二 紀貫之の思想
此の日記を読んで誰でも気のつく事は、とかく貫之が人情の厚薄を喜び嘆いてゐる点である。これは貫之晩年の気むづかしさの現れ、或は旅の憂鬱からくる自然の皮肉とも一応は考へられるが、一歩立ち入つて考へると、貫之は厚意のある人々との間に温い情の世界を築かんとし、反対に此の希望を裏切るやうな不人情漢に対して極度の嫌悪を感じ、言を尽して悪罵を放つてゐるものと考へられる。さうして此の態度が若し貫之一個の住みよい生活の為であるならば、ああまで嫌悪を感じ悪罵を放たなくても済むのである。だから貫之としては世間そのものを住みよくしようとする正義観があつたと見てよい。後で述べるやうに貫之は大の国粋的な立場をもち、又文学にしては政教的な立場をとつてゐる。その貫之がこれだけの正義観をもつてゐたとしても不思議ではあるまい。而して温い情の世界は和の精神の現れであつて、それが又日本文学の本質をなすものであるから、貫之の此の主張は大きな根柢の上に立つたものであるといふべく、而も貫之は此の立場を思ふ存分主張し遠慮なく不人情を悪罵する為にわざわざ女子に仮托して筆を進めたのであらうとする説(1)すらある。
以上は貫之の奥にもつ本心といつたものを述べたのである。今この主旨から日記の本文に少しづつ触れて行かう。十二月廿七日の條に
楫取、物の哀れもしらで、おのれし酒をくらひつれば、早くいなむとて、潮満ちぬ、風もふきぬべしとさわげば、舟に乗りなむとす。
といひ、楫取の下衆らしい感じと、之に対して噛んで吐き出すやうな気持をよく現してゐる。次に正月九日の條に
つとめて、大湊より奈半の泊を追はむとて漕ぎいでにけり。これかれたがひに国のさかひの内はとて、見おくりに来る人あまたがなかに、藤原のときざね、橘のすゑひら、はせべのゆきまさ等なむ、み館よりいでたうびし日よりここかしこに追ひ来る。この人々ぞこころざしある人なりける。この人々の深き志はこの海にも劣らざるべし。
とある。これは貫之も満足に思ふ所である。感激の気持をこれ以上言葉をつくして縷々述べるといふことは、貫之にはできなかつたので、これが精一杯である。又同じ日に
これより、今は漕ぎはなれてゆく、これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。かくて漕ぎゆくまにまに、海のほとりに泊れる人も遠くなりぬ。舟の人も見えずなりぬ。岸にもいふことあるべし。舟にも思ふことあれど甲斐なし。
とある。流石に土佐国を離れ、厚意ある人にも別れる。其の感慨が聊か文面に現れてゐるといつてよからう。「岸にも云々。舟にも云々。」の対句は簡潔な名文句といへよう。又同じ條に
漕ぎゆくまにまに、山も海もみな暮れ、夜ふけて西東も見えずして、てけのこと楫取の心にまかせつ。をのこもならはぬはいとも心細し。まして女は舟底に頭をつきあてて、音をのみぞ泣く。かく思へば舟子楫取は舟唄うたひて何とも思へらず。
とある。海上の不安、心細さなど簡単ながらよく現れてゐるが、やはり楫取の平気な態度が気にくはぬ趣である。二月九日の條に
京の近づくをよろこびつつのぼる、かくのぼる人々のなかに、京よりくだりし時に、みな人子どもなかりき。いたれりし国にてぞ子うめる者どもありあへる。人みな舟のとまる所に子を抱きつつおりのりす。これを見て昔の子の母、悲しきに堪へずして、
無かりしもありつつかへる人の子を
ありしもなくて来るが悲しさ
といひてぞ泣きける。
とあり、又二月十六日の條にも「舟人もみな子たかりてののしる」とある。これはどんなに羨しかつたことであらう。そこにあるものは哀れな情であるが、可憐の情にひたること、子を失つた悲しみに他人の同情してくれること、これは共に貫之の求めてゐる情の世界である。二月十六日の條に
かくて京へいくに島坂にて、人あるじしたり。必すしもあるまじきわざなり。立ちてゆきし時よりは、帰る時ぞ人はとかくありける。これにもかへりごとす。
とあり、又
家にいたりて門に入るに、月あかければ、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれやぶれたる。家をあづけたりつる人の心も荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、のぞみてあづかれるなり。さるは、たよりごとに、物はたえず得させたり。今宵、かかることと声高にものもいはせず。いとはつらく見ゆれど、こころざしはせむとす。
とある。この二つは辛辣な皮肉である。島坂の方は下る時よそよそしくしておき乍ら、帰つてきた時にはちやほやする。その余りの軽薄にはツンと虫に障るが、じつとこらへて、自分は一層義理堅く返礼をしたのである。隣人の方は反対に下る時は如何にも親切さうにお留守番をしてあげませうといひ、気のよい貫之はしかと留守番をしてくれてゐるものと思ひ、絶えず金銭を送つてゐたのに帰つて見ると随分のあれやう。庭の松の木も随分と伐られてゐる。家の者も憤慨して大声に罵るが、紳士的な貫之は「まあ今宵だけはいふな、我慢せよ」といつて制し、とにかく名前だけでも留守を預つてくれたのだからとて、お礼だけはした。如何にも義理固い貫之である。
猶、貫之の思想として注意すべきものは和歌尊重の思想である。一月廿日の條に、
昔阿倍の仲麻呂といひける人は、もろこしに渡りて、帰り来ける時に舟に乗るべき所にてかの国人、馬のはなむけし、別れをしみて、かしこのからうた作りなどしける。あかずやありけむ、廿日の夜の月いづるまでぞありける。その月は海よりぞいでける。これを見てぞ、仲麻呂のぬし、わが国にはかかる歌をなむ、神代より神もよんたび、今は上中下の人も、かやうに別れをしみ、喜びもあり、悲しびもある時にはよむとてよめりける歌、
青海原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも
とあるが、わが国にはかかる歌をなむ云々以下は、和歌は日本固有の詩歌形式で、その起原は神代に遡るといふことを、仲麻呂が唐土で主張したといふのである。果して仲麻呂がさういふ事をいつたか否かは別として、貫之自身がかういふ思想をもつてゐたので、之を仲麻呂に仮托したのであらうと考へられる。この貫之の思想は古今集仮名序に於ても同様であるから、純粋固有のものを神代に遡つて求めようとする思想は貫之の持論とみてよからう。
註(1)小宮豊隆氏--土佐日記の研究(改造社の日本文学講座)