜんじ)
年毎(としごと)に さくや よし野の 山ざくら 樹(き)を割(わり)て みよ花のあるかは
〇師名は道隆(だうりう)号は蘭渓(らんけい)宋国(そうこく) 西蜀の人にて無明性(むめうのせい)公の法嗣(はつす)也後(こ) 嵯峨(さが)帝の寛元四年海を越(こへ)て本(ほん) 朝(ちう)に来る北条時頼(ときより)建長(けんちやう)寺を営(いとな)み 師を請(しよう)じて開山とす弘安元年七月 廿四日寂す勅して大覚禅師と諡 すこれ本朝禅師号を給(たま)ふの始也 滅後(めつご)師(し)が所持(しよぢ)の鏡(かゞみ)を拝(はい)するに観(くはん) 音(おん)の妙相(めうさう)顕然(げんぜん)と備(そなは)る時頼(ときより)孩歎(がいたん)の 余り円覚(ゑんがく)寺に大悲閣(だいひかく)を建(たて)て霊鏡(れいきやう) を其中に納(おさ)む応安七年円覚寺に 火災あり然れども霊鏡少しも損(そん)ぜず 今現に建長の宝庫(ほうこ)にありと云々

【校訂本文】
 大覚禅師
 年ごとに 咲くや吉野の 山桜 樹を割りてみよ 花のあるかは
〇師、名は道隆、号は蘭渓。宋国・西蜀の人にて。無明性公の法嗣なり。後嵯峨帝の寛元四年、海を越へて本朝に来たる。北条時頼、建長寺を営み、師を請じて開山とす。弘安元年七月廿四日、寂す。勅して大覚禅師と諡す。これ、本朝、禅師号を給ふの始めなり。
 滅後、師が所持の鏡を拝するに、観音の妙相、顕然と備はる。時頼、孩歎の余り、円覚寺に大悲閣を建てて、霊鏡をその中に納む。応安七年、円覚寺に火災あり。然れども、霊鏡少しも損ぜず。今、現に建長の宝庫にあり、と、云々。

【語釈】
西蜀:いわゆる「蜀」と同義。四川盆地。
無明性公:無明慧性。中国臨済宗の禅僧。
法嗣:師から仏法の奥義を受け継いだ者
後嵯峨帝:第88代天皇(在位:仁治3年(1242年)~寛元4年(1246年))
北条時頼:鎌倉幕府第5代執権
建長寺:建長5年(1253年)創建。開基は北条時頼、開山は蘭渓道隆。鎌倉五山第一位。
弘安元年:1278年
勅して大覚禅師と諡す:寂後79年の延文2年/正平12年(1357年)勅諡された
孩歎:「慨歎」か
円覚寺:弘安5年(1282年)、8代執権北条時宗により創建された臨済宗の禅寺。従って、ここの記述は誤り。
応安七年:1374年。この年、円覚寺は大火に見舞われている。

【解説】
 6人目は鎌倉・建長寺の開山となった中国人僧の蘭渓道隆です。紹介文の前半はその略歴、後半は鏡をめぐる奇瑞と、3人目の明恵以来、後半に霊験奇瑞譚を置くのが一つの形になっています。
 歌意は平明です。「桜の木に毎年桜の花が咲くが、樹を割って見ても中に花はない。人の中にある仏性も同じだ」。それにしてもこの中国人僧は和歌を詠んだのでしょうか。30年以上日本にいたといっても、正直なところ信じられません。
【解説追記(20221225)】
 鏡について、『新編相模国風土記稿』(国会図書館D.C.)「鎌倉郡巻之十 円覚寺 西来庵 昭堂」に、「時宗奇瑞ヲ感シ乞取テ是ヲ秘蔵シ鹿山ノ山門楼中ニ安ス」(校訂者注:鹿山は円覚寺を指します)と見えます。時頼は誤り、大悲閣は確認できませんでしたが、他は『新編相模国風土記稿』に記載があり、西来庵・昭堂は現在します。
『新編相模国風土記稿』所載の鏡図 「観音の妙相」

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【翻字】
法心上人(ほつしんしやうにん)
あしなくて 雲(くも)の はしるも あやしきに 何(なに)をふまへて 霞(かすみ)たつらん
〇師名は法心(ほつしん)号は性才(せいさい)元(もと)より 文字(もんじ)をしらず中年にして 俗(ぞく)をはなれ宋(そう)に渡(わた)つて径山(けいざん)の 無準(ぶしゆん)禅師に参す準円相(ゑんさう)の 中に丁(てい)の字を書(かき)て示さる 師これを工夫(くふう)して骨臀(ほねもゝにく)はれ たゞるといへども尚倦(うま)ず九寒暑(くかんしよ) を経(へ)て遂(つい)に悟入(ごにう)す辞(じ)し帰(かへ)つ て奥州松島に円福寺をひら く師其死期(しご)を知つて七日前に 其徒(そのと)にしめし期に至(いたつ)て端(たん) 坐(ざ)して化す  朝廷其徳を 称(せう)して法心法身国師と 号をたまふ

【校訂本文】
 法心上人
 足なくて 雲の走るも 怪しきに 何を踏まへて 霞立つらん
 〇師、名は法心、号は性才。元より文字を知らず。中年にして、俗を離れ、宋に渡つて、径山の無準禅師に参す。準、円相の中に丁の字を書きて示さる。師、これを工夫して、骨・臀腫れ、爛るといへども、なを倦まず、九寒暑を経て、遂に悟入す。辞し帰つて、奥州松島に円福寺を開く。
 師、その死期を知つて、七日前にその徒に示し、期に至つて、端坐して化す。朝廷、その徳を称して、「法心法身国師」と号を賜ふ。

【語釈】
径山(きんざん):中国浙江省にある山。ここでは径山寺を指す。当時有名な禅の修行場であり、6の心地覚心が無門慧海から印可を受けたのもここであった。
無準禅師:無準師範。中国南宋の臨済宗の禅僧。径山万寿寺第34世として、日本から渡った多くの僧を指導した。
工夫:仏道修行などに専念すること。特に禅宗で、座禅に専心すること。
九寒暑:「九年」の意
円福寺:瑞巌寺を指す。平安時代に天台宗延福寺として創建された後、鎌倉時代、時の執権北条時頼により法心性才を開山として臨済宗円福寺とされ、江戸時代、仙台藩主伊達政宗により臨済宗瑞巌寺として再興された。

【解説】
 7人目は性才法心です。松島・瑞巌寺の前身・円福寺の開山です。紹介文の前半は略歴、後半に座禅の姿勢で遷化入寂した様子が書かれています。
 法心性才については東日本各地に逸話と遺跡が伝わっています。茨城県には出生と出家前の逸話、宮城県には瑞巌寺法身窟、青森県には法身塚です。松尾芭蕉が『奥の細道』に「十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して、入唐帰朝の後開山す」と書いていますが、平四郎は法心性才の俗名、真壁はその生地を指しています。
 歌は言葉遊びによるもので、仏教との関係はよくわかりません。

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