江戸期版本を読む

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カテゴリ: 【調査研究】三重県最古の寺子屋・修天爵書堂

 「まだ私が娘時分の時でした。亡くなった父が『空襲で焼けた入江町(いりえまち)の家は、築二百年以上は経っていた』と語りました」
 藪本治子さんがそう語るのを聞いて、目の前にある手書きの間取図を見ながら、私はその家が建てられた時期を頭の中で計算していました。「すると、1945年の二百年以上前なら、18世紀前半か。政胤(まさたね)の生きていた頃に近いな。江戸中期の初め頃か。すると…」。ぼんやりと考えながら、徐々に「これはひょっとして、すごく貴重なものかもしれない」と気付き始めていました。よく見ると、普通の間取りではありません。南北に和室が二列並んでいますが、中央に押し入れや床の間が配置され、東側の三部屋と西側の四部屋が画然と分けられています。東西をつなぐ通路は北の端の廊下と中央の二カ所にありますが、中央のそれには(段差)と書き込まれています。敷地は津市の中心部で、フラットな土地であり、段差も地形によるものではありません。和室はふつう、隣り合って配置されることが多く、仕切りの襖等を外せば広間として使えるように設計されるものです。あるいは中央に廊下を配して、両側の部屋に入れるようになっている場合もあります。ところが、この家は中央に障壁を作って、あえて東西を分離しようとしている意図が見て取れます。普通の民家であれば、こういう設計はまずしません。
 「これ、最初から寺子屋として建てたんじゃないでしょうか」。私は藪本さんに言いました。「もしそうなら、信之介(のぶのすけ)の書いた『慶長年間から寺子屋をしていた』という回答には、信ぴょう性が出てきます。空襲で物証はすべて焼失しましたが、この間取り図は、二次資料とはいえ、修天爵書堂が三重県最古の寺子屋であったことを証明する唯一の物証になるかも知れません」。藪本さんは、少し驚いているようでしたが、「そう言われてみるとそうですね。確かに変な間取りですね」と言いました。そして、亡父の実家の山名家に関する多くの資料を私に託されました。
 2021年2月14日のことでした。
0317間取図

 間取図は、津市入江町(現津市大門)にあった旧山名邸の間取りを、大原瑞夫さんが幼時の記憶をもとに再現したものです。大原さんは、藪本さんには父方の従兄に当たります。父の実家であった旧山名邸について詳しい様子を知りたく思った藪本さんが、当時そこに住んでいた大原さんに依頼して、20年ほど前に書いてもらったものです。2021年3月17日、私は大原さんとお会いして、直接お話を伺いました。
 旧山名邸は、幕末の安政年間(1855~1860)まで、寺子屋「修天爵書堂」として使用されていました。寺子屋廃業の後は住居となり、昭和20年(1945)7月28日深夜の米軍による空襲で焼失しました。大原さんは旧山名邸最後の戸主であった山名政大(まさお)氏の孫にあたります。大原さんは両親を早くに亡くし、2歳の時に祖父母に引き取られて育ちました。7歳で空襲に遭うまで、大原さんは祖父母とともにこの家で暮らしました。藪本さんから依頼された当時、そして80歳を越えた今もなお、大原さんは幼時の記憶をかなり正確に再現でき、私の質問に対しても、覚えている事を正確に語ってくれました。
 間取図は、家の様子を正確に再現すべく、方眼紙に書かれています。これを書く前に、大原さんは概況図とも呼ぶべきラフスケッチを2面書いています。それには、縮尺や形は間取図ほどの正確さはないものの、記憶にはかえって忠実な面もあります。2面は一枚の原稿用紙の裏表に書かれていて、1面は家とその周囲、1面は千坪ほどあった敷地の東半分を広く書いています(前者を概況図1、後者を同2とします)。
 概況図1は上下を反転させながら書いていて、天地逆になっている文字が混在しています。こちらは間取図の原型です。形や寸法は不正確ですが、間取図にはない情報があります(詳細は後述)。概況図2には、山名邸の東側の様子が書き込まれています。山名邸の敷地は千坪前後あり、山名家は邸の周囲の土地を貸したり、借家を建てたりして、借地料や借家料を得ていました。大原さんは「月末になると、借料を集める祖母に連れられて、借家や商店を回り歩きました」と語ってくれました(なお、図はともに上が北です)。
0318概況図1
0318概況図2

 これは昭和13年(1938)頃に撮影された空中写真に写る津市入江町付近です(画像は上が北です)。この空中写真は、平成8年(2006)頃に、藪本さんが津市内の写真店で購入したものです。津市津図書館がこの写真の一部複製を所蔵しており、その書誌情報には「三重県が旭航空工業に発注し、同社が昭和13年5月13日に撮影」とありました。ただ、これは寄贈者による情報で、裏付けとなる資料がありません。
 2021年2月22日、津市在住の写真愛好家・河野通太郎さんにこの空中写真を見て頂きました。河野さんは「おそらく高度150mほどの低空から、キャビネ版で撮影したものであろう。複葉機で低速飛行し、パイロットも撮影者もよほど熟練していただろう。津駅方面から丸の内へ向かう拡幅された道路の両側に暗い影が点々と見えるのは街路樹であろう」等々、気付いた事をさまざまに指摘してくれました。
 この「拡幅された道路」について、伊勢新聞1937年11月2日付記事には次のようにあります。「すなはち津市が都計事業として本年六月着工した津駅ー阿漕線(市役所前、延長百七十メートル、幅員廿メートル)は既に開通、また同附帯工事である同線南端の丸之内地内十字路から中之番町に至る中之番線(延長百四十メートル幅員十五メートル)も一日全部の舗装を終了、たゞ街路樹の植込みを残すのみとなつた」。
 河野さんの「街路樹がすでに植えられている」との指摘は、寄贈者の伝えた撮影日時と矛盾しません。津図書館の書誌情報はまず信頼してよいだろうと思います。
 空中写真に写る旧山名邸とその周囲の様子は、大原さんの書いた概略図2とほぼ一致します。概況図2の範囲は、山名家の所有地とほぼ一致します。大原さんの記憶は信頼でき、間取図も、旧山名邸を正確に再現していると信頼してよいと思います。
 なお、画像には縦に2本、黒線が引かれています。これは、当時の行政担当者が特殊なペンで書き入れたものと推測できます。すべて2本の並行線である黒線は、現在の津市内の主要道路とほぼ一致します。画像の黒線も、現在の国道23号線バイパスにほぼ重なります。画像中央の区画のほぼ中央、左の黒線のすぐ右、大きな切妻屋根が南北に流れる建物が、旧山名邸です。山名家の所有地は中央の区画の左の黒線の東側で、約千坪ありました。邸と通路や庭以外の土地は借地とされ、借料は山名家の収入の柱となっていた時期もありました。
0319山名邸空中写真

 これは、旧山名邸の旧土地台帳附属地図、いわゆる「和紙公図」の一部です(間取図・概況図と向きを同じにするために北を上にした結果、天地逆になっています)。旧山名邸の正確な位置は、この和紙公図によって確定できました。
 決め手になったのは画像右下の「興玉社境内」です。明治期の津市の地誌・郷土史に関する貴重な情報を多く載せる「草蔭冊子」(松田豊幹編)の複製本が津市津図書館に所蔵されています。その「第八集(明治25年(1892)刊)」の「地理部」に次のような記述があります。「興玉社 津市入江町に鎮座 祭神 猿田比古神 菅公 当社勧請年月日未詳元山内大内蔵の邸内にありしが明治十年今の地に移す俗に庚申の祠と称す」。文中の「山内大内蔵」は「山名大内蔵」の誤りであることは、同書前頁の「村社伊奈利神社」に「津入江町住山名大内蔵氏」とあることからも明らかです。山名大内蔵は山名政大氏の高祖父にあたり、山名家最大の学者であった山名政胤の嗣子であった人物です。「築二百年以上」という藪本さんの父や叔父叔母の証言が正しければ、旧山名邸は政胤の時代か、遅くともこの大内蔵の時代に建てられたことになります。また、文中の「庚申の祠」は、津市教育委員会が平成24年(2012)に発行した「享保期津城下図」に「入江丁 庚申堂」と記載があり、「草蔭冊子」の記述と符合します。概況図2にも最上部に「庚申サン祀ってある」という書き込みがあります(大原さんによると「ごく小さいものでした」ということで、上記「庚申の祠」「庚申堂」との関連は不明です)。
 実はこの「草蔭冊子」は、津図書館のレファレンス室の司書の方から「こちらが参考になるのでは」と示されて知りました。山名家に縁の深い津市伊予町(現津市岩田付近)の稲荷神社について調べていた私に、司書の方が「草蔭冊子」から「村社伊奈利神社」についての記述を見つけてくれたのです。その「村社伊奈利神社」の次の頁にあった「興玉社」の文字が私の目に映ってくれたので、調査が思いがけなく進展したのです。こんなことは滅多になく、「草蔭冊子」と津図書館の司書の方には手を合わせて拝みたい気分になりました。
 和紙公図では、土地が八つに分割されています。法務局の職員によると、一般に土地の分割は所有者の申し出によるもので、決して珍しいことではないとのことでした。書き込まれた坪数を端数を切り捨てて概算すると989坪となり、「千坪」という藪本さんの証言と符合します。また、和紙公図の範囲は、空中写真の中央区画の左の黒線から東側に相当し、大原さんの概況図2の範囲とほぼ一致します。和紙公図は、空中写真と間取図・概況図をつないで、それらの真実性を保証してくれるものになりました。
0320和紙公図

 山名家が代々寺子屋を家業としていたことは、『日本教育史資料 八』(明治24年(1891)刊)からわかります。江戸時代の私塾・寺子屋に関する文部省調査結果府県別一覧の中に、次のように記されています。「名称 修天爵書堂/学科 読書算術/旧管轄 津領/所在地 入江町/開業 慶長年中/廃業 安政年中/教師 男二 女一/生徒 男九十 女六十/調査年代 明治二年/身分 農/習字師氏名 山名信之介」。この記述を『三重県教育史 第一巻』(昭和55年(1980)刊)は次のように評価しています。「『日本教育史資料』と今回の調査で明らかにした寺子屋を合わせると六三四を数えるが、このうち、最も古いものは、安濃郡津入江町(現、津市)にあった「修天爵書堂」と称する寺子屋で、その開業は慶長年間(一五九六~一六一五年)となっている。安政年間(一八五四~一八六〇年)に至るまで長期間にわたって開業しており、安政時代の経営者は山名信之介である。これは『日本教育史資料』に出ているもので、これが正しければ三重県最古の寺子屋ということができる。しかし、これを実証する史料はまったくない。ただ県下最大の城下町・津にあった寺子屋であるから江戸時代初期に存在しても不思議ではない。しかし、存在したとしても、極めて原初的なものであったと想像される」。
 この箇所を読んだ時、すぐに不正確な点に気付きました。「安政時代の経営者は山名信之介である」とありますが、『日本教育史資料 八』には「習字師氏名 山名信之介」とあり、「経営者」との記載はありません。『津市文教史要』「第一篇 第三章 享保時代の実学 第二節 山名政胤」に次の記述があります。「政興通称清太夫竹幽と号す。修文館の教師に任ぜらる。文久三年十一月没す。子政方家をつぐ。通称信之介、虚舟と号す。漢文に通じ、又曾谷定景に就いて学び、住吉派の画を善くせり。父に襲ぎて修文館の教師に任ぜらる」。「修文館」とは津藩が安政5年(1859)に設置した庶民教育のための学校であり、「文久三年」は1863年です。両者を総合すれば、『三重県教育史』の「経営者」との記述は誤りであると断言できます。また、『津市文教史要』の政胤の節の冒頭には、次の記述もあります。「政胤の系は山名宗全に出づ。宗全の裔孫義隆、安濃津に来り住し、処士を以て終る。義隆の子を義遠とす。義遠の子政吉、元禄八年伊予町稲荷神社別当職を命ぜられ、社傍の地を賜ひ、且神社修覆料として毎年稟米十俵を給せらる。政胤は政吉の子なり。少時家居独学し、後京都に出でゝ師を尋ねて研鑽し、大いに発明する所あり(中略)政胤帰郷して家職を襲ぎ、傍ら子弟に教授せしが(後略)」。「処士」とは「民間にあって、仕官しない人」を意味し、「家職」とは「稲荷神社別当職」を指します。つまり政胤は「処士」として「家職を襲」ぐ「傍ら子弟を教授」していたのです。これは政胤が「私塾・寺子屋」を開業していた可能性を強く示唆します。政胤の「教授」が津藩藩士の邸宅に出張する形でだけなされていたのでなければ、別に「教授」する場が存在したことになるからです。この『津市文教史要』の内容は、ほぼ『津市史 第三巻』(昭和36年(1961)刊)に引き継がれます。これは歴史学で言う「二次史料」にあたります。両著の著者は梅原三千(みち)、『津市史』の近代以前の部分をほぼ独力で執筆した、第一級の歴史家です。両著のこれらの記述にふれないまま、「実証する史料はまったくない」とする『三重県教育史』の記述は、歴史記述としての妥当性を欠いています。
 山名家による私塾・寺子屋の存在は、「開業 慶長年間」にまでは遡れなくとも、政胤の没した享保19年(1734)以前には遡れる可能性はかなりあります。それは時代的には「築二百年以上」という子孫の証言とよく符合します。建物の称号は建築直後に付けられることが一般的であることを考えると、旧山名邸が私塾・寺子屋として建てられたと仮定するならば、「修天爵書堂」という名称もまた、政胤かあるいはその周辺の人々の命名であると考えるのが自然です。
0321修天爵書堂M2

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