【翻字】
千利休居士(せんのりきうこじ)
千利休居士(せんのりきうこじ)
こゝろだに 岩木(いはき)と ならば 其侭(そのまゝ)に 都(みやこ)のうちも 住(すみ)よかるべし
〇居士姓(こじせい)は田中後(のち)千氏と改(あらた) む名は与(よ)四郎薙髪して 宗易(そうゑき)と号し別(べつ)に抛筌斎(せんさい) とよぶ十七の頃(ころ)より茶を武野(たけの) 紹鷗(ぜうおう)にならゐ禅を古渓陳(こけいのちん)和 尚にまなび茶に禅を合(がつ)して 風流(ふうりう)を尽(つく)す豊臣公(とよとみこう)に召(めさ)れて 利休居士(りきうこじ)の号を賜(たま)ひ且若干(かつそこばく) の領地(れうち)を拝(はい)す后故(のちゆへ)ありて自(じ) 殺(さつ)す時(とき)に天正十八年也
【校訂本文】
千利休居士
心だに 岩木とならば そのままに 都の内も 住み良かるべし
〇居士、姓は田中、後、千氏と改む。名は与四郎、薙髪して宗易と号し、別に抛筌斎と呼ぶ。
十七の頃より茶を武野紹鷗に習ゐ、禅を古渓陳和尚に学び、茶に禅を合して、風流を尽くす。豊臣公に召されて、利休居士の号を賜ひ、且、若干の領地を拝す。後、故ありて、自殺す。時に、天正十八年なり。
十七の頃より茶を武野紹鷗に習ゐ、禅を古渓陳和尚に学び、茶に禅を合して、風流を尽くす。豊臣公に召されて、利休居士の号を賜ひ、且、若干の領地を拝す。後、故ありて、自殺す。時に、天正十八年なり。
【語釈】
居士:仏教に帰依した在家の男子
岩木:感情を持たないもののたとえ。木石。
武野紹鷗:戦国時代の堺の豪商・茶人
古渓陳:古渓宗陳。安土桃山時代の臨済宗の僧
天正十八年:1590年。史実では利休の死は翌天正19年(1591年)。
岩木:感情を持たないもののたとえ。木石。
武野紹鷗:戦国時代の堺の豪商・茶人
古渓陳:古渓宗陳。安土桃山時代の臨済宗の僧
天正十八年:1590年。史実では利休の死は翌天正19年(1591年)。
【解説】
26人目は千利休です。この人が50人の中に選ばれたのは「茶に禅を合し」た功績によるのでしょうか。
歌は禅的ではありますが、むしろ竹林の七賢や陶淵明らの「市隠」の境地により近いようです。