実は前回の「二階書斎図」から、柱の本数を減らしています。これは、政宏さんと何度かメールをやり取りし、「書斎中に柱はなかった」「部屋は六畳間ほどで、ごく普通の感じの部屋だった」「北側に面していたと思う」と確認した上での変更点でした。書斎中に柱がないという事は、同様の他の位置にもなかったと考えるのが自然です。一方、床の間の床柱は「あった」と考えました。間取図には柱の記入はなく、大原さんも政宏さんも、床柱についての定かな記憶はありません。常識的に「これだけの家で床の間がある以上、床柱がなかったという事はあり得ない」という、学問的には乱暴な仮定ですが、ご容赦願いたく思います。
政宏さんの書斎についての記憶から、屋根は通し柱と梁で支える設計であったと、ほぼ断定できました。書斎の設置は寺子屋廃業後ですが、その記憶が寺子屋の二階教場の様子を復原するために、極めて重要な意味を持ったことになります。
数が少なくなる分、通し柱と梁はその分頑丈な材が使われていたでしょう。特に梁は太い材でなくてはならず、二階の上部に縦横に走っていたことでしょう。太く頑丈な材が使われたことで、旧山名邸は二百年以上もの長い期間、立ち続けることができたのでしょう。
以下、柱数を減らした上で、改めて「二階教場図」を示します。
この二階教場は、南と北に窓があり、そこが最も明るくなります。字を書いたり本を読んだりするには、南と北の窓の近くが学習には最適な場所であったと推測できます。窓から遠い中央付近は、明るさの点ではかなり暗かったと推測されますが、寺子が多い時には当然、そこでも学習がなされたでしょう。東と西は壁になるので、学習のための天神机などは東西の壁沿いにしまわれたと推測できます。中央の二列の柱の間は、棚のようなものが設置されていて、東西に教場を分けながら、学用あるいは教務用の物品などを置くスペースであったと推測されます。柱間の5畳を差し引くと、二階教場は全部で40畳の広さとなります。
つし二階の高さはいちおう南北端で1.2mとしましたが、実際にはもう少し高さがあったかもしれません。書斎も北東にもう一間あったのかも知れません。教場の様子も全く違っていたかもしれません。復原といっても、確かなのは一階の柱位置だけであり、限界があります。復原は「あり得たであろう最も自然な形」を追求した結果としてご理解頂きたく思います。
(今後は、今までの全記事を再構成し、【津の寺子屋「修天爵書堂」】として、結論を簡潔にまとめて行く予定です。当ブログは草稿であり、完成と出版は2021年内を目指します)
政宏さんの書斎についての記憶から、屋根は通し柱と梁で支える設計であったと、ほぼ断定できました。書斎の設置は寺子屋廃業後ですが、その記憶が寺子屋の二階教場の様子を復原するために、極めて重要な意味を持ったことになります。
数が少なくなる分、通し柱と梁はその分頑丈な材が使われていたでしょう。特に梁は太い材でなくてはならず、二階の上部に縦横に走っていたことでしょう。太く頑丈な材が使われたことで、旧山名邸は二百年以上もの長い期間、立ち続けることができたのでしょう。
以下、柱数を減らした上で、改めて「二階教場図」を示します。
この二階教場は、南と北に窓があり、そこが最も明るくなります。字を書いたり本を読んだりするには、南と北の窓の近くが学習には最適な場所であったと推測できます。窓から遠い中央付近は、明るさの点ではかなり暗かったと推測されますが、寺子が多い時には当然、そこでも学習がなされたでしょう。東と西は壁になるので、学習のための天神机などは東西の壁沿いにしまわれたと推測できます。中央の二列の柱の間は、棚のようなものが設置されていて、東西に教場を分けながら、学用あるいは教務用の物品などを置くスペースであったと推測されます。柱間の5畳を差し引くと、二階教場は全部で40畳の広さとなります。
つし二階の高さはいちおう南北端で1.2mとしましたが、実際にはもう少し高さがあったかもしれません。書斎も北東にもう一間あったのかも知れません。教場の様子も全く違っていたかもしれません。復原といっても、確かなのは一階の柱位置だけであり、限界があります。復原は「あり得たであろう最も自然な形」を追求した結果としてご理解頂きたく思います。
(今後は、今までの全記事を再構成し、【津の寺子屋「修天爵書堂」】として、結論を簡潔にまとめて行く予定です。当ブログは草稿であり、完成と出版は2021年内を目指します)