江戸期版本を読む

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カテゴリ: 佐佐木信綱と「心の花」

      明治二十一年  十七歳

一月 巌本善治氏に初めて逢って頼まれたので、女学雑誌二月号に「歌のはなし」を発表した。その文中、萩野氏の和歌改良論について一言した。
六月 女学雑誌に三回にわたって「詠歌論」を寄稿した。
七月 古典科を卒業し、故郷石薬師に母と墓参に赴いた。松阪では、久保の乾氏{一八頁参照}を訪うたに、惟聡(これふさ)翁は大層喜んでくれられ、「これは秘蔵の掛物であるが、記念にあげよう」と、宣長翁が谷川士清(ことすが)翁に贈られた書簡の幅をくださった。宣長翁は古事記伝の草稿を津へ、士清翁は和訓栞の草稿を松坂に、互にみせあわれた事実などもわかり、尊い書簡であるから、後年印行した「金鈴遺響」の中に収めた。《注:一八頁は明治14年》
幸いに齢若くて古典科を卒業したので、新たに一高の試験を受けて東大の本科に入学したく、英語をはじめ徐々に準備をしていたに、はやくからの六度の近視眼がいたむので眼科医にいったところ、今から六七年間の勉強は無理だろうとの意見に、絶望して家に帰り父に話したところ、それならば、自分の常にいう民間にあって歌道の弘布と、歌学の研究につとめるがよいと励ましてくれた。
<古典科時代>
八月 井上甲子次郎君を飯田橋の近くに訪うて二階へあがったに、先客がおられて、当時発行された雑誌「日本文学」を片手に持ちつつ、東北なまりの交った詞で、滔々と議論のつづきを述べておられる。一くぎり話がすむと、井上君が、「古典科の先輩落合直文君です。僕と同窓の佐々木信綱君です」と紹介された。孝女白菊の歌も読んでおり、その文名はよく知っておったので、ねんごろに、「父が古典科第一期の歌を見ておった時、落合亀次郎君(直文君の前名)の歌はすぐれているというたことを記憶してます。」などいうと、「僕の家はすぐここの近くだよ。遊びに来たまえ、井上君のここで逢ってもよい」と親切にいわれた。これが落合君との初対面であった。

    明治二十二年 十八歳

二月 高崎先生から、御歌所へ入るようにと慫慂を蒙った。恩命はありがたかったが、上述の決心で御辞退した。
去年の九月、父は雑誌「筆の花」に「長歌改良論」を発表した。十九年に、末松謙澄氏が「演劇改良意見」を発表されたのが口火となり、上述の「和歌改良論」も出た。父は足代先生の教に従って今様を作っておった。長歌も詠みはしたが、万葉時代の五七調が平安朝時代の七五調に移ってから千年にもなるという現実に立って、七五調の長篇を作るべきであるという意見であった。この論文は当時の旧い歌風の人々には非難されていたが、今年五月、海上胤平氏は、「長歌改良論弁駁」を出版し、父は六月の読売新聞に「長歌改良論弁駁弁」を発表、十月に石丸忠胤氏は「長歌改良論をよみて」を明治会叢誌に掲げ、自分は「長歌改良論余論」を十一月の読売新聞に書いた。二十三年に福住正兄氏は「雅調論」を大八洲学会雑誌に、父も同誌に「雅調論を駁す」を寄せ、さらに同誌に田所千秋氏は「駁雅調論を読む」、大貫真浦氏は「駁雅調論を駁す」をかいた。かくのごとく四面楚歌ともいうペき包囲攻撃にあうた中に、唯一人山田美妙氏は、読売新聞に父への賛成論を書かれた。自分は父が痛ましく、若い血をたぎらせていたので、当時駿河台の坊城邸の長屋におられた山田君を訪うた。
金港堂の「都の花」、春陽堂の「新小説」に対して博文館で「大和錦」を発行し、歌の選を頼まれた。ある時谷中にいったついでに編輯者の広津柳浪君を訪うたに、「先客はあるが」というてにぎわしい一室に通された。尾崎紅葉君を初め、石橋思案、川上眉山、巌谷小波氏らと逢った。初対面ながら我楽多文庫を読んでいた自分は、親しく語りあい、紅葉君、小波君とは爾来ずっと交わり、後、紅葉君の紹介で山岸荷葉、小栗風葉君も竹柏会の同人となられた。

    明治二十三年 十九歳

興隆しゆく日本にとって避けがたい行きすぎや矛盾の数々に対し、一つの反動として国粋保存への反省が深まりつつあった。教育勅語が渙発せられたことも、こうした動揺の中に胚胎していた。この年は自分にとっても忘れがたい年である。――すなわち、四月には、萩野、落合、小中村三氏の協力によって博文館から日本文学全書が刊行され、十月には父と自分との日本歌学全書が出たのである。この十二冊の編著に、自分は父を援けて若い心血を注いだのであった。いまだ類書もなく、それだけに世に弘く用いられもしたが、顧みて、自分の長い学究生活への出発は、この叢書のための研究によって踏み出されたように思われるのである。しかるに、第八篇の校正中に父は世を去ったので、九篇以下は自分が標註もし校訂もした。(この年の一月と六月とに、「日本文範」上下二冊を博文館から出版した。自分の著書の世に公けになった最初のものである。)
なお、この年の夏、埼玉県松山の吉見の百穴を見、青山の根岸武香翁を訪うて、幕末に滞在しておった安藤野雁の著書を見た。本庄の森田氏を訪うたに、渋川の鮎簗を見にと主人に伴われていった。途上、先日の大雨のために簗がくずれたと聞き、伊香保に遊んだ。
   湯の山の低き湯の宿高き宿戸を繰る音すほととぎす鳴く

    明治二十四年 二十歳

自分には慈父であると共に恩師でもある父は、一月から病気にかかった。父の最後の述作は「足代弘訓翁家集」で、師の恩を常に銘肝していた父の生涯のとじめとして、まことにふさわしい仕事であった。不幸にも病気はしていたが、床の上でもこの集の校正の筆を措かなかった。集には仁孝天皇から三条実万公を経て賜わった硯の写真も、夙く三条実美公が執筆せられた序文も添い、翁の衣冠の姿の肖像をも揚げて、翁の和歌・長歌・今様・文章・消息の集一巻が成った時の父の喜びは、たとえようもなかった。
しかも此の書は五月二十五日に刊行されたが、翌六月の二十五日には、不帰の人となったのである。病床にあって、「吾のみか人の心も苦しむるこれ一つこそ悲しかりけれ」と詠んで痛嘆した父ではあったが、危篤になった数日前、床の上に正座して短冊をとりあげ、平常よりも力強い筆蹟で、「命あらば嬉しからましもしなくばそれもすべなし神にまかせむ」、「かきのこすことはさはなり月花はいまだ見足らず死なじ魂」と書いたのである。{命あらばのは短冊凌寒帖に掲げた。}
谷中墓地に葬送の当日、福羽美静翁の式場で読まれた祭文は、父の霊も深く感謝したことであろう。長い文の終の一節を掲げる。
 {「……人と生るゝものは、何の道なりとも世のため尽すことありて世に仰がるゝ事、人の道にはありけり。佐々木の君の世に仰がるゝこと淵源あり。君若きより同じ国人なる、殊にすぐれ人たりし足代氏の教へ子となり、また天の下の物知り人を訪ひて頗る学徳を養ひ、世に信ぜられてこの東京に終れり。淵源ありて人の師となり、世に仰がるゝこと、これ人の名誉にて、友垣なるおのれらも誉ある事と思へり。猶おのれは、あまた年官に仕へたり。佐々木の君は、官に仕ふるにあらずして世に誉を得たり。官にありて誉を得るは、人あるひは易しといはむ。官にのぼらずして名誉を高くするは、難きところなるべし。その難きを経て徳ますます高し。また、君とおのれと身のおき所かはりながら、学の道もその心も同じ。官途の友垣ならずしてかゝる高徳の友垣ある、おのれこれを栄とす。……」}
天王寺の五重塔に近い墓域に葬り、後に、父に折々歌を示され、若い自分にも示された東久世通禧伯に執筆を請うて、碑を建てた。
父についての思い出は尽きない。ここにわずかにその一二をしるしとめておく。
「この書斎にかけてある「竹柏園」という斎藤拙堂先生の額を、信も生涯書斎にかけておくがよい。国学者や歌人には言霊舎(ことだまのや)とか柳園とかの号がある。自分も若い頃に然るべき名をと考えていたに、菰野に近い桜村の神官の家に大きな梛があり、その若木をもらったので培うた。梛は常磐木の一種で甚だ強く、その葉を二枚かさねて曳くと力士も裂くことができず、弁慶泣かせという名もある。あたかも師弟共研の意義があるから梛園とつけたところ、大坂の中島広足翁から、梛または那木はいわゆる和字であるから竹柏園とかくがよいと示された。その当時、藤堂侯に国文を講じていたので、大儒拙堂先生にかいていただいたのである」と諭された。(後年自分が会を興した時も会の名としたのであった。)
父は晩年に碁をたしなんだ。自分も見真似で折々父の相手をしたことがあった。ある時同じ小川町一番地に、五段か六段の中根某という有名な棋士が移転して来られた。伊勢の人であったかと思う。ある日のこと、父に伴われていったに、中根氏は「坊ちゃんも碁をなさるなら一手教えてあげよう」と云われるままに教わりながら一局打って貰うた。打ち終ってから、「大層手筋がよい。少し習って見てはどうです」と、お世辞であったろうがいわれた。さて帰宅したところ、その夜、父は自分にむかって、「わしは、年寄の慰みにまずい碁を打っておる。しかし、信(のぶ)は、一心に学問を学ばねばならぬ身ゆえ、これからは碁石を持ってはならぬ」と、固く言い渡されたのであった。以後、無名会の席上や他を訪問した折などに、たまたま一二番うったことはあるが、父が自分の心に刻みつけた誡めの詞は守りつづけた。
十二月 日本歌学全書十二巻が完成した。

    明治二十五年 二十一歳

三月 城南評論に「近世歌学評論」を七月まで寄稿した。
四月 「歌の栞」を博文館から出した。古典科の卒業論文とした歌の歴史をやさしく書き改め、作歌法その他和歌の百科全書ともいうべきもの、干数百余頁、革綴の四六判で、当時としては豪華版ともいうべきものであった。この書は大いに流布した。――何十年後のことであるが、石川啄木君の父君は村人に歌を教えておられたが、座右に「歌の栞」をおいてあったということを啄木君の妹君が啄木伝にかいておられる。
歌学第三号以下に、「国歌流派の変遷を論ず」を連載した。
晩春の頃、安房北条在の小原氏に招かれてゆき、北条の歌会に列なり、沖の島、鷹の島に遊び、奈古から帰った。
   奈古寺の春の夕ぐれ順礼がさびしき唄をうたふ夕ぐれ
六月以降、「校註徒然草」等七種、「標註十六夜日記読本」「標註庭のをしへ」(この二種は木版本)を刊行した。
ここに唱歌及び詩について一言する。
明治十五年に、井上哲次郎先生や、外山正一先生の「新体詩抄」、十八年に湯浅半月君の「十二の石塚」が出た後、いわば近代詩の少年時代には、いろいろな人が、いろいろの立場から作詩を発表された。さらに、小学唱歌の普及と、軍歌の流行とが、この機運を促し、新しい西欧風の音楽と共によろこび迎えられつつあった。
こうした機運の中に少年期から青年期をすごした自分は、巌谷小波君の編輯しておられた博文館の少年世界に童謡や、小山作之助君の作曲にかかる唱歌集に唱歌を寄せた。外山先生の「抜刀隊の歌」は随分早く出たのであるが、今年明治二十五年には、風雲の急を告げはじめた世情の反映もあったろうか、納所弁次郎君が「日本軍歌集」を出すから「凱旋の歌」を作ってほしいと依嘱された。「あな嬉し、よろこばし、戦勝ちぬ」の歌はこの時の作で、これは次に述べる明治二十七八年戦役に広くうたわれたのであったが、後、三十七八年戦役の時も、満洲で日本兵士がうたっておったということがロシヤ人の書いた戦記の中に記されていた。

    明治二十六年 二十二歳

三月 歌学に「歌学管見」を寄せた。
四月 文海に、後撰集新古今集の講義を連載した。
七月 父が第一編第二編を出した「千代田歌集」の第三編を刊行した。
八月 この頃から従来の歌に慊(あきた)らず、次に述べるような長歌や、所謂新体詩をもつくり、短歌に新様の作風をもるべくひたすらつとめるようになった。
九月 国民之友に長篇「長良川」を寄稿した。序詞に曰く、「水清き長良の流に船を浮べて、鵜飼の奇観を看しは八月十六日の夜なりき。尾張の中村、興津、大磯等に立ち寄りて帰京せるに、其の夜かの地洪水の報を得て感殊に深し。直ちに筆をとりて、空しく底の藻屑と消え、土の下に埋もれはてし百余人の霊をとぶらふ。八月廿五日の夜」。本文、
  うつろへる山の姿は、水の色に等しくなりて、並(な)み立てる峯より西に、三日月の影いと細し。
以下、長良川の鵜飼を叙すること五七を一句とした五十一句、帰途についてのべたこと二十句、聞き驚いてのべた句二十二句、濃尾の地は、一昨年の大震災にあったのに今再びこの厄にあったことをいたんだ五十五句、現代の貧富の差はげしく、富人は富み驕れるに、庶民生活、ことに災害後の生活のいたましさを思いやった百四十七句、川下の山村の悲惨をうたった五十六句、最後に家に帰った夜の月明に対して三十四句、「あはれこの月の光よ、あはれこのさやけき月よ、ぬれはてし人の袂に、いかさまに宿りかすらん、屋根もなき草の枕を、いかさまに照しかすらん、あはれこの月」ととじめてある。句々力よわく、冗長にすぐる作ながら、一篇三百八十五句。生涯において最も長い作品である。

      明治二十七年  二十三歳

一月 国民之友春期大附録五篇(学海、直文、絃斎、桜痴氏及び予)の一として「花さうび」一篇を寄せた。スコットランドの且つ耕し且つ歌った農詩人バーンズの若き時の逸話をうつくしいやまとぶりにうたったのである。
九月 母が世を去った。神戸(かんべ)藩士の家に江戸の神田橋の近くに生れたので、神田上水を産湯の水に使ったということが誇の一つであり、武家の出らしい品格を持っていたが、きわめておだやかなよい母であった。歌をもたしなんで、光子詠草(未刊)をのこした。
十一月 親友逍遥中野重太郎君が世を去った。君はこの秋、帝大漢文科を第一回に卒業、宮本正貫氏と共に東洋史を編みつつあった。一方多情多感の詩人で、その熾烈の情は血と涙とを以て綴ったというべき多くの詩を世に遺した。君は狂骨、自分は残月と号したので、自分は狂残銷魂録を二十五年十月の城南評論に掲げもした。その学ぶ所は異なっておるが、生涯の心友である先輩の永眠は嘆かわしさに堪えなかった。
 (――後、明治三十年島崎藤村君が若菜集を刊行するや、逍遥の秀才にして世を早くしたのを追慕し、哀歌十三章を掲げたので、その名が知られるようになり、昭和四年には、岩波文庫に笹川臨風君の訳文逍遥遺稿が収められた。}
   嘆かはし君の詩巻(うたまき)とこしへに天地(あめつち)の間(あひだ)にのこりてあらむも
この年、明治二十七八年の戦役が起った。歌人は歌を以て御国に尽すべし、という心から、多くの歌を詠んだ。
   父の子ぞ母の愛子(まなご)ぞ御いくさに弱き名とるな我が国のため
   くれなゐに雪をそめたる丈夫(ますらを)が肌へにそへし老いし母のふみ
戦後の作には、
   天つ日の光かしこみいやさきにまつろひよりし高さご島山
と詠みもしたが、その一方、
   かちどきのとよみの底にまじるらむ若きやもめの児をすかす唄
のような作もあり、
   亜細亜の地図色いかならむ百とせの後をし思(も)へば肌へいよだつ
のような杞憂の作も詠んだ。しかし、戦時は、短歌よりも軍歌を多く作った。

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      明治二十八年 二十四歳

一月 国民之友に「霜夜の月」を寄せた。
二月 大捷軍歌第三篇に「勇敢なる水兵」を寄せたが、大いに世に行われて、二十七八年戦役の軍歌の代表的作といわれた。それについてここにくだくだしいが、記しとどめておく。ある朝の読売新聞の三面にあった三四行の記事、「まだ定遠は沈みませんか。」と問いながら息が絶えたという一水兵の逸話に感激して、自分は長い詩を作り、「太陽」に寄稿したが、すぐに、これは軍歌とする方がよいと思いかえして作り改め、「大捷軍歌」に送った。それが奥好義君のよい曲が附いて有名になったのであった。さてここに、書かずものことであるが書き添える。それは数十年後のこと、某という海軍の主計大尉が官金を費消して英国に逃れ、時効になってから帰国して死去したという記事が時事新報に掲げられていた。それに、尾佐竹猛博士の文が掲げられてあった中に、この某という軍人は「勇敢なる水兵」の作者であると書かれてあったので、大いに驚いた、平素親しくない人を訪問することを好まぬ自分ではあったが、尾佐竹君とは時好倶楽部の会で顔見知りであったので、その朝、君を新宿の伊勢丹の近くに訪問した。自分は、「他人の執筆ならば一笑に附するのであるが、明治史の権威であられる貴君の文章に出ていることゆえ、今朝うかがったのである。あの頃は海軍の人に知人もなく知識もなかったので、大捷軍歌に載っているのには、『その玉の緒を勇気もて、つなぎとめたる水夫あり』とした、恥かしいことではあるが、当時、自分は水夫と水兵との分ちをよく知らなかったのである。また『副艦長の過ぎゆくを、いたむ眼(まなこ)にみとめけむ』としたが、海軍では、副長であって、副艦長といわないということも知らなかった。それで、後に、『つなぎとめたる水兵は』『間近く立てる副長を』と改めたのである」と語ったのであった。
五月十日、三国干渉により、遼東還付に関する詔勅が下った。終日悶々、夜に入って新橋駅前の麻屋に赴いた。独逸協会を卒え法律に精しく陸軍に勤めておる親友中村健一郎君が、運輸に関する勤務で滞在中なるを訪うたのである。顔を見るや涙がはふれ落ちた。この時に際して止むを得ない理由を諄々と説いてくれられた。一二時間後麻屋を出ると、新橋駅前の広場は人影なく、空には月が朧げである。じっと仰いでいると、中村君がうしろから来て肩をたたいて、帰りたまえ、車を雇ってすぐ帰りたまえというてくれた。
   空仰げば月曇らへり今宵のこの月の光の忘らるべしや
この年、詞林に歌文を、少年世界に童謡を発表した。

    明治二十九年 二十五歳

三月 森鴎外氏のめざまし草巻三に歌を寄せた。(巻二十三まで十五回にわたった。)
ある日の夕べ、森氏を訪うたに、雲中語のつどいの日で、篁村、露伴、思軒、緑雨氏等が、批評すべき書を中において、或は語り、或は筆を執り、或は盃をとっておられた。その後、毎月、日時をしらされたので折々赴き、磯辺千浪等の名で書きもした。また、めざまし草の中の自分の歌の用語について、同誌と帝国文学との間に筆戦五回に捗った。それは森氏の執筆である。
五月 めざまし草巻五に「笛」一篇十二章(連作)を発表した。爾来しばしば連作を詠じた。
   せめはたる人さへ今は来ずなりぬわが笛一つわれにのこりて
   山の端に月はのぼりぬわが笛を今こそ吹かめ月はのぼりぬ
   花かげに袖うちたれて聴きし人いづちいにけむ笛はあれども
   人は世はわれを捨てたりしかはあれどわれに笛ありこの笛あるを
   童べよこち来て聞けやわが笛を何をか笑ふわれやをかしき
   われは唯ひとりぞ吹かむわれ知らぬ人にきかせむわが笛にあらず
   雷(かみ)もおちよ龗(おかみ)もいでよわが笛をいかなるものか敢へてとどめむ
   わが身をも世をも忘れて吹く笛のすみゆくままにすむ心かな
   笛の音はすみこそのぼれかくながらのぼりやすらむ天つみ空に
   笛の音はいづこぞ誰ぞなつかしき声はもひびく雲のはたてに
八月 国民之友に「土曜日の夜」を寄せた。
十月 歌誌「いさゝ川」を創刊した。当時住んでおった小川町の名に因んだのであった。鴎外氏は鍾礼舎(しぐれのや)主人の号のもとに、短歌は五行にかくべしとの説を、学海翁は題詠不可論を寄せられた。
この春、与謝野鉄幹君が朝鮮から帰った歓迎会をするからと落合君より招かれて、上野摺鉢山の下の三宜亭にいった。浅香社の久保猪之吉君、尾上柴舟、金子薫園君と知った。
国民新聞に磯辺千浪の名で評林体の歌を寄せた。

    明治三十年 二十六歳

三月 大町桂月君の発起で、落合、与謝野、正岡君らとともに新詩会をおこし、合同詩集「この花」を刊行した。不忍池畔の長駝亭で会合のあった日、正岡君に初めて逢ったが、人力車をまたせて早く帰られた。
五月 音楽学校同声会春季演奏会に、自分の作詞「朝の歌」(メンデルスゾーン作曲)が演奏された。
九月 「少年歌話」刊行。詩集「藻かり舟」を附録とした。
十一月 新体詩集「心の緒琴」第二集に、「戦友」を寄せた。
下野足利の同人に招かれて赴いた。まず足利文庫のあとを訪い、古鈔本の残存せるに見入った。茸山にいった。とめ山といって、その日とった茸の代価を帰りに払うとのこと、しかし人出のわりに獲物は少く、あっここにといってとろうとするに、似た色の石や落葉であることが多かった。
   小石(さざれ)ふむ小鳥の声も秋たけてわたらせ川の音の寒けさ

    明治三十一年 二十七歳

一月 「続日本歌学全書」第一巻を刊行した。先人の志を嗣いで苦心し蒐集した近世の歌集歌論の書を、後世に伝え得られると思うと喜びに堪えなかった。
時事新報の選歌をした。(後に、万朝報、報知新聞、読売新開、国民新聞、新小説等の選歌にもたずさわった。)
二月 既刊の「いさゝ川」は七号を以て終刊とし、石榑千亦、井原義矩の二君と謀って「心の華」を創刊した。(後、「心の花」と改めた。)第一号に「我らの希望」という自分の文のはじめに、「花てふものなからましかば、春秋の眺めもいかに寂しからまし。歌てふものなからましかば、人々の思ひをいかでかやらむ。歌はやがて人の心の花なり。」と命名の来由をかかげた。
四月 吉野に遊んで、その紀行を心の花に掲げた。車中作、
   夕づく日菜の花畑にかたぶきぬ名古屋の大城(おほき)遠く霞みて
京都に渥美契縁(あつみかいえん)師のもとにやどった。師の女竹屋雅子夫人が、亡父以来の社友であられたからである。その夜は東本願寺造営の苦心談を聞いた。翌日嵐山に案内され、大井川を舟で川上にのぼった。
   底までもすきとほりたる青淵に二ひら三ひら花ちりうかぶ
次の日、大竹老人と同行して奈良鉄道で吉野へゆき辰巳屋に宿った。翌朝早く花見に出て、
   吉野山千本(ちもと)の花の下蔭をわれおほけなく一人しめたる
喜蔵院を訪うた。院主は大峰行者のものがたりをして、行者が吹いた古い法螺貝を贈られた。案内者をやとい、まず金峰神社に詣でたに、社頭の桜が風に誘われようとしている。
   大峰やなも当来の大導師いま此の花を守らせたまへ
愛善の茶屋からなつみ川を見、苔清水にいった。幼くから山家集に親しんでおった身とて、なつかしさに堪えられない。
   吉野山ひじりの言葉しをりにてまだ見ぬ花も今日しわが見つ
水乞鳥が鳴く。この鳥がなくと雨がふるという。
   谷にひゞく水こひ鳥の一声に峰の柴人空あふぐなり
苔清水の帰途の文詞を原文のまま挙げる。『西行庵に上人の像ありしを、今は金勝明神の社務所に収めありと聞き、茶店の家刀自にしひて頼みて、人すまぬ社務所の戸ざしたるをあけさせぬ。像は左の膝をたてて、右手に数珠を持ちませり。うらに、「奉納、天明五乙巳春、願主江戸南鍛冶屋町大井八右衛門定恒、細工人同中橋益田慶運」とあり。定恒とは、いかなるすき人なりけむ。ゆかしうおぼゆ。雲井の桜の茶店に帰り、あづけおきしわりごをひらく。大竹老人は瓢をとうでて、此の花にむかひ、此の酒をのむ味ひはとて、ゑらぎをり。足もとまらぬ坂路を下り下りて上(かみ)の一目千本にいたる。「雲をふみて」とは、まことにこのさまなるべし。山添をめぐりて、延元の陵(みささぎ)に詣づ。こだかき所に石の玉垣をめぐらし、白砂子(しろすなご)を敷きたる御(み)前にをろがみて、
   み吉野の山の雫のしげければあやのみ衣(けし)やかわかざりけむ
   古への大み思ひや晴れざらむ雲こそかかれみ吉野の山
   南ふき北ふきかはる山おろしに大御心もさわぎましけむ
   くなたぶれ醜のをのこしなかりせばかかるみ山に行幸あらましや
吉水院にいたる。
   いにしへの吉野の宮のあととへば花ちりしきて松の風寒し』
此の日の朝、あまりにもおかしいことがあった。次にかきそえるのは、さきに随筆にかいたその時の思出話である。『京都へ行った折、嵐山の帰りに、停車場で、東京の大竹老人に逢った。明日はどこへおいでですかと問うたので、吉野へといったに、私も行くつもりゆえ、御一緒にという。大竹さんは本郷の質屋の老主人で、娘さんが弟子であるから知っておった。翌日同行して、吉野の旅館に夜ついた。さて後悔した。自分は万事かまわぬ性分、老人は親切ではあるが綿密すぎて、車中でも種々注意してくれる。翌朝、まだ四辺(あたり)が暗いに起きて、曙の花を見たいと、そっと出かけようとすると、老人目ざとく、「どちらへ」「朝の花を見に」「それなら私もお伴を」「いや、あなたは歌を詠まないのだから、ゆっくりやすんでお出でなさい」。門口はまだしまって居るので台所へまわると、眠い目をこすりこすり竈の下をたきつけていた下女が、不思議そうに見る。日和下駄をかりて表へ出ると、町は何処(どこ)も戸が閉っていて、蔵王堂の辺から吉水院のあたり、道端の桜も朝露に眠って居る。谷を隔てた向うの山には、紫がかった雲がたなびいて、満山の花は今を真盛。歌興頻りに湧いて、例のように手帳を出しては歌を書きつける。書きつけては懐へ仕舞う。少し歩いては立ち留って又かきつける。書きつけては懐へ仕舞う。ところが、どうしたことか、手帳はパタリと地面へ落ちた。拾いあげて仕舞って、二三歩あるくと又落ちる。自分は手が不器用で、子供の時から角帯をしめた事が無く、いつも兵児帯のくるくる巻である。此の朝は山風が寒いので、二重まわしを着て居た。変だなと思って、見ると兵児帯が無い。見廻してもあたりには見えぬ。もとの道をすこし帰つて折れ曲った所へくると、道ばたの桜の木蔭に、蛇がトグロを巻いたように兵児帯がそっくりわだかまっている。木蔭で歌を案じつつあった間に、輪ぬけをしたのであった。しかし朝早いので人通りがなく、拾う人も無かったのである。拾い上げて帯を巻きつけて居る所へ、大竹老人が町の方から来て、「ヤ、先生、道ばたへ手帳を置いて何をしておいでです」。自分は、もし今二三分おくれて此の老人に輪ぬけの帯を拾われたら、どのように又やかましくいわれたことであろうと思いながら、「イヤ何ちょつと……」。』
九月 月のあかるい夜、神田五軒町の橘さんを訪うた帰さ、途中の古本屋に寄ったに、「草径集」という三冊の書があった。聞き馴れない名の本と思うて手にとり開くと、歌の集である。あけたところに、「梅の花おもふばかりの枝の樹を心に植ゑてみるねざめかな」、又ひらくと、「聞きすてて飯(いひ)たく親の見ぬ間にも声を限になくうなゐかな」とある。喜んであがない、月明りに拾いよみをしながら帰宅して、夜ふくるまで通読し、その清新の歌風に深く感じた。文久三年の自序に「おのれが筑紫には」「近比この難波に来りて」とあり、集中には、「久留米柘原信厚七草園の歌」という詞書の一首あるのみ、九州のいずこの人とも知られないから、よく調べたいと思うた。
熱海に遊び、日金山にのぼって、
   雲の影ちがやの山を走りゆけばほじろ山がら空にむれたつ

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    明治三十二年 二十八歳

一月 心の花は詞林と合同したので、石榑君、井原君の外に、岡麓、香取秀真、大橋文之の三君が編輯員に加わられた。
四月 皇后陛下音楽学校に行啓、幸田延子教授が、予の作詞「船出」(フランツ作曲)を独唱されるので、招かれて参列した。
竹柏会第一回大会を、四月六日、日本橋倶楽部に開いた。兼題春風、
   願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門を訪はばや
徳富蘇峰大人、巌谷小波君の講演。披講が終って、園遊会を催した。園遊会については遠山市郎兵衛君(光栄さんの父君)、会の全体については、石榑、印東、佐藤宗次、吉野、奥村岸子君等が尽力せられ、記事は吉田(後、片山)広子君が執筆された。数日後、野遊会を玉川に催した。
   道の友心あへる友うらら春日玉川のほとり富士にむかふところ
八月 家族一同で大磯へ避暑にいった。谷あいの家であったが、近くに清い泉が湧き出ておったので、朝とくいっては静かに歌を思い、「大磯百首」をものした。
   天地のかくろへごとをわが胸にささやくごとき水の音かな
海辺にて、
   人いまだかよはぬ浜のまさご路をわれあとつけて暁をゆく
   み越路の春のやよひの雪なだれそれおもほゆる波の色かな
   白駒の白きたてがみ春風にみだるるなして波よせかへる
   人の世のさかえおとろへよそにして波は千年のひびきなりけり
三浦守治君、石榑君らの訪われた日の探題に「声」と「百合」を、
   声高にかたりあひつる舟と舟あひだ遠くなりて日は落ちにけり
   順礼のおや子のすがた山に入りて青葉がくれの普陀らくの声
   青雲をふみております神の手にとりもたしたる白百合の花
   山百合の幾千の花をとりあつめ集めし中にひと夜ねてしが
小花清泉君と長寿吉君が訪われたので、相模川にいって、舟を浮べて魚をつり、帰途、花水川のほとりに、万葉用字格の著者花水庵春登のおった処を探しもした。二君のとまられた翌日、川田順君が一高へ入学したといいに来られた。喜びの記念に撮影しようと、近くの別墅におられる西升子刀自、幼い逸人文綱を雪子が伴い、八人で写真師にいった。刀自らは家に、小花君は海に、自分は長、川田二君と共に、かねて訪問したいと思っておった中島湘煙女史の邸を訪うた。玄関の壁に、病中ゆえ長座は断るとの張札がしてあった。突然であるがというて名刺を出すと、座敷に通された。「お目にかかって詩文の話をお聞きしたいと思うていたに、長三洲翁と川田甕江先生の子息の二人が来られたので同伴した」というと、喜ばしげに、自由民権説を主張された当時のこと、伊太利の風物、漢詩の話などをされる。自分は姻戚に当られる伊達千広翁の随縁集の歌がたりなどをしておると、母堂が庭の里芋であるからというて出された。「玄関の張札もあるに、長座してすまない」というと、「話のあうお客ならば、いつまでも話しております」というて笑われるに、女史もほほえんでおられた。帰途、松並木のほとりで、藤岡東圃君の来らるるに逢って、若い二人を紹介したことであった。
九月 修善寺に遊んだ帰途、熊坂に旧家竹村氏を訪うた。竹村茂雄は鈴屋翁の門下で、かの直毘霊を刻(ほ)って普く人々に頒った人。著書も門人も多く、韮山の代官江川英竜も教をうけたという。師友の送った書牘が多く保存されておる。当主五百枝君は、清水浜臣が庚子道之記の出版を報じたもの、鶴峯戊申が近く開版した語学新書をおくるという書状などを示されたが、文学史料としてすぐれたものが多いので、数通を写し、「伊豆の家苞」と名づけ、心の花十月号に掲げた。(学者文人の伝記を調べる資料として、書簡は貴ぶべきものであるから、他にも心の花に名家の書翰を多く載せた。)
十月、十一月の心の花に「みちのく百首」を掲げた。仙台に近い大河原の飯淵藤園、清水寅治二君に招かれていったのである。相馬の中村で二者に迎えられ、まず松川浦にものして、大河原にむかった。途中、実方朝臣のおくつきというあたりを過ぎて、
   白玉をみがきし殿もくつる時あらむ安かるべしや草むらの墓
松島途上、扇渓にのぼった帰途、
   歌このむ若き法師におくられて穂薄たかき山路をくだる
瑞巌寺にて、
   おほとりのつばさ雲間にかげ消えて年ふる寺は秋の風寒し
二者に別れて平泉にいたり、毛越寺のあとを訪い、又ここかしこにて、
   ころも川きたかみ川を吹き越えて秋風ひろし高館の城
   大門のいしずゑ苔にうづもれて七堂伽藍ただ秋の風
   みちのくの広野の原の秋風にすすきなびきて黒駒あそぶ
   二度は蝶まふ春におとづれむあまりにさびしみちのくの秋
帰途、飯淵君の家にやどって、
   月清し家人皆が手うちうたふさんさ時雨よ興ある夜なり
清水君を訪うて、
   風にゆらぐのうぜんかづらゆらゆらと花ちる門ににはとり遊ぶ

    明治三十三年 二十九歳

一月 心の花に、去年十一月の国風家懇親会における末松謙澄、落合直文、久保猪之吉諸氏の講話が掲げてある。
四月 落合君、与謝野君、予との発起で、大宮なる万松楼で観桜会を催した。来会者三十余人、山田寒山君の陶器焼に記念の歌をかいたりした。この月、与謝野君の明星が出た。その二号に大宮行の漫画が出たので、社友から抗議を申込んだことなどがあった。
竹柏会大会には、福地桜痴居士、幸田露伴氏の講話を請うた。福地翁のはたくみに、露伴氏のは、処女演説であるとのことであったが、おもしろい話で、長く同人の語りぐさとなった。雨中ながら来会者二百余人、会の記は大塚楠緒子(くすおこ)さんが執筆された。
五月 続日本歌学全書(十二冊)の出版が完成したことは喜ばしかった。
信濃より越後に赴いて得た「信越百首」を、心の花六月、八月号に載せた。
碓氷峠、軽井沢、御代田。
   天つ風たもとにうけてうすひ嶺(ね)の山のいただきにわれ一人たつ
   人の世はわづらひ多しはなれ山ひとり離れてわが世すぐさむ
   夏さむき浅間がたけのふもと原雲ひくくおりてとぶ鳥もなし
上田の金井宣章君の案内で別所にいった。途上の石橋のもとに、「往来人車牛馬安全某寄進」という石標が建っておった。
   いつの世のいかなる人の恵みにて今日この橋をわが渡るらむ
川中島で、
   龍いかり虎うそぶきし跡いづら桑畑あをく麦ひいでたり
善光寺。老女のぬかずけるを見て、
   老の身の命のうちにまゐりたくねがひしみ寺みえそめにけり
   老の身の孫の手からず機おりてえたるこがねを今日たてまつる
   ひれふして祈る嫗のいただきに金色(こんじき)の仏あらはれたまふ
城山館で盛んな歌会があり、ミスバラードも出席された。
高田では山岸光享君のもとにやどり、雪室にいった。
   雪むろに酒をひやして室守が昔の恋をかたる夜半かな
春日山懐古、
   海を越えて北に国あり何しかも得まくほりせし甲斐の黒駒
新潟、
   さみだれにからかさかりて本町の朝の市みる旅の歌人(うたびと)
鍋茶屋の招宴に、舞妓が扇をひらいて、「去年お出での紅葉先生にもかいていただきましたから」という。「紅葉山人は達筆、自分は悪筆で」とことわると、傍におった新潟新聞の山田穀城君(佐渡の人、黄金花作というペンネームを用いておられた)が、「この舞妓は水上屋のおたひというて新潟一でありますから」というので、
   うたひめの君が名四方に流れなむ恋の湊の水上にして
一句に「たひ」をよみいれ、四句は西鶴の文に「新潟は恋の湊」とあったのをとっさに思い出したのである。
上田なる歌会につらなるべく、帰途また金井君の家にやどる。
   旅なればなげのことばも嬉しきをねもころ君が今一夜といふ
歌会の探題、「村」を、
   二十年(はたとせ)に一たびなりし半鐘のはしごくちたり山かげの村
   村の長(をさ)村のわるもの村の花ともにねぶれり松かげの墓
   しらかしの若葉にこもる村はづれ家ゐは見えずをさの音きこゆ
帰途、車中作、
   三日月のひかり一つを光にて武蔵野の原の日は暮れにけり
六月、亡父の十年祭歌会を上野梅川楼で開き、井上哲次郎博士に講話を請うた。兼題懐旧、与謝野寛君「新しき歌の姿をひらきたる子の信綱を嬉しとおぼさむ」、正岡常規君「世の中に歌学全書をひろめたる功に報いむ五位のかがふり」、尾上八郎君「うたびとと幼な心におぼえたる君がみたまに歌たてまつる」、自分は、
   天にいますわが父のみはきこしめさむわがうたふ歌調べひくくとも
七月 石榑千亦君と同行、「房総漫吟」を得た。北条の歌会に島を、
   小さなる望をすててむしろわれこの島守にならむとぞ思ふ
途上作、
   法の師に法の道きき馬追に馬の事きく今日の旅かな
清澄山にて、
   山たかきみ寺のうちにあるほどはわれもしばしの仏なりけり

    明治三十四年 三十歳

一月 辛丑の年に因みて、牛を、
   牛を追ひ牛を追ひつつ此の野辺にわが世の半はやすぎにけり
   病みいます夫(つま)にかはりて此のちごの牛おふ年齢(とし)にいつかなるらむ
   牛に似ておのがあゆみの遅くともゆくべき限りゆかんとし思ふ
二月 心の花に「大隈言道翁につきて」の一文を載せた。諸家に問うていたに、福岡人であること等が知られたのである。
四月 竹柏会大会に、大塚保治君の「日本服の美術的価値」という学者的な話、紅葉山人の「御託宣」というおもしろい話があった。
この月、再びみちのくに遊び、「続みちのく百首」を得た。勿来にて、
   木がくれに鴬なきて春深き関のふるみちあふ人もなし
仙台ホテル歌会は、吉野臥城君を初め、来会者が多かった。探題の作。
   ますらをのおくつきあれて五百年功名富貴春の夜のゆめ
   海賊のおひくと見つるゆめさめてみなとしづけしありあけの月
   志いまだ成らずや七年をおとづれあらず暹羅(シヤム)にゆきし友
支倉氏の墓をとうて、
   かれがれのしきみの枝に露おちてまつかぜ寒しおくつきどころ
土井晩翠君、山家君と同車して塩竃に至る。扇渓への土井君らに別れて大高森にいった。土井君から、遠刈田(とおがつた)の山に沈む夕日の景が荘厳であると聞いたので、日の暮るるまでを山上におった。
   楽しきわが世の半日山守が描(ゑが)ける画を見わらび折りなど
   山の上に立ちてわが見る夕づく日明日の夕日は誰眺むらむ
日記の一節に、「山暮れ海くれ四辺全くくらくなりし頃、山を下りて船にのりぬ。十三夜の月は山を照らし海を照らしぬ。」
   白帆きえ船唄きえておぼろ夜の月にたゞよふ千しま百島
   白駒にしづ鞍おきて春の夜を神おりたたす松が浦島
「夜ふけて、舟、松島村に近づきし頃、我を呼ぶ声あり。汽車にてここに来りをられし飯淵、清水二君の五大堂にいたりて呼ぶなりけり。」
   岸によべば舟に答へて舟によべば岸にこたふるおぼろ夜の月
翌日、飯淵君らと馬にて湯場にいたる。馬上吟、
   のどかなる雲雀の声よはる風よわが乗る駒の鈴のひびきよ
   六部一人しづの男一人馬の上ゆ見ゆる畔路(あぜみち)ただはるのかぜ
   世の中の富よほまれよそは何ぞかすむ野みちの馬の上の我
帰途、那須野に下車し、塩原に寄った。
   湯の中に足さしのべて老びとの病もしばし忘れがほなる
七月 「幼稚園唱歌」(共益商社出版)に「雀の歌」を掲げた。滝廉太郎氏作曲。
十月 「新選国民唱歌」に「夏は来ぬ」を掲げた。小山作之助氏作曲。
十二月 新築した一楼をことほぐと、東久世伯、学海翁、蘇峰大人をお招きした。当日、学海翁より竹柏園記を額にすべく書いて贈られた。

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    明治三十五年 三十一歳

一月 壬寅の年に因んで虎を、
   肉(ししむら)の翼うごかし尾を撃ちて山の大君山川渡る
   雪の夜を旗亭の酒に酔ひしれて張三李四の虎物語
   一人がいふ市に虎あり又曰く市に虎あり恐ろしの世や
三月 「日英同盟平和の旗」を作詞、刊行した。
四月 大会に井上哲次郎博士は「女子と文芸」、学海翁は「明末の女傑」について述べられた。
中川のほとりに野遊会を催した。三浦博士の再度の欧州行の送別をかねてである。中沢画伯は所々でスケッチされ、大野君は撮影された。同行は三浦守治、石榑千亦、大野守衛、中沢弘光、小花清泉、印東昌綱、篠崎正、木下利玄、村岡典嗣、新井洸、橘糸重子、有賀晴子の諸君、雪子。
<中川のほとり 左から
後列――中沢、小花、三浦、木下、石榑、印東、篠崎、村岡君、著者
前列――新井、雪子、橘、有賀君>
六月 刀根川会同人と共に下総飯岡(いのおか)に「苔清水」の作者神山(かみやま)三郎左衛門魚貫(なつら)翁の旧跡を、さらに佐原に伊能魚彦(なびこ)翁の後裔を訪い、賀茂翁来訪の折の人々の歌巻を見、別家なる忠敬先生の旧宅を訪うた。
七月 皐月会の同人戸田宇八君に案内されて、秩父に遊んだ。荒川の上流で、
   やな守の小屋にいこひて語る間に川上の山の雨雲はれし
八月 皇孫殿下の御養育主任河村伯に招かれて、宮の下の富士屋ホテルにいった。殿下がきわめてお健やかであらせられるので、侍医の弘田長博士、小原頼之氏、樺山常子夫人、看護婦の数人は歌を詠み、月々その詠草をおこされる。昨年の暮には、御避寒中の大磯の鍋島家別邸の一室にもさぶらったが、此の夏は、殿下が富士屋ホテルの別館に御いでなので、昨夜階下の一室で歌がたりをしたのである。今朝もそのつづきを語り、帰ろうとすると、伯がホテルの食堂に案内された。昼餐が終った時、「ベランダにチェンバレン教授がおられる。御承知なくば紹介しよう」というて側に行かれ、「この佐々木君はこれこれ」といわれると、教授は実にすがやかな日本語で、「佐々木君のことは知っています。著書をも見ました」といわれたので、伯は別館に帰られた。自分は、「御著作を読み、上田万年博士からも屡々お聞きして、御目にかかりたいと思うていました。」というと、「書斎でゆっくりお話をしよう。」と案内された。ホテルの東北にあたる熊野神社の傍の地の日本式の建物である。入ると右側の卓子の前の大きな椅子――腰かけながら運動の出来るロッキング・チェヤーがあり、その前の椅子にフランス人の秘書が本を開(あ)けて待っておった。広い建物には和漢洋の書籍が一ぱいに書架にあふれている。「十五分間お待ちなさい。眼がわるいので秘書に読んでもらっていつも聞いておる。これが君の「歌の栞」。……書架のどの本でも自由に出して読みなさい」というて椅子によって秘書の読むのを聞いておられる。自分は書架の前を静かに歩んで、種々の和書をとうでては開きみる。いずれにも王堂蔵書の印が捺してある。――後にお聞きしたによると、明治六年に日本に来られて、当時は購う人の少なかった善本を多くつどえられたので、和書だけで三千三百七十余部あるとのこと。十五分すむと秘書は帰ってゆく。「又くるまで三十分ある。その間お話をしよう」と前なる椅子をすすめられた。自分は「父が明治十三年に編纂した明治開化和歌集に英人王堂として先生の歌をのせてあるのを記憶しております」といい、古典についての先生の考をお聞きすると、種々のヒントを与える話をして下さった、短い間に三十分は過ぎ秘書が来たので、「又おいでなさい。守部の稜威道別(いつのちわき)の話やいろいろ話しましょう」とのねんごろな詞に感謝しつつ辞去した。――九月半過に又訪問したに文庫に通されて「日本古代の詩歌」の話をすると、書棚からぬき出して示された。それには縦横にインキで直してある。別の本を出して「これが再版です」。それも所々直してある。「お国の方は(先生はいつも日本の事を「お国」といわれる)不思議です。再版の広告を見て買っても同じものです。わたくしなどは、其のたびごとに改版したものを再版三版といいます。日本事物志も、日本旅行案内もそうです。‥‥‥」。そうして、日本古典の研究、真淵、宣長、守部について話され、文学研究の方法につき、種々の教を受けた。先生のおられる反対側の窓からは、早川の水のたぎちも見おろされ、明星が岳の中腹の茅萱の中には百合の花のさいておるのも見える。この王堂文庫は、自分の新たによみがえった魂の故郷のように思うて、毎月おたずねし、冬の間は横浜の廿六番のゼネバホテルに訪うて数々の提撕を受けたことであった。
心の花八月号に雨窓閑話を掲げた。それは正岡子規君が七月号に、「病牀歌話」を寄稿されたに就いて、自分の意見を述べたものである。
富士登山すべく篠崎正君にともなわれて出で立った。御殿場から鉄道馬車で籠坂峠をこえ、山中湖の知人のもとに語らい、夜に入って吉田なる上小沢潜君を訪うた。篠崎、上小沢君は、今は大学生であるが、さきに、一高の一部三年三の組の諸君がいささ会を結んで歌の道に精進された、その会の同人である。翌朝は雨であったが、午後晴れたので、まず浅間神社に詣で、馬車で裾野をよぎって、馬返しでおりた。落葉(から)松や樅桧の生い重なっている山路を強力におりおりうしろからおされもして、一合目から次に四合目に来ると、ここで泊るのですと上小沢君はいう。大足弱(だいあしよわ)の自分も、まだ少しはのぼれるがというと、ここは親しい家だからとのことで、脚絆をぬいだ。「大事なお客さんだけにわかすのです」という雨水をためた風呂を浴び、二君の若々しい話を喜んで聞いておると、何か、うたうようなわめくような声をたてて酔歩蹣跚(まんさん)のぼって来た中年の男、室の前の休み所の茅屋根の上にするするとあがって、大の字なりに寐た。木間の月はさし、夜風は冷たい。おりて来て、「酒」「酒」という。室の主人は、「御免下さい、遠縁の者ですから」というて濁酒(どぶろく)の瓶をもって来た。自分は強力にもたせてきた麦酒をぬかせてすすめ、自分らものんだ。「僕は若くて武者修行に全国をまわった。鉱山にもおった。日清戦争では人夫長になってはたらいた。帰って来ては選挙にも……。今の政治家は政治を知らない。実業家は虚業家である」。弁論風発。やがて横になって寐てしまった。自分らも床に入ったが、自分は眠られぬままに手帳を出して、薄ぐらい灯下にこの豪傑を題材にして連作を作り試みようと苦心した。
翌朝は日高くなって起きた。駒鳥の声が聞えていて、昨夜の豪傑はいない。麦酒の明瓶(あきびん)に清水を充たせて、山路をのぼる。森林の中を登ってゆくと、目さめるような石南花(さくなげ)の紅い花が咲いている。強力にいうて一枝を折らせ、瓶にささせて持って登ることとした。五合目に出ると森林は夢のように消えて、初めて富士の巓(いただき)を見た。今までは富士山にあって富士を見なかったのである。ここを「天地(てんち)の境」というのをうべなりと聞いた。山頂は手にとるように見えはするが、黒い砂、赤い砂、黒い岩、赤い岩、一歩一歩をふみしめ登る。強力も篠崎君も押してくれる。が、足弱には容易でない。六合目半の岩室の辺で、急に雲が湧き出て、四方は真白になった。
   ゆきあひし白衣(びやくえ)の群は影消えぬ白雲のうちに鈴の音して
すぐ晴れますという強力の詞のとおりに晴れたので、徐々と登って八合目の室につき、一休みすると、上小沢君は「今夜はここにとまるのです」という。「大丈夫、頂上まではゆかれます」と自分がいうと、「いや、今夜はここで月を見て、明朝くらい内に起き、雲海を望むのです」といわれる。「それでは」と隅の壁によりかかって昨夜の手帳を出し、「豪士吟十章」を得た。
   剣を負うて落魄(らくたく)ここに二十年わが髪白し秋のゆふ風
   広き世もこの身一つをいれずしてまた帰りきぬ故郷の山
   志事とたがひてやせし影うつすもはかなふるさとの水
   人触るれば人を斬らむの剣太刀鞘にをさめてすでに幾とせ
   人の世のねたみ争ひ見おろして山の室屋にわれ老いむかな
   耳しひし世人に何を語らはむ天(あめ)を仰ぎて唯笑はばや
   ことごとし何の冠なにの衣(きぬ)猿(ましら)はもとのましらならずや
   さかしげにいづこの誰か言挙(ことあげ)する酔ひて歌ひて吾が世は過ぎむ
   世人皆我をうとめる世なれどもわれに友あり酒といへる友
   酔ひ酔ひて酔泣するを許せ君ますらをいかで涙なからむ
外に出ておられた二君が、「月が出ました」といわれるので、室の外に出た。何といううるわしい月の光であろう。
   天地に物音もあらず月一つ空にかかれり富士の嶺(みね)の上
   見るままに清く静けくうるはしく果は悲しき嶺の上の月
   声高(こわだか)に物は語らじほどちかき星の宮人ねむりさむべし
室には相客が少なかった。
   岩室を夜半に立ちいでて見さくれば人の世くらく雲立ちわたる
   天近き室の岩床夜を寒み人の世こひし人の身われは
   富士の嶺(ね)の石の室屋の岩枕ゆめ白雲の上にただよふ
早暁におきて室の外に出た。ああ雲海、雲海の壮観。
   北の海の千尋高波みるがうちに氷りし如き雲の海はや
   筑波嶺の神のみ使いたるらしひむがしの空ゆ雲舞ひきたる
   敗られしサタンの軍ちりみだれくづるるなして雲走りゆく
   いく千人幾よろづ人ひとひらの此の白雲の下に住むらむ
   ただよへる麓の雲の底にありて何をか競ひ何をか争ふ
   雲海の底に光れる湖(うみ)を見つつ暁の風の清きに吹かるる
道者らの六根清浄の声々を前に後(うしろ)に聞きつつ、山頂にいたり得た。
   あらたまの年の緒ながく恋ひ恋ひしこれの頂にわが立ちにけり
   天地日月と共に足(た)りゆかむ国のしづめの富士の神山
   わが大君龍(たつ)のみ馬に鞭うたし国見しまさな神山の上に
銀明水のもとで、
   神の代に天降(あまくだ)りけむ天人(あまびと)のくましし水か白金の水
   白玉の甕(もたひ)に盛りて大君にささげまつらな白金の水
剣が峰の野中測候所の側が最も高い処であると聞き、そこの岩垣の上に強力にもたらしめた石南花の瓶をおき、黙祷すること数分、一首の歌を得て声たかく誦して天つ神に聞えあげた。
   いつよりか天の浮橋中絶えて人と神との遠ざかりけむ
二君もそれぞれによみあげられた。昨夜の安眠が足弱男に足力(あしぢから)を与えて、強力に手をひかれつつ噴火古坑に数十歩おりて、形のよい熔岩を拾い、家土産(づと)にと強力に持ってもらった。
   根の国の底つ岩根につづくらし高嶺の真洞底ひ知られず
   もゆる火のもえたつ上に天ぎらひみ雪ふりけむ神代をし思ふ
下山はらくであった。上小沢君を知っておる吉田の人が声をかけて、「たしか一昨日おのぼりでしたね。おまわりでしたか」という。四合目に一晩、八合目に一晩とまるなどということは普通の登山者にはない事、いわゆるお鉢まわりをなさったかとの問であった。二君の厚意によって登嶽し得たことを深く感謝した。
篠崎君と二人、河口・西湖・精進・本栖湖に遊び、「湖畔の一夜」という文をものした。
帰途、篠崎君に別れて大磯に下車した。それは、滄浪閣に滞在しておるから、富士の帰途に立寄るようにといわれている末松謙澄博士を訪うためであった。さきに同人となられた伊藤梅子夫人と一緒に歌がたりをしておると、折から在邸中の春畝公も逢われるからというので、座敷の食卓へと案内された。金子堅太郎伯もおられた。問われるままに富士を詠んだ古い歌の話などをした。食後、一同は別室にゆかれ、公と二人、ベランダの椅子につくと、六朝の詩について、森槐南は現代の一流詩人であること、詩も歌も題材を選ばねばと、滞欧中に見られた油画について等々、ねもころに話される。「歌はおよみになりませぬか」というと、「殆んどよまない。歌は山県、俳句は西園寺が」といわれた。広い庭の松木立をとおして吹いてくる海の風も心地よいに、時の過ぐるのを忘れたことであった。

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    明治三十六年 三十二歳

-月 癸卯であるに因んで詠んだ兎の歌、
   かづきゆく紅梅の衣(きぬ)雪に映(は)えて卯杖の使御門(みかど)まかづる
   何しかも兎よ耳をそばだつる世言人言きかぬまされり
   菊かをるまがきのもとに耳たれて兎経きく山寺の秋
   兎追ひて走(は)せのぼりたる峠道水海あをし白雪の中に
   網にふれ犬に追はれて野兎の野にありてだに安からぬ世か
   ともすれば兎の角のありなしを髯さかだててあげつらふ世か
心の花一月号の「残月楼手抄」に、茂睡、芭蕉が辻、柯堂歌話、望東尼、いれひも等のことを書いた。
四月 十二日の大会、講演は森鴎外博士の「マアテルリンクの脚本」、学海居士の「列女劉淑英」。披講終って、アギナルドの部下であった比律賓人四人のギタルラ演奏、大塚楠緒子ぬし作の「詞林三歌仙」を同人がおもしろく演出した。
五月 甲州に赴く。小尾保彰君に酒折宮に迎えられて、本居翁・山県大貮の碑にぬかずき、甲府談露館の歌会に「甲斐の国と文学」という講話をした。翌日は大泉寺より、野中の松蔭なる武田機山公の墓に詣でたに、形ばかりの玉垣は倒れている。
   益良雄のおくつき守る松一木まつ年ふりて草みどりなり
昇仙峡は、天そそるというべき岩山の裾は山吹でおおわれている。此の新道を天保の頃に開いた円右衛門の碑は、中央より二つに折れたのを重ねてあるのみ。大工事を為しとげた人へ躑躅や山吹がおのずから手向の花となっている。覚円峯、仙峨の滝。第一第二の石門を出で、ゆきゆきて山村の旅宿についた。宿の主人は埴鈴を持って来た。
   山水の霊(たま)ごもるらむ土(はに)鈴の音をよろしみ繰返し振る
         (購ひ帰って上真行君に贈ったに、よき音と喜ばれた。)
筧の音を聞きつつ眠った。
   鳥の声水の響に夜は明けて神代に似たり山中の村
金桜(きんおう)神社に詣で、甲府に帰ったに、中学校長大島正健君が来訪、漢字音研究の話を聞いて夜をふかした。翌朝は中学校で講話、午後は小尾家からの迎えの馬に乗って、夕方清春村についた。
   並(な)み立てる山に太古の姿あり水は千年の色をうかべて
小尾君の家の客となって、
   八(やつ)が嶽山おろしの風寒けれどゐろりの辺(ほとり)とはに春なり
   天地のあるじとなるも何かせむいかでまさらむ此のゑひ心地
   酔ひにけりわれゑひにけり真心もこもれる酒にわれ酔ひにけり
   やすらけき夢よりさめて門川(かどかは)の有明の月にくちそそぐかな
六月 大阪にいたり、市長鶴原定吉君をとい、夫人の曽祖母なる野村望東尼の家集「向陵集」を初めて見るを得た。夙く「姫島日記」を読んで、勤王の女丈夫たると共に、すぐれた女歌人であるということは知っていたが、今この集にその全貌を見るを得た喜ばしさ。借覧を許されて旅宿に帰り、その夜一夜、秀歌を抜抄した。
七月 西園寺公が来訪され、その嘱によって、宮中にささげられる「三条実万公伝」を刪潤した。
九月 井上円了博士が来訪されて、哲学館講師第一号の称号を贈るとのこと、自分は開館当時に入学したが、中退したことゆえと辞退したに、貴下の学問に熱心なると、その足跡の顕著なるによりて贈るのであるといわれて、恐縮しつついただいた。
十月 四日に、わが南清行の送別会が、小石川酒井家の庭園で催された。島田三郎君の「国歌に対する私見」、巌谷小波君の「秋の旅」の講演。来会者二百三十余名。当日の会の記事は長寿吉君が彩筆を執られて、講演の速記とともに、心の花六巻十一号を飾っている。
この南清行は、夙く唐宋の詩文に親しんだ自分にとっては年来の懸案であったが、その機に恵まれなかった。しかるに、上海の白岩子雲君は日支の交流に生涯をささげられたというてよい人であるが、艶子夫人は夫君と共に上京されるや、しばしば竹柏園を訪問されていた。この夏来訪の折に、長崎に於いて建造中の湘江丸が十二月には湖南長沙への初航海を上海でするから来遊せられてはと懇切にすすめられた。それならばと思いたって、直ちに歌集を出版すべくかかった。それは、彼の地の文人に贈るためである。自分は、この数年、歌集を公けにしたいと思いつつも、能う限りのよき集をとためらうて年月を過していたが、ここに集の名を「思草」と名づけることになった。漢文の序を学海先生に請うたに、自分の小伝を執筆せられた。野口寧斎君は数年前から作歌を示しておられたので、題詩を依嘱した。鴎外博士には国文の序を、装幀は森博士の紹介で、長原止水君をわずらわした。巻末に、「一まきの書たづさへて筆のせて一人わが行く唐土の秋」の一首と、「余欲遊清国因輯平素所賦先為一集事出倉卒駁雑頗甚他日将続出二集三集乞教大方」の文を記しそえたが、集は、送別会の日までに成った。
神戸から信濃丸に乗って、上海に着いたのは十月十八日であった。(白岩夫人の「黄浦江畔の五日」という文詞が心の花七巻一号に載っている。)湘江丸は船底が浅くて、まだ上海に来ない。それで、子雲君及び大阪商船会社の堀支店長、予の為の通訳にと井上良平君、他に若い支那ボーイとの五人、大阪商船の汽船で漢口にいった。漢口から民船を雇って長沙・湘潭に上った。帰途は新堤で白岩君らに別れ、井上君と汽船で宜昌へ、小蒸気船で三峡の下峡の黄陵廟まで行き、下水して鎮江に下船、揚州に遊び、上海に帰り、蘇州杭州にいたり、長崎に着いたのは一月の末日であった。
この旅中の作を「遊清吟藻」と名づけて一巻とした。以下その中から抄出する。
上海の碼頭についた時、
   第一歩を古唐(もろこし)の土に印すとふ心みだりて群れ寄る苦力(クーリー)
迎えられて、白岩君の兆豊路の邸にいった。次の日の夕べ、来訪された東亜同文書院の根津院長と会飲した。
   院長が諄々として語りつぐ東方経営策に耳傾け聴く
上海所見、
   月白き四馬路(スマロ)の通(とほり)あとなるも周鳳林のうはさして来(く)る
愚園・徐家[わい]《注:さんずいへんにはこがまえ、中にふるとり》、
   曲廊(きよくらう)のしき石ふめば鳳尾竹さやさや鳴りて風たちにけり
   徐家(ジヨカ)[わい]は流にそへるたかき木に鵲むれゐ枝うつり鳴く
同文書院にて、
   東亜のためよき人ここだここに生(あ)れつ東亜のため更によき人生れよ
上海領事館に河原操子ぬしを訪うた。
   をみなにして遠く蒙古に入るといふひとの言葉のしづかに力あり
長江をのぼる。
   一管の筆たづさへて秋風の大江さかのぼるやまと歌人
   朝月夜楊(やなぎ)ちる岸を見つつあれば彭澤県(ほうたくけん)は過ぎぬといふなり
九江におりて廬山を遠望した。
   柑橘売る店に見いでつ土偶(つちやき)の琵琶もたる女江州の司馬
船中、ポーランドの志士シェロシェフスキ君と船長の通訳で話した。
   小孤山の画葉書とりて君は書くミッキェウィッチの愛国の詩(うた)
   愛国の情熱たぎる君の言葉忘られがたきこの半夜なり
漢口で、
   千船つどふ江上の日のかがよひに照りかへし映(は)ゆ赤き青きいらか
   日くれてなほ野末くれなゐに夕ばえすわが足もとにこほろぎは鳴き
   街にゆく夜の道狭し影戯(かげゑ)みる老人(おいびと)が手のやき栗のにほひ
民船をやとうて湖南に赴く。
   声高(こわだか)に呪文となへて老板(ラオバン)は大江の神に酒たてまつる(船主を老板といふ)
岳陽楼、
   をさなくて浩々蕩々と書(ふみ)に読みし洞庭の湖(うみ)を正目(まさめ)に今見つ
洞庭湖々上作、
   月のぼれり千里洞庭の一隅(いちぐう)を過(よぎ)らむとする船の進み迅(と)し
   皓々たる月の湖上を船は進むこよひ神無月十まり五日
   風まともに真帆にあたりておもしろう矢の如はしる月夜のわが舟
   月清し孤帆(こはん)万里の風うけてゆくてにさやる何ものもなく
   わが世によき幸(さち)得たり洞庭の湖(うみ)の月夜をよき風にわたる
   月読(つくよみ)に第一の杯(はい)を湖(うみ)の神に第二の杯をささげまつらく
   釣舟は間近く浮べり舷(ふなばた)うち「八十滄浪」とうたふ翁ありや
   真白帆によき風みてて月の夜を夜すがら越ゆる洞庭の湖(うみ)
   夜空たかく天つ白雲たなびけりわれら月下の仙たらむかも
<岳陽楼にて 左から白岩君、著者、堀君>
汨河口(べきがこう)で、
   汨羅の水ながれの末を手にむすびたむけまつらく屈原先生に
湘江をのぼる。
   江の水の冬を浅みと竹縄もてわが船ひかせ江をさかのぼる
   帆を上ぐる、おろす、上ぐると幾度(たび)し日まだたかきに船がかりせり
   弁髪に白きが多き老板(ラオバン)のうしろ手さむう水にうつれり
   ともし火の光乏しき船(ふな)どまり岸辺に人のいひ争ふ声
蘆林潭におりて、
   軒せまり石路ぬめれりつるしたる鯉魚(りぎよ)に鱖魚(けつぎよ)に薄ら日はさし
船中作、
   ふくろふか何ぞは今し鳴きつるは浅き眠の又もさめたる
   燭の火はまたたきやまず友が語る牡丹姐(ムウタンチユー)のあはれなる恋
   岸の家に博(はく)うつらしき声ひびき夕ぐもり江の水の色さむし
   たそがれの江はとろとろに油なす夕日の岸の網ほせる舟
   黄ばみ寒き茅(ち)原が上の丘の街おくれし雁か音たててよぎる
   ななめに江は折れ曲り先だちし幾つもの帆が重なり行くも
   かたりことり小車(シヤオチヨー)はゆく香果(かぐのみ)を手にして乗れる緑衣(りよくえ)の女
   鴉片(あへん)いまだよくは覚めざる船僕(ボーイ)来て晩食(ゆふけ)といふなり今日も暮るるか
長沙についた。
   澄める水にちらばる雲の白きかげ帆をおろしたるわが船の影
   湘江は久にして見る碧き水目にすがしもよ府城のいらか
湘潭行の船中で、
   さかのぼる江の水さむみ岩山の枯木木群(こむら)に声するましら
   長き鞭に江の水うちて幾百のあひる追ひ下る髯白き老翁(をぢ)
湘潭で船を下りた。
   湖南の旅のはてなる湘潭の小雨の街を黙しつつあゆむ
詩人文廷式氏に会いたいと思うたに、萍郷に往って不在である。
   遠々し江を遡りこの国の詩人(うたびと)、君に遇はまく来(こ)しを
   まぢかしとふ桃源の水に筆そめ書く君が文の華のにほひはもあやに
巡撫に会見する日が迫ったので砲艇で下った。
   水路すでに数里は過ぎぬ砲艇(ガンボート)の大尉が語る虎に遇ひし話
長沙に帰った夜、開福寺の水野梅暁師が来訪された。
   東亜は支那の前途(ゆくて)はと燭の火をまもりつつ語るわが日本僧
   眉をあげて国を憂ふるものがたり夜風はげしう船窓をうつ
巡撫趙爾巽氏を訪うた。
   衙門入れば水烟管(すゐえん)を手に語り居し兵ら立ちあがりささげ銃する
   三鞭(シヤンペン)の盞(さかづき)あぐる卓のもと一株(もと)の蘭かをりめでたし
   晁卿の昔を今をかたらへば筆とりて示す「風狂浪急呼同舟」
郷紳葉徳輝氏の邸で、
   苑(その)旧(ふ)りて臘梅の枝花まばらに書斎の書(ふみ)のうづだかく浄し
   あるじは起居(たちゐ)ゐややかなり香木の函ゆとうで示す唐人の筆
   芭蕉葉の風やはらかう窓に入る古き香に心ひたりてあれば
   杜甫の集ひらき示して声低うかつ吟じかつ語らふ主人(あるじ)
次の日、趙巡撫より、詩二篇と湖南通志百六十冊を贈られた。その詩を記念に掲げる。
  佐佐木君恵贈歌集敬歩巻首題詞原韻即請大吟壇指正
                           襄平 趙爾巽初稿
 莽莽神洲万千里。古代文明観止矣。運会循環如逝水。鉄血交争謌変徴。
 二十世紀新歴史。挽回頼有屠龍技。同文同種同宗旨。興亜進歩従此始。」
 書剣遨遊四百州。豪気直圧元龍棲。春非我春秋非秋。風狂浪急呼同舟。
 国耻不雪誓不休。輔車唇歯吾侶儔。三韓茄鼓声清遒。知君豈作逍遥遊。
葉氏からも詩二篇を贈られたが、ここには省く。
岳麓書院に赴いた。
   岳麓は牛放ちたる草原の道坡坨として書院ちかからず
   江南の子弟八千今いづら滔々として江の水流る
帰途につき、新堤で白岩君、堀君に別れ、通訳の井上君と上水の汽船を待った。
   弁子(ベンツー)も未だみじかき幼子と手まねし語る船待ついく時(とき)
   額(ひたひ)にぽつりと紅(べに)をつけたる児何やらむ吾にいひつつ笑める
   水つける道を照らすと篝火(かがりび)もち大江の岸に送り来し児よ
   青き衣(きぬ)丹(に)の頬(ほ)のおもわ岸に立ち船を見る児をまたいつか見む
船中作。
   星しろき夜(よる)の大江(おほえ)をのぼる汽船(ふね)測深(サウンジング)の声すみとほる
沙市郊外、
   枯木立鳥の巣たかし昼の日にただよひ光る太平運河
荊州城の帰途、
   城門を出でて二三里猶見ゆる鼓楼に淡し冬の日ざしの
   帰り急ぐか轎子(こし)のゆるるにうろ覚えの「漫々的(マンマンデー)」といへば笑ひつつ遅くす
宜昌、
   くろずめる塔(パゴダ)のもとに羊鳴き吾が船はのぼる寒き流を
   こがらしに旗手なびかし銅鑼うちて大路わたるは大官ならし
三遊洞に遊んだ。
   わが前に槻(つき)の葉ちりく白居易が遊びけむ日もかくや散りこし
   老法師くどくどといふかたちよき鍾乳石を掌(たなそこ)にのせ
小蒸気船で峡口を遡った。
   巌頭の樹に杲杲(かうかう)と日は照れど下峡の急湍(はやせ)瀬の音(と)つめたし
   心さむし江(かう)をさしはさむ巌山のいよよせばまりいよよ高しも
   山ささへて尽きんず流(ながれ)船すすめば山片去りて流またひろし
   岩かどのあやふきに立ち手綱(たま)持ちて魚すくふ老翁(をぢ)よむしろ幸あり
黄陵廟に詣でて、
   諸葛武侯この岩が根路ふみけむか古りにける廟を仰ぎ見つつ思ふ
   廟のうちもののおと無し紅(くれなゐ)の燭のなみだもつめたき夕べ
   山にとよむ鵲のこゑ瀬のひびき黄陵廟のたそがれに立つ
   たくみに履もて羽子(はね)を蹴り遊ぶ幼児みつつ家の子らおもふ
黄陵廟を三峡のぼりの終止符として、平善壩に下った。
   きりぎしに茶館ならべり江(え)を下(お)りきり心やすらに博(はく)うつ船子
南京、
   鼓楼たかし道をさしはさむ楊柳の落葉細葉に照りしむ夕日
南京師範学堂に菊池謙次郎君を訪うて、落合直文君の訃を聞いた。わが国の新聞を見ざること三十余日であった。南清行の数日前、神田山竜堂病院に君を見舞うた時、帰って来たら旅がたりが聞きたいと元気にいうておられたに。多年親しく交わった先輩の遠逝を聞いて、かつ驚きかつ嘆いた。
   冬の日ざし冷たき古都のたそがれに君世になしときくべきものか
孝陵・孔子廟に詣でて、
   天(てん)くらく枯野草原茫漠たり石人石馬何をか語らふ
   黄なる馬に風帽赤し雪ちらふ枯草原を行く人二人三人(ふたりみたり)
   孔子廟しぐれめきたるうすれ日は陰影つくる石だたみ道に
   建業の冬の城壁くろずめる寒きかげゆくわが驢馬の鈴
   英雄(ますらを)の事業(わざ)はた何ぞくづれたる城門の壁にこほろぎ鳴くも
   莫愁湖日の色さむし水楼の朽ちたる欄にちかき敗荷(やれはす)
酒楼「江南一枝春」招宴、
   星白き秦淮の水胡弓もちて画舫にわたるをみな艶なる
   秦淮の夜の画舫の笛の音は旅人われになみだせしむる
   くろ髪に臘梅にほふはしき子は灯火さむき夜の水みる
   老酒(ラオチユー)は菊花酒は友に酔をすすめ友はうたひ出づ王荊公の詩を
   老酒の酔心地よしさ夜風にわが乗る驢馬の鈴が音もよし
雨花台にのぼった。
   草木おひず小石つめたき丘の上に古き都の冬の雲見る
   六朝の鉛華(えんくわ)絶えて久し冬の日の微光のもとにちらばれる石
   見おろせば金陵百里風さむし誰またここに都建つべき
   長江の水とほしろしいづこより雲は起らむ風おこらむか
   戈とりて起(た)たむは誰ぞ江上の雲紫に王気たなびく
   南(みんなみ)の広野五千里ここにして新天地(にひあめつち)をつくらむは誰(た)ぞ
北極閣にのぼった。
   一階は一階景観(ながめ)ひろらなり眉白き道士案内(あない)しのぼる
鎮江より小蒸気船で揚州にいたった。
   石くえて古りにたる塔江に近く寒らに立てり揚州かも此処は
   揚州に船はつきしなり衣(きぬ)あかき少女ら立てり古き塔のもとに
   逝く水の逝きし止(や)まなくそのかみの二十四橋の趾はいづらは
夜ふけて鎮江に著いて、ハルクにやどる。除夜である。
   老いたる躉船(ハルク)々長(マスター)手とりいふおもしろき除夜ぞ飲み明すべし
   若き日の密猟船のものがたり語りつきなくに年明けむとす

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