江戸期版本を読む

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カテゴリ:道歌心の策(禅林五十人一首) > 道歌心の策 26~50

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【翻字】
千利休居士(せんのりきうこじ)
こゝろだに 岩木(いはき)と ならば 其侭(そのまゝ)に 都(みやこ)のうちも 住(すみ)よかるべし
〇居士姓(こじせい)は田中後(のち)千氏と改(あらた) む名は与(よ)四郎薙髪して 宗易(そうゑき)と号し別(べつ)に抛筌斎(せんさい) とよぶ十七の頃(ころ)より茶を武野(たけの) 紹鷗(ぜうおう)にならゐ禅を古渓陳(こけいのちん)和 尚にまなび茶に禅を合(がつ)して 風流(ふうりう)を尽(つく)す豊臣公(とよとみこう)に召(めさ)れて 利休居士(りきうこじ)の号を賜(たま)ひ且若干(かつそこばく) の領地(れうち)を拝(はい)す后故(のちゆへ)ありて自(じ) 殺(さつ)す時(とき)に天正十八年也

【校訂本文】
 千利休居士
 心だに 岩木とならば そのままに 都の内も 住み良かるべし
 〇居士、姓は田中、後、千氏と改む。名は与四郎、薙髪して宗易と号し、別に抛筌斎と呼ぶ。
 十七の頃より茶を武野紹鷗に習ゐ、禅を古渓陳和尚に学び、茶に禅を合して、風流を尽くす。豊臣公に召されて、利休居士の号を賜ひ、且、若干の領地を拝す。後、故ありて、自殺す。時に、天正十八年なり。

【語釈】
居士:仏教に帰依した在家の男子
岩木:感情を持たないもののたとえ。木石。
武野紹鷗:戦国時代の堺の豪商・茶人
古渓陳:古渓宗陳。安土桃山時代の臨済宗の僧
天正十八年:1590年。史実では利休の死は翌天正19年(1591年)。

【解説】
 26人目は千利休です。この人が50人の中に選ばれたのは「茶に禅を合し」た功績によるのでしょうか。
 歌は禅的ではありますが、むしろ竹林の七賢や陶淵明らの「市隠」の境地により近いようです。

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【翻字】
沢庵(たくあん)和尚
仏法(ふつほう)と 世法(せほう)は 人(ひと)の 身(み)と こゝろ ひとつかけても たらぬものなり
〇師名は宗彭(そうほう)号は沢菴但州 出石(いづし)の人にて邑(むら)の勝福(しやうふく)寺希先(きせん) 和尚の弟子也先(せん)の寂後一凍(じやくごいつとう)禅師の 印記(いんき)を受(うけ)て大徳(たいとく)寺に出 世す元和上皇(けんわじやうくはう)其徳をしたひ 宮にめして法要(はふやう)をたづね給ひ 大樹(だいじゆ)また武江品川に東海(とうかい)寺 をいとなみ給ひ師に命じて 開山とし給ふ又柳生侯(やぎふこう)も刀術(とうじゆつ)を 極(きわ)めんために師(し)に参禅せらる師則 不動智(ふどうち)といへる書を編(あみ)て侯(こう)に 示(しめ)さる一日侯師(こうし)を訪師其至(とふしそのいた)る処 を尋ね給ふ折(をり)ふし雨中(うちう)なりしかば侯 椽先(ゑんさき)より飛石(とびいし)の上(うへ)へ飛下り飛上り し給ふ事数回(すくわい)されども少(すこ)しもぬれ 玉(たま)はず師之(しこれ)を見てまだまだ危(あやふ)し 老僧(らうそう)が早業(はやわざ)を見給へとて又椽先 より飛下り飛上りし給ふに身一(ひと)し ぼりにぬれ給ひしかば侯も大に感(かん)じ 給ひしとぞ正保二年十二月十一日 寿七十三にて化す

【校訂本文】
 沢庵和尚
  仏法と 世法は 人の身と心 一つ欠けても 足らぬものなり
 〇師、名は宗彭、号は沢菴。但州出石の人にて、村の勝福寺・希先和尚の弟子なり。先の寂後、一凍禅師の印記を受けて、大徳寺に出世す。元和上皇、その徳を慕ひ、宮に召して、法要をたづね給ひ、大樹、また、武江・品川に、東海寺を営み給ひ、師に命じて、開山とし給ふ。
 又、柳生侯も、刀術を極めんために、師に参禅せらる。師、則ち、『不動智』といへる書を編みて、侯に示さる。
 一日、侯、師を訪ふ。師、その至る処を尋ね給ふ折ふし、雨中なりしかば、侯、縁先より飛び石の上へ、飛び下り、飛び上がりし給ふ事、数回、されども、少しも濡れ給はず。師、之を見て、「まだまだ危し。老僧が早業を見給へ」とて、又、縁先より飛び下り、飛び上がりし給ふに、身、一しぼりに濡れ給ひしかば、侯も、大いに感じ給ひし、とぞ。
 正保二年十二月十一日、寿、七十三にて化す。

【語釈】
但州出石:現兵庫県豊岡市出石町
勝福寺:出石の臨済宗の寺院・宗鏡寺に当時あった一塔頭
希先:希先西堂。当時、宗鏡寺の僧であった。
一凍禅師:一凍紹滴。当時、京都・大徳寺の住持であった。
印記:ここでは、禅宗で師僧が弟子に法を授けて悟りを得たことを証明・認可する印可状を書くこと
大徳寺:京都の臨済宗の寺院
出世:禅宗で僧が大寺院の住職となること
元和上皇:後水尾天皇。寛永6年(1629年)譲位後、長く院政を敷いた。
法要:仏の教えの大切な要点。寛永15年(1638年)、沢庵は後水尾上皇に『華厳原人論』(唐・宗密著)を出講している。
大樹:将軍・征夷大将軍の異名(『後漢書』「馮異伝」)
武江:武蔵国江戸
東海寺:寛永16年(1639年)、沢庵を開山として創建された臨済宗の寺院
柳生侯:柳生宗矩。柳生新陰流の創始者として徳川将軍家の兵法指南役を務めた。
『不動智』:『不動智神妙録』。「剣禅一致」を説いた書。
正保二年:1646年

【解説】
 27人目は沢庵宗彭です。紹介文の分量が他に比して大きく、その理由は柳生宗矩との交渉の記述、特に逸話が詳しいことによります。
 この逸話は、とぼけた味わいがあり、禅味豊かです。両者の出会いはともに60歳前後のことです。禅の高僧が雨中びしょ濡れになるまで縁と敷石を往復した様もおかしいなら、それを見て深く感心した柳生宗矩もおかしく、実に良く出来た逸話です。
 歌は「仏法」と「世法」の調和を詠んでいます。寛永4年(1627年)、沢庵は後水尾天皇と江戸幕府との対立による「紫衣事件」に関与し、罪せられます。本書が江戸幕府治下における出版である以上、この歌はそれをふまえての内容であると推察されます。体制迎合的な歌意は、禅僧の歌らしくはありません。

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【翻字】
雲居(うんご)和尚
物毎(ものごと)に 執着(しうじやく) せざる こゝろこそ 無念夢想(むねんむさう)の 無住(むぢう)なりけれ
〇師名は希膺(きよう)号は雲居初め 大徳寺に入て薙髪(ちはつ)し後(のち)妙心 寺に出世して法を一宙(ちう)和尚に 嗣奥松島(つぎをくまつしま)の瑞岩(ずいがん)寺に住(ぢう)し 祥岩の山上に隠栖(いんせい)して 山を出ざる事旬余(じゆんよ)ひとつの 白鹿(はくろく)来て師の榻(いす)に馴(なれ)よる こと常(つね)也万次二年八月八日熊(ゆう) 然(ぜん)として爰(こゝ)に示寂(じじやく)す寿七十七 勅して円満国師(ゑんまんこくし)と諡す

【校訂本文】
 雲居和尚
 物毎に 執着せざる 心こそ 無念夢想の 無住なりけれ
 〇師、名は希膺、号は雲居。初め、大徳寺に入りて、薙髪し、後、妙心寺に出世して、法を一宙和尚に嗣ぎ、奥松島の瑞岩寺に住し、祥岩の山上に隠栖して、山を出でざる事、旬余、ひとつの白鹿来て、師の榻に馴れ寄ること、常なり。
 万次二年八月八日、悠然として、ここに示寂す。寿七十七。勅して「円満国師」と諡す。

【語釈】
無住:仏語で、心の中の一切の束縛を断ち切った、とらわれのない状態
大徳寺:京都の臨済宗の寺院
妙心寺:京都の臨済宗の寺院
出世:禅宗で僧が大寺院の住職となること
一宙:一宙東黙
瑞岩寺:瑞巌寺。宮城県松島町の臨済宗の寺院。
祥岩の山上:現仙台市青葉区の蕃山山麓。慶安3年(1650年)、雲居希膺はここに小庵を結び隠棲した。
旬余:十年余り
榻:牛車の乗り降りに使用する踏み台

【解説】
 28人目は雲居希膺です。紹介文はその略歴です。
 歌意は仏教の本質を詠んだもので、簡明です。

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【翻字】
愚堂(ぐだう)和尚
あし原(はら)や 絶(たえ)て ひさ しき のりの道(みち)を 踏(ふみ)わけ たるは此翁(このおきな)かな
〇師名は東寔(とうしよく)号は愚堂初め 南渓(なんけい)和尚に随侍(ずいし)して省(せい)あり 後聖沢の庸山(ようさん)和尚に見(まみ)ゆる に機契(かなは)ず一夜院後(いんご)の竹林(ちくりん)に 入て工夫(くふう)すあしたに及(およ)びてかきり もなき蚊(か)の血(ち)に飽(あき)て紛々(ふんふん)と 地に落(おつ)るを見る其苦悩(そのくなふ)いふべ からず果(はた)して徹(てつ)する処ありて 庸山和尚の印(いん)を受(うけ)大(おゝい)に東陽(とうやう) の道(みち)を起(おこ)す元和帝(げんわてい)師の徳(とく)ある を以て崇信(そうしん)ことに厚し寛文 元年十月朔日化す寿八十勅し て宝鑑(ほうかん)国師と諡す此哥は師が自讃(じさん) なり其頃諸方(そのころしよほう)の僧徒詩(そうとし) 文に耽(ふけり)て祖師(そし)の真風(しんふう)を失(うしな)ふ師 一臂(いつひ)をかゝげ絶(たへ)て久しき法(のり)の道を 踏分(ふみわけ)大に禅法(ぜんはふ)を中興し給ひしと の心なり

【校訂本文】
 愚堂和尚
 葦原や 絶えて久しき 法の道を 踏み分けたるは この翁かな
 〇師、名は東寔、号は愚堂。初め、南渓和尚に随侍して、省あり。後、聖沢の庸山和尚に見ゆるに、機、契はず。一夜、院後の竹林に入りて、工夫す。朝に及びて、限りもなき蚊の、血に飽きて、紛々と地に落つるを見る。その苦悩、言ふべからず。果たして、徹する処ありて、庸山和尚の印を受け、大いに東陽の道を起こす。
 元和帝、師の徳あるを以て、崇信、殊に厚し。寛文元年十月朔日、化す。寿、八十。勅して「宝鑑国師」と諡す。
 この歌は、師が自讃なり。その頃、諸方の僧徒、詩文に耽りて、祖師の真風を失ふ。師、一臂を掲げ、絶へて久しき法の道を踏み分け、大いに禅法を中興し給ひし、との心なり。

【語釈】
葦原:日本国の異称
南渓:正しくは南景宗岳。当時、現姫路市にあった臨済宗の寺院・三友寺の開山。
随侍:尊い人のそばにいて仕えること
聖沢:京都・妙心寺の塔頭・聖沢院
庸山:庸山景庸。妙心寺86世住持。
工夫:禅宗で、座禅に専心すること
印:印可。禅宗で、師僧が弟子に法を授けて、悟りを得たことを証明認可すること。
東陽:東陽英朝。大徳寺53世住持・妙心寺13世住持・妙心寺聖沢派の開祖。
元和帝:第108代・後水尾天皇(在位:慶長16(1611年)~寛永6年(1629年))
寛文元年:1661年
祖師:仏教で、一つの宗派を開いた人
一臂:片方のひじ・片腕。転じて、わずかな力・少しの助力。

【解説】
 29人目は愚堂東寔です。紹介文はその禅僧としての経歴が師弟関係を含めて詳しく述べられています。また、歌も「師の自讃の歌である」と、はっきりとその性格が説明されています。こうした点は今までの28人には見られないもので、本書編者の立ち位置を明確に伺わせます。編者はおそらく妙心寺聖沢派に属する人物でしょう。

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【翻字】
一絲(いつし)和尚
梅(むめ)が香(か)を さくらの 花(はな)に 匂(にほ)はせて 柳(やなき)の枝(えだ)に さかせてしかな
〇師名は文守(ぶんしゆ)号は一絲(いつし)久我具(くがとも) 尭卿(のりけう)の男也薙髪の後偶禅禄(のちたまたまぜんろく) を閲(けみ)して半(なかば)は信じ半は疑(うたが)ふ之(これ)より 沢菴(たくあん)の室(しつ)に入て深(ふか)く直指(ぢきし)の旨を 叩(たゝ)く一日大恵普説(だいゑのふせつ)を読(よみ)て忽然(こつぜん) と大悟す愚堂(ぐだう)和尚の灯明(とうめい)を得 て大に宗風をふるひ元和帝の 帰依(きゑ)ことにして霊源法常(れいげんほうじやう)の二 寺を開創(かいそう)す又江州永源寺に 至(いたつ)て寂室(じやくしつ)の道(みち)を中興(ちうこう)す正保 三年三月十九日寂す寿三十九 勅して仏頂(ふつてう)国師と諡を賜ふ

【校訂本文】
 一絲和尚
 梅が香を 桜の花に 匂はせて 柳の枝に 咲かせてしがな
 〇師、名は文守、号は一絲、久我具尭卿の男なり。
 薙髪の後、たまたま、禅禄を閲して、半ばは信じ、半ばは疑ふ。之より、沢菴の室に入りて、深く、直指の旨を叩く。一日、『大恵普説』を読みて、忽然と大悟す。愚堂和尚の灯明を得て、大いに宗風を振るひ、元和帝の帰依ことにして、霊源・法常の二寺を開創す。又、江州・永源寺に至つて、寂室の道を中興す。
 正保三年三月十九日、寂す。寿、三十九。勅して「仏頂国師」と諡を賜ふ。

【語釈】
久我具尭:岩倉具堯。室町後期から江戸初期の公家。
沢菴:沢庵宗彭(本書27)。安土桃山から江戸前期の臨済宗の僧。
直指の旨を叩く:ここでは、禅宗の教えを請うために修行する意。
大恵普説:不詳。宋の臨済宗の僧・大慧宗杲の『大慧普覚禅師書』(及びその注解書)を指すか。
愚堂:愚堂東寔(本書29)。安土桃山から江戸前期の臨済宗の僧。
元和帝:第108代・後水尾天皇
霊源:霊源寺。現京都市北区の臨済宗の寺。
法常:法常寺。現亀岡市の臨済宗の寺。
永源寺:現滋賀県東近江市の臨済宗の寺
寂室:寂室元光。鎌倉後期から南北朝の臨済宗の僧。康安元年(1361年)に創建された永源寺の開山。

【解説】
 30人目は一絲文守です。紹介文はその略歴、歌は平易で、無差別の境地を詠んだものかと思います。

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