江戸期版本を読む

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カテゴリ: 軍記物語

   官軍召し集めらるる事

 さる程に、内裏より左大将公教卿、藤宰相光頼卿二人御使にて、八條烏丸の美福門院へ参り、権右少弁惟方を以て、故院の御遺誡を申し出さる。此の兵乱の出で来らんずる事をば.かねて知召しけるにや、内裏へ召さるべき武士の交名を註し置かせ給へるなり。義朝、義康、頼政、季実、重成、維繁、実俊、助経、信兼、光信等なり。安芸守清盛は多勢の者なれば、上も召さるべけれども、一の宮重仁親王は、故刑部卿忠盛の養君にてましませば.清盛は御傅子なれば、故院御心を置かせ給ひて.御遺誡にも入れ給はざりしを、女院御謀を以て、「故院の御遺誡に任せて、内裏を守護し奉るべし。」と、御使ありければ、清盛舎弟子共引具して参りけり。諸国の宰吏、諸衛の官人、六府の判官、各兵仗を帯して候じけり。公家には関白殿下、内大臣実能、左衛門督基実.伏見源中将師仲などぞ参られける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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   新院御所各門々固めの事 附 軍評定の事

 新院は.斎院の御所より北殿へ遷らせ給ふ。左府は車にて参り給ふ。白河殿より北、河原より東、春日の末にありければ、北殿とぞ申しける。南の大炊御門面に、東西に門二つあり。東の門をば平馬助忠承つて、父子五人、並に多田蔵人大夫頼憲、都合二百余騎にて固めたり。西の門をば六條判官為義承つて.父子六人して固めたり。其の勢百騎許りには過ぎざりけり。是れこそ猛勢なるべきが、嫡子義朝に附いて、多分は内裏へ参りけり。爰に鎮西八郎為朝は、「我は親にも連れまじ、兄にも具すまじ。高名不覚も紛れぬ様に、只一人如何にも強からん方へ差向け給へ。縦令千騎もあれ、万騎もあれ、一方は射払はんずるなり。」とぞ申しける。依つて西河原表の門をぞ固めける。北の春日表の門をば、左衛門大夫家弘承つて、子共具して固めたり。其の勢百五十騎とぞ聞えし。抑為朝一人として殊更大事の門を固めたる事、武勇天下に許されし故なり。件の男器量人に越え、心飽くまで剛にして、大力の強弓、矢次早の手ききなり。弓手の肘、馬手に四寸伸びて、矢束を引く事世に越えたり。幼少より不敵にして、兄にも所をおかず、傍若無人なりしかば、身に添へて都に置きなば、悪しかりなんとて、父不孝して、十三の歳より鎮西の方へ追ひ下すに、豊後国に居住し、尾張権守家遠を傅とし、肥後国阿曾平四郎忠景が子三郎忠国が婿になつて、君よりも賜はらぬ九国の総追捕使と号して.筑紫を従へんとしければ、菊池原田を始めとして、所々に城を構へて立籠れば、「其の儀ならば、いで落いて見せん。」とて、未だ勢もつかざるに、忠国ばかりを案内者として、十三の歳の三月の末より.十五の歳の十月まで、大事の軍をする事二十余度、城を落す事数十箇所なり。城を攻むる謀、敵を打つ術、人に勝れて、三年が内に九国を皆攻め落して、自ら総追捕使に押しなつて、悪行多かりけるにや、香椎宮の神人等、都に上り訴へ申す間、いにし久寿元年十一月二十六日、徳大寺中納言公能卿を上卿として、外記に仰せて宣旨を下さる。

 源為朝久しく宰府に住し、朝憲を忽緒し、咸綸言に背く、梟悪頻りに聞え、狼藉尤も甚し、早く其身を禁進せしむべし。依て宣旨執達件の如し。

然れども為朝猶参洛せざりければ、同じき二年四月三日父為義を解官せられて、前検非違使になされけり。為朝これを聞きて、「親の科に当り給ふらんこそ浅ましけれ。其の儀ならば、我こそ如何なる罪科にも行はれんず。」とて急ぎ上りければ、国人共も上洛すべき由申しけれども、「大勢にて罷り上らん事、上聞穏便ならず。」とて、形の如くに附き従う兵許り召具しけり。乳母子の箭前払の須藤九郎家季、其の兄透間数の悪七別当、手取の与次、同じき与三郎、三町礫の紀平次大夫、大矢の新三郎、越矢の源太、松浦の二郎左中次、吉田の兵衛、打手の紀八、高間の三郎、同じき四郎を始めとして.廿八騎をぞ具したりける。依つて去年より在京したりしを、父不孝を赦して、今度の御大事に召具しけるなり。
 為朝は七尺計りなる男の、目角二つ切れたるが、紺地に色々の糸を以て、獅子丸を縫つたる直垂に.八龍といふ鎧を似せて、白き唐綾を以て縅したる大荒目の鎧、金物打つたるを著る儘に、三尺五寸の太刀に熊の皮の尻鞘入れ、五人張の弓、長さ七尺五寸にて釻打つたるに.三十六差したる黒羽の矢負ひ、兜をば郎等に持たせて歩み出でたる体、樊噲も斯くやと覚えてゆゆしかりき。謀は脹良にも劣らざれば、堅き陣を破る事、呉子孫子が難しとする処を得、弓は養由をも恥ぢざれば、天を翔る鳥、地を走る獣、恐れずといふ事なし。上皇を始め進らせて、あらゆる人々、音に聞ゆる為朝見んとて挙り給ふ。
 左府即ち、「合戦の趣計らひ申せ。」と宣ひければ、畏まつて、「為朝久しく鎮西に居住仕つて、九国の者共従へ候に付いて、大小の合戦数を知らず。中にも折角の合戦二十余箇度なり。或は敵に囲まれて強陣を破り、或は城を攻めて敵を亡ぼすにも、皆利を得る事夜討に如く事侍らず。然れば、唯今高松殿に押寄せ、三方に火を懸け、一方にて支へ候はんに、火を遁れん者は矢を免るべからす.失を恐れん者は、火を遁るべからず。主上の御方心にくくも候はず。但し兄にて候義朝などこそ駆け出でんずらめ。それも真中指して射通し候ひなん。まして清盛などがへろへろ失、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、蹴散らして捨てなん。行幸他所へ成らば、御免を蒙つて、御供の者、少々射んずる程ならば、定めて駕輿丁も御輿を捨てて逃げ去り候はんずらん。其の時為朝参り向ひ、行幸を此の御所へ成し奉り、君を御位に即け進らせんこと、掌を返す如くに候べし。主上を迎へ進らせん事、為朝矢二つ三つ放さんするばかりにて、未だ天の明けざらん前に勝負を決せん條、何の疑ひか候べき。」と、憚る所もなく申したりければ、左府、「為朝が申す様以ての外の荒儀なり。年の若きが致す所か。夜討などいふ事、汝等が同士軍、十騎二十騎の私事なり。さすが主上上皇の御国争ひに源平数を尽して、両方にあつて勝負を決せんに、無下に然るべからず。其の上南都の衆徒を召さるる事あり。興福寺の信実、玄実等、吉野十津河の指矢三町.遠矢八町といふ者共を召具して、千余騎にて参るが、今夜は宇治に著き、富家殿の見参に入り、暁此処へ参るべし。彼等を待ち調へて合戦をば致すべし。又明日院司の公卿殿上人を催さんに.参らざる者どもをば死罪に行ふべし。首を刎ぬる事両三人に及ばば、残りはなどか参らざるべき。」と仰せられければ、為朝上には承伏申して、御前を罷り立ちてつぶやきけるは、「和漢の先蹤朝廷の礼節には似も似ぬ事なれば、合戦の道をば、武士にこそ任せらるべきに、道にもあらぬ御計らひ如何あらん。義朝は武略の奥義を極めたる者なれば、定めて今夜寄せんとぞ仕り候らん。明日までも延べばこそ、吉野法師も奈良の大衆も入るべけれ。只今押寄せて風上に火を懸けたらんには、戦ふとも争でか利あらんや。敵勝つに乗る程ならば、誰か一人安穏なるべき。口惜しき事かな。」とぞ申しける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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注:久寿元年11月26日付院宣の原文は漢文です。原文のままのUPは至難のため、訓点に従って書き下しました。その際、原文の一部に送り仮名のない箇所「(早)可令(禁進其身。依宣旨執達)如件。」があり、その箇所は「(早く其身を禁進せ)しむべし。(依て宣旨執達)件の如し。」と送り仮名を補って書き下してあります。

   将軍塚鳴動 並 彗星出づる事

 さる程に鳥羽殿には.故院の旧臣左大将公教卿、藤宰相光頼卿、右大弁顕時朝臣など籠居し給ひけるが、去んぬる八日より彗星東方に出で、将軍塚頻りに鳴動す。天変地妖、占文のさす所、慎み更に軽からず。「新院の御所には軍兵数千騎参り集まりて、公卿殿上人を召すに、参らざる者をば死罪に行ふべしと、左府議せらるなれば、我等とても其の難を遁るべからず。其の上京中を焼き払ひ、内裏にも火をかけて攻めんに、行幸他所へ成らば、御輿にも矢を進らせんなどと、為朝とかやが申すなれば、君とても安穏にわたらせ給はんや。一院隠れさせ給ひて、十箇日の内に、斯かる不思議の出で来ぬるこそあさましけれ。内裏にも仙洞にも、御追善の営みの外は他事坐すまじきに、こは如何になりぬる世の中ぞや。天照大神は.百王を守らんとの御誓ひも、尽きぬるやらん。」と申されければ、光頼卿熟事の心を思ふに、「日本は是れ神国なり。されば御裳河の流れ絶えずして、すでに七十七代の天津日嗣を受けたまふ。昔崇神天皇の御時、天津社国津社を定め置かれてより以来、神わざ事繁き国の営み、只宝祚長久のためなり。七千余座の神祇、夜の守昼の守、なじかは怠り給ふべき。就中推古天皇の御時.上宮太子世に出でて、守屋の逆臣を亡ぼして仏法を弘め、四天王寺を建てて国家を祈り、聖武天皇東大寺を建てて、大神宮の御本地を顕はして、帝運を祈請し給ふ。行基菩薩は、河州石河郡に四十九院を建て初め給ひて、宝祚を鎮護し給ひしより、伝教大師比叡山を開基して一乗妙典を崇め、弘法大師は高野山に建立して、真言の秘法を修行して専らに天下の護持を致す。殊に白河鳥羽の両院、仏法に帰し坐して、国郡数神に裁きたり、田園多く仏聖に寄せらる。依つて三宝も国家を守り給ふべし、神明も帝祚を捨て給はんや。其の上此の京は.桓武天皇の御宇延暦十三年十月二十一日、長岡の京より遷られて後、弘仁元年九月十日、平城の先帝世を乱り給ひしかども此の京は無為なり。其の後帝王廿七代、星霜三百四十八年の春秋を送れり。其の間にも朱雀院の御宇には、将門純友東西に乱逆をなし、後冷泉の御世には、貞任宗任兄弟謀叛を企て、或は八箇国を従へて八箇年合戦し、或は陸奥に支へて、十二年まで防ぎ戦ひしかども、敢て都の乱にならず終に皇化に遵ひき。されば今も誰人かその京を滅ぼし、何者か我が君を傾けん。南には正八幡大菩薩、男山に跡を垂れて京都を守り、北には賀茂大明神、東西には稲荷.祇園、松尾、大原野等、光を双べて日夜に結番し、禁闈を守り給ふ。縦令逆臣乱をなすとも、争でか霊神の助なかるべき。」と憑もしげにぞ宣ひける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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   主上三條殿行幸 附 官軍勢汰への事

 さる程に、内裏は高松殿なりしかば、分内狭くて便宜悪しかりなんとて、俄に東三條殿へ行幸成る。主上は御引直衣にて、腰輿に召さる。神璽宝剣を取りて、御輿に入れ進らせらる。御供の人々には、関白殿、内大臣実能、左衛門督基実、右衛門督公能、頭中将公親朝臣、左中将光忠、蔵人少将忠親、蔵人右少弁資長、右少将実定、少納言入道信西、春宮学士俊憲、蔵人治部大輔雅頼、大外記師業等なり。武士の名字は註すに及ばず。
 其の時義朝を御前に召さる。赤地の錦の直垂に、折烏帽子引立て、脇立ばかりに太刀帯いたり。少納言入道を以て.軍の様を召問はる。義朝畏まつて申しけるは、「合戦の術様々に候へども、即時に敵を従へ、立所に利を得ること、夜討に過ぎたる事候はず。就中南都より大勢にて、吉野十津河の者共を召具して.千余騎にて今夜宇治に著き、明朝入洛仕る由聞え候。故に勢の属かぬ前に押寄せ候はん。内裏をば清盛などに守護せさせられ候へ。義朝は罷り向つて、忽ちに勝負を決し候はん。」とぞ勧めける。
 信西御前の床に候ひけるが、殿下の御気色を承つて申しけるは、「此の儀尤もしかるべし。詩歌管絃は臣家の翫ぶ所なりと雖も、それ猶昧し。況んや武芸の道に於てをや。一向汝が計らひたるべし。誠に先んずる時は人を制す、後にする時は人に制せらるといへば、今夜の発向尤もなり。然らば清盛を留めん事も然るべからず、武士は皆々罷り向ふべし。朝威を軽しめ奉る者、豈天命に背かざらんや。早く兇徒を追討して、逆鱗を休め奉らば、先づ日来申す処の昇殿に於ては、疑ひあるべからず。」と申されければ、義朝、「合戦の場に罷り出でて、何ぞ余命を存せん。只今昇殿仕つて冥途の思出にせん。」とて、押して階上へ昇りければ、信西、「こは如何。」と制しけり。主上之を御覧じて、御入興ありけるとなり。
 十一日寅の刻に、官軍既に院の御所へ押寄する。折節東国より軍勢上り合ひて、義朝に相従ふ兵多かりけり。先づ鎌田次郎正清を始めとして、後藤兵衛実基、近江国には、佐々木源三、八島冠者。美濃国には、平野大夫、吉野太郎。尾張国には、舅熱田大宮司が奉る家子郎等。三河国には、志多良中條。遠江国には横地、勝俣、井八郎。駿河国には.入江右馬允、高階十郎、興津四郎、神原五郎。伊豆には狩野工藤四郎親光、同じき五郎親成。相模には大庭平太景義、同じき三郎景親、山内須藤刑部丞俊通、其の子瀧口俊綱、海老名源八季定、秦野次郎延景、荻野四郎忠義。安房には安西、金余、沼平太、丸九郎。武蔵には豊島四郎、中條新五、新六、成田太郎、箱田次郎、河上三郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎、長井斎藤別当実盛、同じき三郎実員、横山悪次、悪五、平山、相原、児玉に荘太郎、猪股に岡部六弥太、村山に金子十郎家忠、山口六郎、仙波七郎.高家に河越、師岡、秩父武者。上総には介八郎。下総には千葉介常胤。上野には瀬下七郎、物射五郎、岡本介名波太郎。下野には八田四郎、足利太郎。常陸には中宮三郎、関二郎。甲斐には塩見五郎同じき六郎。信濃には海野、望月、諏訪、蒔、桑原、安藤、木曽中太、弥中太、根井大弥太、根津神平、志妻小次郎、片桐小八郎大夫、熊坂四郎を始めとして、三百余騎とぞ註したる。
 清盛に相従ふ人々には弟の常陸介頼盛、淡路守教盛、大夫経盛、嫡子中務少輔重盛、次男安芸判官基盛、郎等には筑後左衛門家定、其の子左兵衛尉貞能、与三兵衛景安、民部大輔為長、其の子太郎為憲。河内国には、草刈部十郎大夫定直、瀧口家綱、同じき滝口太郎家次。伊勢国には、古市伊藤武者景綱、同じき伊藤五忠清、伊藤六忠直。伊賀には山田小三郎伊行。備前国の住人難波三郎経房。備中国の住人瀬尾太郎兼康を始めとして、六百余騎とぞ註したる。兵庫頭源頼政に相従ふ兵誰々ぞ。先づ渡辺党に省播磨次郎、授薩摩兵衛、連源太、与右馬允、競瀧口.丁七唱を始めとして.二百騎許りなり。佐渡式部大輔重成百騎、陸奥新判官義康百騎、出羽判官光信百騎、周防判官季実五十騎、隠岐判官維繁七十余騎、平判官実俊六十余騎、進藤判官助経五十余騎、和泉左衛門尉信兼八十余騎、都合一千七百余騎とぞ註したる。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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注:原文、信西の発話の一部に字句の欠落があり(…然らば清盛を留めん事も然るべらず、…)、補いました(…然らば清盛を留めん事も然るべからず、…)。

 巻之二

   白河殿義朝夜討に寄せらるる事

 白河殿には斯くとも知召さざりしかば、左大臣殿武者所の親久を召されて、「内裏の様見て参れ。」と仰せければ、親久.即ち馳せ帰り、「官軍既に寄せ候。」と申しも果てねば、先陣既に馳せ下る。其の時鎮西八郎申しけるは、「為朝が千度申しつるは爰候爰候。」と忿りけれども力及ばず。為朝を勇ません為にや、俄に除目行はれて、蔵人たるべき由仰せけり。八郎、「是れは何といふ事ぞ。敵既に寄せ来るに、方々の手分をこそせられんずれ。只今の除目物騒なり。人々は何にも成り給へ。為朝は今日の蔵人とよばれても何かせん。只本の鎮西八郎にて候はん。」とぞ申しける。
 さる程に下野守義朝は、二條を東へ発向す。安芸守清盛も、同じく続きて寄せけるが、明くれば十一日東塞りなる上、朝日に向つて弓引かんこと恐れありとて、三條へ打下り、河原を馳せ渡して、東の堤を上りに北へ向つてぞ歩ませける。下野守は大炊御門河原に、前に馬の駆場を残して.河より西に東頭に控へたり。新院の御所にも、敵既に西南の河原に鯢波を作つて攻め来れば、為義以下の武士.各固めたる門々より駆け出でけり。判官が手には、四郎左衛門頼賢と八郎為朝と.先陣を争ひて、既に珍事に及ばんとす。頼賢思ひけるは、「今子共の中には、我こそ兄なれば、今日の先陣をば、誰かは駆けん。」といふ。為朝は又、「恐らくは弓矢取つても、打物取つても我こそあらめ。其の上判官も軍の奉行を仕らせらるる上は、我こそあらめ。」と論じけるが、暫く思案して、兄達をも蔑にするえせ者とて、親に不孝せられしが、適勘当赦されたる身の、父の前にて兄と先を論ぜん事、悪しかりなんと思ひければ、「所詮誰々も駆けさせ給へ。強からん所をば、幾度も承つて支へ奉らん。」とぞ申しける。
 四郎左衛門之を聞きも咎めず、則ち西の川原へ出で向ふ。紺村濃の直垂に、月数といふ鎧の朽葉色の唐綾にて縅したるを著、二十四差したる大中黒の失、頭高に負ひなし、重籐の弓眞中取つて、桃花毛なる馬に鏡鞍置いてぞ乗つたりける。大炊御門を西へ向つて防ぎけるが、「爰を寄するは源氏か平家か、名乗れ聞かん。かく申すは六條判官為義が四男、前左衛門尉頼賢。」とぞ名乗りける。河向に答へて曰く.「下野守殿の郎等、相模国の住人須藤刑部丞俊通が子息瀧口俊綱、先陣を承つて候。」と申せば、「偖は一家の郎等ござんなれ。汝を射るにあらず、大将軍を射るなり。」とて、川越に矢二つ放つ。夜中なれば誰とは知らず、矢面に進んだる者二騎射落されぬ。四郎左衛門も、内兜を射させて引退く。下野守は矢合に郎等を射させて、安からず思はれければ、既に駆けんとしたまへば、鎌田次郎正清轡に取り付いて、「爰は大将軍の駆けさせ給ふ所にて候はず。千騎が百騎、百騎が十騎になりてこそ打ちも出でさせ給はめ。」と申しけれども、猶駆けんとし給ふ間、歩立の兵八十余人ありけるを招き寄せて、此の由をいひ含め.大将軍を守護せさせ、正清馬に打乗つて真先にこそ進みけれ。
 安芸守は、二條河原の東堤の西に向つて控へたり。其の勢の中より五十騎ばかり、先陣に進んで押寄せたり。「爰を固め給ふは誰人ぞ、名乗らせたまへ。かく申すは安芸守殿の郎等に、伊勢国の住人故市伊藤景綱。」「同じき伊藤五、伊藤六」とぞ名乗りける。八郎これを聞き、「汝が主の清盛をだに、あはぬ敵と思ふなり。平家は柏原天皇の御末なれども、時代久しくなり下れり。源氏は誰かは知らぬ。清和天皇より為朝までは九代なり、六孫王より七代.八幡殿の孫六條判官為義が八男鎮西八郎為朝ぞ。景綱ならば引退け。」とぞ宣ひける。景綱、「昔より源平両家天下の武将として、違勅の輩を討つに、両家の郎等大将を射ること互にこれあり。同じ郎等ながら、公家にも知られ進らせたる身なり。其の故は伊勢国鈴鹿山の強盗の張本小野七郎を搦めて、副将軍の宣旨を蒙りし景綱ぞかし。下臈の射る矢、立つか立たぬか御覧ぜよ。」とて、能つ引いて射たれども、為朝之を事ともせず、「合はぬ敵と思へども、汝が詞のやさしきに、失一つ賜はらん、受けて見よ。且は今生の面目、又は後生の思出にもせよ。」とて、三年竹の節近なるを少し押磨いて、山鳥の尾を以て作いだるに、七寸五分の丸根の、箟中過ぎて箟代のあるをうちくはせ、暫し保つてひようと射る。真先に進んだる伊藤六が胸板かけず射徹し、余る矢が、伊藤五が射向の袖に、裏返してぞ立つたりける。六郎は矢場に落ちて死ににけり。
 伊藤五此の矢を折りかけて、大将軍の前に参つて、「八郎御曹司の矢御覧候へ。凡夫の所為とも覚え候はず。六郎既に死に候ひぬ。」と申せば、安芸守を初めて、此矢を見る兵共、皆舌を振つてぞ恐れける。景綱申しけるは、「彼の先祖八幡殿.後三年の合戦の時、出羽国金沢の城にて武則が申しけるは、君の御矢に中る者、鎧兜を射徹されずといふことなし。抑君の御弓勢を、たしかに拝み奉らばや。」と望みければ、義家革能き鎧三領重ね、木の枝に懸けて、六重を射徹し給ひければ、鬼神の変化とぞ恐れける。是れより弥兵共帰服しけりと、申し伝へて聞くばかりなり。眼前にかかる弓勢も侍るにや。あな怖ろし。」とぞおぢあへる。
 かく口々に云はれて、大将のたまひけるは、「必ず清盛が此の門を承つて向ひたるにもあらず、何となく押寄せたるにてこそあれ。何方へも寄せよかし。さらば東の門か。」とあれば、兵みな、「それも此の門近く候へば、若し同じ人や固めて候らん。只北の門へ向はせたまへ。」といへば、「さも言はれたり。今は程なく夜も明けなんず。然れば、小勢に大勢駆け立てられんも見苦しかりなん。」とて引退く処に、嫡子中務少輔重盛生年十九歳、赤地の錦の直垂に、沢潟縅の鎧に、白星の兜を著、二十四差いたる中黒の矢負ひ、二所籐の弓持つて、黄土器毛なる馬に乗り、進み出でて、「勅命を蒙つて罷り向ひたる者が、敵陣強しとて引返す様やあるべき。続けや若者共。」とて駆け出でられけるを、清盛之を見て、「あるべうもなし、あれ制せよ、者ども。為朝が弓勢は目に見えたる事ぞかし、あやまちすな。」と宣ひければ、兵ども前に馳せ塞がりければ、力なく京極を上りに、春日表の門へぞ寄せられける。
 爰に安芸守の郎等に、伊賀国の住人山田小三郎伊行といふは、またなき剛の者、かたかはやぶりの猪武者なるが、大将軍の引きたまふを見て、「さればとて矢一筋に恐れて、向ひたる陣を引くことやある。縦令筑紫八郎殿の矢なりとも、伊行が鎧はよも徹らじ。五代伝へて軍に逢ふ事十五箇度、我が手に取つても度々多くの矢どもを受けしかど、いまだ裏をばかかぬものを、人々見給へ。八郎殿の矢一つ受けて物語にせん。」とて駆け出づれば、「をこの高名はせぬに如かず。無益なり。」と同僚ども制すれども、本よりいひつる言葉をかへさぬ男にて、「夜明けて後に傍輩の、八郎の、いで矢目見んといはんには、何とか其の時答ふべき。然れば日来の高名も失せなんことの無念なれば、よしよし人は続かずとも、己証人に立つべし。」とて、下人一人相具して、黒革縅の鎧に、同じ毛の五枚兜を猪頚に著、十八差いたる染羽の矢負ひ、塗籠籐の弓持ち、鹿毛なる馬に黒鞍置いて乗つたりけり。門前に馬を駆け据ゑ、「物その物にはあらねども、安芸守の郎等、伊賀国の住人山田小三郎伊行生年二十八、堀河院の御宇、嘉承三年正月六日、対馬守義親追討のとき、故備前守殿の真先駆けて、公家にも知られ奉りし山田荘司行末が孫なり。山賊強盗を搦め取る事は、数を知らず、合戦の場にも度々に及んで、高名仕つたる者ぞかし。承り及ぶ八郎御曹司を、一目見奉らばや。」と申しければ、為朝、「一定彼奴は引儲けてぞいふらん。一の矢をば射させんず、二の矢を番はんところを射おとさんず。同じくは矢のたまらん所を、我が弓勢を敵に見せん。」と宣ひて.白芦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗つたりけるが、駆け出でて、「鎮西八郎此にあり。」と名乗り給ふ所を、本より引儲けたる箭なれば.弦音高く切つて放つ。御曹司の弓手の草摺を縫様にぞ射切つたる。ーの矢を射損じて二の矢を番ふ所を、為朝能つ引いてひようと射る。山田小三郎が鞍の前輪より、鎧の草摺を尻輪懸けて、矢先三寸余りぞ射通したる。暫しは矢にかせがれて、溜る様にぞ見えし。即ち弓手の方へ真倒に落つれば、鏃は鞍に留まつて、馬は河原へ馳せ行けば、下人つと馳せ寄り、主を肩に引懸けて、御方の陣へぞ帰りける。寄手の兵これを見て、弥此の門へ向ふ者こそなかりけれ。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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