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カテゴリ:軍記物語 > 校訂「平治物語」 日本文学大系本

平治物語(日本文学大系本 1925年刊) WEB目次

巻之一


巻之二


巻之三


(注:本コンテンツは「平治物語」(国民図書1925年刊『日本文学大系 第十四巻』所収。国立国会図書館デジタルコレクション)の本文翻字(ふりがなは省略、漢文は訓読)です。文字・記号は原則として現在(2022年)通用のものに改めてあります。)

平治物語

 巻之一

   信頼信西不快の事

 竊に惟みれば、三皇五帝の国を治め、四獄八元の民を撫づる、皆是れ器を見て官に任じ、身を顧みて禄を受くる故なり。君、臣を選びて官を授け、臣、己を量りて職を受くる時は、任を委しうし成を責むること、労せずして化すといへり。故に舟航海を渡るに、必ず橈楫の功を仮り、鴻鶴雲を凌ぐに、必ず羽翮の用に由る。帝王の国を治むる事、必ず匡弼の助けに由るといへり。国の匡輔は必ず忠良を待つ、任使其の人を得る時は、天下自ら治まると見えたり。古より今に至るまで、王者の人臣を賞する、和漢両朝同じく文武二道を以て先とす。文を以ては万機の政を輔け、武を以ては四夷の乱を治む。天下を保ち国土を治むる謀は、文を左にし、武を右にすと見えたり。譬へば人の二つの手の如し、一つも闕けては叶ひ難し。両端以て適ふ時は、四海に風波の恐れなく、八荒民庶の愁へなし。夫れ澆季に及びては、人奢つて朝威を蔑如し、民猛くして野心を挟む、能く用意すべし。尤も抽賞せらるべきは勇士なり。されば唐の太宗文皇帝は、鬚を焼いて功臣に賜ひ、血を含み瘡を吮うて戦士を撫でしかば、心は恩の為に仕へ、命は義に依つて軽かりければ、身を殺さん事を痛まず、唯死を致さん事をのみ思へりけりとなん。自ら手を下し、我と能く戦はね共、人に志を施せば人皆帰しけり。又讒佞の徒は、国の蠹賊なり。栄華を旦夕に諍ひ勢利を市朝に競ふ。諂諛の質を以て、忠賢の己が上にある事を悪み、其の姦邪の志を抱いて、富貴の我先たらざる事を恨む。是れ皆愚者の習ひなり、用捨すべきは此の事なり。
 爰に近来権中納言兼中宮権大夫右衛門督藤原朝臣信頼卿といふ人ありき。人臣の祖天津児屋根尊の御苗裔、中関白道隆八代の後胤、播磨三位基隆が孫、伊予三位忠隆が子なり。然れども文にも非ず武にも非ず、、能もなく芸もなし。唯朝恩にのみ誇つて、昇進に拘はらず、父祖は諸国の受領をのみ経て年闌け齢傾きて後、僅に従三位までこそ至りしか、之は近衛司、蔵人頭、皇后宮司、宰相中将、衛府督、検非違使別当、此等を僅に三箇年の間に経昇りて、年二十七にして中納言右衛門督に至れり。一の人の家嫡などこそ、斯様の昇進はし給ふに、凡人に於ては未だ此の如くの例を聞かず。又官途のみにあらず、俸禄も猶心の儘なり。かくのみ過分なりしかども、なほ不足して、家に絶えて久しき大臣大将に望みをかけて、凡そおほけなき挙動をのみしけり。されば見る人目を塞ぎ聞く者耳を驚かす。微子瑕にも過ぎ、安禄山にも超えたり。余桃の罪をも恐れず、只栄華の恩にぞ誇りける。
 其の比少納言入道信西といふ者あり、山井三位永頼卿六代の後胤、越後守季綱が孫、鳥羽院の御宇、進士蔵人実兼が子なり。儒胤を受けて儒業を伝へずといへども、諸道兼学して諸事に暗からず、九流百家に至る、当世無双の宏才博覧なり。後白河上皇の御乳母、紀伊二位の夫たるに依つて、保元元年より以来は、天下の大小事を心のままに執り行つて、絶えたる跡を継ぎ、廃れたる道を興し、延久の例に任せて大内に記録所を置き、理非を勘決す。聖断私なかりしかば、人の恨みも残らず、世を淳素に帰し、君を尭舜に致し奉る。延喜天暦の二朝にも恥ぢず、義懐惟成が三年にも超えたり。大内は久しく修造せられざりしかば、殿舎傾危し、楼閣荒廃して、牛馬の牧、雉兎の臥所となりたりしを、一両年の中に造畢して遷幸なし奉る。外郭重畳たる大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、朝所に至るまで、華の榱雲のかた、大廈の構へ、成風の功、年を経ずして不日になりしかども、民の煩ひもなく国の費もなかりけり。内宴、相撲の節、久しく絶えたる跡を興し、詩歌管絃の遊び、折にふれて相催す。九重の儀式昔を恥ぢず、万事の礼法旧きが如し。
 去んぬる保元三年八月十一日、主上御位をすべらせ給ひて、御子の宮に譲り申させ給へり。二條院是れなり。然れども信西が権位も弥威を振ひて、飛ぶ鳥も落ち草木も靡く許りなり。又信頼卿の寵愛も、猶弥珍らかにして、肩を双ぶる人もなし。されば両雄は必ず諍ふ習ひなる上、如何なる天魔か二人の心に入り替りけん、其の中悪しくして、事に触れて不快の由聞えけり。信西は信頼を見て、如何様にも此の者天下をも危め、国家をも乱らんずる仁よと思ひければ、如何にもして失はばやと思へども、当時無双の寵臣なる上、人の心も知り難ければ、打解けて申し合はすべき輩もなし。次あらばとためらひ居たり。信頼も又何事も心のままなるに、此の入道我を拒んで、怨みを結ばん者彼なるべしと思ひてければ、如何なる謀をも運らして、失はんとぞたくみける。
 或時信西に向つて上皇仰せなりけるは、「信頼が大将を望み申すは如何に。必ずしも重代清華の家にあらざれども、時に依つてなさるる事もありけるとぞ、伝へ聞召す。」と仰せられければ、信西、すはこの世の中、今はさてと歎かはしくて申しけるは、「信頼などが大将になりなば、誰か望みをかけ候はざらん。君の御政は司召を以て先とす。叙位除目に僻事出で来ぬれば、上天の巍々に背き、下人の貶りをうけて、世の乱るる端なり。其の例漢家本朝に繁多なり。さればにや、阿古丸大納言宗通卿を、白河院、大将になさんと思召したりしかども、寛治の聖主御許されなかりき。故中御門藤中納言家成卿を、旧院、大納言になさばやと仰せられしかども、諸大夫の大納言になることは絶えて久しく候。中納言に至り候だに、過分に候ものをと、諸卿皆諫め申されしかば、思召し止みぬ。せめての御志にや、歳の始めの勅書の裏書に、中御門新大納言殿へと遊ばされたりける。之を拝見して、誠になされ進らせたるにも、猶過ぎたる面目かな。御志の程忝しとて、老いの涙を拭いかねけるとぞ承り候。大納言なほ以て君も執し思召し、臣も緩にせじとこそ諫め申ししか、況んや近衛大将をや。三公には列すれども、大将をば経ざる臣のみあり。執柄の息、英才の輩も、此の職を先途とす。信頼などが身を以て大将をけがさば、弥奢りを究めて謀逆の臣となり、天のために亡ぼされ候はん事、争でか不便に思召されで候べき。」と、諫め申しけれども、実にもと思召したる御気色もなし。信西余りの勿体なさに、唐の安禄山が奢れる昔を絵に書いて、巻物三巻を作りて院へ進らせけれども、君は猶実にもと思召したる御事もなく、天気他に異なり。
 信頼卿は通憲入道が散々に申しけることを漏れ聞きて、安からぬ事に思ひければ、常に所労と号し出仕もせず、伏見源中納言師仲卿を相語らうて、彼の在所に籠り居て、馬に乗り、馳引、早足、力持など、偏に武芸をぞ稽古せられける。是れ併しながら信西を失はんためとぞ聞えける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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   信頼卿信西を滅ぼさるる議の事

 さる程に信頼卿は、子息新侍従信親を、大弐清盛の婿になして近附き寄り、平家の武威を以て本意を遂げんと思ひけるが、清盛は太宰大弐たる上、大国数多賜はりて、一族皆朝恩を蒙り、恨みあるまじければ、よも同意せじと思ひ止まる。左馬頭義朝こそ、保元の乱より以後平家に覚え劣りて、安からず存ずる者と思はれ、近附きて懇に志をぞ通はしける。常に見参の度には、「信頼かくて候はば、国をも荘をも望み、官加階をも申されんに、天気よも仔細あらじ。」と宣ふ。「斯様に御意に懸けられ候條、身にとりて大慶なり。如何なる御大事をも承りて、一方は固め申さん。」とぞ宣ひける。加之、当帝の御外戚新大納言経宗をも語らひ、中御門藤中納言家成卿の三男、越後中将成親朝臣は、君の御気色よき者なりと語らひ、御傅の別当惟方も憑まれけり。中にも此の別当は、母方の叔父なりしに、我が弟尾張少将信俊を婿になし、殊更深くぞ契られける。
 かやうにしたため廻らして、隙を伺はれける程に、平治元年十二月四日、大弐清盛宿願ありとて、嫡子左衛門佐重盛相具して、熊野参詣の事あり。其の隙を以て信頼卿義朝を招き、「信西は紀伊二位の夫たるに依つて、天下の大小事を心のままに申し行ひ、子共には官加階恣になし与へ、信頼が方様の事をば火をも水に申しなす、讒佞至極の僻者なり。此の入道久しく天下に在りては、国も傾き世も乱るべき禍の基なり。君もさは思召したれども、させる次もなければ、御誡めもなし。いざとよ、御辺始終如何あらん。大弐清盛も彼が縁となりて、源氏の人々をば申し沈めんとするなどこそ承れ。能き様に計らはるべきものを。」と語れば、義朝申されけるは、「六孫王より七代、弓箭の芸を以て今に叛逆の輩を誡め・武略の術を伝へて兇徒を退け候。然るに去んぬる保元に門葉の輩多く朝敵となりて、親類皆梟せられ、已上義朝一人に罷り成り候へば、清盛も内々さぞ計らひ候らん。此等は本より覚悟の前にて侍れば、強ち驚くべきにて候はねども、斯様に憑み仰せ候上は、便宜候はば、当家の浮沈をも試むべしとこそ存じ候へ。」と申されければ、信頼大いに喜んで、怒物作の太刀一腰自ら取出し、且は悦びの初めとて引かれたり。義朝謹んで請取りて出でられけるに、白く黒くさる体なる馬二匹、鏡鞍置いて引立てたり。夜陰のことなれば、松明振り挙げさせて、此の馬を見、「合戦の出立ちに、馬ほどの大事は候はず、近比の御馬にて候。此の龍蹄を以て、如何なる強陣なりとも、などか破らで候べき。合戦は勢には因らず、謀を以てすといへども、小を以て大に敵せずとも申せば、頼政、光基、季実等をも召され候へ。其の上此等を始めて、源氏共、内々申す旨ありと承り候。」と申して出でられければ、信頼卿月来日比拵へ置かれたる武具なれば、縅し立てたる鎧五十領、追様に遣はされけり。信頼軈て此の人々を喚んで、憑むべき由宣へば、「一門の中の大将、既に従ひ奉る上は、左右に能はず。」とてぞ帰りける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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   三條殿発向 並 信西の宿所焼き払ふ事

 さる程に信頼卿は、同じき九日の夜子の刻許りに、左馬頭義朝を大将として、其の勢五百余騎、院の御所三條殿へ押寄せ、四方の門々を打固め、右衛門督乗りながら、「年来御いとほしみを蒙りつるに、信西が讒に依つて、信頼討たれ進らすべき由承り候間、暫しの命助からんために、東国の方ヘこそ罷り下り候へ。」と申せば、上皇大いに驚かせ給ひて、「何者か信頼を失ふべかなるぞ。」とて、あきれさせたまへば、伏見源中納言師仲卿御車を差寄せ、急ぎ召さるべき由申されければ、「はや火を懸けよ。」と声々にぞ申しける。上皇あわてて御車に召さるれば、御妹の上西門院も、一つ御所に渡らせ給ひけるが、同じ御車にぞ奉りける。信頼、義朝、光保、光基、季実等、前後左右に打囲みて、大内へ入れ進らせ、一本御書所に押籠め奉る。軈て佐渡式部大輔重成、周防判官季実、近く候して君をば守護し奉る。さても此の重成は、保元の乱の時も、讃岐院の仁和寺の寛遍法務が坊に渡らせ給ひしを、守護し奉りて讃州へ御配流ありし時も、鳥羽まで参りし者なり、如何なる故にや、二代の君を守護し進らすらんと、人々申しあへり。
 三條殿の有様申すも愚かなり。門々をば兵ども固めたるに、所々に火を挙げたり。猛火空に充ちて、暴風煙雲を揚ぐ。公卿殿上人局の女房達に至るまで、これも信西が一族にてやあるらんとて、射伏せ斬り殺せば、火に焼けじと出づれば矢に中り、矢に中らじと返れば火に焼け、矢に恐れ火を憚る類は、井にこそ多く飛び入りけれ。それも暫くの事にて、下なるは水に溺れ、中なるは倶に圧されて死し、上は火にこそ焼けにけれ。造り重ねたる殿舎の、烈しき風に吹き立てられて、灰燼地に迸りければ、如何なる者か助かるべき。彼の阿房の炎上には、后妃采女の身を滅ぼす事なかりしに、此の仙洞の回禄には、月卿雲客の命を殞すこそあさましけれ。左兵衛尉大江家仲、右衛門尉平康忠、爰を最後と防ぎ戦ひけるが、終に討たれてければ、家仲、康忠が首を鋒に貫き、大内へ馳せ参り、待賢門に差挙げて、喚き叫びたる外は仕出したる事ぞなき。
 同じき丑の刻に、信西が宿所姉小路西洞院へ押寄せて火をかけたれば、女童のあわてて迷ひ出でけるをも、信西が姿を替へてや逃ぐらんとて、多くの者を斬り伏せけり。
 保元の乱以後は、理世安楽にして、都鄙扃をわすれ、歓娯遊宴して、上下の屋を双べしに、火災の余煙に民屋多く亡びしかば、「こは如何になりぬる世の中ぞ。此の二三箇年は洛中殊更静かにして、甲冑を鎧ひ弓箭を帯する者もなかりしかば、適持ち行く人も、憚りなる体にこそありしに、今は兵ども京白河に充ち満てり、行末如何あるべき。」と、歎かぬ人もなかりけり。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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   信西子息闕官の事 附 除目の事 並 悪源太上洛の事

 さる程に少納言入道信西が子息五人闕官せらる、嫡子新宰相俊憲、次男播磨中将成憲、権右中弁貞憲、美濃少将脩憲、信濃守是憲なり。上卿は花山院大納言忠雅、職事は蔵人右少将成頼とぞ聞えし。
 さる程に太政大臣、左右大臣、内大臣以下、公卿参内し給ひしかば、僉議あつて信西が子ども尋ねらるるに、播磨中将成憲は、太宰大弐清盛の婿なれば、若しや命助かるとて、六波羅へ落ちられたりけるを、宣旨とて、内裏より敷並に召されければ、力及ばで出でられけり。博士判官坂上兼成行き向ひ、成憲を請取つて内裏へ参りければ、尋ぬべき仔細ありとて、兼成に預け置かる。権右中弁貞憲は髻切り法師になりて、傍に忍びたりけるを、宗判官信澄、尋ね出して別当に申したりしかば、是も信澄に預けられけり。
 軈て除目を行はる。信頼卿は本より望みを懸けたりしかば、大臣大将を兼ねたりき。左馬頭義朝は播磨国を賜はりて播磨守になる。佐渡式部大輔は信濃守になる。多田蔵人大夫源頼憲は摂津守になる。源兼経は左衛門尉になる。康忠は右衛門尉になる。足立四郎遠基は右馬允になる。鎌田次郎正清は兵衛尉になつて、政家と改名す。今度の合戦に打勝ちなば、上総国を賜ふべき由宣ひけり。
 爰に義朝が嫡子鎌倉悪源太義平、母方の祖父三浦介が許にありけるが、都に騒がしき事ありと聞きて、鞭を打つて馳せ上りけるが、今度の除目に参り合ふ。信頼大いに悦んで、「義平此の除目に参り合ふこそ幸ひなれ。大国か小国か、官加階も思ひの如く進むべし。合戦も又能く仕れ。」と宣へば、義平申しけるは、「保元に叔父鎮西八郎為朝を、宇治殿の御前にて蔵人になされければ、急々なる除目かなと、辞し申しけるは理かな。義平に勢を賜はり候へ。安部野に駆け合ひ、清盛が下向を待たん程に、浄衣許りにて上らん処を、真中に取籠めて一度に討つべし。若し命を助からんと思はば、山林へぞ逃げ籠り候はんずらん。然らば追つ詰め追つ詰め捕へて、首を刎ね獄門に梟けて、其の後信西を滅ぼし、世も静まりてこそ、大国も小国も官位階も進め侍らめ。見えたる事もなきに、兼ねて成りて何かせん。只義平は東国にて兵共に呼びつけられて候へば、元の悪源太にて候はん。」とぞ申しける。信頼、「義平が申し状荒儀なり。其の上安部野まで馬の足疲らかして何かせん。都へ入れて中に取籠めて討たんずるに、程やあるべき。」と宣ひければ、皆此の儀にてぞ従はれける。偏に運の尽くる故にこそ。
 大宮太政大臣伊通公、其の比は左大臣にておはしましけるが、才学優長にして、御前にても常に可笑しき事を申されければ、君も臣も大きに笑はせ給ひ、御遊も興を催しけり。「内裏にこそ武士共仕出したる事もなけれども、思ひの如く官加階をなる。人を多く殺したるばかりにて、官位をなさんには、三條殿の井こそ多く人を殺したれ。など其の井には官をなされぬぞ。」と笑はれける。

(底本:『日本文学大系 第十四巻』「平治物語」(国民図書1925年刊。国立国会図書館D.C.))

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