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カテゴリ:軍記物語 > 校訂「保元物語」 日本文学大系本

保元物語(日本文学大系本 1925年刊) WEB目次

巻之一


巻之二


巻之三

  為朝鬼が島に渡る事 並 最後の事

(注:本コンテンツは「保元物語」(国民図書1925年刊『日本文学大系 第十四巻』所収。国立国会図書館デジタルコレクション)の本文翻字(ふりがなは省略、漢文は書き下し文)です。文字・記号は原則として現在(2022年)通用のものに改めてあります。)

保元物語

 巻之一

   後白河院御即位の事

 爰に鳥羽禅定法皇と申し奉るは.天照大神四十六世の御末、神武天皇より七十四代の帝なり。堀河天皇第一の皇子、御母は贈皇太后宮藤茨子、閑院大納言実季卿の御女なり。康和五年正月十六日に御誕生、同じき年の八月十七日皇太子に立たせ給ふ。嘉承一年七月十九日堀河院隠れさせ給ひしかば、太子五歳にて践祚あり。御在位十六箇年が間、海内静かにして天下穏なり。寒暑も節をあやまたず、民屋も誠に豊かなり。保安四年正月二十八日、御歳二十一にして御位を遜れて、第一の宮崇徳院に譲り奉り給ふ。大治四年七月七日白河院隠れさせ給ひてより後は、鳥羽院天下の事を知召して政を行ひ給ふ。忠ある者を賞しおはします事、聖代聖主の先規に違はず。罪ある者をも赦し給ふ事、大慈大悲の本誓にかなひおはします。されば恩光に照らされ、徳沢に潤ひて.国も民も安かりき。
 保延五年五月十八日.美福門院の御腹に皇子御誕生ありしかば.上皇殊に喜び思召していつしか春宮に立て給ふ。永治元年十二月二十七日、三歳にて御即位あり。依つて先帝をば新院とぞ申しける。先帝異なる御恙も渡らせ給はぬに押下し給ひけるこそ浅ましけれ。依つて一院新院、父子の御中快からずとぞ聞えし。誠に御心ならず御位を去らせ給へり。復り即かせ給ふべき御志にや、又一の宮重仁親王を位に即け奉らんとや思召しけん、叡慮計り難し。永治元年三月十日、鳥羽院御飾り下させ給ふ、御年三十九。御齢も未だ盛んなるに、玉体も恙なく坐せども、宿善内に催し善縁外に顕はれて、眞実報恩の道に入らせ給ふぞめでたき。然るに久寿二年夏の比より、近衛院御悩坐ししが、七月下旬には早憑み少き御事にて清涼殿の廂の間に遷し奉る。されば御心細くや思召しけん、御製に斯く、
  虫の音のよわるのみかは過ぐる秋を惜しむ我が身ぞまづ消えぬべき
終に七月二十三日に隠れさせ給ふ。御年十七。近衛院これなり。最も惜しき御齢なり。法皇女院の御歎き理にも過ぎたり。
 新院此の時を得て、我が身こそ位に復り即かずとも、重仁親王は、一定今度は位に即かせたまはんと、待ち受けさせおはしませり。天下の諸人も皆かく存じける処に、思ひの外に美福門院の御計らひにて、後白河院其時は四の宮とて、打籠められておはせしを、御位に即け奉り給ひしかば.高きも賤しきも、思ひの外の事に思ひけり。此の四の宮も、故待賢門院の御腹にて、新院と御一腹なれば、女院の御為には共に御継子なれども、美福門院の御心には、重仁親王の位に即かせ給はんことを、猶猜み奉らせたまひて、此の宮を女院もてなし進らせ給ひて.法皇にも内々申させ給ひけるなり。其の故は近衛院世を早くせさせ給ふことは.新院呪詛し奉り給ふとなん思召しけり。これに依つて新院の御恨み、一入まさらせ給ふも理なり。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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    法皇熊野御参詣 並 御託宣の事

 爰に久寿二年の冬の頃.法皇熊野へ御参詣あり。本宮証誠殿の御前にて、現当二世の御祈念ありしに、夢現ともあらず、御宝殿の中より童子の御手を差出して、打返し打返しせさせ給ふ。法皇大きに驚き思召して.先達並に供奉の人々を召して.不思議の瑞相あり.権現を勧請し奉らばやと思召して、「正しき巫やある」と仰せければ、山中無双の巫を召し出す。「御不審の事あり、占ひ申せ。」と仰せければ、朝より権現を下し進らするに、午の時まで下りさせ給はねば、古老の山伏八十余人.般若妙典を読誦して祈請良久し。巫も五体を地に投げ肝胆を砕きければ.諸人目をすまして見る処に、権現既に下りさせ給ひけるにや、種々の神変を現じて後、巫、法皇に向ひ進らせて、右の手を指揚げて、打返し打返し、「これは如何に。」と申す。誠に権現の御託宣なりと思召して、御座をすべらせ給ひて、御手を合はせ、「申す所是なり。さて如何すべく候。」と申させ給へば、「明年の秋の頃、必ず崩御なるべし。其の後世の中手の裏を返す如くならんずるぞ。」と御託宣ありければ、法皇を始め奉らせ、供奉の人々皆涙を流して、「さて如何なる事ありてか、御命延びさせ給ふべき。」と問ひ奉れば、「定業限りあれば力に及ばず。」とて権現は上らせ給ひぬ。参り集まりたる貴賤上下、各頭を地に附けて拝み奉りけり。法皇の御心の中如何許りか心細く思召しけん。日来の御参詣には天長地久に事寄せて、切部の王子の柀の葉を百度千度翳さんとこそ思召ししに、今は三の山の御奉幣も、之を限りと御心細く、真言妙典の御法楽にも.臨終正念往生極楽とのみぞ御祈念ありける。都て還御の体哀れなりし御有様なり。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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   法皇崩御の事

 かくて今年は暮れにけり。明くる四月二十七日改元あつて.保元とぞ申しける。此の比より法皇御不予の事あり。偏に去年の秋、近衛院先立たせ給ひし御歎きの積にやと、世の人申しけれども、業病受けさせ給ひけるなり。日に随つて重らせ給へば、月を追うて憑み少なく見えさせ坐せば、同じき六月十二日、美福門院、鳥羽の成菩提院の御所にて御飾り下させ給ひ、現世後生を憑み進らさせ給ふ。近衛院も先だち給ひぬ。又偕老同穴の御契り浅からざりし法皇も、御悩重らせ給ふ御歎きの余りに、思召し立つとぞ聞えし。御戒の師には三瀧の上人観空ぞ参られける。哀れなりし事どもなり。法皇は権現御託宣の事なれば.御祈りもなく御療治もなし。唯一向御菩提の御勤めのみなり。七月二日終に一院隠れさせ給ひぬ。御年五十四。未だ六十にも満たせ給はねば、猶惜しかるべき御命なり。有為無常の習ひ生者必滅の掟、始めて驚くべきにあらね共.一天くれて月日の光を失へるが如く、万人歎きて父母の喪に遭ふに過ぎたり。釈迦如来生者必滅の理を示さんとて、娑羅双樹の下にて仮に滅度を唱へ給ひしかば、人天倶に悲しみき。彼の二月中の五日の入滅には、五十二類憂への色を現はし、此の七月二日の崩御には、九重の上下悲しみを含めり。心なき草木も愁へたる色あり、況んや年頃近く召使はれし人々、如何許りの事をか思ひけん。まして女院の御歎き、申すも中々愚かなり。玉簾の内に龍顔に向ひ奉り、金台の上に玉体に双び給ひしに、今は灯の下には、伴ふ影も坐さず、枕の元には、古を恋ふる御涙のみぞ積りける。古き御衾空しき床に残りて、御心を砕く種となり、古の面影は常に御身に立添うて、忘れたまへる御事ぞなき。有待の御身は、貴き賤きも高き卑きも異なることなく、無常の境界は、刹利も首陀も替らねば、妙覚の如来、猶因果の理を示し、大智舎利弗、又先業を顕はすことなれば、凡下の驚くべきにはあらねども、去年の御歎きに、今年の御悲しみの重なりけるを如何せんとぞ思召しける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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    新院御謀叛思召し立つ事

 斯かる御愁への折節、新院の御心中覚束なしとぞ人申しける。されば仙洞も騒がしく、禁裏も静かならざるに、新院の御方の武士、東三條に籠り居て、或は山の上に登り木の枝に居て、姉小路.西洞院の内裏.高松殿を窺ひ見る由聞えしかば.保元元年七月三日、下野守義朝に仰せて、東三條の留守に候少監物藤原光貞.並に武士二人召捕つて仔細を問はる。一院御不予の間、去んぬる比より御謀叛の聞えあるのみならず、軍兵東西より参り集まり、兵具を馬に負はせ、車に積んで持ち運び.其の外怪しき事多かり。
 新院日来思召けるは、「昔より位を継ぎ禅を受くる事、必ず嫡孫にはよらねども、其の器を選び.外戚の高卑をも尋ねらるるにてこそあれ。是れは只当腹の寵愛といふばかりを以て、近衛院に位を押取られて、恨み深くて過ぎし処に.先帝隠れ給ひぬる上は、重仁親王こそ帝位に備はり給ふべきに、思ひの外に又四の宮に越えられぬるこそ口惜しけれ。」と、御憤りありければ、御心のゆかせ給ふ事とては、近習の人々に、「如何にせんずるぞ。」と、常に御談合ありけり。
 宇治左大臣頼長と申すは、知足院禅閣殿下忠実公の二男にておはします。入道殿の公達の御中に.殊更愛子にておはしましけり。人柄も左右に及ばぬ上.和漢共に人に勝れ、礼儀を調へ、自他の記録に暗からず。文才世に知られ、諸道に浅深を探る。朝家の重臣摂籙の器量なり。されば御兄の法性寺殿の詩歌に巧みにて.御手跡の美しくおはしますをば貶り申させ給ひて、「詩歌は閑中の翫びなり、朝家の要事にあらず。手跡はー旦の興なり。賢臣必ずしも之を好むべからず。」とて、我が身は宗と全経を学び、信西を師として、鎮に学窓に籠りて.仁義礼智信を正しくし、賞罰勲功を分ち.政務をきりとほしにして、上下の善悪を糾されければ、時の人悪左大臣とぞ申しける。諸人斯様に恐れ奉りしかども、真実の御心向は極めて麗はしく坐して、怪しの舎人牛飼なれども、御勘当蒙る時、道理をたて申せば、細々と聞召して、罪なければ御後悔ありき。又禁中陣頭にて公事を行はせ給ふ時、外記官史等を諫めさせ給ふに、あやまたぬ次第を弁へ申せば.我が僻事と思召す時は、忽ちに折れさせ給ひて、御怠状を遊ばして彼等に賜ぶ。恐れをなして賜はらざる時は「我が能く思召す怠状なり、只賜はり候へ。一の上の怠状を以下の臣下取り伝ふる事、家の面目にあらずや。」と仰せられければ、畏まりて賜はりけるとかや。誠に是非明察に、善悪無二に坐す故なり。世も之をもてなし奉り.禅閣殿下も大切の人に思召しけり。久安六年九月二十六日、氏の長者に補し、同じき七年正月十日内覧の宣旨蒙らせ給ふ。「摂政関白を閣いて.三公内覧の宣旨、これぞはじめなる。」と、人々傾き申されけれども、父の殿下の御計らひの上は.君も強ちに仰せらるる仔細もなし。此の大臣とても、必ずしも世を知召すまじきにもなければ.諸臣も之を許し給ひけり。
 法性寺殿は、唯関白の御名許りにて、余所の事の如く、天下の事に於ていろはせ給ふ事もなかりしかば、殊に御憤り深くて、「当今位に即かせ給ひて、世淳素に帰るべくは、関白の辞表納まるか、又内覧氏の長者.関白につけらるるか、両様共に天裁にあり。」と、頻りに申させ給ひけり。此の関白殿は、万なだらかに坐せば、皆人褒め用ゐ奉れり。関白殿と左大臣殿とは、御兄弟の上、父子の御契約にて、礼儀深くおはしましけれども、後には御中悪しくぞ聞えし。されば左大臣殿思召しけるは、一院隠れさせ給ひぬ、今新院の一の宮重仁親王を位に即け奉りて、天下を我が儘に取り行はばやと思し立ち給ひければ、常に新院へ参り、御宿直ありければ、上皇も此の大臣を深く御憑みありて、仰せ合はせらるる事懇なり。
 或夜新院、左大臣殿に仰せられけるは、「抑昔を以て今を思ふに、天智は舒明の太子なり。孝徳天皇の皇子其の数おはしまししかども、位に即きたまひき。任明は嵯峨第二の皇子、淳和天皇の御子達を閣いて、祚を践みたまひき。花山は一條に先だち、三條は後朱雀に進み給ひき。我が身徳行なしと雖も、十善の余薫に応へて、先帝の太子と生れ、世澆薄なりといへども、万乗の宝位を忝くす。上皇の尊号に連なるべくは、重仁こそ人数に入るべき処に、文にもあらず武にもあらぬ四の宮に位を越えられて、父子共に憂へに沈む。然りといへども、故院おはしましつる程は.力なく二年の春秋を送れり。今旧院登遐の後は、我天下を奪はん事、何の憚りかあるべき。定めて神慮にも叶ひ、人望にも背かじものを。」と仰せられければ、左府、元より此の君代を取らせ給はば、我が身摂籙に於ては疑ひなしと悦びて、「尤も思召し立つ処、然るべし。」とぞ勧め申されける。
 新院此の御企てなりければ.鳥羽の田中殿を出でさせ給ふべき由を仰せられけるに、何と聞き分けたる事はなけれども、何様事の出で来べきにこそとて、京中の貴賤上下、資材雑具を西東へ運び隠す。門戸を閉ぢ.人々は兵具を集めければ、「こは如何に。縦令新院国を奪はせ給ふとも、仙院晏駕の後、僅に十箇日の中に此の御企て、宗廟の御計らひもはかり難く、凡慮の推す所然るべからず。此の程は雲の上には星の位静かに、境の中には波風も収まりたる御代に、斯く切つて続いだる様に、騒がしく乱るる事の悲しさよ。」と、人々歎きあへり。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「保元物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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