江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

カテゴリ:【調査研究】三重県最古の寺子屋・修天爵書堂 > 修天爵書堂2階教場仮説

 実は前回の「二階書斎図」から、柱の本数を減らしています。これは、政宏さんと何度かメールをやり取りし、「書斎中に柱はなかった」「部屋は六畳間ほどで、ごく普通の感じの部屋だった」「北側に面していたと思う」と確認した上での変更点でした。書斎中に柱がないという事は、同様の他の位置にもなかったと考えるのが自然です。一方、床の間の床柱は「あった」と考えました。間取図には柱の記入はなく、大原さんも政宏さんも、床柱についての定かな記憶はありません。常識的に「これだけの家で床の間がある以上、床柱がなかったという事はあり得ない」という、学問的には乱暴な仮定ですが、ご容赦願いたく思います。
 政宏さんの書斎についての記憶から、屋根は通し柱と梁で支える設計であったと、ほぼ断定できました。書斎の設置は寺子屋廃業後ですが、その記憶が寺子屋の二階教場の様子を復原するために、極めて重要な意味を持ったことになります。
 数が少なくなる分、通し柱と梁はその分頑丈な材が使われていたでしょう。特に梁は太い材でなくてはならず、二階の上部に縦横に走っていたことでしょう。太く頑丈な材が使われたことで、旧山名邸は二百年以上もの長い期間、立ち続けることができたのでしょう。
 以下、柱数を減らした上で、改めて「二階教場図」を示します。

0822 2階教場図改2

 この二階教場は、南と北に窓があり、そこが最も明るくなります。字を書いたり本を読んだりするには、南と北の窓の近くが学習には最適な場所であったと推測できます。窓から遠い中央付近は、明るさの点ではかなり暗かったと推測されますが、寺子が多い時には当然、そこでも学習がなされたでしょう。東と西は壁になるので、学習のための天神机などは東西の壁沿いにしまわれたと推測できます。中央の二列の柱の間は、棚のようなものが設置されていて、東西に教場を分けながら、学用あるいは教務用の物品などを置くスペースであったと推測されます。柱間の5畳を差し引くと、二階教場は全部で40畳の広さとなります。 
 つし二階の高さはいちおう南北端で1.2mとしましたが、実際にはもう少し高さがあったかもしれません。書斎も北東にもう一間あったのかも知れません。教場の様子も全く違っていたかもしれません。復原といっても、確かなのは一階の柱位置だけであり、限界があります。復原は「あり得たであろう最も自然な形」を追求した結果としてご理解頂きたく思います。

 (今後は、今までの全記事を再構成し、【津の寺子屋「修天爵書堂」】として、結論を簡潔にまとめて行く予定です。当ブログは草稿であり、完成と出版は2021年内を目指します)

 「修天爵書堂」とは、江戸時代に津市にあった寺子屋です。
 1869年(明治2年)の藤堂藩の調査に対し、山名信之介という人が「慶長年中(1596年~1615年)開業 安政年中(1855年~1860年)廃業」と回答しています。但し、これを裏付ける証拠はありません。「修天爵書堂」の建物は、1945年(昭和20年)に戦災に遭い、史料は全て焼失してしまいました。「修天爵書堂」について当時書かれた文献資料も今のところ発見されていません。わずかに『津市史 第三巻』(1961年(昭和36年))などの後世の歴史書と、焼失する前にそこに住んでいた方の書いた間取図や証言等があるだけです。
 この本はそうしたわずかな史料をもとに「修天爵書堂」の寺子屋としての実像に迫ろうとする本です。かすかで頼りない手がかりを一つ一つ拾い集め、組み合わせることで真相を浮かび上がらせていく、まるでパズルのような復原の試みです。けれども憶測や捏造では決してありません。
 先に結論を言えば、次のようになります。

 1 享保年間(1716年~1736年)にはすでに、津市入江町(今の大門25)に存在していた
 2 つし二階建てで、二階が約40畳ほどの主教場であった。
 3 建物は最初から寺子屋として設計されていた。
 4 津藩が修文館を設立した1859年(安政5年)に廃業した。
 5 師匠は代々、伊勢山名家当主が世襲した。

 現在、三重県内の寺子屋の研究はずいぶんと進んできています。しかし、その対象はほとんどが江戸時代後期の寺子屋です。修天爵書堂は、現時点では三重県最古の寺子屋です。資料が全て焼失したとはいえ、その実在を疑うことはできません。そのことを津市の一つの歴史として伝えていきたい、それがこの本を書いた動機です。

 山名信之介は藤堂藩に対して「慶長年中開業」と回答しています。伊勢山名家子孫の方々も、おおむね「初祖義隆以来、代々寺子屋をしていた」と語ります。ただ、物証がありません。歴史として確定的に語るには、慎重にならざるを得ません。
 『津市史』の原著者である梅原三千は、伊勢山名家第4代当主である山名政胤(~1734年(享保19年))の直筆資料を多く著書に引用しています。梅原は、伊勢山名家家伝文書を直接確認しています。その梅原は次のように書いています。「政胤帰郷して家職を襲ぎ、傍ら子弟に教授せしが」(『津市文教史要』39頁)「山名家はこのように累代津城下の一隅に学燈を輝かして、庶民子弟のために教育に任じたのである」(『津市史 第三巻』106頁」)。梅原は「庶民教育」という表現を使っていますが、これは実質的には寺子屋経営を指していると考えてよいと思います。梅原は、政胤以降、伊勢山名家が「庶民教育」を代々行ってきたと書いているのです。このことは、梅原が確認した伊勢山名家家伝文書に、政胤以降の寺子屋経営の文書史料が残っていたという事を推測させます。逆に言えば、政胤以前の文書史料は確認できなかったという事も推測させます。
 梅原はなぜ、政胤以降の文書史料を確認できて、それ以前のものを確認できなかったのでしょうか。それは、入江町の旧山名邸の建築時期と関連するように思われます。単純な推理は、旧山名邸が政胤の代に建てられたという推測です。政胤の没年は、旧山名邸が焼失した1945年の211年前です。子孫の口碑によれば、旧山名邸は「200年以上は経っていた」というものでした。両者はほぼ符合します。推測としては単純ですが、自然でもあります。梅原が政胤の残した文書を確認できて、それ以前の事にほとんど言及していないのは、旧山名邸建築以前の文書が残っておらず、以後の文書が残っていたという、ごく単純な理由であろうというのが私の推測です。同時にそれは、旧山名邸の建設時期、すなわち修天爵書堂の開業時期の下限の推測時期にもなったのです。 
 開業時期の「下限」というのは、「少なくともこの時期までに開業していた」という意味です。それは、旧山名邸が寺子屋に特化した設計がなされていた事実をふまえています。その事実は、旧山名邸建築以前に、伊勢山名家が寺子屋を経営していた実績があったことを意味しています。それがいつまで遡れるのか、その点について確かな史料は、梅原が家伝文書を確認した時点ですでに失われていた可能性はあります。全てが戦災で失われた今、他に新たな史料が発見されない限り、それを知ることはできません。

 前著を書くに至ったそもそもの端緒は、山名信之介の曽孫にあたる大原瑞夫さんの書いた旧山名邸間取図を発見した事でした。普通の民家にしては特異過ぎる間取りは、寺子屋をするための設計と考えると腑に落ちました。中央を南北に走る押し入れや床の間で東西に隔離し、さらに段差を設ける設計は、意図的に東西の和室を切り離そうとしていると考えられました。それは、身分や階層、性別によって寺子の学習空間を分ける寺子屋としての必要を満たす設計だと考えました。前著は、一階部分が全て寺子屋の教場として使われていたという前提で書きました。西側の和室の「居間」「こたつ」などといった、明らかに家人の私的居住空間であることを示す書き込みは、寺子屋廃業後の変化の結果と考えました。

0322間取図中央

 前著を同じく曽孫の藪本治子さんが親族に送付して下さったことで、新たな証言が得られました。同じく曽孫の山名政宏さんの「二階の書斎に入ったことがある」という証言です。私が前著を送った唐澤博物館の唐澤るり子さんは、山名さんの証言を受けて「二階が主教場だったのではないか」という「二階教場説」を私に示されました。お二方の証言と指摘により、前著の推測は覆りました。修天爵書堂の主教場は二階であり、一階は補助的に使われたに過ぎないというのが、私の現時点での結論です。
 前著の推測はいろいろと無理がありました。広さの点でやや狭いこと、家人の私的居住空間を別の場所に求めなければならないことなどです。二階教場説の利点は、上の二つの疑問点を解消できる上に、階段の位置を合理的に説明できます。実際に7歳まで旧山名邸に住んでみえた大原さんの「二階は物入れでしかなく、居住空間としては存在しなかった」という記憶の枠内で前著は書かれています。それでも「旧山名邸は寺子屋に特化した設計であった」という立論は可能でした。しかし「二階があった」方が、寺子屋としてよりふさわしい建築設計になることは明らかです。何やら「怪我の功名」のようですが、前著を書いたおかげで新たな証言と指摘が得られ、より修天爵書堂の実像に近づけたというふうに今は考えています。

 間取図に見られる特異な設計には、もう一つの意味がありました。一階部分を東西に分断する中央の隔壁は、実は二階部分を支える構造上の要請でもあったらしいのです。
 間取図から、壁と部屋の仕切りのみを抽出した「一階壁図」を作成し、それを基に、つし二階の主教場と柱を推測した「二階教場図」を想像復原してみました(上が北です)。

0902 2階教場図改e

 一階部分の東西の和室部分はともに、東西に約二間(約3.2m)の間隔で柱がありません。その上の二階の床と屋根を支えるために、相当堅牢な桁を渡す必要があります。中央の二列に並んだ南北の柱列は、それぞれ東西にわたす桁を支えるために必要であったのです。一階中央を南北に通る隔壁は、一階を東西に隔離するとともに、二階と屋根を載せる桁を支える柱列を東西に二列並べて置くためにも必要だったのです。
 また、二階が主教場であると考えると、間取図にある階段の位置も合理的であることがわかります。物入れとして使うためだけの二階であったなら、階段の上り口は室内であってもよく、むしろ自然です。西南の通用口を入ったすぐの位置にあるのは、家人ではない来訪者が、通用口から入ってすぐに二階に上るには好都合です。その奥で暮らす家人にとっても、二階に上る来訪者が私的居住空間に入らずに済む意味で好都合です。階段の位置は、この建物が寺子屋に特化した設計であったことの一つの証拠です。
 「二階教場」仮説は、私の「旧山名邸=修天爵書堂」仮説をより補強してくれる意味がありました。主に庶民の子女は通用口から階段を上って二階の主教場で学び、良家の子女は一階東南の和室で、武士階級の子女は座敷で、それぞれ東の玄関から入って学んだのではなかったかと、今は推測しています。

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