江戸期版本を読む

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カテゴリ:佐佐木信綱と「心の花」 > 作歌八十二年(1959刊)

作歌八十二年

佐佐木信綱著 1959年 毎日新聞社刊

目  次

01 はしがき 父 明治5年(1歳)~同12年(8歳)
 【五歳の宮参り 京阪の旅・ 萱生由章先生・六歳の歌 高畠式部 鈴屋歌会 歌ぐさり 】
02 明治13年(9歳)~明治14年(10歳)
 【詠史の歌 越前加賀の旅 船の苦しみ・数よみ】
03 明治15年(11歳)
 【東京へ 箱根・東京 福羽・西・高崎先生 東京永住・小川町】
04 明治16年(12歳)~明治20年(16歳)
 【鎌倉日記 漢詩・古典科入学 古典科の諸先生 イーストレーキ・樋口一葉 森有礼・哲学館】
05 明治21年(17歳)~明治27年(23歳)
 【古典科卒業・落合直文君 尾崎紅葉君・日本歌学全書 父の永眠・福羽美静翁 竹柏園・歌の栞 凱旋の歌・長良川 中野逍遥・廿七八年戦役】
06 明治28年(24歳)~明治31年(27歳)
 【勇敢なる水兵・遼東還付 いさゝ川・与謝野鉄幹・新詩会 続日本歌学全書・心の花 兵児帯の輪ぬけ】
07 明治32年(28歳)~明治34年(30歳)
 【竹柏会大会・野遊会 大磯百首・みちのく百首 信越百首 亡父の十年祭歌会 続みちのく百首 「雀の歌」・「夏は来ぬ」】
08 明治35年(31歳)
 【中川のほとり チエンバレン先生 富士登山 滄浪閣】
09 明治36年(32歳)
 【竹柏会大会 甲州行・哲学館講師 上海・長江 漢口・洞庭湖 長沙・湘潭 長沙・新堤 三峡・南京 揚州・鎮江】
10 明治37年(33歳)~明治38年(34歳)
 【蘇州・杭州 明治三十七八年役 軍歌の数々 美濃の旅・東大の講師 足尾・塩原】
11 明治39年(35歳)~明治42年(38歳)
 【志摩行 水師営の会見・榛名行 常磐会・観潮楼歌会 彰考館の古書・歌学論叢 亡父記念碑 万葉集抄】
12 明治43年(39歳)~大正2年(42歳)
 【水野家本元暦万葉 日本歌学史・万葉集古写本攷 梁塵秘抄・西片町に 東大行幸・万葉集古鈔本天覧 生涯の恩師】
13 大正3年(43歳)~大正5年(45歳)
 【類聚古集の印行 心の花の万葉号 鹿持雅澄の師承 心の花叢書・タゴール翁】
14 大正6年(46歳)~大正9年(49歳)
 【竹柏園百人一首 学士院恩賜賞を授けらる 明治天皇御集編纂委員 近衛家の万葉集目録 古河家本元暦万葉集 先考三十年記念会 正倉院御物撮影】
15 大正10年(50歳)~大正12年(52歳)
 【明治天皇御集成る 心の花三百号 大震災と校本万葉集 校本万葉集の再興 震災前の横浜】
16 大正13年(53歳)~大正14年(54歳)
 【琴歌譜の発見 校本万葉集の完成 十日物語十首 嶽麓吟】
17 大正15年(55歳)~昭和2年(56歳)
 【契沖全集の出版 耕雲千首奥書 公孫樹下歌会・南京遺芳 北海行・父の歌の短冊 白老アイヌ村・登別温泉 狩勝峠 新訓万葉集・契沖全集】
18 昭和3年(57歳)
 【九条武子夫人 アグノエル君・清水浪子さん 秩父三峰の歌 豊明殿御饗宴 】
19 昭和4年(58歳)~昭和5年(59歳)
 【定家所伝本金槐集 越中国府の遺跡・和倉 机の島・万葉植物園設立期成会 湯の山・皇大神宮式年祭 長崎・雲仙 阿蘇・仙覚律師遺蹟碑 法隆寺聖霊会 万葉・古今・新古今三選釈】
20 昭和6年(60歳)
 【扶桑珠宝印行完成 扶桑珠宝・続扶桑珠宝 東大講師二十六年・宮中進講 校本万葉集普及版 金色堂・十和田湖 三島神社田祭の歌】
21 昭和7年(61歳)
 【大隈言道旧宅之碑 還暦祝賀会 木曽川を下る 恵那峡看鶴 石薬師文庫閲覧所・東山御文庫御曝涼】
22 昭和8年(62歳)~昭和9年(63歳)
 【鴉と童子(連作) 劇「静」・幻住庵 西本願寺本万葉集印行成る 雪の長良川 学士院会員に任命 伊良子崎・小国神社 宮崎市に】
23 昭和10年(64歳)~昭和11年(65歳)
 【チェンバレン先生追悼会・金沢に 上代文学史成る・広島文理大に 水戸における講話・双宜園 捕鯨工船日新丸・讃岐沙弥島 柿本神社・宍道湖舟中月下賦】
24 昭和12年(66歳)
 【鳥羽行・橘守部表彰会 飛鳥寺赤人歌碑・文化勲章授与 岡山行・芸術院会員任命 新万葉集選歌 時事に関する作】
25 昭和13年(67歳)
 【御講書始に 下関より別府に 臨時東京第一陸軍病院に 長崎・佐賀 南京飛行場歌碑】
26 昭和14年(68歳)
 【英訳万葉集竟宴 独訳万葉集 室蘭・登別公園 層雲峡・定山渓】
27 昭和15年(69歳)
 【紀元節祭御儀 月の瀬行 新宮・那智 大和国史館の万葉室 和気清麿公銅像副碑】
28 昭和16年(70歳)~昭和17年(71歳)
 【軽井沢・志賀高原 万葉名勝及典籍展覧会 十二月九日の朝刊 源実朝歌碑除幕式 愛国百人一首】
29 昭和18年(72歳)~昭和20年(74歳)
 【蒲原・三保・清水 死生の間 供林光平全集 熱海に移る 八月十五日 御前崎行】
30 昭和21年(75歳)~昭和23年(77歳)
 【歌御会始詠進歌 理研詩歌会 清水港祭・登呂行 清水澄博士 新訂上代文学史刊行・喜寿記念会 雪子うせぬ】
31 昭和24年(78歳)~昭和25年(79歳)
 【宮中賜餐の日 サンパウロに於ける歌碑 先人六十年記念会 千曲川河畔歌碑 鈴鹿行 石薬師・富田浜】
32 昭和26年(80歳)~昭和27年(81歳)
 【西行上人歌碑 伊東めぐり 竹柏会大会 たけくらべ記念碑・評釈万葉集のために 原田嘉朝翁 上代文学会 竹柏会大会 皇太子成人式の御儀】
33 昭和28年(82歳)~昭和29年(83歳)
 【琉歌の話 中祖定政四百年忌 実朝を偲ぶ名月歌会 グンデルト博士訳の東洋詩集 静岡・三保・森 島崎藤村君 評釈万葉集成る 尭山師の香筵】
34 昭和30年(84歳)5月28日まで
 【茂睡歌碑副碑・聖武天皇御製記念碑 藤田美術館・円珠庵 京都及び阪神支部歌会 秀胤君の案内で大和路を・奈良女子大に 奈良ホテルの歓迎会】
35 昭和30年(84歳)5月29日以降
 【薬師寺歌碑除幕式 金蔵院の座談会・佐保山の南陵 東大寺の本坊・春日神社 古代裂流し 瓢亭・湯河原万葉公園 義宮殿下に・和歌文学会】
36 昭和31年(85歳)
 【聖武天皇千二百年忌 万葉集事典成る 和倉歌碑・竹島神社歌碑】
37 昭和32年(86歳)
 【心の花七百号 片山広子・鎌倉三種 短冊凌寒帖・古筆凌寒帖 蘇峰先生・海南博士】
38 昭和33年(87歳)~昭和34年(88歳)
 【野村望東尼全集 鳥取市讃家持歌碑 外語訳万葉集選シリーズ あとがき】

凡  例

  1:底本は「作歌八十二年」(佐佐木信綱著 1959年 毎日新聞社刊)です。
  2:底本の仮名遣い、踊り字はそのままとし、旧漢字は基本、現在通用の漢字に改めました。
  3:二文字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字に改めました。
  4:横棒は「一(漢数字)」との区別を明確にするために「――」あるいは「~」としました。
  5:ふりがなは必要と判断したもののみ、半角括弧( )で示しました。
  6:原文細字および割注は{ }で示しました。
  7:文章は引用を含めて全てUPしましたが、写真は全て割愛し、標題のみ< >で示しました。
  8:校正者による注は《注:》で示しました。
  9:目次に【 】で示したのは、底本各頁左上の柱にある文言です。
  10:底本の行末の読点はしばしば省略され、本コンテンツでは随所にその省略が表れます。

    はしがき

六歳で歌を詠んで、今年八十八歳。ただ一すじに歌の道を歩んで来た自分である。
「作歌八十二年」の自らのあとをかえりみて、ここにこの一巻をしるすこととした。

幼くて、父の教のままに歌を詠みはじめたのであるが、後になって、歌の道が、日本の古い伝統に根ざして一千数百年の生命を生きつらぬいた芸術であること、人間の真情を叙べるに最もふさわしい詩型であることを知り、わが生涯をかけて進もうと思い定めたのであった。
父は、「斯道を弘布する」というて、著述をなし、歌の道に入る人々を生涯導いた。その父の跡を踏んで、自分も、良いと信ずるこの道を弘布することにつとめ、同時に和歌史及び歌学史の研究と、万葉学の基礎的作業(古写本の捜索とその印行、校本の作成等)とをその目標とし、作歌の実行と並行して努めて来た。この一巻は、その記録ともいうべきものである。

    父

父弘綱は、伊勢国鈴鹿郡石薬師に生れ、はやく父徳綱(のりつな)(医師)にわかれ、母鳰(にお)子(武備(たけび)の神官田上氏の女)の手によってひととなり、山田の碩学足代弘訓先生の寛居塾(ゆたいじゅく)に入った。先生は塾生にそれぞれにその踏み行く道を示され、父には、古今集遠鏡のような俚言解をつくるようにいわれたので、それに努め、安政四年に江戸に出た時、竹川政恕翁の世話で竹取物語俚言解二冊を出版した。翌年大阪に出て、中島広足翁と交わった時、翁は、鰒玉集、鴨河集につづく撰集をと書肆から頼まれたが、老年ゆえそなたがといわれた。それで、千船(ちふね)集初編を万延元年に、つづいて二編三編を出した。石薬師は近江の多羅尾代官の支配である。その代官から召されて信楽に往復し、苗字帯刀を許された。後、津の藤堂侯からも召されて、老儒斎藤拙堂翁より歌を示されもし、父も詩の添削を請うたりした。藤堂家から藩にといわれたが、多羅尾家の情誼を思うて辞退した。維新後は、専ら俚言解と千船集の続編とにかかり、全国からおくられる歌稿を見ておった。
幕末時代に近江の八幡にいった時、親しくなった福羽美静(ふくはよしすず)氏から、上京するようにと二三回手紙が来たが、「和歌の浦に我だに一人のこらずば朽ちはてなまし玉拾ふ舟」「和歌の浦に老を養ふあしたづは雲の上をもよそに見るかな」の歌を以て辞退した。
歌をよくした一人むすめのおけいさんが八歳(やつ)で失せ、つづいてその母なる園田須磨子さんも世を去ったので、神戸藩の岡元氏の女光子(みつこ)がとつぎ、明治五年六月三日(父の日記によるに「四ツ頃」、いまの午前十時頃)自分が生れたのであった。

    明治五年 一歳

生れた翌日、六月四日に、亀山の門人橘幸子(さちこ)さんに父の贈った書状の奥に、「言の葉の道つたへむとはかなくもわが命さへ祈らるゝかな」という歌が書き添えてある。このように期待をかけられたのであった。(この書状は後に橘さんから贈られて「竹柏華葉」に掲げてある。)《注:書状と入手の経緯、文面等については「亡父の書簡」(大正4年(1915年))に記されている。》

    明治九年 五歳

近辺の出入の百姓で清十郎というじいさんが、ひまな時に来て、「坊(ぼん)さん、いきましょう」と、おぶったり、肩車にのせたりして、石薬師寺(じ)や山辺(やまのべ)の御(み)井、まりが野や甲斐川などにつれていってくれた。このお寺の石の薬師さまは……、ここで昔の人がこんな歌をよみました。ここにはこんな話があります、と父から教わって来たことを、じいさんがおもしろく話してくれた。
清十郎じいやのはよかったが、初夏のこと、近辺の畳屋の息子が、出来た畳を届けに蒲川の方へゆきます。菜の花や紫雲英(げんげ)が盛りですからつれていってあげましょう。畳の上へ座布団を敷いて来ました。この綱を持っておればよいのですからというので、喜んで乗せられていった。ところが石橋に手すりがなかったので、車の輪が傾き、畳はするすると水の中に沈んだ。驚いた畳屋さんが川に飛びこんだに、自分は綱を持ったまますわっておったとのこと。自分ではおぼえていないが、近辺の百姓に背負われて家に帰って来て、わびをいう若者が帰った後、母は茶の間で着物を着かえさせ、泣きながら、二度とこんな目にはあわせません、水でぬれた着物は長くしまっておきます、と言ったのが思い出される。{写真は鈴鹿市の伊坂千春氏の撮影。}
<鈴鹿山の遠望>
十一月 村の産土(うぶすな)大木神社に五歳(いつつ)の宮まいりにゆくに、洋服を着せられた。父は月に一度四日市に教えにいったので、その時買って来たのであった。歌人であり国学者ではあるが、夙く和蘭(おらんだ)語をも学び、新しい事物をも好んで、書斎の障子の中央には紫、赤、白のガラスがはめてあった。また床の間には、ささやかな二人の人形のおどるオルゴールの箱がおいてあったので、時々いって、ねじをまわして踊らせるようにせがみもした。
「言の葉の道伝へむ」との考から、万葉集や山家集の歌を暗誦するよう教えられた。はにかみやで友達がないので、家のうしろの広い茶畑によくいった。そこには、ここかしこに桐の木が植えてあり、遠景としては鈴鹿山脈がうつくしかった。それをながめつつ、「ひむかしの野にかきろひのたつ見えて」とか、「鈴鹿山うき世をよそにふりすてて」とうたったりしていた。
こんな時はよいのであるが、時としては我ままが過ぎるので、家の裏の書物倉にしめこまれた。すると、声限り泣きわめく。隣の家の夫婦とも父の教え子であるから、聞きつけて出しに来てわびてくれる。ある時、ちっとも泣き声がせぬので、母が心配して網戸からのぞくと、本箱の名所図絵を出して見ておったので、困ったとのことであった。

    明治十年 六歳

一月 父は孝経をかいて素読を授けてくれた。
四月 父母にともなわれて、大阪から京都にいった。淀川の夜舟が枚方に着いて、「くらわんかくらわんか」の声にめさめてこわかったこと、黒谷の定円(じようえん)上人が父の教え子であったので、訪うて、本堂で読経を聞いた時、歌のようなものをつくって父にそっというたりしたことがあった。その所々で、所々の昔話を聞いて楽しい旅であった。
春秋の彼岸には、父につれられて浄福寺の西の三昧(さんまい)(墓地)にいって、祖父母や姉の墓にまいり、帰りには、かなり離れておる法運寺の、東の三昧なる一つの墓の前にぬかずく習わしであった。ある時、この墓は誰のですと問うと、父は、「これは萱生由章(かやうよりふん)先生のである。先生は石薬師の生んだ一番すぐれた学者で、これこれの事をなさった。信(のぶ)も大きくなったら、何かをせねばいかぬぞ」といわれた。
九月 弟昌綱(まさつな)が生れた。
十二月のはじめ、粉雪のふった朝、父の書斎にいって、ガラス障子のそばで、
   障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鴬がなく
とよんで父にいうと、「よしよし、これが信の初めての歌だ」というてほめてくれた。
この月、松阪に移った。それは鈴屋社の歌会の監督を父がお頼まれした為であった。平生(ひらお)町なる真行院(しんぎよういん)の側の家を借りて住んだ。

    明治十一年 七歳

一月 湊町小学校に入った。校長は真川(さながわ)真澄先生、受持は上野貞利先生、温顔が今も思い浮べられる。
二月 岡寺でよんだ歌、
   岡寺のよひ宮まつり来て見ればほしき売物つづきけるかな
松阪の町はずれの左側に、参宮の道者たちの立ち寄るようにと造った見世物小屋があった。気味のわるいはらみ女の人形が十ならんでいて、その前をまわれるようにしてある。出口には、がちゃっとまわすと、いろいろにかわるからくり人形があった。
   くるくるとまはりて見れば恐ろしく又おもしろき物もありけり
九月 父につれられて参宮をした。老杉の木かげの道をしずかに歩いた。山田の足代先生のお宅にいった。小学校になっていたが、先生時代にお仕えした女中が年をとってつとめているのに案内されて、ここは昔の塾の方々のおられたところ、というので、父はなつかしそうにながめておった。先生のお居間であったという部屋で、父は先生のすぐれた方であったという話をしてくれた。
斎宮で昔がたりや、櫛田では櫛田川の上流なる北畠氏のことを委しく聞いた。垣鼻(かいばな)では歌の会でなじみになっている藤の棚にやすんだりした。
日野町の堀内千稲(ちしね)翁のもとへ土曜日の夜によくいった。堀内家は南勢宮前(みやのまえ)の旧家で、先代は長野義言(よしこと)の世話をして、その著書にも序文をかき、出版しておられる。松阪に隠居をされた千稲翁は、父の門人であり、四男の鶴雄君は自分と同年、小学校の同級なので、行くと、二人を前において、福沢先生の学問のすすめや、世界国づくしの話などをして下さるのがおもしろいので、いつもいって夜ふけて帰った。自分の住んでおる処は平生町から移って来て、近くはあったが、帰りにはいつも若い番頭さんが送ってくれる。櫛屋町の四角(よつかど)の南側は長井家(小津、長谷川、長井と、松阪の三家といわれる家)の土塀が長くつづき、老松が欝蒼と繁っておる。土塀の尽きた処が自分の家である。真暗い夜ふけに四角からまがって少し行くと、番頭さんは、「おばァけ!」と大声で云うてバタバタと後戻りをする。気味わるいので、こわごわ歩いて自分の家の前へ立ち格子戸を明けると、足音をしのんでついて来たと見えて、「坊ちゃんをお送りしてきました」というて帰って行くことが度々あった。
この櫛屋町の家はかなり室数(へやかず)があったので、国々から来た弟子の人が泊りもすると、母はよくもてなした。京都で蓮月と並び称された女歌人の高畠式部は、松阪の出身であるが、墓参に来ても親類がないので、泊めてくれとのこと、父は喜んで二三日とめたことがある。門人たちをよんで小さな歌会を催し、幼い自分も列なった。式部は、「坊ちゃん、おぼえておおきなさい。人間はしようと思えば何でもできるものです。わたしは東海道の名所が見たくて、日より下駄をはいて、京都から東京まであるいて行きましたよ。わたしは細(こまか)い字をほることがすきで、この筆たてに百人一首をほりました。又、これは笑い話ですが、私の名の式部は千種(ちくさ)さんからいただいた立派な名ですが、そねむ人は式部は式部でも、色が黒いから鼠式部(ねずみしきぶ)だといいましたよ」と老顔をほころばせておられた。その時、齢は九十四、五、極めて丈夫であったが、食物(たべもの)がごく少量で、いささかのお粥、それを腹がすくと日に何度もたべる。夜中でも母を起して、「粥を」というので、母は滞在中はおちおち眠れず、あの時だけは困ったと、後によく話したことであった。

    明治十二年 八歳

一月 二十日に鈴屋歌会に父に伴われて出て爾来毎月出席することを許された。お家(うち)は、魚町の横町、長谷川家の筋向うであった。お玄関の左は六畳で患者の待合室、次は六畳と四畳、次は四畳半と三畳と並び、いずこかが御診察室であったのであろう。右は中庭で松の大木と井戸があった。つきあたりがお座敷、その縁側の向うが奥庭で桜の木があった。お座敷へすわる前に、入口の右に三四段の大きな引出しつきの段梯子があるのをあがると狭いお書斎、一方は庭に面している。床には「県居大人之霊位」という掛物と床柱に沢山の鈴がかかってい、窓に向ってお机がおいてある。このお机におよりになって、古事記伝を初め多くの著述をおかきになったのであるとのこと。床の間とお机にお辞儀をしておりて、お歌会の末席に列なった。座敷の中央に文台が置いてある。いつも十二三人くらいのあつまりで、当座題は通題のこともあり探題のこともあった。それがすむと兼題の披講、終って久世(くぜ)安庭翁――父は、このお方は文政八年、今から五十年も近い前に春庭先生のお弟子におなりになった方であると話してくれた。その久世翁のお話、父の歌がたりがある。御当主の春郷先生は四日市においでの頃お茶をお教えになっていたとのこと、しとやかなかたであった。春の日の長い頃などには、会がすんで城山――蒲生氏郷の城を築いた処――にのぼりもし、本居先生のお歌にある四五百(よいお)の森にいったりもした。
父は日野町の柏屋兵助(ひようすけ)という古本屋によくいったので自分も一緒についていった。松阪の有名な書家韓天寿(かんてんじゆ)のかいたのを木彫にした文海堂の額がかかっておった。老主人は自分にいろいろの昔話をきかせてくれた。――その中の一つを数十年後、「松坂の一夜(ひとよ)」という文にかいたのが大正年代に小学読本にちぢめ掲げられた。(この柏屋が衰えて額も売りに出たと名古屋の人からいわれたので購うて、今、熱海の山荘の一室にかかげてある。)
柏屋から少しさきの左が樹敬寺(じゆきようじ)で、本居家のお墓があるので、春秋の彼岸にお参りした。
山室山へは父母に伴われていった。山の上の本居先生の奥つきのもとにぬかずき、山の中腹にある妙楽寺に立ちよると、参詣人の姓名や歌が多く書かれてある巻物があった。父は知合の人の名を指ざし、自らも安政何年かに初めて詣でた折の歌をよんできかせてくれた。
岩内(いおち)や横滝へもいった。静かなよい処であるが、岩内のお寺の大きな蜂の巣には驚いた。
城山から遥かに見える大口浦へ、父はよく沙魚(はぜ)つりにいったので、自分も伴をしていった。ある日の帰途、有名な朝田(あさだの)薬師のある村を通るとて、父は此の村から江戸に出た朝田某は、幕府の弓張師岸本讃岐の家をつぎ、岸本由豆流という学者となった。考証学者として著書が多い、などと教えてくれた。
日曜日ごとに、稽古にくる人と一緒に、歌ぐさりをした。歌ぐさりとは、父が寛居塾に在った頃、古歌を記憶する為にと、先生が塾生にまじってせられたとのこと。それは、たとえば、先生がまず、「いざこども早く日本(やまと)へ大伴のみつの松原待ちこひぬらむ」とおっしゃると、四句の「み」が上にある歌を考えて、次にすわっておる一人が、「水の面に照る月なみをかぞふればこよひぞ秋の最中なりける」という。次の人がすぐいえないとお辞儀をする。すると、次の一人が「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」という。次の人が「天の原吹きすさみたる秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり」、次が「春霞かすみていにし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に」、次が「伊勢武者は皆緋縅の鎧着て宇治の網代にかかりぬるかな」とようにいうのである。しかし中々すらすらとは続け得られぬ。その時は先生が教えてくださる。そして時として「水の面に……、それは誰の歌」ときかれる。「源順です」と答える。「天の原……それは誰の歌」「揖取魚彦(かとりなひこ)」と答える。「伊勢武者は……それは何の本に出ておる」と問われる。「平家物語に」と答える。こうして一同が古歌をおぼえたとのこと。百人一首のはなるべくいわぬ、同じ歌を同じ日に二度いわぬとの定めであったという。その歌ぐさりを自分らもしたのである。自分は幸にはやく古歌の暗誦を授けられていたので、しあわせであった。

    明治十三年 九歳

一月 学校から帰るとすぐ父の書斎へいって、日本の歴史や、すぐれた人の話、それに伴った歌、弟橘媛の「さねさしさがむの小野に」、義家の「なこその関と思へども」、正行の「かへらじとかねて思へば」というような歌を日に一首ずつくわしい話を聞いた。そうしてそれを歌に詠む「詠史の歌」という、むつかしい歌をも教わった。「いま話しておるのはすぐれた人の歌ばかりであるが、万葉集の東歌には、百姓やその女たちのよんだ歌もある。人の命は長くはないが、よい歌は千年以上も命がある。よむ時には心をこめてよまねばならぬ」と教えられた。
三月 父は福井の三崎玉雲(ぎよくうん)さんから招かれて越前加賀にゆくとのこと、自分は、一緒にゆきたいと無理に頼んで、とうとう行くことになった。それは、父と共に一日二日の旅にゆくと、どこでもそのところどころの歴史や伝説、草や木や鳥や虫の名を教えられ、歩き疲れると連歌をしたり、歌ぐさりをしたり、幸いに歌ができると小さな手帳にかいて直してもらったり、いわば移動学校の教育を受けるようなので、父との同行はこの上ない喜びであったからである。ある時は二人乗の人力車にも乗ったが、歩くことが多かった。津では芝原音信(おとずれ)氏を訪うた。寛居門の生川春明翁の弟子で、おもしろい歌をよみ、おもしろい字をかく人であった。その夜は関に宿った。旅宿の主人は父の門人であった。父の日記に、「西尾利重のもとに宿る。あるじは古き弟子なれば、さまざまの饗応(あるじまうけ)し、大津までの休泊はわが会合の時まかなふべしとて、神風講社の帳に消息そへて与へくれぬ」とある。当時の旅はこんなのんきなものであった。鈴鹿山を越えるとて自分は、
   六つに越え九つにして鈴鹿山ふたたび今日はのぼりけるかな
敦賀では気比神社に詣でたに、広前の糸桜が盛りであった。旧神官石塚資梁氏を訪うた。父資元翁は、敦賀誌七冊を著した学者である。金が崎城の跡に登って、父から太平記の話を聞き、武田耕雲斎の刑せられたという松原へもいった。旧家打它(うだ)氏の海荘なる観瀾亭で歌の会があった。父が若い頃、足代先生のお伴をして来た時に宿った家である。老いたる家刀自は自分を可愛がってくれられ、水晶の玉を自分に与えられた。足代先生は水晶の玉を愛でて旅中にも小さな数個を携えられたそうであるが、これは其の中の一つで、当時若かった刀自に贈られたものであった。自分の喜びはたとえん方なく、その夜三国へ渡る三国丸という小蒸気船の中でも、小さな手さげ袋の中に入れ、大事に身に添えて、玉をいだきつつ罪なく眠ったことであった。{この水晶の玉は八十年ぢかい今も、熱海へ持って来て、座右の箱にしまってある。}建てて間もない三国小学校の西洋風の立派さ、藤島神社へ詣でて大館尚氏祢宜に案内された義貞戦死の蹟は、殊に目に残った。
福井に着いた。三崎さんは小児科医で、九十九(つくも)橋に近い三階建の家、その奥の間に、とめてもらった。藤井千熊さんへも、弟子の一人なのでよばれていった。橘曙覧(あけみ)が酒をのみにいったという風月亭などでも歌の会があった。川津直入(なおり)翁の家へも何度かいった。翁は曙覧の門人で、曙覧が苦しい生活の中で歌を詠んだこと、しかも松平侯から召されても、自分には自分の考があるというてお断りしたこと、歌よみになるには苦しまねばならぬというような教訓を聞き、志濃夫廼舎(しのぶのや)歌集をもらった。去年、山室山の妙薬寺で父から聞いた曙覧の歌のことを話したに、「よくおぼえているね」とほめられた。ある日、川津さんの家の夜の歌会に父と共にいったに、翌朝目さめてみると、傍の父の寝床もなく、座敷の様子も変っておる。もじもじしていると、川津さんの奥さんが来られて、「坊ちゃん、昨夜うたたねをして寝てしまったので、うちにおとめしたの。朝飯をあがり、これを持ってお帰りなさい。送らせましょう」と庭の山吹の枝をくださった。三崎さんへ帰ると、王雲さんと父と記念の写真をうつされるので、自分も山吹の枝を持ってうつしてもらった。
   うつくしい山吹の花いつまでもちる時なからう嬉しくもあるか
と父にいうと、王雲さんは「嬉しくもあるか、は驚いた」と笑われた。
大野にいっては、中島広足の門人なる布川正沖翁の家に、蕨生村では城地氏にやどり、うしろの山で万葉の歌にある堅香子(かたかご)の花を摘んだ。九頭竜(くづれ)川の鮎つりはおもしろかった。金沢に赴くとて、松任では加賀の千代の家や墓を訪い、金沢に着いては高橋富兄(とみえ)翁の客となった。翁は臼井憲成氏と共に金沢での学者であり、歌人であった。橘守部門の石黒魚淵(なぶち)、尾山神社宮司の加藤里路氏などにも逢った。尾山神社やその外でも歌会があった。平岡神社の会の時、夕食が出たに、大勢の人が前に来られて、持寄りの馳走を小さな皿に分けて下さる。皿の数があまりに沢山に並んだので、どれをたべてよいか、困ったことであった。その日の当座、山家時鳥、
   ほととぎすなく声さむくきこゆなり雪なほのこる越(こし)の山里
途上、遠く見た白山つづきの山の残雪をおもって詠んだのであった。
かくて、山代、山中、浅水(あさうず)駅のあさむつの橋、余吾の湖(うみ)、賎が嶽、関の藤川などを過ぐるごとに、父からいろいろ教えられて、六月松阪に帰った。
この秋、東京の本居豊穎(とよかい)先生が、宣長翁御贈位の記念に松阪に来られたので、樹敬寺で盛んな歌会が行われ、宣長翁真蹟の展観などがあった。自分も末席につらなることを得た。――何十年後の話。ある日、阪正臣君が来訪された時、携えた書画帖を示された。「山田の皇学館の前身の学校に留学していたので、樹敬寺の会に出席して、この書画帖に人々に書いてもらった。小さな君がいたのを人にきくと、佐々木さんの子で、幼いながら歌をよむとの事で、かいてくれというたところ、すぐ筆をとってかいたので驚いた」といわれる。自分も驚いて見た。「安陪(マヽ)宗任 梅よりもまさる言葉の花の香に大宮人もにげていにけり 九才 信綱」。さきに父から教わって詠んだ詠史の歌の中の一首なので、阪さんに請うて、そこの二頁を切らせてもらい、所蔵しておる。
十月 父が三河の西尾にゆくに伴われて、山田に近い神社(かみやしろ)の港までいって、三河にゆく小蒸気船に乗ったに、三河に近づいて実にはげしい暴風雨にあい、船は沈みそうになった。かろうじて佐久島に着き、少数の乗客であったが、一同が漁師のささやかな家にとめてもらった。翌日幸いに風雨がやんだので、平坂港につき、西尾へゆき辻氏の客となった。――この時の船の動揺のあまりにもはげしかったその苦しさは長く忘られがたく、それ以来、河や湖の船は好んで乗りもしたが、大海を航することにはすっかり臆病になり、南清に一度、北海道に二度いったのみ、台湾に三度、満洲に一度、欧米に二度よい機会にめぐまれたに行かず、この三河行が生涯のマイナスになった。

    明治十四年 十歳

松阪の日野町の角(かど)に、会所というておった洋館まがいの大きな家があって、櫛田の池部宗民さんが住んでおられた。父の歌の弟子で、歌をよむことの達者な人であった。父は、歌はじっと考えてよむものであるが、数よみというて、短い時間に多くの歌をよむのも修行の一つであるという教えで、隔週の土曜日の午後に、父から二三十の探題(たんだい)をかいてもらって池部さんへ行く。「信さん、今日も来たね」といって、探題の一つをひらいて、「庭落花という題だよ」といい、やがて帳面に歌をかかれる。「さあ出来た。信さんまだかね」と催促される。それがつらいので、何とか詠んで、家へ持って帰って父に見てもらった。父の感化で、幼いながら古い本がすきであった。父は手まめだったので、座右におく古今類句などは、二三冊を一冊の合本とした。西順(さいじゅん)の夫木集抜書は、とても大きな本二冊を一冊にして珍しい句の右には、父のひいた朱線がここかしこにあった。家(うち)一番の大きな本ゆえにほしくてたまらず、「くれ」というと、「どうせ皆、信にやる本だから」と笑っていてくれない。ある日、京都よりの来客が、父の側におった自分に、「京の菓子ですからあげます」とのこと。客の帰った後に見たに、扇がたの箱に扇がたの菓子が入っておる。父は、「これは珍しい。明日(あした)久保の乾さんにゆくから、あげよう」と取りあげた。自分は、「信がいただいたのです」、父は「外の菓子をあげよう」。自分はとっさに、「あの大きな本と取かえよう」というて、夫木集抜書は、信綱の蔵書になって、今も傍らの書架においてある。
隔週の夕方、上野貞利先生のお宅へ伺って、論語の文や、文選のやさしい詩のお講義を聞いた。父は、歌をよむにも漢文の力がいるとよくいった。また、愛宕町(あたごまち)の天神の境内のお寺に、父の歌の弟子の梅森月皎(げつこう)上人のもとへも折々いって、何というお経にはこういう話がある、何々上人のお歌にはこんな歌があるとのお話を聴いたりした。

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    明治十五年 十一歳

三月 「また小学校を休むことにはなるが、上野や向島の花を見に、すぐれた歌人や学者の方々にもお目にかかるようにつれていってやろう」との父の詞、自分は躍りあがって喜んだ。人力車にも馬車にも乗ったが、歩いた方が多かった。小古曽(おごそ)では河村氏を訪い、四日市では川村又助さんを訪い、桑名から船で尾張に渡った。
   一すぢの煙をあとにのこしおきて沖をはるかに船はゆくなり
名古屋では大須の観音に参り、このお寺に古事記の古い本があるという話を聞き、本居門の植松有信の孫なる有園氏を訪うた。玄関に主人が出てみえたが、暫く父の顔を見ておって何か二言三言いわれて後、座敷に通された。「佐々木さんの著書は夙くから見ておったので、もっとお爺さんの筈である。もしや名を騙って来たのではなかろうかと思うて失礼した」と話された。父は笑いつつ、「晩年に生れたこの男の子をつれて上京するので、途中名高い方を訪うてお目にかからせたいとお尋ねした」というて、古事記伝出版当時の祖父君有信翁の苦心談をお聞きした。
熱田の町では小貝諸文という、商人で歌人の家にとめてもらって、羽鳥春隆翁を訪うた。桂園派の歌人、かつ大和絵の画家であった。折からかきあげられた神功皇后が玉島川で魚を釣っておいでになる絵を自分に与えられて、「東京へいったらば、高崎正風先生におあいできた時、春隆がいうたというて賛をしてお貰いなさい」といわれた。
西尾では辻氏に宿った。老いたる母堂が、「束京案内」という銅版画入りのごく小型の二冊の帙入本を贈られた。あこがれていた東京のなつかしい俤に接することができたので、嬉しさに、この二冊の本は道中いつも自分の袋の中に入れて持ち歩いていた。
豊橋では、郊外なる八幡宮の神官羽田栄木(はださかき)翁を訪うた。父は、「この御老人は平田篤胤先生のお弟子である。先生の門人で生きておいでの方はごく少いから、よくお覚えして置け」といわれた。傍なる文庫に案内されて種々の古書を父に示され、自分には平田先生の逸話をいろいろ話され、帰る時に「信綱わ子に与ふ」という短冊を贈られた。
曇ったり雨が降ったりしたので、岩淵、原を通った時も富士が見えず、三島に宿った翌朝、朝空にすがすがしい富士を眺めた。
   嬉し嬉しはじめてあふぐ昨日までうつしゑにのみ見し富士の嶺を
箱根を登るにも連歌をしなどして苦しくはなかったが、途中で父が、自分は別の道をゆくから一人で登りなさい、といって右の方の笹生の中の道におりていった。暫く登っても父の姿が見えぬ。どうしたことかとたまりかねて、「おとうさんおとうさん」と泣き声で叫んだ。ふと出て来た父は、「やっぱり子供だなあ」と笑っておられた。芦の湖を見、権現に詣でた。実朝の「玉くしげ箱根のみうみ心(けけれ)あれや」の歌をうたって、歌にはいろいろある、古い詞を用いてもよい、すべてよいものはよい、と教えられた。畑(はた)の宿(しゆく)を通ると、接待茶屋があった。茶釜に湯がわいており、誰でも腰かけて弁当などをたべられる無料の休み茶屋である。腰をかけると、父よりも少し年下らしい人が来て、「何処へ」と問う。「花見に東京へ」と答えたに、「今の時代は花見などにゆく時でない。わしは金原(きんばら)明善というて、浜名の橋などをかけた……」。父は「それはよい事をなさった。しかし人には人各の道がある。自分は歌よみなので、此の子に上野の花などを見せにゆくのである」というと、「わしも変った男だが、君も変っておるね」というて西の方へいった。
湯本への坂道は急で、石の段が苦しい。父は旧幕時代に何回かここを通って、「箱根山のぼるみ坂の石角(かど)の一つ一つに苦しかりけり」と詠んだ。人の世は苦しいものということを覚えておけ、といわれた。湯本では福住にとまった。主人は名を正兄(まさえ)というて、二宮宗(にのみやしゆう)をひろめており、歌人でもあるとのこと、歓待してくれられた。父は明治三年にとまった時とはかわって四階建で立派になったと驚いていた。
神奈川まで馬車で、神奈川から初めて汽車というものに乗り、新橋停車場に着き、人力車で煉瓦づくりの銀座通りを見、神田西黒門町の橘幸子(さちこ)さんの家にいった。幸子さんは伊勢の亀山におられた時からの父の教え子である。{四頁参照}《注:四頁は明治5年》
翌朝は上野へいった。花は真盛り、人出の多いにおどろいた。浅草の観音にまいり、向島では花かげの堤の道をそろそろあるいて、桜もちを十分にたべた。自分の母は神戸(かんべ)本多家の藩士の女で、江戸在勤中神田橋の屋敷で生れ、大きくなって、藩侯の姫君に仕え、毎年の花盛には御殿山(ごてんやま)の下屋敷(しもやしき)の花見にお伴し、その翌日だけ自由に上野や向島に友だちとゆけたとのことであった。
   母君が春くるごとに話された上野隅田の花を見しかな
夜は、近辺の三田花朝尼(さんだかちように)を訪うた。景樹の直(じき)門の人で、桂園の昔がたりを聞いた。
次の日、御徒町に本居豊穎先生を訪うた。一昨年は松阪へも御出でになったので、いろいろ親しいお話、本居家歴代の肖像画をみせていただきなどした。
池の端仲町の宝丹(ほうたん)のそばの間島(まじま)冬道翁を訪うた。広くはないが門の入口に竹いく本が植えてあった。名古屋時代に歌人として父とも交わっておられたのである。
天神下の通りの角(かど)に土蔵のある小中村清矩(きよのり)先生の家を訪うた。父とは旧幕時代からのなじみで、古い本の話をして、時々土蔵へいって本を出して来て話しておいでになった。
五軒町に松浦弘(ひろし)(武四郎)翁を訪うた。翁は伊勢一志郡の人、ごく若い時足代先生の門に入られたとのことで、父は幕末に翁を知り、翁の有名な蝦夷日記の一冊に歌を題してもおる。折から病臥中であったが枕もとにとおされ、父と昔話をされた後、「東京へくる途中どんな歌をよんだか、これに」と半紙を出されたので四五首かくとそれを見ておられたが、「わしも歌は好きじゃ」というて、女中に北野天満宮のあの鏡の図を持ってこいというて示され、この北海道と樺太の図に、「いく年か思ひ深めし北の海みちびくまでになし得つるかな」と書いてほらせ、天満宮に献納した。「わしは十六の時に伊勢を出て日本国中をまわり北海道をあまねく探検し、いばらの中や、雪の上にも寐たりして、一生を北海道にささげたというてよい。人間は一つの事に一生を献(ささ)げるべきものだ。お前は一生を歌にささげるつもりで勉強せぬといかぬぞ、今日の詞をよくおぼえておけ」といわれた。又、部屋の隅にかけてある画の掛物を指さされて、「あれはおれの涅槃の図じゃ。樹の下にわしが寐ておる。あのお公家さんは岩倉公じゃ、かわいがった犬や猫もおるのじゃ」といわれた。
番町に相沢朮(おけら)翁を訪うて数日の客となった。第一日に福羽美静翁を、番町小学校に近い邸におたずねした。門を入ると牡丹が開きかけているきれいな庭。翁は身体(からだ)は大きくないが、やさしくて、しかもしっかりしたおかたであった.お父さんと昔話をするから次の間で歌をよみ、この本をよんでいなさい、というて「百人一首一夕話」をかして下さった。しばらくしてよばれて、歌はといわれる。
   うつくしき庭の牡丹にむかひつつよむも楽しき百人一首一夕話
というと、あの本は初めてかといわれるに、「家(うち)にもあります」というと、ここかしこをあけてこれはと問われるに答えなどした。
相沢さんに伴われて、京橋三十間堀の西周先生にうかがった。升子夫人は相沢翁の妹君で、兄妹(はらから)ともに伊勢へ歌の添削を請いにおこされておったのである。西先生は実に立派なかたで、奈良の寺院や仏像の写真を出して、日本という国は外国のよいものをとりいれて千年前にこんな立派なものがある、と教えてくださった。
永田町の高崎正風先生にうかがった。古い時代の華族女学校の板塀の裏通り、後に近衛文麿公もおられた家を左に見るつきあたりの広いお邸(やしき)、長屋門で、右に長屋二三軒、正面は馬車まわしで小高い洋館があり、入って左が応接室である。先生は、大久保公の写真のような頬髭のある雄々しいお方、しかし人を見られるお目はやさしくお声もうつくしかった。父は八田知紀(とものり)翁が石薬師を訪われた折のことをまず述べたようで、なごやかなお話がしばらくつづいて、自分にも教訓のお詞をいただきお暇した。
飯田橋に近い鈴木重嶺(しげね)翁を訪うた。池のある広い家、やさしい老翁(おじい)さんであった。
麻布市兵衛町に柳猶悦(ゆうえつ)翁を訪うた。父が藤堂家に学を講じていた頃の知人であるとの事であった。《注:「猶」は底本のまま(正しくは「楢」)。》
旅行の目的の花見もすませ、旧知の方々にも大方お逢いができたので、父は帰り支度をしておったに、福羽翁から、父にくるようにとの使が来た。いって帰って来た父は、いつものようでなく、だまっておった。翌朝いつもの時間より早く「信、信」といって起こされた。そばには相沢さんもおられた。「昨日福羽さんのところへいったに、信についての御親切なお話であった。それは、お前が歌も詠むし本も少しは読んでいるのを此間いった時に福羽さんがおみとめになって、歌も松阪で親父(おとう)さんが教えるよりは、東京でよい先生に教わる方がよい。殊に学問は東京でなけれはだめだ。明治の初めに東京へといったに君から断って来た。今度は子供の為だ。昨日偶然小中村君に逢った時、ふと話をしたに、小中村君もそれがよかろうといわれたと泪のこぼれる有難いお話であった。昨夜(ゆうべ)とくと考えて決心した。鈴屋の会は、この四五年に池部、丹羽、大森、藤村君などがよく出来るからお断りしてもよい。今朝早く手紙をかいた。これは鈴屋歌会にむけて、これは家(うち)への手紙で、蔵書の類をまとめて荷物に出し、昌綱をつれて上京するように――信の教育のために東京に永住する。あの山室山の妙楽寺に墓地をもきめておいたのであったが――」といわれる。相沢さんも詞を添えられる。自分は父の詞をただただ有がたく聞いた。父は数日後に旅費のあまりで神田小川町一番地の裏通り、後に天下堂のあった裏に小さな家をもとめて住んだ。やがて母と弟が上京した。
ある日のこと、父の不在中に品(ひん)のよい老人の方(かた)が来られて、「留守ならばと手紙をかいて持って来たから」というて置いて帰られた。父がもどって来て、手紙の裏に「松平正二位」とあるので開いて見ると、「かねて貴殿の名は書物で知っておる。上京されたと聞いたので訪問した」とういう文意。奥に「位山高きも君が高き名にくらべてみれば麓なりけり 慶永」とある。父は驚いて、これは松平春嶽侯である。侯は学芸の士を愛されて、幕末時代に橘曙覧を城中にお召になろうとされたお方である。御挨拶にあがらねばと、翌日自分をつれて小石川音羽台のお邸(やしき)に伺った。《注:「とういう」は底本のまま。》
小川町一番地は広くて、明治法律学校の煉瓦づくりの校舎(後に印刷所になった)もあり、進徳館という私立中学もあり、依田学海(よだがくかい)居士も住んでおられ、喜多六平太さんも幼くて千代造といわれた頃に文十郎さんと一緒に住んでおられた。――近辺であるので、昌綱君は入門して仕舞を習いもした。――その学海居士の家と通りを隔てたところに広い家があったので移った。――後に煉瓦造りの書庫を建て、父はその二階を書斎とし、また別に二階を建て添えもした。庭は狭かったが、父は、本居先生の鈴屋のお庭もあのように狭かった。まして自分らがとよくいうておった。
この年の夏、父は高崎先生にうかがって、「信綱に歌の教を」と懇願した。先生は、「自分はやんごとない御方のお歌を拝見しておるので、弟子はとらぬ」とのお詞。父は「どなたもおとりになりませぬか」とお尋ねすると、「いや、二人ある、一人は有栖川宮の仰せで女官の小池道子と、今一人は香川景敏――若い頃国事に奔走して京都へ屡々いった時、景樹の子の景恒のもとを何度か訪うた。――自分は歌は桂園門の八田知紀の弟子であるが、その景恒の遺族はどうしておるかと近年京都へいった時に聞いたに、あまりにも零落しておるとのこと、名家の後を惜しんで景恒の未亡人と景敏、景之二人の子を上京させて、ここの門長屋の一つに住まわせ、弟の方はある宮家におつとめさせ、兄の景敏を教えておる」とのお話に、父は、「それならば景敏さんをお教えの日にお願い出来ませぬか。」との懇願に、先生も根(こん)まけをされてお許しが出た。自分は天へも昇る心地で、毎月二回永田町に参邸して、応接間の次の御書斎で景敏さんと一緒にお教をうけ、日課題というをかいていただいて、次回にその題を詠んではうかがった。洋館のうしろは日本館で広いお座敷、其の奥に母刀自や奥様のお部屋がある。時として先生のおともをして伺うとお菓子をいただく。いろいろお話を伺ってもお二方は鹿児島なまりのお詞で、景敏君に通訳を頼んだこともある。――翌年の春の末のこと、永田町のお庭は広くて紅白の躑躅(つつじ)がま盛である頃、山王神社の切通しに近い辺に弓場があって、先生は時々弓をおひきになる。こちらに朱硯と筆とを持って来て待っておれとのお詞に、其のようにしておると、片肌をおいれになってお直し下さった。そうして弓をおとりになり、「弓はこうして渾身の力を腹にこめて的に向わねばあたらぬ。歌も亦渾身の力を腹にこめて考えねば的からはずれてしまう。力一ぱいによむべきものである」とのお話を伺った。その秋であったか、秋風の身にしむということをよみいれた歌を御覧になり、「いつもいう、歌は真心であるということを忘れたか。十一や十二の男の子に秋風が身にしむということがあるか」とおしかりを蒙りもした。
父は幕末に、藤堂凌雲画伯に南画を学び、鈴鹿山にちなんで号を「鈴山」とつけておった。自分は筆をとることが不器用なので、画は学ばなかったが、「小鈴」という号をつけてくれた。この頃いろいろの聞書を随筆にかいて「小鈴随筆」と名づけ、またこれまでの歌稿を清書して「小鈴詠草」と名づけた。

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    明治十六年 十二歳

わが家に塾生のように泊っておった羽後大館の館忠資君に伴われて、四月に湘南に遊んだ。横浜から汽船で横須賀に、造船所を見、金沢に出、雨中を八景の一覧所金蔵院にゆき、瀟湘の八景によって水戸西山公が名づけられたことなどを聞き、千代本に一泊、翌日雨中、朝比奈峠の坂路を歩きなずみ、鶴が岡八幡に詣でた。頼朝公の墳墓では、
   奥つきの文字さへみえずむす苔の緑の上に桜花ちる
の一首をたむけた。次の日は、七里が浜、江島(えのしま)をめぐって藤沢に一泊、次の日帰京した。三泊の小旅行ながら二十余首の歌を得たので、文詞をつづり清書して「鎌倉日記」と名づけ、初めに「十二童源信綱」とかき、模様のある黒い表紙をつけて一冊の本とした。前に随筆は書いたが自分の処女著作なので、大事にしまっておいたのに、誰かに貸して貸しなくしでもしたろうか、見えなくなったので、実に残念であった。――数十年後、西村郁郎君が、博文館発行の「日本之文華」の明治廿三年一月から三月までの合本三冊を贈られた。見ると二号と三号に鎌倉日記の上と中がある。夢のように喜ばしく、四号は上野図書館の芝盛雄君に請うて写してもろうた。いつ又どこかに黒表紙の幼い文字の鎌倉日記の原本が残っておるかもしれぬと、ここにくだくだしく書きつけておく。
この年、父の歌の教え子の石原信明先生について一週に四度漢学の教授を請うた。先生は上州小幡の藩士で、神田今川小路の安中家の邸内に住んでおられた。物やわらかなお声、温厚なよい先生で、八家文を初め種々のお講義を聞いた。時としてはこれこれの国書の第一巻を持ってこいといわれるので携え行くと、漢文の序を教えて下さった。また漢詩をも作るがよいとのお詞で、たどたどしい詩をも作って雌黄を請うた。翌年であったか、「秋日過古戦場」という題で作っていった、
   秋風蕭瑟草芊芊 懐昔戦場南北天
   古木鳥啼人不見 碑文苔滑已千年
起承は少し加筆して下さって、転句の「古木鳥啼人不見」という句を、褒めていただいた。先生のお蔭で、その後も折々は韻字の本などを繙いて、作り試みたこともあり、また詩文の深い味わいをさとることが出来た。
家では、毎週三回、父に国書の講義を聞いた。平素(ふだん)はやさしい父であったが、講義の際にはちゃんと羽織を着、自分も袴をつけ、きびしい教を受けたことであった。

    明治十七年 十三歳

一月 父につれられて鈴木重嶺翁の歌会の発会に出た。翁(おう)はもと佐渡奉行をつとめられた幕末の役人であったので、勝海舟先生が毎年の発会に出られるとのこと。この日「与信綱子」として陶淵明の訓誡の詩をかいて下さった。{短冊凌寒帖に掲げてある。}
三月 父が高崎先生にあがった時、この秋の古典科の第二期の募集の試験をうけさせて見たいと申上げたに、それならばその準備が大事ゆえ、こちらの稽古はやめたらばよかろうとの仰(おおせ)であったとのこと。それで御辞退することになったが、一年と数ヵ月のお教が有がたく、その後、毎年中元と歳末にはお伺いした。
古典科入学の体格試験は心配していたが、年齢よりはずっと大きかったので幸に通過し、学科も無事にとおった。
   わが前に今ひらけたるひろき道斯(こ)の道をゆかむわが力の限
九月から、去年よりわが家にとまっておった埼玉県の須長(すなが)(後、佐藤)球(たまき)君と一緒に、お茶の水橋はまだ無かったので小川町から水道橋――壱岐殿坂へのコース、又は万世橋から明神下、明神前をとおってのコースであった。当時の大学正門であった赤門を入ると一面の原ともいうべく、左に法文科の赤い煉瓦造りの大きな建物があり、その右に日本造りの古典科の国書課(左)漢書課(右)が池に近い樹蔭にあった。授業の始まる前は、広場で本科生も別科生も入りまじって、フランスゴッコという無邪気な鬼ごと遊びをしたこともあった。
入学式の日には、総理の加藤弘之先生が出席せられ、主任の小中村清矩先生の訓辞は、心に深く刻みつけられた。
元来古典科は、加藤先生が明治の初年に、極めて新しい考えで国体新論をも刊行されたが、東洋には東洋の道、日本には日本の道があるから、国文漢文をうちすておくべきでないというようにお考がかわり、小中村先生に相談せられ、明治十五年に国書課第一期生三十人、十六年に島田重礼先生に相談になって、漢書課第一期三十人を募られ、今年国漢ともに第二期生が三十人ずつ募集されたのである。
国書課の先生方は、第一期では哲学の井上哲次郎先生、第二期では倫理学の坪井久馬三先生だけがお若く、他はみな老先生であった。先生がたは、国学の衰えた今の時代に、自分たちの跡つぎに種子(たね)を残そうとの御考で、どの先生も実に熱心なお講義であった。自分は木村正辞(まさこと)先生の萬葉集の講義を特に傾聴した。小中村先生の令の講義には、鼻がおわるかったとみえて、よく「くふんくふん」とおっしゃるので「くふん先生」、飯田武郷先生の日本紀の講義には「どうもそのくしびなことで」と、「どうも」とよく仰しゃるので「どうも先生」、本居豊穎先生は、江戸のお生れとのことで、源氏物語の講義に、「そうでげして」と仰しゃるので「げして先生」など実に失礼千万な、しかし愛称をささげたことであった。
小杉榲邨(すぎむら)先生は温和で、内藤耻叟(ちそう)先生は水戸風の力づよい風丯であった。漢学の岡松甕谷(おうこく)先生は脱俗風のかた、ある朝、講義の前に、教室に近い樹にいた梟を誰かがとって教壇の上に置いておいた。入って来られた先生は、だまって梟を教室の隅において講義をすませ、帰られる時に「これをもって帰ってよいか」とのお詞。「どうぞ」と誰かがいうと、風呂敷に包んで帰られた。次の週の講義の前に、「あの梟はどうなさいました」とたずねたに「何々の羹(あつもの)という事が漢籍にあるので煮てたべてみたが、うまくはなかった」と仰しゃったので驚いた。国文の同窓生には、和田英松、井上甲子次郎、赤堀又次郎、黒川真道、鹿島則泰、西田敬止、大沢小源太、大久保初男、宮島善文、佐藤球、その他すぐれた人たちであった。
十一月 木下幸文(たかぶみ)の「貧窮百首」を読んで、深く感激した。
牛込の川田剛先生の邸に、老先生がたの国文輪読会があって、父が出るので、傍聴の許しを請い席の隅に謹聴しておった。先生は若い頃、国文に志しておいでであった為、こういうつどいをなさったのであるという。

    明治十八年 十四歳

古典科の講義に、先生の二時間の休みのある時は、図書館へ勉強にゆく者もあり、気のあったそれぞれが、本郷三丁目のしるこ屋に行く者、本郷座が大阪の鳥熊(とりくま)の興行になって安価なので立見にゆく者、不忍池などにゆく者もあった。自分は大抵は図書館にいったが、此の年の春のこと、二時間のやすみを利用して数人で上野の花見にいった。池の端から東照宮の石段をあがる辺は込みあうていて、井上甲子次郎君が早足でゆかれるので、自分は当時の書生風に、「井上! 井上!」と大声で呼んだ。その翌朝、井上君から厚い手紙が来た。何かと思うてひらくと、「君は年が若いせいもあろうが、平素生意気でいかない。同級には黒川真頼先生や大沢清臣先生、鹿島大宮司の子息など立派な方々があるから見習わねばならぬ。昨日の井上! 井上! は何ごとである。今の書生仲間(なかま)にはやってはいるが……」とのきびしい手紙。自分はその夕方、飯田橋に近い井上君の家を訪うて、二階の君の書斎で深くあやまったに、井上君は、自分でわるいと思うならばそれでよいとやさしくいうてくれられたので、それから折々訪問した。
秋から池の端の貸席の二階で、土曜日の午後土曜会を開くことになった。演説風にのべるのも、読んだ本に就いて話すのも各の自由であった。

    明治十九年 十五歳

古典科の日々の講義は欠席しなかったが、四月から国民英学会にイーストレーキ先生に就いて英語を学んだ。先生は講義がたくみでおもしろかったが、生徒間ではあまりに日本語を多く用いられるというていた。そのうち母堂のマダム・イーストレーキが米国から来られたが、これは一語も日本語を知られなかったので生徒は困りもした。また東京英語学校の夜間部に入って学んだ。後にきくと、上田敏君も同じ夜間部に学ばれたとのことであった.
民間の歌人としては鈴木重嶺(しげね)、橘道守(ちもり)、網野延平氏、鶴久子(つるひさこ)、中島歌子、大野定子刀自等の歌会があって、-月を発会、十二月を納会といった。父は学校の時間の都合のつく日は自分の代りに出るとよい。当座の競点や歌合で競うのはいわゆる他流仕合(じあい)であるからとのことで出席した。鈴木翁歌会のことは前に一言したが、例月は今川小路の玉川堂、発会、納会は九段の万亀(まんかめ)楼であった。
本所の橘さん(はじめ割下水(わりげすい)、後、回向院の近く)の会では守部翁の逸事などを聞いた。当時大学を出てまもない真野文二君も出席しておられた。日本橋の網野さんの歌会では林甕臣さんに逢って話を聞いた。林さんは後に言文一致の文が行われた時、歌も亦言文一致でよむべきものであると口語歌を表された初めの人である。小石川の中島さんの会では田辺竜子(花圃女史、後、三宅雪嶺氏夫人)さんを知り、樋口夏子(-葉)さんに久々で逢うた。夏子さんが幼い時裁縫を習いにいった和田さんの主人の重雄さんが父の教え子なので、自分も前に逢ったことがあったのである。下谷の大野さんの会では、大槻文彦先生が甥であられるというので出席されたのであった。
自分の家の裏側で筋向にあたる広い家は岡田さんという尾去沢鉱山の持主の家であったが、時に遊びにいった。やがて米国に留学されるとのこと。自分は英語学校の夜学で学んだ、クヮッケンボスの米国史や、パーレーの万国史の話をした。君は新刊書をよく購って読み終ったから持っていって読みたまえとかしてくれられる。田口氏の日本開化小史、東海散士の佳人の奇遇、徳富氏の将来之日本等は最も感銘を与えられた書であった。老母の君は古い小説もお読みなさいというてかしてくれられたので、和本の八犬伝や弓張月を全部よみ終りもした。庭に葡萄棚があった。
   をさなきは幼きどちの物語葡萄のかげに月かたぶきぬ
は岡田さんの庭での作である。
神保町の古本屋をもよく漁(あさ)った。これは専門の国文の古書をあさるためであった。中でも福井の老主人はおもしろい人で、これはやすい本でよい本だからとっといたのですと安価でよい本を売ってくれた。西鶴のこういう本は文章はおもしろいが今のあなた方のよむ本でない。日本永代蔵はよんでもよいから貸してあげようとかしてくれた。遠く浅草の浅倉屋にもいった。与兵衛鮨から養子に来たという老主人の時代であった。

    明治二十年 十六歳

古典科は二十二年に五ヵ年で卒業すべきであったが、森有礼氏が文部大臣となって大学の制度を改められた際、古典科のごときは第一期生の卒業と同時に廃すべきであるとの考であったという。それを内藤耻叟先生が洩れ聞かれて文部大臣邸に森氏を訪い、極力廃止不可説を述べられたが、結局は第二期生を中途で廃学せしむべきでないという意見を容れられ、第二期生の学年を一年短縮して四年で卒業させ、同時に廃止して、第三回生は募集せぬと定まったとのこと、それを聞いた自分ら二期生は、内藤先生に対して感謝感激の涙をそそいだ。しかして諸先生は、この一年間に二年以上の学力をつけようと、講義の時間もふえ、熱意のこもった講義がつづいた。
卒業前年の九月からは、卒業論文作成のため図書館の内部に入ってもよいと許可が出た。図書館は法文科の建物の二階の左の隅で、これまでも時間があれば来たが、それからは日々館の内部に入った。内部には卒業生の学士が読書する大きな卓子があって、そこにいつも三宅雪嶺氏が読書されていたことが目に残っている。四庫全書など、漢籍の冊数の多い書の片鱗をも見た。しかし自分は、国書で書名の珍しい書は書架から引出してはひもといた。後年自分が国文学の文献学的研究に志したのは、この時に由来したものともいうべきであった。
また、学友相謀って、毎月の会以外に講演会を催して、各自の小研究発表会を開いた。
七月 萩野由之君が和歌改良論を発表されたので、訪問した。また古典科の先輩松本愛重、関根正直、市村瓚次郎君等を折々に訪うた。
九月 竜岡町の鱗祥院の内の一部で哲学館の授業が開始された。かねて哲学の名にあこがれていたので、今年の一月から赤門前に井上円了先生が開かれた哲学書院に立ちよって哲学書をあさったりしていたので、喜んで入学し、大学の時間の都合のつく限り、聞きたいと思う学科――哲学論の井上円了、社会学の辰巳小次郎、倫理学の嘉納治五郎、老荘学の内田周平等の諸先生の講義を聴いた。中でも辰巳学士のはたくみな講義ぶりであり、課外講師としての高島嘉右衛門翁の易の話はおもしろかった。しかし別掲のように古典科の年月がちぢまり、図書館へもゆきたいので、数カ月で中退したが、自分の歌学の底にささやかながら哲学思想が宿っていて、後年、詹詹録の一節に、「歌は、形の小さい芸術の一つであるが、そのすぐれた作品には、真、善、美、三つのいずれかを具えている。真と美とは説くを要せぬ。善とは、人間が互に結びあって社会をかたちづくる上にもつ博大な理想的精神が、凝って三十一字に成ったものをいう。所謂抒情歌には、真なるものと善なるものとがある。他の芸術も、真、善、美のそれぞれを持ってはいるが、歌は、殊に善のこころが直接にあらわされる芸術として著しい。」と書いたのは、この時の考のあらわれである。(後に、野口寧斎君に逢った折、君もこのからたち寺の始業式には列したが、一年未満で中退したというておられた。)

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