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カテゴリ:軍記物語 > 和文「承久記」 元和活字本

和文「承久記」(元和活字本・国史叢書 1917年刊)WEB目次





 19 土御門院配流 (結語)

凡  例

  1:底本は「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館デジタルコレクション))です。
  2:底本のカタカナをひらがなに改め、送り仮名を適宜補っています。
  3:底本の内閣本書入を優先して本文としてあります(必ずしも厳密ではありません)。
  4:本文校訂には松林靖明校註『新訂 承久記』を参照しています。
  5:校訂方針は読みやすさを基準としています(必ずしも厳密ではありません)。
  6:意味の通りにくい箇所につきましては最低限の変更を加えています。
  7:各章は、記事毎の量を揃えるために便宜的に分け、章名は、内容をわかりやすく示す意図から、「鎌倉 北條九代記」(有朋堂1922年刊 国会図書館D.C.)の表題・頭注を流用しました。ただし、同書に記載のない場合は、適宜、主要登場人物等を( )で示しました。
  8:本コンテンツは、「承久記」をより多くの方に読んで頂き、魅力を知って頂くために作成したものです。学術的な意図からUPしたものではありませんので、その点ご理解頂きますようお願い申し上げます。

承久記 上

   後鳥羽院、武芸を励む

 百王八十二代の御門をば、後鳥羽院とぞ申しける。隠岐国にて隠れさせ給ひしかば、隠岐院とも申す。後白河院の御孫、高倉院第四の御子。寿永二年八月二十日、四歳にて御即位。御在位十五箇年の間、芸能二つを学び給へるに、歌仙の花も開き、文章の実もなりぬべし。然りし後、御位を退かせおはしまして、第一の御子に譲り奉らせ給ひぬ。
 その後、いやしき身に御肩を双べ、御膝をくみましまして、后妃・采女のやんごとなきをば差し置かせ給ひて、あやしの賎に近付かせ給ふ。賢王・聖主の直なる御政に背き、横しまに武芸を好ませ給ふ。然る間、「弓取りよく、打ち物持ちしたたかならん者を召し使はばや。」と御尋ねありしかば、国々よりも進みて参り、又、勅定に随ひても参る。白河院の御時、北面といふ事を始めて、侍を近く召し使はるる事ありけり。この御時に又、西面といふものを召し置かれけり。その頃、関東へ仰せて、「弓取りのよからん者を、十人参らせよ。」と召されしかば、津田筑後六郎・賎間若狭兵衛次郎・原弥五郎・突井兵衛太郎・高井兵衛太郎・荻野三郎、まづ六人をぞ参らせける。
 呉王、剣革を好みしかば、宮中に疵を蒙らざる者なく、楚王、細腰を好みしかば、天下に餓死多かりけり。上の好みに下したがふ習ひなれば、国の危からん事をのみぞ怪しみける。
 その後、十二箇年を経て、承元四年三月三日、土御門院、御位を下ろし参らせ給ひて、第二の御子を御位に即け奉せ給ふ。是は、当腹御寵愛に依りてなり。新院、御恨みも深けれども、力及ばせ給はず。又、十一箇年を経て、承久三年四月二十日、御位を下ろし奉りて、新院の御子をつけ参らせ給ふ。かかりしかば、一院・本院、御中、御心善からず。

   王法尽きさせ給ひて、民の世となる

 同年夏の頃より、王法尽きさせ給ひて、民の世となる。「故を如何に」と尋ぬれば、「地頭・領家の相論」とぞ承はる。古へは、「下司・庄官」と言うばかりにて、地頭は無かりしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、その勧賞に、日本国の惣追補使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすヘ、段別兵粮を宛て取らるる間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあだとす。
 かの右大将と申すは、去る平治元年に右衛門督信頼と謀叛を興して失せにし左馬頭義朝が三男なり。生年十三と申す永暦元年三月、伊豆国に流罪せられ、二十一年の星霜を送り、三十三の年、治承四年秋八月のすヘ、平家追討すべき由、院宣を賜り、世を乱る事六箇年、未だ天下穏やかならず。文治元年春夏の頃、平家、程なく亡びはてて、静かなる事十三年、世を治むる事十九年、二十年と申す正治元年正月十三日、世を早くし給ひぬ。生年五十二。
 御子・左衛門督頼家、二代将軍として世を継がせ給ふ。然れども、不調の振舞あるに依りて、神明・仏陀にも放たれ、人望にも背きければ、せめて十年をだにも保ち給はで、僅かに五年と申せしに、外祖父にて後見なりし北條遠江守時政が為に、亡ぼされ給ひぬ。
 御弟・万寿御前、未だ稚けなくして、建仁三年に叙爵、則ち従五位下征夷将軍の宣旨を下され、御年十三にて御元服、実朝とぞ申しける。同年、右兵衛佐。明くる年、従五位上。元久二年、正五位下右中将に任じ、加賀介を兼ず。建永元年、従四位下。同二年、従四位上。承元二年、正四位下。同三年、従三位、右中将に復任。同五年、正三位、美作の権守を兼ず。建暦二年、従二位。同三年、正二位。建保四年、二十四にて権中納言、中将もとの如し。同六年、権大納言、左大将を兼ぬ。同年、内大臣に任ず、大将もとの如し。同年冬十二月二日、右大臣に任ず。

(底本:「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館D.C.))

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   実朝、殺害せらる

 同七年正月二十六日、「大饗を行はるべし。」とて、尊者の為に、坊門大納言忠信卿、正月二十四日、鎌倉へ下著。是は室家の兄なり。同二十七日、「鎌倉の八幡宮にて拝賀あるべし。」とて、公卿五人、坊門大納言忠信・左衛門督実氏・宰相中将国通・池二位光盛・刑部卿宗長。殿上人十人、皇后宮権大夫頼氏・花山院少将義氏・一條少将義次・左兵衛佐頼経・伯耆前司師範・伊予少将実政・因幡少将隆経・文章博士仲章・右馬権頭頼持・権亮少将信能。随人八人、上臈には、番長敦秀・府生兼峰、下臈六人、秦公氏・同兼村・幡摩貞文・大中臣近任・毛野敦光・同敦氏等なり。前駆二十人、平勾当時盛相模太郎・藤勾当頼高遠江太郎・美作蔵人大夫朝親・駿河守秀時・信濃蔵人大夫行国・但馬蔵人大夫忠国・藤右馬助行光・相模守経定・伯耆前司親時・長井左衛門大夫親広・相模守時房・足利武蔵前司義氏・駿河右馬助敦俊・甲斐右馬助宗泰・多田蔵人大夫重綱・藤蔵人大夫有俊・武蔵前司時弘・筑後前司頼時・右京権大夫義時・修理権大夫惟義。随兵十人、武田五郎信光・小笠原次郎長清・式部大夫泰時・河越次郎重時・秋田城介景盛・伊達次郎左衛門頼定・三浦太郎兵衛尉朝村・長江八郎師景・三浦平九郎左衛門尉胤義・波多野中務次郎信清。調度懸には、加藤大夫判官光定・隠岐二郎左衛門尉元之等なり。
 大膳大夫広元、「かやうの時は、御装束の下に召されたらんに、苦しくも候ふまじ。」とて、唐綾威の御著背一領参らせたりけるを、文章博士、「何條さる事あるべき。」とて留め奉る。広元しきりに、「昼にてあらばや。」と申しけるを、仲章、「必ず秉燭にてつかまつる事なり。」とて、戌亥時とぞ定められける。若宮へ参著、車より下りさせ給ひけるが、細太刀の柄の車の手形に入たりけるを知らせ給はで、打ちをらせ給ひぬ。人、「浅まし」と見奉る程に、仲章、「苦しく候はじ。」とて、木を結ひ添へてぞ参らせける。劉皇王と言ひし人、遠く道を行けるに、車の轅折りたりけるを覚らずして、再び帰る事を得ず。「先車の覆ヘすは、必ず後車の戒むる所なり」と知りながら、諫め申さざりける文章博士、「一業所感の衆生なればや」と哀れなり。是のみならず、黒き犬、車の前を横様に走り通る事ありけり。是も「さあるべし」とも覚へぬ不思儀なり。
 さる程に、若宮の石橋の辺に近付かせ給ふ時、美僧三人、いづくより来るともなく、御後に立ち添ひ参らせけるが、左右なく御頚を打ちをとし参らす。一の太刀は、笏にて合はせ給ひぬ。次の太刀に切り伏せられ給ふ。又、次の刀に文章博士仲章、切られにけり。次の刀に伯耆前司師範、疵を蒙りて、翌日に失せぬ。前後に候ひける随兵・供奉の輩には、「如何なる事ぞや。」と、あはて騒ぐ。敵は誰とも知らず。暗さは暗し、上を下にぞ返しける。ののしる声、「おびただし。」ともおろかなり。

   若宮別当公暁

 「是は、若宮の別当・公暁の仕業なり。」と言ひ出だされて、三浦平六左衛門尉、承りて、かの坊中を捜しけれども、逐電して見へ給はず。立て合ふ者、少々討たれぬ。疵を蒙る者もあり。召し捕らるる者も多し。この別当と申すは、故左衛門督頼家の御子、四歳にて父にをくれ給ひて、賎しき身なし子にておはしまししを、祖母の二位殿、哀れみ給ふて養ひ立て、若宮の別当になし、今年十九年にぞ成り給ふ。
 この両、三年、御所中に化物ありけり。女の姿にて常に人に行きあふ。「如何にもして、入る所を見よ。」とて見せけれども、「足早く、身軽くして幻の如く、行衛を見たる者なし。」と聞こえしが、今こそ、「この人にてありけり。」と知られける。
 その後、若宮別当とて、所々にて多く打たれ、搦め捕られけれども、まことは少なし。一説には、三浦平六左衛門尉子息、若宮の児に成りし間、それを頼みて、若宮の後ろを山越えに西の御門へ越されけるが、正月二十七日の夜、きはめて暗さは暗し、大雪さへ降りたりければ、山の上より転び落ちて、西の御門なる小屋の上へ落ち懸りたりけるを、家主さはぎ、「盗人。」と号して打ち殺しけるを、その夜、犬共集りて、終夜引き散らす。明くる朝見けれども、その身体慥かならず、唯、「この人やらん。」とて止めけり。
 さても都より下り給ひし公卿・殿上人、計らずに眼前の無常に、目を驚かし、空しく帰り上り給ふ。駿河国浮島原を通り給ふに、霞める空、長閑なりけるに、姿も見へぬ鳫の音づれ過ぎしを、左衛門督実氏卿、かく思ひつづけ給ひける。
  春の雁の人に別れぬならひだに帰る空には啼きてこそゆけ
聴く人、袖をぞ絞りける。各々、都を出でし時は、「伝へ聞きし富士の高峰の烟よりして、珍しき名所共を見ん事よ」と思ひ続けて下られしに、思はざる無常に興を失ひ、なげきの色を含みて上られけるこそ哀れなる。

(底本:「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館D.C.))

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   河野次郎冠者、自害す

 その頃、駿河国に河野次郎冠者といふ人ありけり。故右大将の舎弟、阿野の禅師の次男なり。手次ぎよき源氏なれば、「是こそ鎌倉殿にも成り給はんずらめ。」とののしりあヘり。権大夫、この事伝へ聞きて、「何條さる事のあるべき。」とて討手を遣はし、伊豆・駿河の勢を以て攻められけり。身に誤る事なけれども、陳ずるに及ばねば、散々に戦ひて、自害して失せぬ。
 都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候ひけるを、是も「多田満仲が末なれば」とて、一院より西面の輩を差し遣し、攻められしかば、是も「遁れ難し」とて、腹掻き切りてぞ失せにける。「院の、『関東を亡ぼさん』と思し召しける事は、眼前なり。故大臣殿の官位、除目ごとに、望みも過ぎて成られけり。是は、官打ちにせん為。」とぞ。三條白川の端に、関東調伏の堂を建て、「最勝四天王院」と名づけらる。されば、大臣殿、程無く打たれ給ひしかば、「白川の水の恐れもあり。」とて、急ぎ壊されにけり。
 「さても、鎌倉殿に誰をか成し奉るべき。」と言ふに、「都には、冷泉宮・六條宮、この間にておはしますべし。」といへば、「京・田舎に、御兄弟の御門にて双び給はん事、如何があるべからん。」とて留められぬ。

   関東の将軍、定まる

 その頃、一條二位入道と申すは、故右大将頼朝の妹婿、世の覚え・時のきら、肩を双ぶる人もなし。その御むすめ、巴の大将の御台所。その御娘、九條禅定殿の北政所にておはします。その御腹の三男の若君、二歳にならせ給ふ。「是ぞ、母方の源氏なれば。」とて、ゆかりの草のなつかしさにや、関東の将軍に備はり給ふ。則ち、鎌倉殿とぞ申しける。
 さる程に、関東より御迎へに参る輩、三浦太郎兵衛尉・同平九郎左衛門尉・大河津次郎・佐原次郎左衛門尉・同三郎左衛門尉・天野左衛門尉・子息大塚太郎・筑後太郎左衛門尉・結城七郎・長沼五郎・堺兵衛太郎・千葉介、以上、十二人ぞ参りける。先陣・三浦太郎兵衛尉友村、後陣・千葉介胤綱とぞ聞こえし。たちまちに一の人の家を出でて、武士の大将となり給ふぞ珍しき。
 かくて、承久元年六月二十六日、都を立たせ給ひて下向あり。路次の間、旅宿の有様珍しく、「我、劣らじ」とぞ色めきける。相模国田村に五日御逗留、七月十九日、鎌倉へ下著ある。又、近く御迎へに参る輩、嶋津左衛門尉・伊東左衛門尉・小笠原六郎、是等を始めとして、十人の随兵なり。時の花、いづれの世に劣るべしとも見へ給はず。

(底本:「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館D.C.))

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   義時、朝敵となりし原因

 その頃、鎌倉に、右京権大夫兼陸奥守・平義時といふ人あり。上野介直方に五代の孫、北條遠江守時政が次男なり。権威重くして国中に仰せられ、政道正しうして王位を軽しめ奉らず。然りと雖も、計らずに勅命に背き、朝敵となる。
 その起こりを尋ぬれば、信濃国の住人・仁科二郎平盛遠といふ男あり。十四・十五の子ども、未だ元服もせさせず。宿願あるに依りて、熊野へ参りける。折節、一院、御熊野詣でありけるに、道にて参り合ひぬるに、「誰ぞ。」と御尋ねありしかば、「然々。」と申す。清気なる童なれば「召し仕はれん。」とて、西面にぞ成されける。子共が召さるる間、面目の思ひをなして、盛遠も同じう参りけり。権大夫、この事伝へ承りて、「関東御恩の者、免さるるも無くて、院中の奉公、心得ず。」とて、関東御恩二箇所、没収せられぬ。盛遠嘆き申す間、院中にこの事聞こし召されて、「盛遠が所領を返し付けらるべき」由、院宣を下さるといへども、権大夫、更に用ゐ奉らず。
 又、摂津国、長江・倉橋の両庄は、院中に近く召し仕はれける白拍手・亀菊に給はりけるを、その庄の地頭、領家を勿緒しければ、亀菊、憤りを含みて歎き申しければ、一院、安からず思されて、「地頭を改易すべき」由、仰せ下されければ、権大夫申しけるは、「地頭職の事は、上古は無かりしを、故右大将、平家を追討の勧賞に、日本国の惣地頭に補せられ、平家追討六箇年が間、国々の地頭人等、或いは子を打たせ、或いは親を打たれ、或いは郎等を損す。かやうの勲功に随ひて分かち給ふ物を、させる罪過もなく、義時が計らひとして改易すべき様無し。」とて、是も用ゐ奉らず。
 一院、いよいよ安からず思し召さければ、「関東を亡ぼさるべき」由、定めて、国々の兵共、事によせて召されける。関東に志深き輩も、力及ばず、召しに随ひて伺候しけり。
 その頃、関東の武士、下総前司守綱も伺候しけり。平九郎判官胤義、大番のついで、在京して候ひければ、院、この由聞こし召されて、能登守秀康を召されて、「そもそも胤義は、関東伺候の身として、久しく在京するは何事ぞ。汝、存ずる旨あるか、尋ねきけ。」と仰せられければ、秀康承りて、雨ふり閑かなる夜、平九郎判官胤義を招き寄せて、門指し固めて外人をば寄せず、向ひ居て酒宴し遊びけり。夜更けて後、秀康申しけるは、「『関東御奉公の御身にて御在京は、如何なる御所存にて候ふやらん。内々尋ね承り候へ。』と御気色にて候。」「胤義、別の儀候はず。当時、胤義が相具足して候ふ者は、故大将殿の切り者、意法坊生観が娘にて候。故左衛門督殿に思はれ参らせて、男子一人まうけ奉りしを、権大夫に故無く失はれて、『憂き者に朝夕姿を見する事よ。』と、余りに泣き嘆き候ふ間、さて力及ばず、かくて候ふなり。」と申す。秀康、「地体、義時は、院中の御気色よからぬ者にて候。如何にして義時打たせ給ふべく、御計らひや候ふべき。」と申しければ、胤義、「一天の君の思し召し立たせ給はんに、何條叶はぬ様の候はんぞ。日本国重代の侍共、仰せを承りて、如何でか背き参らせ候ふべき。中にも、兄にて候ふ三浦の駿河守、きはめて鳴呼の者にて候へば、『日本国の惣追補使にも成されん。』と仰せ候はば、よも辞し申し候はじ。さ候はば、胤義も内々申し遣はし候はん。」とて帰りにけり。

(底本:「承久記」(国史研究会1917年刊『国史叢書 承久記』(国会図書館D.C.))

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