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カテゴリ:【調査研究】三重県最古の寺子屋・修天爵書堂 > 修天爵書堂と山名信之介

 考察を間取図に戻します(屋内の「こたつ」「食卓」「タンス」などは、寺子屋廃業後に設置されたものと考えられますので、ここでは存在しないものとして考えます)。建物の中央は「床の間」「違い棚」「押入」等(以降これを「隔壁」と呼びます)で東西の部屋が分けられ、中央に位置する東西をつなぐ通路には(段差)が設けられています。図を書いた大原さんは(段差)の高さについて「乗り越えるのに苦労した記憶はありません。25cm±5cm程度だったと思います」と話していました。屋内をわざわざ東西に分断する設計は、ふつうの民家ではまずあり得ないことは前に指摘しました。段差についても同様に、平地の敷地で屋内に約25cmもの段差を設けることも、ふつうの民家ではきわめて不自然であると思います。中央の隔壁と東西の段差は、改築や改造で生まれたものとは考えにくく、建築当初の設計であったと考えるのが自然です。一般の民家ではなく、寺子屋のための設計であったと考えると、この設計は合理性を帯びてきます。
 乙竹岩造著『日本庶民教育史』(昭和4年(1929)刊・同45年(1970)復刻)に収録する寺子屋の図面は5面で、そのうち4面には座席に男女の別が、さらにそのうちの2面には「上流」「士族/上級/中級/下級」などと社会階層の別が記入され、境界には「簾子」「板仕切」など、何らかの障壁物が設置されていたことが記入されています。寺子屋では、今の学校が学年で教室を分けるように、性別と階層で居場所を分けるのが一般であったことがここから推察できます。寺子屋は、屋内に空間が分離されている方が都合がいい施設であったと言えます。
 旧山名邸は7部屋あり、その広さは43畳、東側3室で22畳、西側4室で21畳です。東3室と西4室は中央の隔壁で分けられているだけでなく、高低差によっても差別化されています。西側より高い位置にある東側は、何かしら権威のある空間であると意味づけられていたことが推測されます。東側の出入り口が玄関であり、西側のそれが通用口であることも、上の推測と符合します。一般の寺子が通用口から入り、土間に履物を並べて西側で学んだのに対し、学習段階の進んだ寺子は通路を通って東側に着座し、士族の子弟は玄関から入っていた、そのような想像も可能です。
 屋内の採光について、大原さんは「屋内は全体に暗かったのですが、北と南は光が多く入り、明るかったと思います」と話していました。薄暗い通路部分が中央にあることで、比較的明るい南と北の部分が別の空間であると印象付けられていたとも推測されます。修天爵書堂は決して大きな建物ではありませんが、内部に隔壁と段差を設けることで、その限られた空間が、中で勉強する寺子たちにとっては互いに遠く感じられるようになっていたと考えられます。
 明治2年の信之介による調査回答には「教師 男二 女一/生徒 男九十 女六十」とあります。43畳という広さでは、これほど多くの寺子を同時に収容できたとは思えませんが、就学時間を午前と午後に分かつなど工夫をすれば、階層や性別、年齢などで寺子の着座位置を分けての教育活動は十分に可能であったと思います。
 この間取図は、二次史料とはいえ、旧山名邸が寺子屋「修天爵書堂」であったことを証明し得る唯一の物証です。これは今から20年前に書かれたものであり、書いた人も書くように依頼した人も、寺子屋を証明する史料とする意図は全くありませんでした。ただ純粋に、父親の記憶を補強するために依頼し、幼時の記憶を確認するために書いたものです。物証としては頼りないものですが、「築二百年以上」という口碑と、『津市文教史要』の山名政胤の「子弟を教授」という記述と総合した時、「修天爵書堂」が18世紀初めに実在していた事は、むしろ高い蓋然性を持つものと私は考えています。18世紀前半に寺子屋として設計され建築されていた以上、当時すでに寺子屋として相当期間、実績があったことも明らかです。『三重県教育史』は「存在したとしても、極めて原初的なものであったと想像される」と書いていますが、寺子屋に特化して設計され建築された「修天爵書堂」に対する「想像」としては、貧弱に過ぎるように思います。規模は大きくないものの、使い勝手を考えて建てたものが「極めて原初的」であるとは私には考えられません。
0322間取図中央

 藪本さんから託された資料の中に「津市史稿 伝記4一 山名政胤」の複写があります。梅原三千の書いた草稿で、『津市文教史要』『津市史』の本文のもととなった文章です。『津市文教史要』には「援拠文書 山名家残存文書」「山名政大蔵」などとあり、梅原が山名家に伝わる非公開資料を見ていたことがわかります。この草稿で梅原は、山名家の寺子屋「修天爵書堂」について一言も触れていません。両書においても、政胤に関する箇所でも、寺子屋に関する箇所(『津市文教史要』「第三篇 藩政時代の庶民教育 第一章 寺子屋」。『津市史 第三巻』にもほぼ同内容の箇所があります。なお両書はほぼ同内容なので、以降は『津市文教史要』だけを取り上げます。)でも、山名家の私塾・寺子屋については一切言及していません。「津城下に於ても、市内処々に開塾せる寺子屋あり(中略)藩政当時に於ける津町内寺子屋の沿革に付ては、文献の徴すべきもの存せず」(『津市文教史要』)。つまり「市内の寺子屋については資料が一切残っていない」としています。『三重県教育史』の記述も、梅原のこの記述を信頼した可能性はあります。しかし、これは不自然です。梅原は政大氏から山名家の資料を借りて見ています。一方、政大氏の子孫たちは皆、山名家が寺子屋をしていたと証言しています。梅原は一級の歴史学者です。史料に無頓着であったとは考えられません。戦災で山名邸が消失する以前に、邸内に寺子屋時代の資料が皆無であった、あるいは政大氏が寺子屋関係の資料を梅原に見せなかった、そういった想像も可能ですが、非常に考えにくいところです。私にはこの点が不審でしたが、最終的には次の仮説に至りました。それは「梅原はあえて無視したのであり、それは、山名政胤という無名の優れた市井の学者を歴史の表に出したい意図からであった」という仮説です。
 山名政胤については、いわゆる「国学四大人」の一人である荷田春満(かだのあずままろ)に近しかった学者として、近年ではかなり調査もされ、広く知られるようになってきました。しかし、梅原の生きた時代にはまだほとんど無名といっていい人でした。國學院大學日本文化研究所編『和学者総覧』(平成2年(1990)刊)には「11045 山名政胤 ヤマナ マサタネ (称)武内・主計(号)霊淵・養蘭斎・蘭斎 伊勢津 享保19・6・19 稲荷社別当、『津市史』3(660)」とあり、全ての情報を梅原の書いた内容に拠っています。梅原が両書で政胤を取り上げたことが、後年政胤が学者として認知されるようになった端緒となったのです。
 『日本教育史資料 四』に「巻十一 学士小伝」があり、「旧津藩」は50名を挙げています。そのうち藤堂姓を除くと30名になりますが、30名のうち『津市文教史要』にも名が見えるのは14名、『日本教育史資料 四』にのみ名が見えるの6名、『津市文教史要』にのみ名が見えるのは10名です。梅原は、津藩が「学士」として名を挙げなかった10名を学者として取り上げています。その10名のうち、判受または藩士が7名、民間人は3名です。山名政胤は3名のうちの一人で約8頁、10名中最も多い頁数が充てられています。梅原の政胤に対する高い評価がそこからも覗えます。
 今まで名が知られていなかった政胤が、実はたいへん優れた学者であったのだと、政胤を掘り起こして顕彰する時に、政胤が寺子屋「修天爵書堂」の師匠であったということはマイナスになる、梅原はそう恐れたのではないかと私は推測します。梅原の生きた時代は、まだ寺子屋というものを知っている人々が多くいたはずです。そういった人々の記憶の中にある「寺子屋の師匠」のイメージ、その学識や行跡は、学者・山名政胤のそれらとは程遠かったはずです。「たかが寺子屋の師匠風情をどうしてこんなに褒めそやすのか」という懐疑を抱かれるのを梅原は恐れ、そのために政胤の祖先や子孫が寺子屋を開業していたことも、修天爵書堂の歴史も、あえて書くことをしなかったのではないか、そう考えると、政胤が「処士」として「家職を襲」ぐ「傍ら子弟を教授」という記述も、事実の一面を確かに書いていながら、他面の事実は伏せている書き方であるとも読めます。
 『津市文教史要』の政胤についての本文は文字数で約2400字、一方の「津市史稿」は約3400字、梅原による草稿は、他者による本文・校訂を経て、字数にして約1/3がカットされています(同書凡例「前市史編纂主任嘱託梅原三千の起草に係り、津市立養正実業青年学校助教諭三井太郎之を助力し(中略)脱稿し、本県主事田所登之を校正せり」)。そのカットされた中に草稿末尾の文章があり、そこでは梅原が政胤を絶賛しています。歴史の記述としては主観性があまりに強いためにカットされた可能性があります。そこからは梅原の政胤に対する並々でない思い入れを読み取ることができます。政胤に対する自分の評価を公的な書物に記すことで、政胤を世に広く認めさせることを何よりも優先したいとの思いが梅原にあったと考えても、そう不思議ではないことがこの文章を読んで頂けるとわかって頂けるのではないでしょうか。その選択の結果、庶民教育と寺子屋に関する、より具体的な調査と記述を梅原は見送ってしまった、そのように私は推測しています。以上の仮説を支える資料として、「津市史稿」の政胤に関する最後の箇所を引用します。

 「政胤 宝永、享保の頃、津藩の士流に学者なかりし時代に於(おい)て、独り奮(ふる)うて民間に挺立(ていりつ:人が衆に秀でること)し、名声遠く外に聞(きこ)ゆるに至り、家学を遠く子孫数代に伝へて、長く津城下に於ける平民儒学家の本宗(ほんそう:中心)たる位置と名声とを持続せり。藩侯の煦育(くいく:養うこと)に浴せずと雖(いえど)も、能(よ)く燦然(さんぜん)として采華煥発(さいかかんぱつ:火が燃えるように美しく輝き現れること)せるは殊に偉なりとするに堪へたり」(( )に読みと語意を補いました)。
0323津市史稿4一政胤

 山名家の寺子屋「修天爵書堂」は、18世紀前半の享保年間辺りから存在していたことは、今までの調査と考察でほぼ了解して頂けたことと思います。それにしても、信之介の回答にある「慶長年間」という開業時期は、どの程度の真実性があるのでしょうか。
 山名家の菩提寺である西来寺(津市乙部)に、先祖たちの墓があります。過去帳に残る最も古い先祖は伊勢山名家初祖とされる義隆で、没年は寛文元年(1661)です。『津市文教史要』の「政胤の系は山名宗全に出づ。宗全の裔孫義隆、安濃津に来り住し、処士を以て終る」という記述の根拠となる史料は、西来寺の過去帳であったと思われます。一方、『津市史』には『津市文教史要』にはない記述があります。「政胤は政吉の子で、家を継いで稲荷社の別当となり、かたわら祈祷売卜を業とした」。これは「津市史稿」の次の記述を口語に変換したものです。「家を嗣ぎて稲荷社の別当たり。傍ら祈祷売卜を以て業と為す」。「売卜(ばいぼく)」とは「報酬を得て占いをすること」です。これは政胤だけでなく、「義隆の子義遠卜者に隠れ、延宝四年に卒す」ともあって、二祖義遠がすでにそれを業としていたと梅原は記しています(「延宝四年」は1676年)。これも政大が所蔵していた山名家の資料に基づいて梅原が書いたものと推察されます。
 義隆も藤堂家に士官しなかった以上、何らかの形で収入を得る必要はあったはずです。家伝口承として「寺子屋的な手習教授により生計を立てていた」と伝えられていたのかも知れませんが、今となってはそれを確かめる術はありません。ただ、山名家が津領内においてどのような家であったのかを見ておくことは、修天爵書堂をリアルにイメージするために必要です。『津市文教史要』の「義遠の子政吉、元禄八年伊予町稲荷神社別当職を命ぜられ、社傍の地を賜ひ、且神社修覆料として毎年稟米十俵を給せらる」という記述のもととなった山名家史料を、梅原は「津市史稿」で引用しています。「私元祖、往古山名家の末孫にて、当御城下に立入、浪人相立居申候。然る処、了義院様御代、伊予町稲荷御取立ニ付、社並社地一倍相備り、右、元祖大蔵へ別当仰せを蒙り、則社御修覆御米拾俵つゝ拝領仕候処、御倹約に付、当時は半減に頂戴仕候。稲荷門前左脇の地、東西十三間余、南北十間余、右は居宅の地に拝領仕、且又身分の儀は無官にて帯刀蒙御免候。但し居宅の地は其後難渋に付、借し長屋に御願申上候処、御聞済御座候に付、于今借長屋に御座候・・・(山名主計提出口上書の一部)」。「了義院様」とは藤堂藩三代高久(寛永15年(1638)~元禄16年(1703))、「伊予町稲荷」とは今の津市岩田にあった村社伊奈利神社、「大蔵」は山名政吉の通称、「于今」は「今もって」、「主計」は「政胤」とその孫「政恒」の通称です。山名家は無官でありながら藩から年十俵を支給され、帯刀を許され、居宅の地を与えられていたのです。子孫たちに伝わる「山名家は津藩の客分でした」という口承は、こういった史料がその根拠であったと推測されます。
 上の引用で注目されるのは「但し居宅の地は其後難渋に付」という「難渋」です。なぜ伊予町に与えられた約80坪の土地が「居宅」として「其後難渋」であったのでしょうか。このことと、享保年間の前後に入江町に「修天爵書堂」が建築されたことが関連している可能性はあります。入江町に寺子屋がすでに存在していて、居宅であった伊予町との往還に「難渋」したのかも知れませんし、伊予町の居宅兼寺子屋が手狭で「難渋」したのかも知れません。今となっては「難渋」の中身も、ひいては享保年間以前の山名家とその寺子屋の実態も、解明はほぼ不可能です。
0324津市史稿4一政胤b

 乙竹岩造著『日本庶民教育史』(昭和4年(1929)刊)の「第六篇 隆盛期庶民教育の全国的総括 第二章 寺子屋の規模及び児童就学の情況」に、寺子の人数と寺子屋の継続期間(乙竹は「継続年限」としています)に関するデータが示されています。それによると、寺子の人数が100人以上の寺子屋は全体の約2割弱、継続期間が100年超の寺子屋は全体の約0.4%です。修天爵書堂は寺子の人数が150名、継続期間が約250年であり、比較的大規模で長期間継続した寺子屋に分類されます。
 『日本教育史資料 八』にある寺子屋のうち、継続期間が明記されている寺子屋は8907、約9000あります(乙竹による)。それらのうち、継続期間が100年以上の寺子屋は32です(乙竹による)。私も、寺子の人数が100人以上と100人未満とに分けて、宝暦年間(1751~1764)以前に開業し、100年以上継続した、寺子の人数が明記されている寺子屋を数えたところ、乙竹の示す数値とはかなり違う結果を得ました。私の調べでは、100年以上継続した寺子屋は88で、そのうち寺子が100人以上の寺子屋は25、100人未満の寺子屋は63でした。幾世代にわたり継続した寺子屋は全体の約1%、修天爵書堂のような大規模な寺子屋で長期間継続した寺子屋は、全体の約0.3%しかなかったことがわかりました。
 こうした結果について乙竹は次のように考察しています。「恐らく一代限りで廃業したるものが可なりに多かつた為であらうと推測せられる」「百箇年以上の継続を有つたものゝ割合の最も多いのは神官である(中略)神官が多くの場合世襲的であり定住的であつたのに対して、寺院の住職は転住的であつたのにも起因する所があるのではあるまいか」「百箇年以上といふ程の長い継続は如何なる場合に成立つたのであらうか(中略)一は繁華な都会地に於て規模も大きく盛り栄えた寺子屋で、その師匠も専門の業務として全力を挙げてこれに従事し、又世業としてその子孫によつて継承せられたるものである」。この乙竹の分析は、山名家と修天爵書堂にほぼ全てあてはまります。津という城下町の中心に位置し、稲荷社の別当という神職を世襲し、寺子屋師匠には十分すぎる漢学を代々継承した山名家は、長期間寺子屋を継続するために必要な条件を完備していたと言えます。
 さらに乙竹は次のように続けます。「寺子屋は全然私人の篤志的設営であつて、官憲からは何等保護の恵に浴した訳では無く、又経営者に多大の利得の有つた訳でも無く、唯師匠の徳望と就学者父兄の信頼とに由つて、その存在を辿つたのに過ぎ無いのであるから、その栄枯転変は存外に速く且著しかつたやうである。斯かる間に在つて、拮据経営よく百年以上の継続を示し得たるものが、少くとも三十有余もあつたといふことは、寧ろ驚異の眼を以て観察せらるべき現象であつて、斯かる経営者・継続者に対しては、宜しく称賛の辞を捧ぐべきである」。
 この乙竹の文章には、研究者に必須の精神があると思います。それは、研究対象に対するリスペクトです。『三重県教育史』の寺子屋の項の執筆者にはこれが欠けています。史料がないと言いながら憶測で書いたり、先行史書や研究をふまえなかったりしたのも、この大切な前提の欠如の結果でしょう。『津市史』の「藩政時代 第六篇 教育及び学芸 第三章 庶民の教育 第一節 庶民の儒学者 山名仙龍とその子孫」には、次のような記述があります。「その子政満、孫政恒が家学を継承し、曽孫政方は修文館の教師に任命された。山名家はこのように累代津城下の一隅に学燈を輝かして、庶民子弟のために教育に任じたのである」(「政方(まさみち)」は信之介を指します)。『津市史』は明瞭に、山名家が政胤以降、庶民教育を継続して行ったことを記しています。それをちゃんとふまえてさえいたなら、『三重県教育史』のあのような記述はなかったはずです。
 それはさておき、乙竹が「普通はない」とした「官憲からの保護の恵」が、山名家の場合にはありました。藩侯の客分として帯刀を許され、稲荷社別当として宅地と米を藩は山名家に与えました。入江町の旧山名邸の千坪の敷地も、あるいは藩侯からの下賜であったと思われます。津観音近くの繁華な地に千坪の宅地は、寺子屋師匠が独力で取得・維持できたとは考えにくいところです。修天爵書堂の庶民教育への寄与と、藩侯や周囲の町人たちの経済的支援は、ごく自然に「交換」されていたと私は考えます。
 一般に、組織が長く持続するためには、ソフト面とハード面の両方が兼ね備わっている必要があります。山名家の場合、ソフト面は政胤に代表される家学としての漢学であり、ハード面は寺子屋に特化して設計・建設された修天爵書堂であったと思います。それを建物として実際に建築できるほどの条件が、享保年間(1716~1736)前後の山名家には備わっていたと考えられます。それが、私があの間取図から読み取った意味であり、その史料的な価値です。
0325日本庶民教育史

 信之介による明治2年の調査回答によると、修天爵書堂の廃業は「安政年中」(1855~1860)とあります。これは「廃業」というよりは、津藩が津観音前(今の津市大門)に設置した町民のための教育機関「修文館」への発展的解消であったと考えられます。
 『津市文教史要』の「第三篇 藩政時代の庶民教育 第二章 修文館」に次のようにあります。「安政五年斎藤正謙国校督学たり。町民子弟の為めに、学館を設置するの議を決し、津町年寄岡伝左衛門を創立事務係に命じて経画の任に当らしめ、やがて一切の準備成りて、七月廿八日左の告示を発す(中略)師範役には山名清太夫・松岡三四郎等任命せられ、八月六日天赦日を卜して開校日を挙ぐ」。「国校」とは藩校の有造館を指し、「督学」は校長にあたります。「山名清太夫」は政胤の孫・政恒の通称で、信之介の父です。その後、修文館は「明治四年廃藩置県の令下り、次いで津県を改めて安濃津県を置かるゝや、その十二月遂に一先づ廃館するの已むなきに至れり。その存立期間僅に十三年なりき」とあります。
 『日本教育史資料 四』「巻十 参照 旧津藩 旧藩主藤堂氏取調」に「郷校修文館取調之概略」があります。それによると「郷校修文館〈俗ニ町学校ト称ス〉(中略)所在ノ地ハ則チ津城外大門町ニシテ客館〈公家待賓所〉ヲ以テ之レニ充ツ 其授クル所ノ科目ハ則読書習字算学ノ三科トス 」「館中掛員 本館ハ国校督学之ヲ主宰シ 別ニ取締役指南役ト称スルモノヲ館中ニ置キ 皆市人ヲ以テ之レニ充テ(中略)指南役給俸ハ一人各毎半期六両ヲ下賜シ 歳末例年中皆勤ノ者ニハ金五両ヲ下賜シ 其他勤務ニ応シ次第シテ之ヲ下賜ス」「生徒概数 最多数ヲ占シ時ノ人員ハ二百五十余名ニ至レリ」などとあります。清太夫ら「指南役」、つまり教師たちは、あくまで「市人」、今でいう委託講師の立場で、年俸12両プラスボーナス最高5両の報酬を得て、町民の子どもたちを教えたということがわかります。このようにボーナスの額までわかるのは、この「取調」が「曾テ修文館指南役タリシモノヨリ聞得ル所ヲ筆録セルノミ」であったからです。あるいは回答者は信之介らであったのかも知れません。生徒数が最多で250名にも上り、また藩から報酬が出されていたということを考え合わせると、清太夫や信之介が旧山名邸で寺子屋を継続することは、まずあり得なかったと思われます。かりに一部の寺子を教えていたとしても、藩による調査回答には「廃業」と答えたはずです。
 清太夫の没年は文久2年(1862)です。『津市文教史要』の記述「子政方家をつぐ。通称信之介、虚舟と号す(中略)父に襲ぎて修文館の教師に任ぜらる」から、信之介は清太夫の死後、修文館の教師となったことがわかります。時に信之介は31歳、そして修文館が廃館された明治4年、彼は40歳でした。

 以上で寺子屋「修天爵書堂」についての調査報告はいったん終わり、ここからは、その最後の師匠であった山名信之介のその後を書いていきます。彼は政胤のように傑出した存在ではなく、山名家の当主としては、いわば「並」の人であったと考えられるので、その彼の実像を明らかにすることは、三重県最古の寺子屋である修天爵書堂の代々の師匠の実態を、ある程度再現することにつながると考えるからです。
明治教育史資料4

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