江戸期版本を読む

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カテゴリ: 日記文学(1938刊)西下経一著

  二 紀貫之の思想

 此の日記を読んで誰でも気のつく事は、とかく貫之が人情の厚薄を喜び嘆いてゐる点である。これは貫之晩年の気むづかしさの現れ、或は旅の憂鬱からくる自然の皮肉とも一応は考へられるが、一歩立ち入つて考へると、貫之は厚意のある人々との間に温い情の世界を築かんとし、反対に此の希望を裏切るやうな不人情漢に対して極度の嫌悪を感じ、言を尽して悪罵を放つてゐるものと考へられる。さうして此の態度が若し貫之一個の住みよい生活の為であるならば、ああまで嫌悪を感じ悪罵を放たなくても済むのである。だから貫之としては世間そのものを住みよくしようとする正義観があつたと見てよい。後で述べるやうに貫之は大の国粋的な立場をもち、又文学にしては政教的な立場をとつてゐる。その貫之がこれだけの正義観をもつてゐたとしても不思議ではあるまい。而して温い情の世界は和の精神の現れであつて、それが又日本文学の本質をなすものであるから、貫之の此の主張は大きな根柢の上に立つたものであるといふべく、而も貫之は此の立場を思ふ存分主張し遠慮なく不人情を悪罵する為にわざわざ女子に仮托して筆を進めたのであらうとする説(1)すらある。
 以上は貫之の奥にもつ本心といつたものを述べたのである。今この主旨から日記の本文に少しづつ触れて行かう。十二月廿七日の條に

  楫取、物の哀れもしらで、おのれし酒をくらひつれば、早くいなむとて、潮満ちぬ、風もふきぬべしとさわげば、舟に乗りなむとす。

といひ、楫取の下衆らしい感じと、之に対して噛んで吐き出すやうな気持をよく現してゐる。次に正月九日の條に

  つとめて、大湊より奈半の泊を追はむとて漕ぎいでにけり。これかれたがひに国のさかひの内はとて、見おくりに来る人あまたがなかに、藤原のときざね、橘のすゑひら、はせべのゆきまさ等なむ、み館よりいでたうびし日よりここかしこに追ひ来る。この人々ぞこころざしある人なりける。この人々の深き志はこの海にも劣らざるべし。

とある。これは貫之も満足に思ふ所である。感激の気持をこれ以上言葉をつくして縷々述べるといふことは、貫之にはできなかつたので、これが精一杯である。又同じ日に

  これより、今は漕ぎはなれてゆく、これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。かくて漕ぎゆくまにまに、海のほとりに泊れる人も遠くなりぬ。舟の人も見えずなりぬ。岸にもいふことあるべし。舟にも思ふことあれど甲斐なし。

とある。流石に土佐国を離れ、厚意ある人にも別れる。其の感慨が聊か文面に現れてゐるといつてよからう。「岸にも云々。舟にも云々。」の対句は簡潔な名文句といへよう。又同じ條に

  漕ぎゆくまにまに、山も海もみな暮れ、夜ふけて西東も見えずして、てけのこと楫取の心にまかせつ。をのこもならはぬはいとも心細し。まして女は舟底に頭をつきあてて、音をのみぞ泣く。かく思へば舟子楫取は舟唄うたひて何とも思へらず。

とある。海上の不安、心細さなど簡単ながらよく現れてゐるが、やはり楫取の平気な態度が気にくはぬ趣である。二月九日の條に

  京の近づくをよろこびつつのぼる、かくのぼる人々のなかに、京よりくだりし時に、みな人子どもなかりき。いたれりし国にてぞ子うめる者どもありあへる。人みな舟のとまる所に子を抱きつつおりのりす。これを見て昔の子の母、悲しきに堪へずして、
   無かりしもありつつかへる人の子を
       ありしもなくて来るが悲しさ
  といひてぞ泣きける。

とあり、又二月十六日の條にも「舟人もみな子たかりてののしる」とある。これはどんなに羨しかつたことであらう。そこにあるものは哀れな情であるが、可憐の情にひたること、子を失つた悲しみに他人の同情してくれること、これは共に貫之の求めてゐる情の世界である。二月十六日の條に

  かくて京へいくに島坂にて、人あるじしたり。必すしもあるまじきわざなり。立ちてゆきし時よりは、帰る時ぞ人はとかくありける。これにもかへりごとす。

とあり、又

  家にいたりて門に入るに、月あかければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれやぶれたる。家をあづけたりつる人の心も荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、のぞみてあづかれるなり。さるは、たよりごとに、物はたえず得させたり。今宵、かかることと声高にものもいはせず。いとはつらく見ゆれど、こころざしはせむとす。

とある。この二つは辛辣な皮肉である。島坂の方は下る時よそよそしくしておき乍ら、帰つてきた時にはちやほやする。その余りの軽薄にはツンと虫に障るが、じつとこらへて、自分は一層義理堅く返礼をしたのである。隣人の方は反対に下る時は如何にも親切さうにお留守番をしてあげませうといひ、気のよい貫之はしかと留守番をしてくれてゐるものと思ひ、絶えず金銭を送つてゐたのに帰つて見ると随分のあれやう。庭の松の木も随分と伐られてゐる。家の者も憤慨して大声に罵るが、紳士的な貫之は「まあ今宵だけはいふな、我慢せよ」といつて制し、とにかく名前だけでも留守を預つてくれたのだからとて、お礼だけはした。如何にも義理固い貫之である。
 猶、貫之の思想として注意すべきものは和歌尊重の思想である。一月廿日の條に、

  昔阿倍の仲麻呂といひける人は、もろこしに渡りて、帰り来ける時に舟に乗るべき所にてかの国人、馬のはなむけし、別れをしみて、かしこのからうた作りなどしける。あかずやありけむ、廿日の夜の月いづるまでぞありける。その月は海よりぞいでける。これを見てぞ、仲麻呂のぬし、わが国にはかかる歌をなむ、神代より神もよんたび、今は上中下の人も、かやうに別れをしみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむとてよめりける歌、
   青海原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも

とあるが、わが国にはかかる歌をなむ云々以下は、和歌は日本固有の詩歌形式で、その起原は神代に遡るといふことを、仲麻呂が唐土で主張したといふのである。果して仲麻呂がさういふ事をいつたか否かは別として、貫之自身がかういふ思想をもつてゐたので、之を仲麻呂に仮托したのであらうと考へられる。この貫之の思想は古今集仮名序に於ても同様であるから、純粋固有のものを神代に遡つて求めようとする思想は貫之の持論とみてよからう。

 註(1)小宮豊隆氏--土佐日記の研究(改造社の日本文学講座)

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 三 蜻蛉日記

  一 輪郭

 作者は藤原倫寧の女で、藤原兼家の妾となり、道綱を生んだ。自分の家は国司で終る程度であるから先づ中流であるに対し、兼家は師輔の三男、道隆・道長の父で、後には摂政・太政大臣になつた人であるから、それこそ一流である。かやうに家柄の相違は作者を幸福にしなかつた一つの原因であつたと考へられる。兼家には正妻もあり愛人もあつたが、これは必ずしも兼家に限つた事ではない。処が作者は美人で貞操堅固の女であつた。兼家から貞操を疑はれたことも一度だけあるが、事実は全く無根であつた。それで作者は兼家の愛を独占しようとする。少くとも兼家の真心に触れて愛撫されようとするが、妻妾の多い兼家にそれを望むことは困難であつた。のみならず兼家は公達として何不自由なく育つたのであるから、生真面目ではなく串戯もいひ、からかひもし、作者を愛しなかつたわけでも不誠実でもなかつたが、気が向けば作者を訪れ、それで何日もとだえるといふわけで、落窪物語に出てくる道頼の少将のやうに律儀ではなかつた。かういふ二人の間の喰ひちがひは作者を不幸にせずにはおかない。相手の心がいつの間にか他の女に移つてゐる。男性の移り気、気まぐれはこんなものかと思ふが、裏切られたと思ふと腹が立つてしやうがない。兼家はいろいろと言ひわけをしたり、愛撫の詞をかけてくれるが、わけなくほだされるわけには行かない。言ひわけは皆うそだと思ひ、悪い事と知りながら、ついつい反抗がましくなる。抑々作者の性質は片意地に出来てゐる。剛情といへばいへる。一旦かうと腹をきめると、なかなか解けない。串戯やからかひは一本気な作者にとつて、とても堪へられないのである。男性はもつと真剣であり、厳格であつてほしいと思ふが男の心を自由にする事ができない。かういふ不満の生活がニ十年もつづくのである。
 日記は三巻に分れ、天暦八年から天延二年に及んでゐるが、其の間の重な記事を拾つて見ると次の如くである。天暦八年兼家が通ひ初めた事、父の倫寧が陸奥に下つた事、天暦九年道綱が生れた事、兼家の心が町の女に移つた事、天徳元年町の女が男の子を生んだ事、応和二年しはぶきにて山寺に籠つた事、康保元年母の身まかつた事、頼もしき人が遠き任地へ下つた事、康保三年兼家病気の事、既に十二歳になつた道綱が父母のいさかひを悲みいたむ事、康保四年村上天皇崩御あらせられた事、安和元年の初瀬詣、安和二年西宮左大臣配流の事、我が身大病の事、天禄元年辛崎へ祓へに行つた事、兼家のとだえを怨み、死なん、さまを変へんと願ひ、兼家の愛を奪つた女をあれこれと思ひ巡らして嫉妬する事、石山詣をした事、道綱元服の事、天禄二年呉竹を植ゑ仏に身の上を訴へ、昔の無信仰を悔いる事、夢にさいなまれる事、遂に鳴滝に籠つた事、道綱の哀訴によつて山を下りた事、再び初瀬詣をした事、天禄三年養女をした事、死を予言された事、天延二年右馬頭が養女に求婚した事、もがさ流行して道綱煩つた事、二少将卒した事、かくして天延二年の暮まで記しつづけて日記を終つてゐる。此の内天禄元年以後は記事が詳細であるが、それまでは疎略である。天禄三年以後、即ち下巻は文章の調子が少しだれてゐる。天徳三年から応和元年までの三年間は記事を欠き、その他にも脱文がある。
 日記に書き現された感情内容は兼家に対する愛憎の二つが中心となつてゐるが、又身辺を顧み、自己の姿を反省し、父・母・叔母・子などに馴れ親しみ愛する所の感情を記してゐる。其の重なるものを挙げてみると次の如くである。悲しさ(母の一周忌、たのもしき人の任国へ下る別れ)やるせなさ(道綱片言にて兼家のものまねをする、大病にて遺言かく)哀切(鳴滝に籠る)寂しさ(呉竹を植ゑるころ)悲哀(もがさ流行)安けさ(火事の夜に兼家見舞に来る)朗かさ(庭はく翁、蝉の鳴く)静けさ(雨のどかに降る)うれしさ(兼家の親切なる時)等。それから読者の作者に対する同情として著しいものは、いぢらしさ(桃の花を飾りて待つに兼家来らず)である。作者の精神としては、思ひつめた心(死にしがなと祈る)寂しいあきらめ(宿世を嘆く)恐怖(死を予告されて)などが著しい。
 此の日記の慣用語句を拾つて見よう。先づ「さわぐ」「ののしる」が屡々用ゐられてゐる。「天下の」といふ形容も多い。敬語の「る」「らる」が目立つ。動詞「あり」を「をる」の意味に用ゐたものが多い。例へば「いはんやうも知らである程に」「心うしと思ひてあるに」「渡り給ひてあるに」の如くである。指示代名詞の「この」を軽い意味で用ゐたものがある。例へば「このもろともなりつる人」「このひとり車にて物したる人」「この石山にあひたりし法師」の如く、句を隔てて「この」が懸る場合である。「親とおぼしき人」「例の家とおぼしき所」の如く、「……とおぼしき……」の形式も慣用されてゐる。
 形容詞・副詞の類としては「ほそし」「心ぼそし」「はかなし」「悲し」「あはれ」「かすか」等が此の作者の心情をいひ現す常套語で、特に「心ぼそし」は愛用語と見られる。「心やすし」「めやすし」「のどか」「のどやか」などは心の平静な場合をいひ現し、「こまか」「こまやか」は手紙などに情をつくしたのをいひ、「わりなし」は不可抗力をいひ現してゐる。気の利いた形容詞・副詞としては「あはつけかりしすきごと」「ひやうとよりきて」「いとほがらかにうち笑ふ」「うら若く」の如きもの、又「つぶつぶと涙ぞおつる」「むらむらしげりて」「こぼこぼはたく」「人いと多くきらきらしうて」「なへぐなへぐ見えたり」「よよと泣く」「ほろほろと涙こぼる」の如き畳語も甚だ多い。
 「心」「胸」といふ語が色々に用ゐられてゐる。「心」の方は「心づきなし」「まけじ心」「かくのみ心をつくせば」「心をきりくだく心地す」「わきたぎる心」「心の鬼」「心おちゐて」「うつし心」「心のほしきに」などといひ、「胸」の方は「胸いたし」「胸はあきたる」「胸つぶらはし」「胸うちつぶれて」「胸さくる心ちす」「胸うちさわぎて」「胸はしりする」「胸のひむら」「胸ふたがる」「胸つぶつぶとはしる」「胸のこがるることは」「胸やすからねど」などと用ゐてゐる。
 此の日記の価値は、(イ)日記文学として質量の偉大である事、(ロ)告白文学として最初のものである事、(ハ)文章そのものに気分をこめてゐる事、(二)平安朝女性としての内面を遺憾なく示し、生活感情をさまざま書き現してゐる事、(ホ)世間・家庭・個人の生活、風俗・世態・衣食住・信仰・趣味などを細々と記してゐる事などである。

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  二 鑑賞

 これほど大きな作品の感情内容と精神内容とを、唯ぎこちない形容詞など用ゐて、ほんのかいなでの説明をして見た所で、相手が聊かも本文内容に触れてゐなかつたとしたら、一片の空念仏たるに止まり、説明を委しくすればするほど、作品の実際から遠ざかる恐れなしとしないのである。それほど此の作品の内容は複雑な、多面的な、変化の多いものである。作品の実際から離れるといふことは、最も好ましからぬ行き方であるから、ここでは出来るだけ作品の実際に触れ、とくと其の表現を味はひ、然る後に意見をまとめるといふ事にしたい。その為に作品の中から表現なり気分なりのまとまつてゐる部分を書き抜き、之を読者に提示し、猶その間に記事の要点をかいつまんで記して全体の連絡をつけて行かうと思ふ。

  かく、ありし時すぎて、世の中に、いと物はかなく、とにもかくにもつかで、世にふる人ありけり。かたちとても、人に似ず、心魂も、あるにもあらで、かう、物のやうにもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥し起き、明かし暮すままに、世の中におほかた、古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ、身の上まで書き、日記して、珍しきさまにもありなん、天下の品高きやと問はんためしにも、せよかしと覚ゆるも、すぎにし年、月頃のことも覚束なかりければ、さてもありぬべき事なん、多かりける。

 これは冒頭の小序であるが、実に難解である。句読は小さく切つて見た。始の「かく」は自分の過去の全生活を指してゐるのである。「ありし時すぎて」とは、前半生を過してとの意。「ことわりと思ひつつ」とは、形もわるく、心魂もない自分が、かく兼家にも捨てられて、人並でない晩年を過してゐるのは当然であると思ひつつ、との意。「世の中におほかた」は解環の説の如く「世の中に多かる」の誤で、恐らく次の「世に多かる」は衍文であらう。世の物語には虚言が書いてある、自分は事実を書かうとしてゐる。定めし珍しいものになるであらう。これは物語的目的で日記を書かうとした意図を示すものである。「人にもあらぬ」とは、他人のことではなく、自分の身の上を書きつける、との意。「品高きやと云々」とは残した日記によつて作者はどんな人であつたかと、世の人の尋ねてくれる例にもなれかし、との意であらう。「さてもありぬべき事」とは、よい加減の事、の意。此の小序の文調は含みが多くてゆつたりとしてをり、随つて自己反省の幅も広く遥々としてゐるやうに思はれる。

  我が頼もしき人、陸奥へ出で立ちぬ。時はいと哀れなる程なり。人はまだ見なるといふべき程にもあらず。見ゆるごとに、たださしぐめるにのみあり。いと心細く悲しき事物に似ず。見る人もいと哀れに忘るまじきさまにのみ語らふめれど、人の心はそれに従ふべきかはと思へば、ただひとへに悲しう心細き事をのみ思ふ。今はとて皆出で立つ日になりて、行く人もせきあへぬまであり。とまる人はたまいていふ方なく悲しきに、時たがひぬるといふまでもえ出でやらず、また見泣き、硯に文をおし巻きて打ち入れて、またほろほろとうち泣きて出でぬ。暫しは見む心もなし。

これは天暦八年十月、作者の父が陸奥に下る時である。父には別れ、兼家とはまだしつかりと結びついてゐない。それで心細く悲しいのである。「人の心はそれに従ふべきかは」とは、人の心はその言葉通りにならないもので、兼家は決して見捨てないといふが、軽々しく信じられないといふのである。

  我が家は、内より参りまかづる道にしもあれば、夜中暁と打ちしはぶきてうち渡るも、聞かじと思へども、打ち解けたるいもねられず。夜長うしてねぶる事なければ、さななりと見聞く心地は、何にかは似たる。

これは天暦十年、しはぶきをしながら作者の家の前を通り、一向立ち寄つてくれないといふのである。腹立たしさ、悔しさ、切なさ、いらだたしさ、かなしさ、凡そ女性の身として味はふべき不快の感情のすべてである。

  かうやうなる程に、かのめでたき所には、子産みてしより、すさまじげに成りにたべかめれば、人憎かりし心、思ひしやうは、命はあらせて、我が思ふやうに、押し返し物を思はせばやと思ひしを、さやうになりもて出で、はては産みののしりし子さへ死ぬるものか。

町の女の寵が衰へ、剰へ生んだ男の子が死んだのである。作者はかくも町の女を呪ひ、かくも凱歌をあげ、之を偽り飾ることなく告白してゐる。さうして町の女が「我が思ふには、今少し打ちまさりて嘆くらん」と思ふと、胸がすつとするといふのである。

  此処なる人、片言などする程になりてぞある。出づとては必ず「今来んよ」と言ふも、聞きもたりてまねびありく。

兼家が家を出る時には必ず、「今来んよ」といふ。それが毎度の事なので、四つになつた道綱が片言でまねをするといふのである。如何にもいぢらしい光景である。

  日頃なやましうて、しはぶきなどいたうせらるるを、物の怪にやあらん、加持も試みむ、せばき所の、わりなく暑き頃なるを、例も物する山寺へ登る。十五六日になりぬれば、盆などする程になりにけり。見れば怪しき様に荷ひいただき、様々に急ぎつつ集るを、もろともに見て哀れがりも笑ひもす。

これは応和二年七月、兼家と諸共に盆の風景を見て哀れがり、又笑ひもする、作者としては最も幸福な一時である。

  足手など、唯すくみにすくみて、絶え入るやうにす。さいふいふ、物を語らひおきなどすべき人は、京にありければ、山寺にてかかる目は見れば、幼き子を引き寄せて僅かに言ふやうは、我れはかなうて死ぬるなめり。彼処に聞えんやうは、おのが上をば如何にも如何にもなしり給ひそ。此の御後の事を、人々の物せられん上にも、とぶらひ物し給へ、と聞えよとて、如何にせんとばかり言ひて、物も言はれずなりぬ。

これは康保元年の秋、作者の母が身まかつて、中陰のほど山寺に籠つてゐる内に、作者も病気をし、幼き道綱を引き寄せて、遺言を兼家に伝へよといふのである。自分の後は放つておいてよいから、ただ母の追善を、人々もそれぞれするであらうが、その上にも弔うてほしいといふのである。誠に哀切を極めてゐる。物はいへないが目は見えて、人々が泣き迷うてゐると、父の倫寧が来て、「親は一人やはある、などかくはあるぞ」といつて湯をむりに飲ましてくれ、それで身も直つて行き、亡くなつた母が作者の身の上を案じて、「あはれ、いかにし給はんずらん」と、苦しい息の下から言つてくれた事など思ひ出すのである。病がよくなつて猶山寺にあつたが、

  夜、目も合はぬままに、嘆き明かしつつ、山づらを見れば、霧はげに麓をこめたり。京もげに誰がもとへかは出でむとすらん。いで猶見ながら死なんと思へど、生くる人ぞいとつらきや。

今は母もない京、誰の許へ帰らうと思ひ、このまま死にたいと願ふが、なかなか死なないといふのである。

  来し時は膝に臥し給へりし人を、如何でか安らかにと思ひつつ、我が身は汗になりつつ、さりともと思ふ心添ひて頼もしかりき。こたみはいと安らかにて、あさましきまでくつろかに乗られたるにも、道すがらいみじう悲し。おりて見るにも、さらに物覚えず悲し。もろともに出で居つつ、つくろはせし草なども、煩ひしより初めて、打ち捨てたりければ、生ひこりて色々に咲き乱れたり。

山寺から里に帰る、ここに来た時は母は作者の膝の上に臥してゐた、我が身は汗になりながら母をいたはり、万-を頼む心もあつた。今は唯-人乗つた車の中が、がらんとしてゐて、道すがら悲しいといふのである。
 四十九日の事は兼家が面倒を見てくれたので、人々が繁く出で入りしたが、其の日が過ぎておのがじし行き別れた後は、心細うなりまさり、いとどやる方もなかつたが、兼家は同情して曽てよりも繁く通つてくれた。康保二年母の一周忌をかの山寺にてするに、ありし事どもが思ひ出され、いとど哀れに悲しく、導師の唱へる言葉に、

  うつたへに、秋の山辺を尋ね給ふにはあらざりけり。まなこ閉ぢ給ひし所にて、経の心解かせ給はんとにこそありけれ。

とあるのを聞くと、物も覚えずなつて、後の事どもはわからないやうになつた。忌日など過ぎて、「例のつれづれなるに、弾くとはなけれど、琴おしのごひて、かき鳴らしなどする」に、哀れに儚きながらも心のおちつきを得てやすらふのである。九月十日あまり、頼もしき人が遠き任地に下ることになつたので、出発の日行つて見たが、我も人も目を見合せず、ただ向ひ居て涙をせきかね、家に帰つてからも、まがまがしいと咎められるまで泣き伏し、今頃は関山を越えてゐるだらうと思ひやり、月の哀れなるを眺めやるのであつた。
 康保三年三月の頃、兼家が俄かに苦しがりそめ、幾何もあらぬ心地がするといつて泣くので作者も物を覚えずなりていみじう泣くと、兼家は「泣き給ひそ、苦しさまさる」といひ、作者の家では十分なる処置もできないので帰る事にし、人によりかかつて車に乗せられ乍ら、作者の方を見おこせて、つくづくと打ちまもりて、いと悲しと思ふ様子、作者はもう再び会ふこともあるまいと思ふのである。毎日二度も三度も文をやつて容態を聞き、段々悪くなると聞いて胸を痛めるのであるが、もうその時には日頃の怨みも片意地もないのである。その後大分快方に赴いて、作者に「夜の間にも渡れ」といつてよこし、作者から「車を給へ」といつてやると、車をよこしたので乗つて行く。いと暗うて入らん方もなくて迷うてゐると、兼家が出て来て自ら手を取つて導いてくれた。まだ魚なども食はなかつたが、今宵もろともに食べようといひ、作者もその夜は泊り、翌朝になつて帰らうとすると、まだ暗いからとて引きとめ、蔀をあげてから兼家は作者に、庭の草はどうかと尋ね、粥などすすつて昼になり、さて諸共に作者の家に行かうといつたが、それでは私がお迎へに来たやうで人聞きが悪いとことわると、兼家も聞き入れて、

  さらば男ども車寄せよとて寄せたれば、乗る処にもかつがつと歩み出でたれば、いと哀れと見る見る、「何時か、御歩きは」などいふ程に、涙浮きにけり。いと心もとなければ、明日あさての程ばかりには参りなん、とていとさうざうしげなる気色なり。少し引き出でて牛かくる程に見通せば、ありつる処に帰りて見おこせて、つくづくとあるを見つつ引き出づれば、心にもあらでかへり見のみぞせらるるかし。

誠にこまやかな情が見られるが、然しかういふ状態は永続きしないで、すぐ不和になつて了ふのである。

  心のどかに暮す日、はかなき事いひいひのはてに、我も人も悪しう言ひなりて、打ち怨じて出づるになりぬ。端の方に歩み出でて、幼き人を呼び出でて、我は今は来じとすなど言ひ置きて出でにける。即ち這ひ入りて、おどろおどろしう泣く。こはなぞこはなぞと言へど、いらへもせで。論なうさやうにぞあらんと推し量らるれど、人の聞かむも、うたて物狂ほしければ、問ひさして、とかうこしらへてあるに、五六日ばかりになりぬるに音もせず。

「幼き人」は道綱で、既に十二歳であつた。父はもう来ないといつて帰る。子供の心にはそれが悲しいのである。道綱の泣くわけはわかつてゐるから、母も深うは尋ねないで、とかうこしらへて過すのである。

  五月にもなりぬ。十余日に、内の御薬の事ありてののしる。程もなくて、廿余日の程にかくれさせ給ひぬ。春宮即ち代り居させ給ふ。

康保四年五月廿五日、村上天皇崩御あらせられ、冷泉天皇践祚あらせられたのである。明くれば、安和元年、九月作者は年頃の願を果す為に、初瀬詣をした。此の時の紀行は実に名文で、深い哀感と観照が示されてゐる。

  午の時ばかりに、宇治の院に到りつつ見やれば、木の間より水の面つややかにて、いと哀れなる心地す。忍びやかにと思ひて、人数多もなうて出で立ちたるも、我が心の怠りにはあれど、我ならぬ人なりせば、如何にののしりてと覚ゆ。(中略)行き交ふ舟ども数多、見ざりし事なれは、すべて哀れにをかし。しりの方を見れば、来こうじたる下衆ども、あやしげなる柚や梨やなどを、なつかしげにもたりて、食ひなどするも、哀れに見ゆ。(中略)贄野、泉川など言ひつつ、鳥どもゐなどしたるも、心にしみて哀れにをかしう覚ゆ。かい忍びやかなれば、よろづにつけて淚もろく覚ゆ。其の泉川も渡りて橋寺といふ処にとまりぬ。酉の時ばかりに下りて休みたれば、旅籠所と覚しき方より、切り大根、物の汁してあへしらひて先づ出したり。かかる旅立ちたるわざどもをしたりしこそ、怪しう忘れ難う、をかしかりしか。あくれば川渡りていくに、柴垣し渡してある家どもを見るに、何れならん、よもの物語の家など思ひいくに、いとど哀れなる。今日も寺めく所にとまりて、又の日は椿市といふ所にとまる。又の日霜のいと白きに、詣でもし帰りもするなめり。脛を布の端して引き回らかしたる者ども歩きちがひさわぐめり。蔀さしあげたる所に宿りて、湯わかしなどする程に、見れば様々なる人のいきちがふ。おのがじしは思ふ事こそはあらめと見ゆ。(中略)それより立ちて、いきもて行けば、なでふ事なき道も、山深き心地すれば、いと哀れに、水の声も例に過ぎ、霧はさしも立ち渡り、木の葉は色々に見えたり。水は石がちなる中よりわき返り行く。夕日のさしたるさまなどを見るに淚もとどまらず。(中略)かたゐどもの、つき鍋など据ゑて居るも、いと悲し。下衆近なる心地して、入り劣りしてぞ覚ゆる。眠りもせられず、忙しからねば、つくづくと聞けば、目も見えぬ者のいみじげにしもあらぬが、思ひける事どもを、人や聞くらむとも思はず、ののしり申すを聞くも哀れにて、唯淚のみぞこぼるる。

木の間から見える水の面、行き交ふ舟、柚や梨など食ひ歩く下衆、泉川の鳥、大根あへ、柴垣し渡したる家、脚絆をはいてゐる旅人、蔀あげて湯をわかしてまつ旅籠、水わきかへる山川、道の傍に鍋を据ゑてゐる乞食、大声に祈る盲人、何れも深い哀れを感じさせ、涙もろにするのである。「心にしみて哀れ」といひ、「いと悲し」といひ、如何にも感動の深いことが思ひやられる。
 それから御禊や大嘗祭の事などあつて、次に

  かく年月は積れど、思ふやうにあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるも喜ぼしからず、なほ物はかなきを思へば、あるかなきかの心地する、かげろふの日記といふべし。

とあつて、わが身の境遇を「物はかなき」ものと観じ、それによつて書名も「かげろふの日記」と名づくといひ、それにて上巻を終つてゐる。

校訂者注)康保三年三月の「涙浮きにけり」、底本は「涙浮にきけり」。誤植と見て訂正。

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 安和二年三月、安和の変が起つて、西宮左大臣は左遷に遭はれる。

  廿五六日の程に、西の宮の左大臣流され給ふ。見奉らんとて、天下ゆすりて西の宮へ人走り惑ふ。いといみじき事かなと聞く程に、人にも見え給はで、逃げ出で給ひにけり。いといみじきことかなと聞くほどに、人にも見えたまはで、逃げで給ひにけり。愛宕になんと聞きしほどに、などゆすりて、遂に尋ね出でて流し奉ると聞くに、あいなしと思ふまでいみじう悲しく、心もとなき身だに、かく思ひ知りたる人は、袖をぬらさぬといふたぐひなし。(中略)その頃ほひ、ただ此の事にて過ぎぬ。身の上をのみする日記には、入るまじき事なれど、悲しと思ひ入りしも、誰ならねば記しおくなり。

身の上をのみ記さうとする日記には、書くべきではない公的事件ではあるが、ああ悲しいと思ひ入るのは誰でもなく我であり、我が心に起つた現象であつて見れば、やはり記しおかねばならぬといふのである。此の年閏の五月の晦日から作者はそこはかとなく煩ひ、いと苦しいが命を惜んでゐるとは兼家に見られたくないと意地を張るのである。その頃兼家は東三條の新邸を造るとてそこに通ふついでに立ち寄つてゐたが、心地弱く覚えて物悲しい夕暮、例の如く兼家が立ち寄つて蓮の実を一本、人をしてさし入れさせ、これは彼処のであるといふ。作者はその返事を、生きてをつて生きてをらぬといはせて思ひ臥し、東三條邸はをかしい所であるらしいが命も知らず、人の心も知らねば、いつか連れて行つて見せようといはれたが、とてもだめであらうと、はかなく思ひつづけ、

  日を経て同じやうなれば心細し。よからずはとのみ思ふ身なれば、露ばかり惜しとにはあらぬを、ただ此の一人ある人、如何にせんとばかり思ひつづくるにぞ、涙せきあへぬ。

ただ道綱の行末のみ案じて涙にくれるのである。病状は一向にはかばかしくないので死を覚悟し、臨終になつて俄かには思ふ事もいはれまいと考へ、脇息に推しかかつて遺書を書いたが、多くは道綱の将来に触れて、

  唯この幼き人の上なん、いみじく覚え侍るものは。ありける戯れにも、御気色の物しきをば、いとわびしと思ひてはんべめるを、いと大きなる事なくて侍らんきはは、御気色など見せ給ふな。

戯れにても御気色の悪い時は小さき胸を痛めるから、大事でない場合は御気色に現さないで頂きたいと願ひ、又私のなくなつた後では、学問を励めと申し置いたと伝へ給へと書き添へるのである。
 天禄元年六月、心のむすぼほれるままに、涼しき所もあると心を延べがてら、浜づらの方に祓へもせんと思ひ立つて、作者は辛崎へ小さき旅をした。

  鴨河の程にてほのぼのと明く。打ち過ぎて山路になりて、京にちがひたるさまを見るにも此の頃の心地なればにやあらん、いと哀れなり。

郊外の風景は作者の心を慰めるに十分であつた。むすぼほれた心もさばさばと打ち解けるのである。

  関の道あはれあはれと覚えて、行くさきを見やりたれば、行方も知らず見え渡りて、鳥の二つ三つ居たると見ゆる物を、強ひて思へば釣舟なるべし。其処にてぞ、え涙はとどめずなりぬる。

湖のはるかに見やられた光景、鳥のゐるかと思はれる釣舟、もう作者は感極まつて涙さへ流すのである。走り井にて、

  手足もひたしたれば、ここち物思ひ、はるけるやうにぞ覚ゆる。石どもに押しかかりて、水やりたる樋の上に、折敷ども据ゑて、物食ひて手づから水飯などする心地、いと立ちうきまであれど、日暮れぬなどそそのかす。

かうして胸の晴れるのは、やはり旅なるが故である。其の後兼家はとだえ勝ちであつたので、作者も自棄的な気持になつて、死んで了ひたい、それができなければ尼になりたいと考へ、然もさういふ気持を幼い道綱にかぶせかけるので、道綱は悲しくなつて泣くのみである。

  さなり給はば、まろも法師になりてこそあらめ、何せんにかは世にもまじろはん、とていみじうよよと泣けば、我もえせきあへねど、いみじさに、戯れに言ひなさんとて、さて鷹飼はでは、いかがしたがはむずると言ひたれば、やをら立ち走りて、し据ゑたる鷹をにぎりはなちつ。見る人も涙せきあへず。

母が尼になるならば、自分も法師になるといつて泣く。作者も堪へかねて、我ながら余りに悲しい気持に陥つたので、戯れ言に導かうと思ひ、あの鷹を飼はないではをられないでせう。だから私に従つて法師になることはできまいといつて、愛翫の鷹に注意を向けると、道綱もまぎれて、やをら立ち走つて行つて、し据ゑてあつた鷹を握り放つたのである。如何にもいぢらしい又あどけない場面である。かくて盆がくると兼家は供物など調じて送り、文も添へてあつたが、どうも兼家のそぶりが怪しく、珍しい人に心を移したのではないかと疑はれる。周囲のものも失せ給ひし小野宮(実頼)の召人であらう、近江といふ人が怪しいといふ。作者も気を回して兼家は新しく通ふ女に自分の事を知らせては都合が悪いのだらうと考へる。明け暮れこんな事ばかりに心を費してゐてもしやうがないとて、暑い折ではあつたが、十日ばかり石山寺に籠ることとした。

  高欄に押しかかりて、とばかりまもり居たれば、片崖に、草の中に、そよそよならしたる物のあやしき声するを、こは何ぞと問ひたれば、鹿のいふなりと言ふ。などか例の声には鳴かざらんと思ふ程に、さし離れたる谷の方より、いとうら若き声に、遥かにながめ鳴きたなり。聞く心地空なりといへば愚かなり。思ひ入りて行ふ心地、物覚えで猶あれば、見やりなる山のあなたばかりに、田守の物追ひたる声、いふ甲斐なく、情なげに打ち呼ばひたり。かうしも取り集めて、肝を砕く事多からんと思ふぞ、はてはあきれてぞゐたる。さて後夜行ひつればおりぬ。

如何に悩ましさの反映した客観であらう。誠に肝を砕き腸を断つの思ひがある。かういふ文章は源氏にも枕にもあるまい。

  夜の明くるままに見やりたれば、東に風はいと長閑にて霧立ち渡り、川のあなたは絵にかきたるやうに見えたり。川面に放ち馬のあさり歩くも遥かに見えたり。いと哀れなり。二なく思ふ人(道綱)をも、人目によりてとどめ置きてしかば、出で離れたるついでに、死ぬるたばかりをもせばやと思ふには、先づこの絆おぼえて恋しう悲し。涙の限りをぞ尽しはつる。

外界の風景が美しければ美しいほど物思ひが増し、道綱を残して来たから、この間に死んで了ふ法もがなと思ふのである。

  空を見れば、月はいと細くて、影は湖の面にうつりてある。風打ち吹きて、湖の面いと騒しう、さらさらと騒ぎたり、若き男ども、声細やかにて面やせにたる、といふ歌をうたひ出でたるを聞くにも、つぶつぶと涙ぞ落つる。いかが崎、山吹の崎などいふ所々見やりて葦の中より漕ぎ行く。まだ物たしかにも見えぬ程に、遥かなる楫の音して、心細く歌ひ来る船あり。(中略)瀬田の橋のもと行きかかる程にぞ、ほのぼのと明け行く。千鳥うちかけりつつ飛びちがふ。物のあはれに悲しき事、更に数なし。

帰路の湖上舟行、誠にあはれに悲しく、象徴的な輝きさへ見えて、日記の白眉である。かやうに作者の心は、自然と自己との間に感動の一致を見出して落着きを示して来たが、兼家と自己との関係に於ても、自己を反省して諦めに近づかうとしてゐる。

  古へを思へば、我がためにしもあらじ、心の本性にやありけん、雨風にも障らぬものと習はしたりし物を、今日思ひ出づれば、昔も心のゆるぶやうにもなかりしかば、我が心のおほけなきにこそありけれ、あはれさらぬものと見しものを、それさて思ひかけられぬと眺め暮さる。

兼家のとだえは、何も自分に悪い所がある為ではない、あの人の本性からであらう、大体男といふものは雨風にも障らずやつて来てくれるものと、すベては甘い考へ方がもとになり、自分本位に考へ過して来たが、今日にして思へば、よかつた昔も油断がならないやうであつたからこれはやはり自分の望みがおほけなく分に過ぎてゐるからであらう、こんな事とは思はなかつたが、実にあてのならぬものだと、つくづく眺め暮されるのである。
 天禄二年、元旦には毎年見えてをつたからとて待つてをると、前追ふ声がしたが、ふと引き過ぎて了つた。二日の朝、縫物をとりがてら文をよこし、昨日はもう日が暮れてゐたからといふ。返事をするのもいやであつたが、「年の始めに腹立ちそめそ」といはれ、少し言ひくねつた文を書いた。三日は元日よりも一層ののしりながらやつて来るが、又ゆき過ぎるのであらうと思ひながら、流石に「胸はしり」した。召使のものは中門をおし開き、跪いてゐると、又引き過ぎて了つた。次の日は右大臣伊尹の邸で大饗があつて、今度は近いから見えるかもしれないとて、車の音がする毎に胸をどきどきさせて待つたが、空しく過ぎて了つた。其の後兼家はふと文をよこして、「心の怠りにはあれど、いと事繁き頃にてなん、夜さり物せんに、如何ならん、怖しさに」などいひ、つれなく見えて、からからと朗かに串戯をいふ。作者が腹を据ゑかねて、日頃の怨みをいふと、ねたるさまをして返事もしない。時々目をさました風で、「早やね給へる」といふ。
 去年の春呉竹を植ゑようと思ひ、或る人に株分を頼んでおいたところ、この頃になつて差上げようといふので、

  いさや、ありも遂ぐまじう思ひにたる世の中に、心なげなるわざをやし置かん、と言へばいと心狭き御事なり。行基菩薩は行く末の人の為にこそ、実なる庭木は植ゑ給ひてけれなど言ひて、掘らせたれば、あはれにありし所とて、見む人も見よかしと思ふに、涙こぼれて植ゑさす。

「あはれにありし所とて、見む人も見よかし」は、冒頭の「天下の、品高きやと問はんためしにも、せよかし」と同じく、限りなく寂しさの中から不定の相手を呼びかけて、そこに或る慰めとあきらめとを感じるのである。
 その後作者は長い精進を始め、かはらけに香を盛つて脇息の上におき、やがて脇息に押しかかりながら仏を念じた。

  唯極めて幸ひなかりける身なり。年頃をだに、世にゆるびなく、憂しと思ひつるを、ましてかくあさましくなりぬ。疾く死なさせ給ひて、菩提かなへ給へとぞ、行ふままに涙ぞほろほろとこぼるる。

今はどうにも行きつまつて仏にすがるのである。さうして昔の不信仰が後悔されるのである。曽て、この頃の女はみんな珠数を手にし経を引き提げてゐると聞かされた時、尼になつたら丁度似合ふ顔、そんなものはきつと寡婦になると軽蔑してゐた心、今はどこに消え失せたであらうか、昔の自分の言葉を聞いてゐた人、今の自分を見てどんなにをかしいであらう、ああ世は実にはかないものだと涙に暮れるのである。

  廿日許り行ひたる夢に、我が頭を取りおろして額をわくと見る。悪しも善しもえ知らず。七八日ばかりありて、我が腹の中なる口縄、歩きて肝を食む、これを治せん様は、面に水なむ入るべきと見る。これも悪し善しも知らねど、かく記し置くやうは、かかる身の果てを見聞かん人、夢をも仏をも用ゐるべしや、用ゐるまじやと定めよとなり。

随分と凄い気味の悪い夢であるが、まるきり懐疑的な態度である。かうまで夢を信じない人は平安朝には例が無いであらう。性格の強さの為であらうか、自棄の気持からであらうか。かくて六月、暫く身を去りなんとて、兼家の反対をおしきつて、鳴滝に籠つて了ふ。

  遥かなる道すがら、涙もこぼれ行く。供人三人ばかり添ひていく。先づ僧坊におりゐて見出だしたれば、前にませ給ひ渡して、まだ何とも知らぬ草ども繁き中に、牡丹草ども、いと情なげにて花散り果てて立てるを見るにも、散るがうへは時、といふことを返し覚えつついとをかし。

牡丹の花が既に散つてゐるのを見ても、何事も思ふままにならぬ我が身がよそへられ、名も知らぬ雑草の上に、はらはらと花片の散りかかつてゐるのも、無残なはかなさをまざまざと目の前に見るのである。
 大門の方をみると、火を二つ三つともして人の来るのが木の間から見える。兼家が迎へに来たのである。道綱が出て取次をすると、兼家は「車ながら立ちてある、御迎へになん参り来つるを、今日まで此の穢らひあればえ下りぬを、いづくにか車は寄すべき」といふ。穢れてゐるから下りることもできない、他が穢に触れぬやうにと、車の中でも坐らないで立つたままでゐるのである。かやうに兼家は厚意を示したが、作者は帰らうとはしない。「夜更け侍りぬらん。とく帰らせ給へ」と、邪険にいふのである。これは道綱の取次が悪いからだと兼家の機嫌が悪く、不本意のまま帰つて行くので、道綱は車の尻に乗つて送つて行つたが、間もなくもどつて来た。どうしたのかと母がきくと、お前は呼んだ時に来いといはれたと告げて、ししと泣くのである。翌日兼家の様子を伺はせに道綱を京にやり文も送る。昨日は夜も更けてをつたので、御帰りの道もおぼつかなく、何卒平かにと仏に祈つてをつたなど、流石にやさしい言葉を綴つたのである。

  五六日ふる程、六月さかりになりにたり。木蔭いと哀れなり。山蔭の暗がりたる所を見れば、蛍は驚くまで照らすめり。里にて昔物思ひ薄かりし時、二声と聞くとはなしに、と腹立たしかりし時鳥も打ちとけて鳴く。くひなは其処と思ふまで敲く。いといみじげさ勝る物思ひのすみかなり。

山寺の静けさに澄み入るには、余りに情が多いのである。それで時鳥も水鶏もうとましく腹立たしくなるのである。ただ情のあこがれる時に於てのみ、自然は美しくなごやかである。

  タ暮の入相の声、ひぐらしの音、めぐりの小寺の小さき鐘ども、我も我もと打ち叩きならし、前なる岡に神の社もあれば、法師ばら読経奉りなどする声を聞くにぞ、いとせん方なく物は覚ゆる。かく不浄なる程は夜昼のいとまもあれば、端の方に出でゐて眺むるを、此の幼き人、入りね入りねといふ。気色を見れば、物を深く思ひ入れさせじとなるべし。

父母が不和の時、子が如何に苦労することか、さうして子は弱い母をいたはるのである。誠にいぢらしい限りである。兼家は何とかして作者を下山させようとして、あれこれと手をつくしたが、作者はなかなか頑固であつた。兼家は再び迎ひに来て、二言三言いつたかと思ふと、そのあたりに散らかつてゐるものを取りかたづけて包み、袋に入れて車に入れさせ、無理に連れて帰らうとしたが、作者は容易に腰をあげようとしない。申の時に来て火ともす程になつた。兼家もしびれをきらして諦め、「よしよし我は出でなん、きんぢに任かす」といつて立ち出でたので、道綱はおろおろして「とくとく」と、母の手を取つて泣きぬばかりに哀訴した。これには否む由もなく、言ひ甲斐なしとは思ひながら寺を出た。我にもあらぬ心地で、道すがら兼家は「打ちも笑ひぬべき事ども」を口数多くいふが、作者は夢路を辿る思ひであつた。家に帰つてからも兼家は何とかして作者を笑はせようとするが、作者は「つゆばかりも笑ふ気色」を見せなかつた。(以上、中巻)

校訂者注)「「夜更け侍りぬらん。とく帰らせ給へ」」、底本は「「夜更け侍りぬらん」とく帰らせ給へ」」。誤植と見て訂正。

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 天禄三年、兼家は四十四歳、道綱は十八歳、作者も老い過ぎた心地で、甲斐なき独り言も出ないやうになつた。正月廿五日の司召に兼家は大納言になつたが、作者は別に嬉しいとも思はない。道綱はロには出して言はないが、心中ではうれしく思つた。

  さながら八月になりぬ。朔の日雨降り暮す。時雨だちたるに、未の時ばかりに晴れて、くつくつぼうし、いとかしがましきまで鳴くを聞くにも、我だに物はと言はる。如何なるにかあらん、怪しうも心細う涙浮かぶ日なり。たたん月に死ぬべしといふさとしもしたれば、此の月にやとも思ふ。

曽てのやうに、悔しさ、腹立たしさはなく、嵐の後の静けさで、気抜けしたやうに一点を見つめて涙を垂れ、段々と終末の気持といつたやうなものに近づくのである。

  物もいはれねば、などか物もいはぬとあり。何事をかはといらへたれば、などか来ぬ、訪はぬ、憎し、あらかしとて、打ちもつみもし給へかしと言ひつづけらるれば、聞こゆべき限りの給ふめれば、何かはとて止みぬ。

超越的な態度でだまりこくつてゐる。兼家はそれが不思議な変りやうに見えるのである。

  我は春の夜の常、秋のつれづれ、いと哀れ深き眺めをするよりは、残らん人の思ひ出にも見よとて絵をぞかく。さるうちにも今や今日やと待たるる命、やうやう月たちて日もゆけば、さればよ、よも死なじものを、幸ひある人こそ命はつづむれと思ふに、うべもなく九月もたちぬ。

寂しさをこめて絵をかくのである。然も死を待つ用意がこめられてゐるのである。この作者が琴を弾いたことは既に記したが、総じて此の作者は芸事に心を寄せてゐるやうではない。
 天延元年、兼家が来ても、老いて恥しと思ひ屈し、身なりはいたくしをたれ、鏡に向ふ姿は憎げである。これでは愛想をつかされるのも無理はないと思ふ。天延二年二月の頃にや、作者は或る山寺に物詣をして、早春の山道を面白く叙景してゐる。

  何ばかり深くもあらずと言ふべき所なり。野焼きなどする頃の、花は怪しうおそき頃なればをかしかるべき道なれどまだし。いと奥山は鳥の声もせぬものなりければ、鶯だに音せず。水のみぞ珍らかなるさまにわきかへり流れたる。いみじう苦しきままに、かからである人もありかし、憂き身一つをもて煩ふにこそはあめれと思ふ思ふ、入相つぐる程にぞいたりあひたる。

憂き身一つを扱ひかねながらも、段々と客観の中にはいつて行くやうである。
 作者はかねて養女をしてゐたが、この年右馬頭なる人がその養女に求婚してきた。日記にはその次第を委しく記し、七月の所に「見る人は猶うら若くて、如何ならんと思ふ事しげきにまぎれて、我が思ふ事は今は絶えはてにけり」と記してゐる。養女はまだうら若くて、右馬頭の求婚をどうしたものだらうと思ふ心遣ひの繁きにまぎれて、我が身の物思ひはすつかりなくなつたといふのである。丁度その頃右馬頭の身持ちがよくないといふ話を聞き、ことわるによき理由であると思つて安心した。八月疱瘡が流行して道綱が煩ひ、既に「こと絶えたる」兼家ではあるが、その由を告げてやると、返事の言葉は「いとあららか」であつたので、作者は心外に思つた。九月朔日漸く道綱は癒えたが、前少将挙賢、弟の後少将義孝は九月十六日朝夕の間に身まかつた。之を聞くにも道綱の場合も危険なことであつたと恐しう思ふ。臨時の祭に、俄かに道綱が舞人に召され、兼家からも珍しく文があつて、装束など皆してよこした。祭の日はいかでか見ざらんとて物見に出ると、兼家の車には四位五位のものが沢山とりまいてきらきらしう、作者に対しても上達部が大納言兼家の思ひ人であるといふので手毎に果物など差出し、父の倫寧も特別に盃をさされ、その時ばかりは作者も満足に思うたのである。正月の朔日、白馬に道綱の着る装束をしたためながら年の果てになつたとあつて、日記の全部が終る。(本文は喜多義勇氏著、蜻蛉日記講義による)

  三 批評

 以上見来つたやうに、此の日記は感情の昂揚の激しいことが特色である。其の最も著しい感情は「悲し」「哀れ」「心細し」などで、いつも涙もろいのである。よよと泣き、ほろほろと涙を流し、又さくりあげて泣くのである。既に引用した文で、涙とか泣くとかいふ文字の無いのは殆んどない。それほど此の作者は涙にぬれてゐる。さうして感極まれば物もいはれないやうになる。かういふ感情は和泉式部のそれとよく似てゐるが、式部のは静かな流れであるのに対しこれは激流のやうにわきたぎり、作者の胸はつぶれ、さけ、はしり、ふたがり、こがれ、いたむのである。又その反面には心が平静になつて此の上もなく寂しさを味はひ、堪へられなくなるのである。時たま物詣に出て自然の風景に触れるとすつかり解放されて、悩ましい日頃の感情は客観物をおし包み、山川草木禽獣が目にしみるやうな刺激を与へるのである。一言にしていへば此の日記の作者の生活は苦悩の二字につきるので、遺憾なく個性を苦悩したといふことにならう。
 最後に日本精神史の発展の上から、作者の位置を考へて見よう。先づ此の時代の物語として宇津保をとつて見るに、中に出てくる人物は実にのびのびと、思ふままに振舞ひ、苦しみ、悩み、つつしみといふ側の批判的な精神をもつものは極めて稀である。大部分は自由奔放、度を越え極端に走つてゐる。かういふ生活態度が生活内容を豊富にし、感情の発達を促した点は著しいが、粗野・無秩序・散漫たる事を免れない。かういふ膨張した文化は是非とも批判を加へて引き緊めなければならぬ。又此の時代の歌集として後撰をとつて見ても、集の全面に漂ふ感情は自由豊満の四字につき、宇津保物語と同様な生活態度が示されてをり、其の代表的歌人は兼輔・実頼・師輔などであるが、師輔の子である兼家がかういふ文芸思潮の背景のもとに成長したことは想像に難くない。かう考へてくると、此の作者の嘗めた苦悩は、やがて批判さるべき此の時代の文芸思潮が、夫婦の関係に於て批判された為の精神葛藤であつたと見られ、此の日記の作者は個性を苦悩すると共に、時代をも苦悩したものといへるのである。

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