江戸期版本を読む

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カテゴリ:【調査研究】三重県最古の寺子屋・修天爵書堂 > 修天爵書堂2階教場仮説

 「二階が寺子屋『修天爵書堂』の主たる教場だったのではないか」との指摘は、実は東京都練馬区にある唐澤博物館の学芸員である唐澤るり子さんによるものです。
 前著は、伊勢山名家のご子孫の他、県内外の図書館や大学等に寄贈しました。その寄贈先の一つが唐澤博物館でした。唐澤博物館は、教育学・教育史研究家の唐澤富太郎氏(1911年(明治44年)~2004年(平成16年))が集めた研究資料の中から、約7千点を展示している私設博物館です。事前に私の方から寄贈を打診し、唐澤さんからの承諾を得、発送しました。数日後、唐澤さんから礼状をメールで頂きました。書中、次のような疑問を唐澤さんはお書き下さいました。
 「西側と東側の座敷の往来が制限され、東側が一段高くなっている、ご指摘のように寺子の身分で分かれていたのかもしれませんが、一見したところ西側が師匠のプライベートゾーンのようにも思えますが如何でしょう。」
 この疑問に対して私は、次のように返信しました(句点を補っています)。
 「『師匠のプライベートゾーン』とのご指摘につき、実は出版後に判明した事実がございます。それは『つし〈厨子〉』とこの地方で言う、屋根裏の部分です。そこへ実際に入り、中の様子を見た人がみえました。(中略)その方はだいたい次のように礼状中に書いて見えました。『刀剣や鎧兜の他、本が大量にあり、祖父の書斎であった』。(中略)おそらくは、師匠の書斎・バックヤードは「つし」にその機能を担わせ、一階部分は極力寺子屋として活用したいという設計思想であったのだと私は考えております。(中略)間取図手前の最西側、勝手口入ってすぐ左手にある階段が『つし』にのぼるためのものです。『つし』の広さはおそらくは20畳強、和室4部屋分ほどあったろうと推測されます。」
 このメールに対し、唐澤さんは次のように書いてみえました。
 「屋根裏部屋があったとの事ですが、ここが教場だったとは考えられないのでしょうか。手習いは墨をこぼす者もいて、座敷を利用するのは結構憚られることだったとも考えられます。(中略)手習いの子は屋根裏部屋で、句読の指導は座敷で、そんな絵が浮かびました。通用口から直に上れることなども、都合よく思われます。」

 「ここが教場だった」という唐澤さんのご指摘は、私には二つの意味で大きな衝撃でした。ようやく出版できた調査報告の重要な前提が覆ってしまったという衝撃と、寺子屋『修天爵書堂』の実像がさらにはっきりしたのではないかという衝撃、つまり、正と負、悲と喜、相反する両極端の衝撃が一挙に私を襲ったのです。
 私は唐澤さんに「貴重なご教授、深く感謝します」という旨の返信をしました。そして、藪本治子さんを通じて、山名政宏さんに記憶内容の詳細の確認を改めて依頼しました。一方で、大原さんと政宏さんの記憶の相違の原因を考えました。その結果、「旧山名邸つし二階仮説」に至りました。それからつし二階について学び、つし二階を実際に建てた経験もある元大工の山内勇さんに、仮説についてご助言を乞い、検討に加わって頂きました。その結果、「旧山名邸つし二階=二階教場説」が有力であるという結論に至りました。いわば前著が内包していた欠陥が、山名政宏さんの証言と唐澤るり子さんの教示を呼び込み、修天爵書堂がその真相をようやく現わしてくれた、ということになります。

 二階教場説が修天爵書堂の真相により近いと私が考える理由は、一言で言うと、すでに判明している諸事実をそれがより合理的に説明してくれるからです。以下、前著の「6 隔壁と段差」を再検討しながら、順次説明していきます。

 大原さん作成の間取図では、階段の上り口は西側通用口を入ったすぐのところにありました。この位置は、既に屋内にいる家人にとっては不便な場所であり、外部からの来訪者にとっては便利のいい位置と言えます。
 私の実家の階段は、「南なんど」と呼ばれる、一階北西奥の和室になります。これは、荷物を二階に上げるにも、二階から荷物を下ろすにも、家人にとっては便利のいい位置です。下は畳の部屋で、布団であれ食器類であれ、下に置いても土で汚れる気づかいが要りません。一方、旧山名邸の階段は、一階西南端という、屋内では一番隅にあります。荷物の上げ下げでは、一番隅まで荷物を運ばなくてはなりません。その上、下が土間ですから、荷物を下に置くと土で汚れます。荷物の収納だけを考えれば利便性は良くない位置であり、わざわざここに階段を設置するのは不合理です。
 しかし、二階を寺子屋の教場として利用するのなら、ここは格好の位置と言えます。通用口から邸内に入った寺子たちは、恐らく土間で履き物を脱いで所定の位置に揃え、階段を上ったはずです。土間にざら板などを置けば、寺子たちはその上を移動して階段の上り口に行けます。二階から降りて帰る時は逆の動きになります。寺子の出入りと邸内奥にいる家人たちが空間的に分離できます。両者の活動が交錯するのはトイレだけで、トイレを借りる寺子だけが、土間を通って奥へ行き、邸の北端にあるトイレに行くくらいです。

 山名信之介の1869年(明治2年)の藤堂藩に対する報告では、寺子の人数は「男90 女60」の総計150人でした。旧山名邸の一階は和室部分43畳、玄関と廊下を加えると49畳半です。家人の私的空間を考えず、邸内を全て教場として使用したとしても、一畳あたりの寺子の人数は約3人です。前著では「43畳という広さでは、これほど多くの寺子を同時に収容できたとは思えませんが、就学時間を午前と午後に分けるなど、運用上の工夫をすれば、階層や性別・年齢などで寺子の着座位置を分けての教育活動は十分に可能であったと思います」と書きましたが、苦しさは否めません。「150人という人数は最大人数であり、いつもそれだけ多くの寺子がいた訳ではないだろうし、間取図にある『こたつ』『居間』など、明らかに家人の生活空間を指す記述も、明治以降の寺子屋廃業後の姿であり、安政年間以前の寺子屋営業当時は、別棟などが生活空間であったのだろう」とは想像しましたが、それでもやはり苦しい想像ではありました。
 そうした前著の「苦しい」点を、二階教場説は一気に解決してくれます。二階教場は45畳の広さがあったと推測できました。それを加えれば、一階西北の「居間」「台所」「こたつ」の3部屋を除く和室26.5畳を合わせ、教場スペースは71.5畳となります。一畳あたりの寺子の人数は約2.1人となります。

 寺子屋の寺子を収容する能力はどの程度であったのかについて、乙竹岩造は『日本庶民教育史』の中で、いくつかの事例を挙げています。その一つ、富山市にあった「小西屋」という寺子屋は「教室の階上は約六十畳敷で、女児の座席とし、階下は約百畳敷であつて、板でこれを四室に仕切り、孰れも男児を収容したのである」(同書中巻584頁)「明治維新の頃までは概ね五百人を上下してゐた」(同じく585頁)とあります。一畳あたりの寺子の人数は約3.1人です。修天爵書堂に二階がない場合、家人の生活空間を考えず、玄関と廊下も含めて屋内を全て教場としていたと考えて、はじめて小西屋と同程度の一人当たりの教場の広さになります。二階があれば、一階に家人の生活空間を確保した上で、小西屋よりも一畳当たりの収容人数が約1人少ない寺子屋であったことになります。修天爵書堂は、二階教場の存在を仮定して初めて、その寺子人数にふさわしい建物を有していたと考えることができます。前著最大の「苦しい」点を、二階教場説は解消してくれます。

 前著では、邸の中央に押入や床の間などが配置され、東西の和室が分離されている設計について、「連続して配置した和室をこうした隔壁でわざわざ分断する設計は、民家ではきわめて異例である(中略)内部に隔壁と段差を設けることで、その限られた空間が、中で勉強する寺子たちにとっては互いに遠く感じられるようになっていた」と評価しました。しかし今回、二階教場説を前提に、つし二階構造として旧山名邸を復原する作業の中で、新たな気付きを得ました。それは、建築上の必要性からこの設計がなされたという可能性です。
 旧山名邸は、上から見た平面図は正方形に近い形をしています。そして、屋根は南北に勾配を持つ切妻屋根です。中央の棟から南北端の軒まで、水平距離で3間、約5.4mあります。一階は東に2間幅の和室が並び、西端は1間幅の土間があります。屋根を支える通し柱がどうしても立たない場所が東に5カ所、西に2カ所、都合7カ所あります。しかし、建物の中央に南北二列に並ぶ柱は通し柱です。この通し柱が東西に太い梁を載せて、通し柱でない柱が大きな切妻屋根を安定して支えることを可能にしていたと推測できます。そうした設計が旧山名邸を200年あまりもの長期間、風雪に耐えさせたと考えられます。山内勇さんは「これを建てた大工は賢かったですね。よく考えて設計してあります」と評価されました。

 ここで一つ注釈を加えます。これまでに示した復原図は全て、大原さんの書いた間取図をもとにしています。しかし、上に書いた「建物の中央に南北二列に並ぶ柱は通し柱です」という記述は、実は復原図と矛盾しています。そのうちの一本だけは、赤い色で示した、一階部分に柱のない柱だからです。しかし、私はそれも通し柱ではなかったかと推測しています。その点をここで説明します。
 大原さんの書いた間取図は詳細です。ただ、私は次の一点だけ、加筆すべきだと考えています。それは床柱です。北東の座敷には、違い棚と床の間があり、その間には一本の線が引かれています。この線は「壁ではないが、仕切られていた」という大原さんの記憶を表しています。そこには床柱は書き加えられていません。私は、この線の東端に床柱があったのではなかったかと推測しています。その理由は次の二つです。一つは、伊勢山名家の当主が自邸の座敷に床柱を持たない床の間を作ることはなかったであろうという推測、もう一つは、建物の構造上、設計者はこの位置に通し柱を立てたかったはずだという推測です。
 間取図には壁の書き込みはありますが、柱の書き込みはありません。間取図からは柱の有無はわかりません。復原図は、間取図を基に作成していますから、赤で示しています。しかし実際には通し柱であっただろうというのが私の推測です。この点について、藪本さんに大原瑞夫さんの記憶を今一度確かめて頂くよう依頼しました。8月15日、藪本さんからの回答は、「よく覚えてみえない」ということでした。大原さんにとって座敷は、祖父の政大氏から「ここで遊んではいけない」とされている部屋でした。大原さんはたいへんいい記憶力の持ち主ではありますが、床柱に関しては「多分あったようにも思います」というあいまいな記憶でした。

 つい先ほど、山名政宏さんからメールを頂きました。このブログ記事をご覧頂き、気付いた点をお知らせ下さいました。その中に、非常に重要な記憶が書かれていました。
 「櫃は、部屋に踏み込んだ方向に対して左手の壁際に置いてありました。横長の箱で、横幅は1メートルほどあり、奥行きもそれなりにありました」。
 この記憶に従うならば、「22 焼失直前の旧山名邸の復原」で示した「二階書斎図」は成立しません。なぜなら、あの書斎だと壁は正面にしかなく、「部屋に踏み込んだ左手の壁」という記憶が成立するためには、政大氏はわざわざ書斎の北側に回り込んで、政宏さんらを書斎に招かなければなりませんでした。それは不自然過ぎるからです。
 上の政宏さんの記憶を基にすると、書斎は次の図のような位置にあったはずです。

0823 2階書斎図改3

 この位置に書斎があったと考えると、「左手の壁際」に「櫃(横90cm縦60cm。緑色で表示)」があり、「正面に窓があった」という政宏さんの記憶とも符合します。
 もちろん、書斎の位置は北東端だったかもしれず、中央付近だったかも、あるいは北側全部であったかも知れません。北西端にしたのは、階段に近く出入りに便宜であること、一階座敷の上を避ける意味、政宏さんの記憶に部屋の大小に関する言及がないこと、以上の諸点からの推測です。 
 なお、一点鎖線は建具を示し、直線は壁を示します。北東側一間を建具でなく壁としたのは、そこは屋根が低く、建具を入れられなかったであろうことと、採光が北側からだけになるために、東側は壁でも建具でも使い勝手に大差がなかったであろうこと、以上2点からの推測によります。
 書斎が上記のようであったとすると、「22 焼失直前の旧山名邸の復原」で示した東側の採光のための窓、「書斎東側面図」は、ともに存在しなかったことになります。

 大原さんの書いた一階間取図、特にその壁の位置から、旧山名邸の復原はほぼ自動的にできます。ただし、屋根の傾斜やつし二階の高さについては全く分かりませんから、その復原は全て私の推測によります。政宏さんや大原さんの記憶は尊重しながらも絶対視はせず、記憶間の齟齬などについても、私の判断で適宜判断し調整しました。今後、旧山名邸を写した一枚の写真が発見されることで、私の推測の全てが覆される可能性はあります。しかし、不完全な推測をあえて示すことで、未来における真実の発見を手繰り寄せられたらとの思いで、ここに復原図を示しました。

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