江戸期版本を読む

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カテゴリ:【調査研究】三重県最古の寺子屋・修天爵書堂 > 修天爵書堂2階教場仮説

 2021年5月7日(金)、追加発注した前著『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』20冊を持って、藪本治子さん宅に伺いました。その時、藪本さんから、従兄の山名政宏さんの手紙を見せて頂きました。この方は山名政大氏の長子・義観氏のお子さんです。手紙は、藪本さんが政宏さんに送った前著に対する礼状でした。手紙には次のように書かれていました。

 「…私は小学校二年生くらいの時に、両親とともに内地に一時帰国しまして、その時に御祖父様の御邸を訪れたことがありますが、いま残っている記憶は二階の部屋だけです。二階の恐らく北側の部屋に、大きな櫃が置いてあり、その中に江戸時代の書物がいっぱいに入れてありました。その中から、江戸時代の挿し絵入りの通俗本のようなものを見せていただいたことを覚えているのです。
 鈴木様のご本の間取り図は一見、平屋建てに見えますから、二階があったはずだと思ってよく探したところ、西南の一角に『階段』の文字があり、二階建てであったことが確認されました。
 恐らく二階の部屋は、代々の当主の『書斎』であったと思われますから、この本の間取り図に二階の間取り図が添えてあれば、さらに良かったと思います。瑞夫様に二階の様子もお聞きしておいた方が良いのではないのでしょうか。…」

0704 山名政宏氏書簡

 政宏さんの手紙は、「旧山名邸=修天爵書堂に二階があった」という、前著では想定していなかった新事実を証言するものでした。この証言は、前著の基本仮説、すなわち「大原瑞夫さんの書いた間取図=旧山名邸一階図面は、旧山名邸が寺子屋として設計・建築された証拠である」という仮説の前提を覆す意味を持ちます。前著は旧山名邸が一階建ての建物であるという前提で書きました。政宏さんの証言は、その前提を崩しました。
 その後、私は藪本さんに、政宏さんからより詳しい話を聞き取って頂けないか、依頼しました。以下は、聞き取り内容の確認として、7月7日(土)に政宏さんから頂いたメールにあった記憶の詳細です。
 ・二階に上がったのは昭和17年(1942)であった。
 ・祖父・政大氏が政宏・義宏兄弟を二階の部屋に招いた。
 ・階段から直接ではなく、二階の別のスペースを通ってその部屋に入った。
 ・六畳間ほどの畳敷きの部屋で、書物を入れた櫃があり、よく片付けられていた。
 ・部屋には正面に窓があって明るかった。
 私は、政宏さんの証言は信ぴょう性が高く、非常に重要な意味を持つと思います。

 間取図を書いた大原瑞夫さんには、6月25日(金)にお会いして、改めて二階についてお尋ねしました。大原さんの記憶は以下の通りでした。
 ・二階には祖母とともに、10回ほど上がった記憶がある。
 ・階段を上り切った右手に物入れの空間が広がっていた。
 ・床は板敷きであったように思うが、はっきりしない。
 ・足下が危ないからと、祖母は私用に懐中電灯を持って上がった(祖母自身は使わなかった)。
 ・ほこりがたくさんあった記憶がある。
 ・上ったすぐの所に父のレコードが置いてあり、上るとよくそれらを見ていた。
 ・祖母が荷物を出し入れする奥の北の方が、本など祖父の物が置いてあったと思う。
 ・鎧が人の形そのままに立っていた。
 ・大人が立って自由に動けるだけの高さが十分にあった(人の背丈の倍程度はあった)。
 大原さんの記憶は「二階は物入れであった」「旧山名邸は一階建てであり、二階建てではなかった」というものでした。政宏さんの証言は、大原さんにとっても初めて知る内容だということでした。

 7歳(小学校二年生)の夏までそこに住んだ大原さんが「一階建て」と認識していた旧山名邸が、実際には二階があったという事実は、どのように考えるべきでしょうか。それを解く鍵は「つし二階」という建築様式であろうと私は推測しました。「つし二階」は「平屋の上に低い二階部分を持つ、一階建てに近い二階建て」を言います。

 ・旧山名邸はつし二階様式で設計・建築された。
 ・二階部分は寺子屋の教場として設計・建築・活用された。
 ・寺子屋廃業後、二階は物入とされ、後に書斎とされた。

 以上が本著における私の新しい仮説です。

 大原さんは「旧山名邸は一階建てでした」と仰っていました。確かに間取図に階段はあり、「祖母と共に何度か二階へ上ったことがあります」とは仰っていましたが、それは「床の平らな物置」ということでした。「足下が危ないと、祖母は懐中電灯を使うようにと、私に渡してくれました」と語るように、大原さんにとってそこは暗い屋根裏の収納空間でしかありませんでした。壁や建具が入っていて、ちゃんとした部屋がある、そのような居住空間としての「二階」は旧山名邸にはなかった、それを前提として私は前著を書きました。それが、山名政宏さんの証言で覆りました。
 平屋建ての屋根裏空間については、実は私にも大原さんと同様の記憶と体験があります。実は私の実家も、平屋だけれども平らな床の屋根裏空間を持つ、そういう構造の家です。調べてみると、それは「つし二階」という、近世以降に民家あるいは商家として多く建てられた、かなり一般的な建築様式であることがわかりました。以下、私の実家を例にご説明いたします。
 私の実家は今から百年弱以前の1924年(大正14年)前後に建てられた「つし二階」様式の民家です。下の画像は、南側と北側から見た外観です。

0811 つし二階 外観

0811 つし二階 北外観

 私もこの家に生まれ育ちましたが、ついぞ自分は「つし二階の家に住んでいる」と思ったことは一度もなく、ずっと「我が家は平屋だ」と考えていました。ですから、大原さんが「平屋で二階はありませんでした」と仰っていたのも、実感としてはごく自然であったろうと理解できます。
 私の実家のつしの東半分は、改築によって塞がれ、すでに見ることができません。私の記憶では、そこには壁も天井もなく、屋根裏が黒々としており、古い農具や家財道具がしまわれていました。ある時祖父が、木製の巨大な釣り針のような道具に、直径1m以上もあるわらの束をひっかけて、なわでつし二階に引き上げて収納していた情景を記憶しています。つしに上る階段は、ふだんはつしに押し上げてしまわれており、つしを使う時だけ引っ張り出して、土間に下ろします。実際に大人たちがそうして東側のつしを使っていたのは、その時を含めて一度か二度ほどしか記憶がありません。

 西側のつしは「二階」と呼んでいました。こちらへは北西の六畳間、通称「なんど」から上ります。階段は「なんど」の東南の隅にあります。

0811 つし二階 階段

 天井は「踏み天(井)」と呼ばれ、太い梁が使われています。天井の東南の隅に開口部があり、引き戸、通称「ガラガラ」が設置されています。そこが「二階」の入り口です。その名の通り、開閉時に滑車が回転し、「ガラガラ」という音を立てます。

 「二階」の南端に採光のための窓があります。大きさは縦40cm×横80cm、床面から60cmの高さに設置されています。小さな窓で、開閉はできません。外光は奥まで射し込みます。室内は南北6.2m×東西3.6m、約14畳ほどの広さです。

0811 つし二階 明かり窓

 「旧山名邸はつし二階であった」。山名政宏さんの証言は、この事を強く推測させます。仮にそのように仮定すると、多くの事実が合理的に説明できるようになります。旧山名邸=平屋という前提の前著に対し、旧山名邸=つし二階という前提で、これから改めて修天爵書堂の真相に迫っていきます。

 大原さんの間取図には、壁が太線で書き込まれています。二階部分の柱の位置を確定するために、間取図から壁だけを太線で、建具などによる部屋の仕切り・区画を普通の線で抜き出してみました。以下、上から俯瞰した平面図は全て上が北です(以下、復原図は全て、表計算ソフト「Microsoft Excel」を使用して作成しています)。

0812 1階壁配置図
 私の実家のつし二階部分は、東西南北共に半間ずつ、一階よりも内側に縮小しています。旧山名邸のつし二階の復原も、それに準じて考えました。但し、西端は一間縮小しました。それは、一階の西端が土間であり、中央に柱がないことと、その西北の半間×三間は水回りと火気を扱う設備であることによります。
 まずは、つし二階と屋根を支える柱の位置を考えました。構造上、建物全体をしっかり支えるために、柱はできるかぎり通し柱としたであろうと考えました。そう考えると、二階部分の柱の多くは、一階部分の柱の位置に一致させたはずです。そう考えて、1階壁配置図をもとに、二階の柱の位置を推測してみました。通し柱は青で、それ以外の柱は赤で示しました。つし二階=教場の範囲は、点線で囲みまいた(以下、復原全般については、元大工である山内勇さんの監修を得ました。なお、最西端の柱は、つし二階部分でなく、屋根を支えるための柱になります)。

0813 2階柱配置図

 上の「二階柱図」をもとに、階段からの接続部分と、採光のための窓の位置を考えて加えたのが、下の「二階教場図」です。

0814 2階教場図

 階段からの接続は、半間幅の渡り廊下としました。採光のための窓は、南北両端に4か所ずつ、半間間隔としました。それぞれ床面から30cmの高さで、幅80㎝×高さ75cmとしました。教場の床は平らな板間としました。教場内には、つし二階の屋根を支える柱が南北3本×東西4本、計12本としました。教場の西北、すなわち一階西土間の火気・水回り設備の上方は、火と煙の通路であったと考えられるので、二階教場への煙の侵入を防ぐため、壁で完全に仕切られていたと考えました。逆に西南の階段側は、一階通用口からの間接光が期待できるので、格子のような造作になっていたと考え、点線で示しました。
 以上の様に復原したつし二階の教場は、南北5間×東西4間半となり、広さは45畳になります。つし二階のため、南北の庇に近い両端の高さは1.2mと推測します。さらに、柱列上方には太い梁が南北に渡されていたはずですから。寺子は移動時にかなり注意を要したと考えられます。しかし、いったん座ってしまえば、座って学習することは可能であったと考えられます。屋根の勾配を5寸と考えた時、床面からの高さは、南北端から一間内側に入った柱列付近で2.1m、中央付近では3m以上となります。太い梁が東西南北に走っていたにせよ、南北両端付近を除いては、そう問題にはならなかったであろうと推測されます。

 1938年(昭和13年)に撮影された空中写真と、復原した「二階教場図」をもとに、旧山名邸全体を復原してみました。まずは東側から見た側面図です。点線は採光のための窓および入口を示します。なお、玄関の東にあったはずの別棟と渡り廊下、北側のトイレ及び渡り廊下は適宜割愛してあります。

0815 東側面図

 次に、南側から見た側面図です。

0816 南側面図

 西側通用口の上にも、つし二階の屋根があります。これは、階段を上り切った中央部分に十分な頭上高が確保されていたであろうことと、空中写真に写る屋根の形状とから、屋根は西側いっぱいまであったと推測して、このように復原しました。なお、復原図を自然な外観にするために、間取図にない以下の要素を加えました。窓や玄関の上の庇、窓の脇の雨戸の戸袋、玄関と通用口の敷石です。また、地上高60cmの高さに引いた太線は、一階床面と床下との境界を示します。

 略図ではありますが、こうして復原してみると、18世紀前半の享保年間頃に建てられた伊勢山名邸=修天爵書堂は、なかなかの威容であったように思います。

 1942年(昭和17年)、山名政宏さんは、お兄さんの義宏さんとともに、祖父の山名政大氏に招かれて、二階に上って「書斎」を見ています。政宏さんの証言は、要約すると「入ってすぐではないところにちゃんとした書斎のような部屋があり、内部は明るかった」という内容でした。下の図は、その証言と「二階教場図」を基に復原した、「二階書斎図」です。

0815 2階書斎図
 
 書斎は、二階の中央東側に一点破線で示しました。6畳間を2間としましたが、12畳一間であったかも知れません。その推測の根拠は以下のとおりです。中央の半間間隔の柱列は、建具を入れる障害になると考えました。また、床面からの高さを考えると、南北両端からの一間ずつは部屋にしにくいと考えました。一点鎖線は敷居と建具の位置も示しています。二階の一部を書斎とするために、敷居を作り、建具を入れ、天井を設置したと推測されます。
 また、東側には「二階教場図」にない、採光のための窓を点線で書き加えました。この東側の窓の設置は、あるいは建築当初であったかもしれません。寺子屋は室内が明るいことを必要としますので、窓は最初から設置されていた可能性はあります。この点について監修の山内勇さんは、切妻の側面の壁に窓を設けるのは、悪天候時に構造上どうしても弱くなることと、実際に設置例も少ないことから、建築当初から設置されていたとは考えにくいとの判断を示されました。そこで、先に示した各復原図には、東側の窓は設けませんでした。一方、政宏さんの「室内は結構な明るさがあった」という証言は、南北の窓だけでは説明しにくい上に、「正面に窓があった」という証言まであります。政宏さんらが西にある階段から二階に上がったことから考えると、「正面」が東を指すと推測するのが自然です。そこで、寺子屋を廃業した後で、信之介あるいは政大氏に、二階の一部を書斎として使う構想が生まれ、内部の改築の一環として東側に窓が設置され、1942年の時点では、東側に採光のための窓が設置されていたと考えました。それを反映させたのが下の「書斎東側面図」です。

0817 書斎東側面図

 当時7歳であった大原さんは、「旧山名邸には二階はありませんでした」と記憶していました。大原さんが上がる時は祖母と一緒でした。二階が暗かったのは、祖母にとっては荷物の出し入れだけが目的で、南・北・東のそれぞれ一番奥にある窓まで開ける必要はなかったためであろうと推測されます。一方、政宏さんが二階に上がったのは祖父の招きでした。当時政宏さんの一家は、遥々と満州から一時帰国し、父である義観氏の実家に立ち寄ったのでした。祖父である政大氏は、当時8歳に成長していた嫡孫たちに、代々学者が継いできた伊勢山名家の家風を伝えるべく、古書が多く残る二階の書斎へ招いたのでしょう。祖父が全ての窓を開放し、外光を十分に取り込んだ二階は、寺子屋時代の教場に近い明るさがあったと推測できます。同じ二階について、政宏さんと大原さんの印象と記憶が異なる理由を、私は以上のように考えました。

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