江戸期版本を読む

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カテゴリ:佐佐木信綱と「心の花」 > 明治大正昭和の人々(1961刊)

明治大正昭和の人々

佐佐木信綱著 1961年 新樹社刊

目  次

01 序 吾が師――高崎正風 石原信明 イーストレーキ チェンバレン
02 古典科の師友1/2――小中村清矩 木村正辞 飯田武郷 本居豊穎 久米幹文 小杉榲邨 内藤耻叟 岡松甕谷 坪井久馬三
03 古典科の師友2/2――萩野由之 関根正直 松本愛重 平田盛胤 市村瓚次郎 岡田正之 井上甲子次郎 和田英松 佐藤球 菅沼貞風 島田鈞一
04 東大の人々――上田万年 芳賀矢一 藤岡作太郎 藤村作 三上参次 黒板勝美
05 法文科の教員控室にて――穂積陳重 岡倉天心 前田恵雲 ケーベル
06 学士院の人々1/3――西周 加藤弘之 杉亨二 福羽美静 外山正一 井上哲次郎 桜井錠二 北里柴三郎 田中館愛橘 坪井正五郎 未松謙澄 佐藤三吉
07 学士院の人々2/3――大槻文彦 高楠順次郎 姉崎正治 大塚保治 狩野直喜 木村栄 桑木厳翼
08 学士院の人々3/3――鈴木梅太郎 滝精一 俵国一 新渡戸稲造 山崎直方 内藤虎次郎 清水澄 西田幾多郎 藤井乙男 長与又郎
09 学海の人々1/2――大西祝 大槻如電 大矢透 鴻巣盛広 佐々醍雪 品田太吉 島地雷夢
10 学海の人々2/2――長井金風 沼波瓊音 林古渓 松井簡治 正宗敦夫 山田孝雄 和田垣謙三 井上頼圀 井上円了
11 校本万葉集・契沖全集の人々――橋本進吉 武田祐吉 藤田徳太郎
12 芸術界の人々1/11――樋口一葉 山田美妙 尾崎紅葉
13 芸術界の人々2/11――幸田露伴 坪内逍遥 森鴎外
14 芸術界の人々3/11――森田思軒 高山樗牛 斎藤緑雨 福地桜痴 国木田独歩 依田学海
15 芸術界の人々4/11――上田敏 夏目漱石 島村抱月 松居松翁 大町桂月 小栗風葉 芥川龍之介 小山内薫 内田魯庵
16 芸術界の人々5/11――田山花袋 巌谷小波 三宅花圃 島崎藤村 木下杢太郎 三宅雪嶺 上司小剣 菊池寛 真山青果
17 芸術界の人々6/11――落合直文 与謝野寛 正岡子規 石川啄木 伊藤左千夫 長塚節
18 芸術界の人々7/11――島木赤彦 古泉千樫 久保猪之吉 与謝野晶子 北原白秋 金子薫園 岡麓 斎藤茂吉 尾上柴舟
19 芸術界の人々8/11――内藤鳴雪 湯浅半月 萩原朔太郎 野口米次郎 土井晩翠 中野逍遥 森槐南 野口寧斎 国分青厓
20 芸術界の人々9/11――橋本雅邦 富岡鉄斎 富田渓仙 横山大観 黒田清輝 小林万吾 安井曽太郎 和田英作 岡山高蔭
21 芸術界の人々10/11――小山作之助 納所弁次郎 奥好義 滝廉太郎 宮城道雄
22 芸術界の人々11/11――梅若万三郎 中村歌右衛門 藤間勘右衛門 松本幸四郎 杵屋佐吉 梅ヶ谷藤太郎
23 人々のおもかげ1/7――勝海舟 伊藤博文 東久世通禧 乃木希典 井上馨 高田相川
24 人々のおもかげ2/7――大隈重信 山県有朋 島田三郎 弘田長 後藤新平 原田嘉朝 土肥慶蔵
25 人々のおもかげ3/7――入江為守 長岡外史 村山竜平 益田孝 田中光顕
26 人々のおもかげ4/7――西園寺公望 真鍋嘉一郎 前田利為 永田秀次郎 近衛文麿 尾崎行雄
27 人々のおもかげ5/7――白岩龍平 根津一 趙爾巽 葉徳輝 水野梅暁 釈宗演 原三渓
28 人々のおもかげ6/7――タゴール バチェラー トラウツ 大橋新太郎 岩波茂雄 山本実彦
29 人々のおもかげ7/7――松浦武四郎 御木本幸吉 中村健一郎 児玉一造 三村竹清 枡富安左衛門 阪本猷
30 女流の人々――高畠式部 税所敦子 中島湘煙 跡見花蹊 徳富久子 森峯子
31 心の花の人々1/5――石榑千亦 橘糸重 大塚楠緒子 小花清泉 村岡典嗣 三浦守治
32 心の花の人々2/5――木下利玄 新井洸 九條武子 斎藤瀏
33 心の花の人々3/5――片山広子 下村海南 米山梅吉 小田柿捨次郎 間島弟彦 関屋貞三郎 乾政彦
34 心の花の人々4/5――福原俊丸 藤瀬秀子 樺山常子 吉田雪子 原善一郎 西郷春子 長谷川時雨 大村八代子 富岡冬野
35 心の花の人々5/5――栗林加寿子 熊沢一衛 西原民平 久我貞三郎 高橋刀畔 宇野栄三 市河彦太郎 鈴木敏一 石井衣子
36 ゆかりある人々――徳富蘇峰 藤島正健 丘浅次郎 朝永正三 鈴木庸生
37 うからやから――佐々木弘綱 佐々木光子 印東昌綱 佐々木雪子 佐々木治綱 岡元管太郎

凡  例

  1:底本は「明治大正昭和の人々」(佐佐木信綱著 1961年 毎日新聞社刊)です。
  2:底本の仮名遣い・踊り字はそのままとし、旧漢字は基本、現在通用の漢字に改めました。
  3:二文字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字に改めました。
  4:横棒は「一(漢数字)」との区別を明確にするために「――」としました。
  5:底本のふりがなは半角括弧( )で示しました。
  6:原文細字および割注は{ }で示しました。
  7:漢文・漢詩の訓点は省略しました。
  8:文章は引用を含めて全てUPしましたが、写真は全て割愛しました。
  9:校正者による注は《注:》で示しました。
  10:底本の行末の読点はしばしば省略され、本コンテンツでは随所にその省略が表れます。

  序

 明治のよき時代に生れて、幸に今年数へ年九十の齢を迎へた自分は、多くのよき人々を知る好機会に恵まれた。自分は、世にいはゆる交際家といふのではないと自ら思うてをるが、父につづいて夙く斯の道を導いてゐた為に、よき人にあふことができもした。東大古典科に四年を学んで、あひがたき師友にあひ、和歌革新の時機に、得がたき先輩友人を得た。また明治三十八年より昭和六年まで、東大の講師たること二十有六年、その間に、多くの学者と法文科の控室や、山上集会所で語りあつた。昭和九年、学士院会員となつて以来、毎月出席して多くの会員と親しく語つた。同十二年、芸術院会員となり、会ごとに出席した。また、小説、詩歌、絵画、音楽など、芸術界の人々とも往来した。
 かつてある茶人は、「よき銅鑼のよき音を出すも、たたきざまによる」といつた。よき人に逢ひ、よき言を聴きつつも、わが聞きざまのいたらなかつた憾がないではない。心の窓に残つてゐる影は、窓の狭いために、影が小さくもあらう。しかし、その世その人の面影は、かりそめに取りかはされた言葉のはしなどにも顕はれることがあらうと思ふ。ここに老齢の禿筆を馳つて、その世を語りその人を語ることは、単にわが回顧の趣味のみではない。今の若い人々にも、何らかの資にならうことを切に願ふが故である。
 この書の中には、故人に対して知らず識らず礼を失してゐることもあらう。また、自らをゑがくことのみになつた場合もあらう。春秋の時節や相語つた場所など、記憶のまちがひも多少あるかも知れぬ。言葉づかひもその人の言葉そのままではない。けれども、自分の心に残つてをる影、自分の目に見、耳にしたことをありのままにしるしたのである。いつ、いづれのところで、再び故人に相遇ふをりがあらうとも、そんなことは言はなかつたといはれ、面を赤めることは無いと信ずる。
 父の在りし明治二十年代以来、竹柏会に入会された同人の数は多い。故人であつて、ここに書き洩らした人々も尠くない。寛恕を請ひたい。
  昭和三十六年一月         佐佐木信綱


  吾が師

 吾が師としては、東大古典科の諸先生の外に、幼時から庭訓を受けた先人があるが、父のことは終りにしるすこととし、古典科の先生は次に述べるので、ここには、四人の先生に就いて、まづしるすこととする。

    高崎正風

 明治十五年三月、十一歳の幼童なる自分は、父に伴はれて伊勢から東京の花見に上京し、間もなく高崎正風(まさかぜ)先生の邸を、父に随つておたづねした。それは麹町区永田町二丁目の奥まつたところ、大きな黒門を入ると、右に門長屋(もんながや)があり、左に馬車まはしの植込のある洋館であつた。
 薩摩人らしいがつしりした体格、大久保公の写真のやうな頬ひげ、しかし目もとはやさしく、やさしみのこもつたお声であつた。
 東京に永住することになつて後、父は先生に、手もとでは歌の教育が十分に出来ませぬからと、信綱の入門を切願した。先生は、「やんごとない御用をお勤めしてをるので、門人はとらぬ」とお断りになつた。父は、どうかしてお願ひしたいと、「どなたをもおとりになりませぬか」とお尋ねしたに、「例外が二人ある。一人は小池道子で、有栖川宮(ありすがはのみや)からのお詞、今一人は香川景敏(かがはかげとし)である。維新前京都にのぼつて国事に奔走してゐた際、かねて八田知紀(はつたとものり)翁に就いて歌を学んでゐたので、翁の師なる香川景樹の子景恒(かげつね)を時々訪うて、歌の話を聴いた。数年前京都に赴いた時、香川家がいたく零落してゐるといふ話を聞いて、名家の後の衰へたのがいたはしく、未亡人と二人の子とを束京へ伴ひ来り、二男は、山階宮家(やましなのみやけ)に勤仕させ、長男の景敏とその母とをあの門長屋に住まはせ、景敏に歌を教へてをる。景樹・景恒二代の血を引いて若いながら歌のたちがよいので、やがて御歌所へ出させようと考へてをる。ただ身体(からだ)の弱いのが心配である」とやうのお話があつたといふ。父は、「それならば、景敏さんをお教へになる時に御一緒(ごいつしよ)にお願ひしたい」と切(せち)に願つたところ、「そのやうに頼むのならば、暫くでも教へよう。景敏のを見るのは、これこれの日の午後であるから、その時に間違ヘずにくるやうに」とのお許しが出たとのこと、自分は天へものぼる喜びであつた。毎週一度、当時の小川町の住居から、先生の邸に通うた。景敏さんの詠草を御覧になつてから、自分のを直してくださる。そのあとで種々のお話を承る。いつも洋間の御書斎であつたが、時として、お庭の弓場で弓をおひきになる間、お待ちしてをつて、そこで直していただいたこともあつた。切通の広い通が中間にあるが、もとは日枝(ひえ)神社と地つづきであつたとおぼしい広い庭園の一隅(いちぐう)で、晩春(ばんしゆん)にはそのあたりに躑躅(つつじ)がうつくしく咲いてをつた。
 先生のお教はきびしくはあつたが、懇ろに導いて下さつた。幼いながら、この尊い先生の教をうけてをるのであるからと、緊張して承つてゐたので、お教の詞は今も胸に深く残つてゐる。
 「人間は至誠(まこと)を第一とする。至誠は尊い、至誠があつてはじめて人間なのである。至誠即ちまごころから歌は生れる。それで歌は尊いのである」と。
 またある時、「歌は真心をのべるものであつて、真心が歌の根本である。それゆゑに、真心を詠んだ歌は永久に命がある。万葉集の中に、『今年ゆく新嶋守(にひさきもり)が麻ごろも肩の紕(まよひ)は誰かとり見む』といふ防人(さきもり)の母の詠んだ歌、『ひむかしの滝の御門(みかど)にさもらへど昨日も今日も召すこともなし』といふ舎人(とねり)の詠んだ歌がある。一は関東の野人の母、一は地位の低い属官の歌であるが、共に真心をうたつたものであるから、千年前の古い歌でも、千年後の今日に新しい感動を与へる」と。さうして、清く美しい声で、この二首の歌をおうたひになつた。そのお声は、今も耳の底に残つてをる。
 先生のお教をうけたのは、一年とすこしであつた。それは、東大の古典科の第二回生の募集があるときまつたので、能ふべくは入学したいと思つたゆゑであつた。
 古典科卒業の後、御歌所へ入るやうにおすすめを忝うしたが、御辞退を申上げたところ、度量の大きい先生は、「道の上で考のかはつてゆくのは当然である。根本(こんぽん)の至誠(まこと)さへかはらねばよい、信綱は信綱の道をゆくのがよい」と笑つてゐてくださつた。その後も盆と歳暮(くれ)にはお玄関まで伺つた。明治二十五年の六月、父の一年祭の歌会の前に、「懐旧」といふ詠草をもつてあがつて、この度のは特に御覧を願ひたいと申上げたに、二首のうち、前の方がよい。此のばらは咲いたのかとのお問に、門人の竹屋雅子(まさこ)さんから見舞にもらひました鉢のが咲きましたので、とお答へすると、「しかし、よくないところがあるが、わからぬか」、「わかりませぬ」と答へると、「臥しながら去年(こぞ)は見ましし花うばら今年も咲きぬ折りて手向けむ――この二句は、見ましし去年の、とすべきである。歌には、語句の親和といふことが大切である」とのお教をうけた。
  附記 十数年の後、坂(ばん)正臣君が訪問されて、「高崎所長が、御歌所も段々よくしたいと思ふから、佐々木も入つてはとのお話を伝へに来た。お返事は直接申上られたい、いま葉山においでであるから」とのこと。翌日、葉山なる恩波閣に伺つた。通りの左側で、坂の上のこだかいところ、かつて皇太子のお成があつたので恩波閣とおつけになつたとのこと。立派なお座敷でお目にかかつたが、そのころ先生は耳がややとほくおなりとの事を聞いてをつたので、まづ、お断り申上げることをはつきり申上げた方がよいと、やや大きな声で、先年と申し、また此の度、二度の恩命は実に有がたう存じますが、御辞退にあがりましたと申上げた。先生は暫くだまつておいでになつたが、歌についての自分の考をいはうと、仰しやつて縷々とお話しになつた。自分は、涙がほろほろと膝にこぼれるのをぬぐひもせずお聴きしてをつた。さうして自分は「道の上では頑固な私をどうかお叱り下さいませ。それについて申上げたいことは、父の師足代弘訓翁は京に上つて三條実万公の御眷顧を蒙つてをられました。さういふ縁故で父は明治十年代に三條実美公に、勅撰集が室町の中期で終つたことはまことに遺憾である。明治の時代にお撰びになつたらば、と書(しよ)を上(たてまつ)つたことがありましたが、年代が長うございますから、新続古今以後、明治以前までをまづお撰びありたい。その実現の時がまゐりましたならば、私はその時にはお手伝を致させていただきたう存じますが」と申上げたところ、先生は、「それは自分もかつて考へて申上げたことがある。然るに何ともお詞がなかつた。後また申上げて、高崎が不適当と思し召さば他にも歌人がをりますからとまで申上げた。しかしお返事はなかつた。恐れ多いことながら、新しいことをお取入れになり、お興(おこ)しもなされるのであるが、一つのことをお創(はじ)めになるには深くお考へ遊ばされるやうであるから」というて先生はだまつておしまひになつた。自分は恐れ入つたことを申し出たと其のままじつとしてをると、小間使が夕けの膳をはこんで来た。「酒はのむか、今日は海の風が寒い。一つのめ」とのお詞、真に恐縮していただき、日が暮れてお暇した。外の通りに出ると、海の上に月がきらめいてをり、風が吹いてゐるやうであったが、夢心地で、幸に通つてゆく自動車(くるま)をひろつて、逗子の停車場に帰つたことであつた。

    石原信明

 古典科に入学したいと決心して、国学は幼くから父の教を受けてをつたが、漢学は石原信明(のぶあき)先生の門を敲いた。それは、先生が晩年歌を嗜まれて、父に学んでをられた縁故からであつた。上州小幡(をばた)の旧藩士で、神田今川小路の安中家(あんなかけ)の邸内に住んでをられた。もの柔らかではあつたが、しつかりしたかたであつた。はじめ文選(もんぜん)を、後に唐宋八家文の教を請うた。毎週四回、きまつた時間の講義と質問が済むと、国学を専修するのであるからと、古今集の真名序(まなじよ)、令義解(りやうのぎげ)の序、万葉の中なる漢文などを、次々に教へていただいた。それは、「此の次には何の書(ほん)を持つてくるやうに」といはれて、家の本を持つていつたのであつた。先生は、「歌人になるにしても詩も作るとよい。唐詩の類を読むがよい」といはれて、詩の講義をもせられ、自分が幼稚な詩を作つて持参すると、懇篤に朱筆を加へられた。ある時、「秋日過古戦場」といふ題を与へられたので作つていつた、「秋風蕭瑟草芊芊、懐昔戦場南北天、古木鳥啼人不見、碑文苔滑已千年」を、起承は少し加筆して下さつて、転句の「古木鳥啼人不見」といふ句を、褒めていただいて喜ばしく思つた記憶がある。先生のお蔭で、その後も長い旅行の時などに、偶々(たまたま)韻字の本を携へゆいて、作り試みたこともあり、また漢詩の深い味はひをさとることが出来た。
  追記一 数十年の後、那智に遊んだ時、夜に入つて西行上人のことを偲び、「月色水光倶皓皓、巌頭半夜一人僧」の句を得たが、起承が成りがたく、翌々日、白浜に宿つた夜、夜ふくるまで推敲して、
   月の色と水の光と倶に皓皓(しろ)し巌頭半夜一人の僧
   緇衣(しえ)の袖に夜(よる)の山の気かそかなり月たかく白く滝白く高く
   音、光、心、相照り月と人と滝とただにある夜(よる)の深(み)山に
の三首の連作としたことであつた。
  追記二 近年、池上の田原紅梅刀自が入門せられた。刀自は石原先生の孫君であられるので、そのかみを語りあうたことであつた。

    イーストレーキ

 イーストレーキ先生には、磯部氏の国民英学会で教を受けた。それより前、自分は、英語をも学びたい、古典科を卒業した後は更に高等学校に入学したいといふ希望を持つてゐた。(六度の近視で眼科医からとめられ、父が大病後いたく衰へもしたので、遺憾ながらその希望は中止したが。)初め錦町の東京英語学校の夜学に通つてをつたが、イーストレーキ先生の教を受けてからは、進歩が早かつた。先生の教導は実にたくみであつて、例へば富士山の高さとか、利根川の長さとかを、西洋の歴史の年代などに結びつけて話されなどした。先生は日本語があまりに達者なので、指ざされた生徒の答が遅いと、すぐ日本語で話されてしまふ。「わかりよすぎるので」と、生徒は語り合つてをつたところ、母堂マダム・イーストレーキが米国から来られて教へられたに、日本語が全くわからないので、今度は「わからなすぎて」とこぼした。先生は冬になると、教場が寒いので、暖かさうな猟虎(らつこ)のチョッキを着て、にこやかに教へられた面影が忘れがたい。
 数年の後(明治二十八年十二月)、米国の雑誌に、「日本の歌及び歌の会」についての一篇の文を書いて送るからとのことで、小川町のわが家の歌会に来られた。人々が当座題を案じてをる長い間をられ、兼題(けんだい)の披講や、それが終つてからの合評をも聞いてゆかれた。その翌日、使で、百分も同じ題で昨夜一篇の詩を作つたから、とて贈られた。後年、印行した「竹柏華葉」の中にそれを掲げて、長く先生をしのぶよすがとしたことである。
 その詩は三節であるが、初めの一節の訳を掲げる。
     冬の月
   借りぎぬの光もて冬ざれの月
   凍みわたる青き空をわたる
   その照らす光も忽ち褪せぬべし――
   盈つるはやがて消ゆるためのみ
  附記 以下にも掲げる英詩は、多くは藤島昌平君に訳をわづらはした。

    チェンバレン

 王堂チェンバレン先生は、深く日本を愛され、広く日本を世界に紹介された。先生は明治六年五月に二十三歳にしてわが国に来られたのであるが、当時の日本は、新しい文化を設立するために、古いものを破壊しようとした時代であつた。東京の不忍池をうめて桑畑とすべく、京都の金閣寺の老樹を伐つて実用に供すべく、奈良の興福寺の塔を払ひ下げ、それを焼いて金具をとらうと企てたり、熱田神宮に納められてある経文を焼いて金泥の金をとらうとしたりした。また、かの百人一首の歌にある高師の浜の松をも伐つてしまふとの議があつたりした。(それは大久保利通公がとめられた為、松の生命がのびたのであつた。)
 さういふ時代に、先生は、一般の日本人が殆ど顧みなかつた萬葉集の歌、謡曲・狂言等を訳して、「日本上代の詩歌」を明治十三年に出版され、日本にはかやうな立派な文学があるといふことを世界に紹介された。同十六年刊行の英訳古事記は、その訳のすぐれてゐるのみならず、総論は、日本上代史のすぐれた評論であり、かつ、国学の復興に大いなる刺戟を与へたのであつた。
 東大における先生の講義は、新しい国語学・国文学の建設に大きな礎石を据ゑられた。またアイヌ語及び琉球語の研究には、不朽の足跡を留められた。
 その、すぐれた文章と、精細な調査によつて、日本の自然・事物・言語等を、世界に紹介せられた「日本旅行案内」・「日本事情」・「文字のしるべ」・「日本俗語文典」等がある。かかる日本紹介の著述の影響として、かのラフカディオ・ハーンを、小泉八雲としたというてもよい。それは、八雲が日本へ来るやうになつた原因の一つは、先生の著書を読んだことによるので、八雲は横浜に着くすぐ先生を訪問し、先生の斡旋によつて松江に赴任し、後、先生と外山正一博士の推輓によつて、東大に講じたのである。《注:チェンバレン「ラフカディオ・ハーン」(「心の花」第十五巻一号)参照。》
 わが生涯の恩人であるチェンバレン先生は、前記のイーストレーキ先生のやうに直接講壇から教を受けたのではないが、自分の学問への影響は大きかつた。
 先生は殆ど四十年に近く日本に在られたが、明治四十四年三月、宿痾のため、瑞西ゼネバの湖畔に移るべく帰欧せられ、かの地にても著作につとめてをられたが、昭和十年二月十五日、享年八十五歳四ケ月にして世を去られた。
 国際文化振興会は、三月九日、先生を追悼せむため記念会を開催して、広田外相、クライブ英国大使、長与東大総長の追悼の辞、三上・市河・新村・金田一博士、及び予の講演があつた。予は当日配附すべき先生の伝記一冊を記し、当日の展覧会の為に、先生の遺著遺品等の蒐集に努力した。
 歳月は過ぎて、昭和二十三年二月、先生歿後十二年の忌辰に供ふべく、諸家の賛助を得て、「王堂チェンバレン先生」一冊を編纂し、十二月に印行した。
 その書は自分の報恩と自誡の料にと心してものしたのであるが、掲げ洩らした数点をここに記すこととする。
 明治九年頃の宮中の歌御会始に、先生の詠進された歌が、当時の新聞に報ぜられてゐた。明治十年十二月、根岸千引編の「新撰名家歌集」には「英国人王堂(わうだう)」として先生の歌三首が載つてをる。しかして、わが父が明治十三年七月に伊勢で編纂した「明治開化和歌集」には、その中の一首が「英国 王堂」として載せてある。また、東季彦博士の談によるに、明治十八年九月十日の羅馬字雑誌に、箱根に滞在中の先生が、ある日曇つて富士が眺められなかつたをり、友に寄せられた、「心あらばよそに宿かれ天つ雲我も見まほしき富士の雪の嶺(ね)」といふ歌が掲げてあるといふ。
 先生の帰欧されることがきまつたので、横浜のホテルに訪ひ、「以前お詠みになつたうちの一首を」と短冊に揮毫を請うた。大抵のことは快くきかれた先生であるが、「拙い文字を遺すのは」と肯ぜられず、英詩の一節を書かれた。後に橘純一君から、先生の短冊を贈られ、「九如帖」に掲げた。「百年も千東世も絶寿かぐはしき花橘に鳴けほととぎす 王堂」。これは、橘守部の著書の未刊本を見るために訪はれた橘東世子(とせこ)刀自の年賀に贈られたもので、「ちとせ」を「千東世」、「たえず」を「絶寿」と書き、刀自の姓を「花橘」と詠みこまれた技巧には、先生の、日本古典に対する深い造詣も知られる。
 先生よりさきに日本に来たアストン、サトーの二氏また、日本を世界に紹介された。そのアストンの和書の蔵書印は「英国 阿須頓蔵書」とあつて、印判師の彫つたものであるが、サトーのは「英国 薩道蔵書」とあつて、文字もよい。先生のは、これも典雅な書風で、「英 王堂蔵書」とある。先生の名のバジル・ホールを、王堂と訳されたので、英(はなぶさ) 王堂とも読まれる、気もちのよい印影である。しかして洋書には、石版で印刷した蔵書票がはつてあるが、それには、ラテン語の「希望と信仰」といふ文字が小さくかかれ、下に姓名がしるされてある。自分は、先生から生形見にとて、一六〇〇年刊行のコイヤードの文典を贈られた。それには蔵書票ははつて無かつたが、先生の多年やどられた箱根富士屋ホテルの女(むすめ)、メイトランド孝子夫人から、テニソンの小型の詩集を自分に贈られた。それは先生の親友のメーソン氏から先生に贈るといふ名刺がはつてあり、更に先生が「孝子さんに贈る」と書かれた記念の本で、蔵書票がはつてあるから、桐の小箱をつくつて入れ、愛蔵してをる。
 なほ、先生が短冊に書かれた英詩は、ロバート・サウジイの作である。
     学者
   私の明暮(あけくれ)は古人の間に過ぎてゆく。
   私は私の身辺に見る、
   ふと眼をあげると至るところに
   古への偉いなる魂を。
   かかる魂こそ私の渝(かは)ることなき伴侶で
   来(く)る日も来る日も私はかかる魂と語り合ふ。
         サウジイ

  古典科の師友

 明治十四年頃、時の大学総理加藤弘之先生は、明治の文化が外来文化の善きを能く採り入れて美はしい花と咲いたのはよいが、我が国固有の学問を棄ててしまひ忘れてしまつてはよくない、国学者の中には老境に近づいてゐる人が多い。後継者を養成しておかねば、国学の種子(たね)がなくなつてしまふとの考から、小中村清矩(こなかむらきよのり)博士に謀られ、文部大臣に幾度も上申して、明治十五年に、文学部に古典科国書課を開設され、翌十六年には島田重礼(ちようれい)博士と謀つて漢書課をおかれ、共に第一期生として三十人づつが入学した。十七年に、国書課・漢書課とも、さらに、三十人づつが第二期生として募集された。自分は幸ひにその第二期に入学することが出来たのであつた。
 第二期の先生は、律令(小中村清矩)、万葉集(木村正辞)、日本紀(飯田武郷)、中世文学(本居豊穎・久米幹文)、国史(内藤耻叟・小杉榲邨)、有職故実(松岡明義)、漢学(岡松甕谷)、論理学(坪井久馬三)、等の諸先生であつた。
 上述のやうな趣旨で設けられた古典科であるので、諸先生はいづれも吾が学問を後に伝へるといふ考で、熱誠のこもつた講義をされた。自分らはさういふ尊い講義を聴講する幸を得たのであつた。

    小中村清矩

 当時は、九月が新学期であつたが、その初めての日に、小中村清矩(きよのり)先生が古典科設立の主旨を諄々と述べられたので、胸のひきしまる思ひに謹聴した。先生は令義解を講ぜられた。声は低かつたが、よくとほつて、江戸児らしい、はきはきした講義であつた。
 先生は、幕末時代に、江戸に於ける紀州藩の古学館の頭取(とうどり)であられたが、その当時わが父は江戸にをつて親しかつたので、明治十五年に上京して間もなく、湯島切通下(きりどほしした)の先生のお宅に父に伴はれていつた。角(かど)に土蔵があつた。後に、その書庫に許されて入つて、夥しい蔵書を見せていただいた。先生の蔵書には、「陽春廬記(やすむろのき)」の印が押されてあつた。後、不忍池のほとり、横山大観画伯が住まれたあたりの二階家に移られ、ついで西片町の中通りの奥まつたところ、つきあたりに士蔵のある家で世を終へられた。
 古典科卒業後にも屡々伺つて教を乞ひ、「歌の栞」その他のいまだしい著書の序文をもお願ひしたに、いつも快諾して下さつた。先生に「歌舞音楽略史」といふ名著があり、(チェンバレン先生が序をかいてをられる)伺つた折々に、歌謡についてのお話をお聞きした。いつも懇篤な物静かなお話ぶりであつた。自分が、専門とした万葉学についで、歌謡の研究に趣味をもつやうになつたのは、先生の学恩である。
 先生の夥しい蔵書の大半は、紀州家との古い縁故で、南葵(なんき)文庫に収まつた。自分は、南葵文庫で、戸田茂睡(もすゐ)の隠家百首(かくれがひやくしゆ)をはじめ、陽春廬記の蔵書印のある古書の恩恵をうけた。又かつて調布の女学校に講話を頼まれていつた折、芝野六助君が控室に来られ、「これを御記憶ですか」と、古い文車(ふぐるま)を携へ来て示された。それは小中村先生の座右に置いてあつたもの、後に、芳賀矢一博士が先生の遺族から得られたのを請うたとのこと、借りて模品を造らせ、わが座右に置いて、先生を偲んでをることである。

    木村正辞

 木村正辞(まさこと)先生は、明治の国学界の諸先生の中でも最も学界に功労の多い碩学であられた。明治の初年に「語彙」の編纂を政府に建議し、師範学校の創設に力を尽くし、「憲法志料」を編し、民法制定の事にも与かられ、且つ大学をはじめ公私の学校に教へて、人才の養成に留意された事など、明治文化の建設に直接貢献せられた。さういふ教育法政等の方面の功労に就いては、他に説く人があらう。ここには、万葉学者としての方面のみを述べる。
 仙覚にはじまつた万葉学は、季吟によつて一応完成し、さらに、契沖によつて興つた新しい万葉学は、真淵に発展し、雅澄によつて集大成された。先生は夙く万葉研究に志され、古写本を蒐輯して、その校勘にいそしまれ、慶応年間にすでに、「万葉集書目」のごとき万葉書誌学上の著書を刊行し、万葉の音韻に関する著述も脱稿されたのであるが、明治に入つて、江戸時代の学者の万葉の訓詁を補正せられ、同時に、集中の文字を私案によつて改竄することの非なるを切言せられた。斯くして現今の万葉学の基礎を固められたのである。
 かつて先生に、その経歴を承つたことがあつた。先生は、文政十年四月、下総成田に生れられた。父は清宮(せいみや)仁右衛門、母は多古藩の藩医松井氏の女。幼くて母君に漢学を受け、学問に志して江戸に出で、木村家の養子となられた。伊能穎則(いのうひでのり)が佐原の人であるから、初め穎則に就いて学ばれた。当時すでに音韻をきはめてをられたので、その質問をされると、穎則は虚心坦懐の人とて、「自分はさういふ方面に精しくない。幸ひ親しい岡本保孝(やすたか)が、和漢梵の三学に精しいから」というて伴ひゆかれた。保孝は、「自分は自ら学んでをるので、人に教へることはしない、ただし、友人としてならば知る限りの事は伝へよう」というたので、保孝から指導を受けられた。(後、先生の自らしるされた伝記一篇を見るを得て、心の花第十八巻五号に掲げた。その中には、「保孝の門に入り」とある。)
 先生は声はやさしかつたが、儀容が正しく、着物の襟は白襟の時が多かつた。晩年には腰がまがられたので、学校などで待たせてある人力車に乗られる時の様子は、おいとしいやうであつたが、それでも講義はつづけられた。
 自分が万葉集を一生の研究題目としたことは、全く先生の学恩である。また万葉集の典籍についての知識は、先生から得たのである。それは夏休みの際に、蔵から万葉に関する全部を持ち出され、自由に披見してよいといふ厚遇を与へられた。また、前田家の書物掛なる永山氏及びいま一人と三人のために、蔵から出された万葉関係の書について、先生の説明をお聞きし、これによつて、自分の万葉文献に対する眼は開かれたのである。
 幕末時代に、和学講談所から神戸(かうべ)に人をやつて影写せしめた元暦(げんりやく)万葉十四冊は、三珊だけ出版されて、他は影写本のまま先生の蔵弆に帰した。原本の埋もれてをつた当時では、唯一の本であるので、先生は学士院の会員であられたから、学士院よりその複本を出すやう企図してをられた。然るに、明治四十三年の夏、自分が水野家の土蔵から、元暦に校合した原本を発見することを得た。その翌日、入谷に先生を訪うた。万葉学の上に実に喜ばしいことであるが、足は重かつた。あれほど大切にしてをられる影写本も、原本が出ては印行の企も中止されねばならない。しかし、此の学問上の喜びを第一に先生に報告せねばならぬと、発見についての顛末を述べた。然るに、先生の喜びは自分の喜び以上ともいふべきであつた。影写本の価値を失ふといふことについて考へた自分を心ひそかに恥ぢた。
 当時の先生からの葉書が残つてゐる。それは、元暦万葉を見るために水野家にゆく日に、自分にいつてほしいとの文面である。当日は書記一人を伴ひゆかれ、所々肝要な所を自らも抜書され、書記にも写さしめられた。先生は晩年、所蔵の和漢の書のうちのすぐれた数部を、宮内省に献上されたが、その中には、山岡浚明書入の万葉集があつた。
 また、先生の書斎の床には、常に尊信せられた本居宣長翁の像か、然らずば岡本翁の訓誡の文の幅、応接間といふべき小間の床には、賀茂翁の書翰の小幅がいつも掛けてあつて、他の幅を掛けようとせられなかつた。ささやかな此の一事にも、先生の真摯な性格の一端が伺はれる。
 先生は、真に学者らしい学者であられた。先生のごとき学者と世を同じうし、あまつさへ厚き教を受けた自分が、先生に対してなしたことは、「美夫君志(みふぐし)」第二帙刊行の賀会に頒たれた「欟斎(つきのや)後集」の歌を、先生の嘱によつて選んだことのみであつた。
  附記 後年、自分が成田に講演に赴いた時、先生の生れられた家はどの辺であるかと、駅に出迎へた人に聞いたに、新勝寺にゆく途中の右側で、此処であると示してくれた。その日の講演の終りに、彼所に、「木村正辞博士生誕之地」といふ石標を建てられたいものであると述べた。静岡市の旧城内には、自分の企てた「戸田茂睡生誕之地」といふ石標が建つてゐるから、先生のをもと希つて、その後、成田の人々に謀つたに、小学校の境内に建てられた。裏面に歌をとのことで、
   万葉(よろづは)の繁樹(しげき)が丘に美夫君志(みふぐし)もちよき菜つまししみ業はもとはに
の一首をかいた。また、先生の胸像をさきに上田万年博士から贈られて大切にしてゐたが、その際、成田図書館に次の歌を添へて寄贈した。
   ふるさとの読書子の伴(とも)日々日々に来寄るを見つつ嬉しとおぼさむ

    飯田武郷

 飯田武郷(たけさと)先生は、信州人らしい、いかにも意志の強さうな容貌であつた。日本紀の講義は実に綿密で、万葉の木村先生、日本紀の飯田先生といはれた。先生は講義の際、「どうもその、くしびなことで……」と、よくいはれたので、失礼ながら生徒間で、「どうも先生」、また、「くしび先生」といふあだ名をささげた。かういふことをかきつけておくと、先生からいかにお叱りを蒙ることであらう。

    本居豊穎
                  
 本居豊穎(とよかひ)先生は、明治十三年、宣長翁の祭典が山室(やまむろ)山であつた時、東京から松阪に来られたので、その折に幼いながらもお目にかかつた。自分が上京した時、下谷御徒町(おかちまち)におたづねし、後に、江戸川端に、晩年、青山に移られてからも伺つた。
 鈴屋翁・藤垣内(ふぢがきつ)翁に人々の送つた書状が、二帖にはつてあるのを見ることを許されて、国学史の資料を知ることを得、また鈴屋翁の「自撰歌」が従来公になつてゐなかつたのを、「続日本歌学全書」に採録することを許されたり、亡父の二十年祭の記念に出版した「金鈴遺響(きんれいゐきやう)」に序文を請ひ、且つ、解説のために教を乞うたりした。
 先生の源氏物語の講義は、名調子であつた。先生は、夙くは神田神社の社司を兼ねておいでであつたが、祝詞を読まれる声は実にうつくしかつた。

    久米幹文

 幕末の歌人間宮永好(まみやながよし)同八十子(やそこ)は、夫妻の歌人として知られてをるが、久米幹文(もとぶみ)先生は、たしか甥であられたと聞いた。大鏡を講義された。自分等はその頃出版になつた史籍集覧本を教科書に使つてゐたが、先生は、古写本によつてまづ本文の誤を訂してから講義をされた。ある時、百鬼夜行の條の説明で、先生は.真面目な顔で、「この頃はさういふ事がたしかにあつたので」といはれた。をかしいとは思ひながらも、真面目なので謹聴してゐたことであつたが、今にして思へば、いつの時代にも、形をかへた百鬼夜行、否、昼行があるのである。

    小杉榲邨

 小杉榲邨(すぎむら)先生は、市ヶ谷見附の近くに、後は、目白台に、また、牛込納戸(なんど)町に住まはれた。卒業後屡々訪問して古筆や古典籍に就いてお聞きした。床の掛物は、その時々にふさはしい懐紙とか色紙とか短冊とか、いつも変つたのが掛けてあつた。先生は筆蹟にすぐれ、はた筆まめであられたので、自ら書写された本が多く、話の半で立つて、「ここにかうある」とひろげて示された。近世名家の書簡を書き写された「浜千鳥」といふ数冊の書の中には、国文学者の伝記資料が多かつた。自分が、故人の伝記を調べるに、特に書簡に注意を払ふやうになつたのは、先生のたまものである。先生は所蔵の書を快く貸して下さつた。自分は何日間といふ日を限つて借用し、その日を守つてお返ししたに、ある時、伴信友(ばんのぶとも)の蔵書印のおしてある本を示された。「若狭(わかさ)酒井家々人伴氏蔵本」と中央にあつて、南側に片仮名字で 「コノフミヲカリテヨムヒトアラムニハヨミハテテトクカヘシタマヘヤ」とある。「君は信友に誉められるであらう」と先生は笑ひながらいはれた。
 「類聚証」といふ書は簡単なものではあるが、現存せる歌論の書のまとまつた最古のものである。恩借して「日本歌学史」に紹介したが、それは影写本で古体を存した本であつた。先生の歿後数年、その原本が世に出たのを見るを得て、世にいまさばと偲んだことである。

    内藤耻叟

 久米先生よりは、内藤耻叟(ちさう)先生の方がずつと水戸人らしかつた。他の先生は洋服が多かつたが、時として和服でも靴をはいて来られたに、先生だけは和服で日和下駄のことが多かつた。近世の国史の講義に、黒板に向つて、関が原の戦の両軍の位置を書かれつつ、うしろ向で音吐朗々と講義をされ、みづから興に入られると、トントンと下駄を踏みならされたことがあつた。記憶がよく、原稿をもたないで、何年何月とはつきりいはれた。実に立派な講義で、後に述べる和田君のかかれたものによると、三上(みかみ)参次博士は、内藤先生の講義を聞いて国史に志を立てられたのであるといふ。
 当時、森有礼氏が文部大臣になつて、学制改革を企てられた。英語を国語とすべしといふやうな極端な時代であつたから、古典科の国書課・漢書課などは廃止すべきであると、大学総長に話されたとの事、それを洩れ聞かれた先生は、官邸に大臣を訪問して、国漢文の必要なこと、且つ第一期生は卒業が出来ても、第二期生の学業の中途で廃止するのはよくないと、熱弁を以て、熱心に論ぜられたので、大臣も、それならば第二期生の卒業を待つて古典科を閉ぢてしまふ。かつ五年の卒業を四年で卒業させよとのことになつたといふ。そのことを伝へ聞いた自分ら第二期生一同は、深く感激した。全く先生によつて学業を継続し卒業することが出来たのである。それで第四年目には、諸先生も一層熱心に講ぜられ、生徒もひたすら勉強した為、その一年間は、二年にも三年にも当つたやうに思はれた。

    岡松甕谷

 岡松甕谷(をうこく)先生からは、「制度通」の漢土の方面の講義を受けた。いかにも漢学者らしいかたであつた。先生の講義のある朝、教室の傍の大きな木に梟(ふくろふ)がとまつてゐたので、いたづらな誰かが捕へて来て、先生の卓子の上に置いておいたに、入つて来られた先生は「ホホオこれはめづらしい」といひつつ、自ら教室の隅におかれて講義をされ、帰る時に、「これは貰つていつてもよからう」と、風呂敷に包んで帰られた。次の週の講義の前、「あの梟はどうなさいました」とある生徒が聞いたところ、「荘子に梟の羹(あつもの)のことが出てゐるから食べ試みてみたがうまくはなかつた」と真面目にいはれたので、みんな驚いた。何十年かの後、或る結婚式の席上で井上匡(きやう)四郎君と隣席した折、ふと思ひ出して此の話をしたに、「父が梟を持つて来たので驚いたことを覚えてゐる」といはれた。

    坪井久馬三

 坪井久馬三(くまざう)先生からは、論理学の講義をうけた。文学士・理学士として当時の少壮学士であつた先生は、明治十八年から、海外に赴かれる二十年まで、その新著「論理学階梯」を参考書として、文証を古今東西、ことに国漢文を引用しての周到明快な講義は、深い感銘を与へ、いはゆる言挙(ことあげ)すくなき国学の若人等に、強き力を養はしめられた。当時先生は真砂(まさご)町に住まはれ、図書館に返されるのであらう、毎週必ず数冊の洋書を風呂敷包とし、そを重げに携へて教室に入つて来られた。
 明治三十八年の秋、自分は和歌史を講ずべく大学の講師を嘱せられたので、学長である先生の弥生(やよひ)町の邸を訪うた。たけ高い黄菊白菊の幾株の咲き薫つてをる庭に面して、先生は、講義といふことに就いて述べられ、話頭一転して、夙く浅草小島町に、黒川真頼博士のもとに通ひ、博士及び佐藤誠実博士の万葉の講義を聴いたことをいはれ、「当時は歌をも詠み試みたが」など語られた。
 学士院の晩餐に、たまたま先生の隣の椅子によつた時、論理学講義聴講の昔がたりをしたに、論理学といふことに就いて、詳かに語られた。総会の日、その担当された日蘭交通史料謄写事業に就いて、精細な報告を述べられ、いくばくもなくて世を去られた。「庭の菊ゆびざしつつも奈良の代にわたらざりしを惜しみまししか」と一首を供へたことであつた。

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 次に、第一期卒業生のうち、自分の最も親しく交はつた人々に就いて述べる。

    萩野由之

 古典科国書課の第一期生の先輩として、特に思ひ出の深いのは萩野由之(よしゆき)博士である。「日本文学全書」の編者三人の一人で、いふまでもなく国史の専門家であるが、国文にも和歌にも趣味をもたれ、従つて、「和歌改良論」を明治二十年に発表されもし、晩年には折々の作歌を自分に見せられた。亡父が古典科の第一期に講師であつたので、特に親しくしてくれられた。それで、父の三十年の追悼講演会を、震災前にあつた東大のいはゆる八角講堂で催した時には、上田・芳賀二教授と、古典科の代表として萩野博士に講演を請うた。
 博士は、江戸時代の和漢の学者の筆蹟の蒐集家であり、また鑑識家でもあつたので、東片町の邸に屡々訪なうて鑑定を請うた。ある時の談に、「古人の書の真偽は、種々の観点から考へられる。第一は、直観でおよそはきまる。しかし故人の書いてをられるのを、側で見てゐたわけではないから、断言するのはむつかしい。をかしいいひ方であるが、鑑定を請はれた時、これがもし売品であるならばもとめておきたいと思ふのを真といひ、ほしくないのを偽というてかへす」というてをられた。又ある時、あることに自分がいささか尽くしたといふので、方梅厓(はうばいがい)の横物を贈られた。梅厓は、王陽明時代の詩人、当時大陸へいつた日本人の石原守澄(もりずみ)に与へた詩であるので、愛蔵してをる。(後、京都に、内藤湖南博士を訪うた折に、床に梅厓の軸がかかつてゐた。それも邦人に与へた詩であつたと記憶してをる。)

    関根正直

 関根正直(まさなほ)博士の父君は、関根黙庵(もくあん)である。博士は江戸児とて、能弁でありかつ懇切であつた。大正二年四月、自分が戸田茂睡の逆修(ぎやくしゆ)塔を浅草公園内に建てて、伝法院で法会を行つた時の博士の講話「元禄前後の浅草名物」は、江戸弁の実に愉快な話ぶりであつたので、恐らくは地下の茂睡も、ほほゑんで聞いてをることであらうと思つた。また、加藤千蔭(ちかげ)の後裔の直種(なほたね)の家に、県居(あがたゐ)翁関係のものが多く伝はつてをつた一部を博士が譲りうけられ、それを知人にわかたれもした。自分は、県居翁自筆の門人録一軸を譲られて珍蔵してゐる。はじめ森川町に住まれ、後、小石川駕籠(かご)町に新築して移転された。その新築開きには上田万年博士を初め親しい数人が招かれて、おもしろい昔がたりがいろいろあつた。有職故実の事についてわからぬ時には、森川町によく訪うて質問をしたが、移転後は「さういふ簡単なことは、電話で答へるから」といはれたので、親しい先輩の事とて、よく電話で疑を質(ただ)したのであつた。

    松本愛重

 松本愛重博士は、萩野博士とならんで、国史学の大家であつた。その千駄ヶ谷の邸を一二回たづねた。古典科創立の際の本居豊頴先生の長歌の幅の、実に立派な出来であつたを示された。博士は熊澤蕃山を研究されたので、蕃山(ばんざん)がもと其の姓であつたことを種々語られ、蕃山(しげやま)父子が北小路(きたのこうぢ)俊光にあてた書翰を合装した幅が二つあるからとて、その一つを譲られたので、愛蔵してをる。

    平田盛胤

 平田盛胤(もりたね)氏のもとの姓は、戸沢。古典科在学中、平田家を嗣がれた。氏は神田神社の社司として、葬儀に誄詞(るゐし)をよまれるのを屡々聞いたが、まことに、清い澄んだ声であつた。宮城に近いお堀端に、和気清麿の銅像が建つた時、その側の碑の撰文は自分が委嘱され、書は岡山高蔭(たかかげ)翁の執筆であつたがその除幕式の日、平田氏のおごそかにすがすがしい声での祝詞を聞いたのが最後で、不幸にも地方に疎開中に世を去られた。

    市村瓚次郎

 東大の本科及び古典科の国語漢文の古い卒業の人々から成り立つた無名(むめい)会――上田、芳賀、三上の三博士を中心として年六回、上野の常盤花壇につどうたが、一月二日の新年会には会員の大部分が出席して、交驩を尽くすと共に、年の始の年夜を楽しんだ。市村瓚(さん)次郎博士は茨城県土浦在の出身であるが、新年には必ず帰郷されるので、新年会の定例欠席者といはれてゐた。博士は折々和歌を詠まれて学士院の会議の日、控室で示された。自分が「漢訳万葉集」を企図して、滞日中なる北京の銭稲孫(せんたうそん)氏に其の訳を委嘱し、市村博士及びその信頼せられる二詩人に校閲を嘱した。詩三百篇にならつて、集中の長短歌三百首を抄出した。殆ど完成したやうであつたが、戦時中北京に帰られた銭氏からは其の後、音信も絶え、校閲を快諾された博士も遠逝せられた。万葉学の上ではもとより、補助をされた会に対しても、まことに遺憾に思つてをる。
  附記一 話は市村博士から離れるが、これも自分が企図して、当時松本高等学校の教授であつた独人ツァヘルト氏に担当してもらひ、木村謹治教授に閲を請うてゐた「独訳万葉集」も、未完成のままで氏が帰欧し、木村教授も遠逝された。
  附記二 銭君のは後に完成し、鈴木虎雄博士に校閲を請ひ、出版については、新村出博士を経て京大の吉川幸次郎博士が努力せられ、文部省の補助を得て、昭和三十四年六月に「漢訳万葉集選」として日本学術振興会から出版されたことは喜ばしい。
  附記三 独訳の方も帰国の後完成したとの報を得、かつベルリンで出版せられたSEMMYO(宣命)一冊をもおくられた。万葉の訳もかの地の大学で出版されむ日が待たれる。

    岡田正之

 岡田正之(まさゆき)博士は、温情の学者であつた。無名会ではよく席を隣にして、「懐風藻(くわいふうさう)」や「本朝文粋(ほんてうもんずゐ)」の話を聞き、自分は万葉の話をした。病が重いと聞いて訪うた時にも、床の上に起き直つて、万葉集巻九なる大神大夫の歌のことについて語られ、林泰輔(たいすけ)博士の遺稿の序を病牀で書いたからとて示され、さきに委嘱した「南都秘笈」の一なる「蒙求(もうぎう)」の解題を、快くなつたらば必ず書くからといはれるなど、話は学問の上の事のみで、不治の病をいだいてをられる人のやうでなかつた。
 君が心の花の第四万葉号{第二十四巻七号}に寄せられた「万葉集の書名に就いて」の論文は、万葉学史の上に不朽に伝はるべき一説であり、同三百号記念号{第二十七巻四号}に寄稿された「万葉集時代の気分」も味読すべき文詞である。

 上述の六氏は第一期生で、次に第二期生のうち、自分の同窓として特に思ひ出の深い数氏に就いて述べる。

    井上甲子次郎

 井上甲子(かし)次郎君は、卒業後直ちに仙台の第二高等学校に赴任して、同窓中最も早く世に出た人であつたが、家事の都合で辞任、その後に佐々醍雪(さつさせいせつ)博士が赴かれた。井上君は帰京後、言語取調所の所員となられた。
 君は、自分の恩人の一人である。それは、自分は他の諸君よりも年が若くて、従つて、生意気であった。赤堀又次郎君の文に、自分のことを、「大童子」と人々からいはれたと書いてある。(大童子は、今昔物語に出てをる詞である。)入学の翌年の春、花の盛りのある日、二時間の休講があつたので、井上君らと共に上野にいつた時、池の端は人出が多く、君はずんずん先へ行かれたので、うしろから「井上々々」と自分は声高(こわだか)に呼びかけた。その翌日、君から長文の手紙がとどいた。同窓には黒川真頼(まより)先生の子息真道、大沢清臣(すがおみ)先生の子息小源太、鹿島大宮司の子息則泰(のりやす)君等、学者の子が数人ある。君もその一人であるに、とかく生意気である云々といふのであつた。「井上々々」と呼んだことは当時の書生の間の習はしともいへるが、同期生の一番の年少で、生意気であつたことは誡められた通りであるから、自分はその夜ただちに君を訪うてあやまり、かつ爾来深く自らを省みるやうになつた。
 君は、飯田町の土塀の真向ひに住んでをられたが、二階の書斎には古書が多かつた。君が晩年に、高槻の中学に教へてをられた頃訪問したに、その書斎に、見おぼえのある狂言記が置いてあつたのをなつかしく見たことであつた。《注:「心の花」第八巻八号「家書二則」に訪問の次第が記されている。》
  追記 高碕達之助氏は、なき母堂の供養に悲母親音像を建てられ、その副碑の歌を予に依嘱すとて、来訪された。その時、君は高槻の中学に学ばれ、井上君は恩師であると語られた。

    和田英松

 和田英松(ひでまつ)博士は、初め飯田町の通りに面した家の二階にをられ、後、湯島霊雲寺の境内に移られ、晩年は千駄ヶ谷に住まれたが、いつも訪うて、夜おそくまで語りあつた。君が「梁塵秘抄巻二」を、両国中村楼の古本市で求められて、間もなく自分が訪問したに、「歌謡の書物であるから研究したまへ」と貸してくれられ、希世の書ゆゑ出版したいというた時にも快諾され、論文をも書いてくれられた。初め合編のつもりでゐたが、「君が研究したのだから」といはれた。また九條家で万葉集書写に関する最古の文書を見出だされた時にも、万葉学に関することであるからとて、いちはやくその写真を貸してくれられた。自分の古典籍や古人の筆蹟を愛好するやうになつたのは、父の感化もありはするが、上述の小杉先生、萩野博士、和田博士の影響によるというてよい。

    佐藤球

 佐藤球(たまき)君は埼玉県大里郡相上(あひあげ)の人、附近の冑山(かぶとやま)なる根岸武香(たけか)翁の紹介で亡父の門に入られた時は、須長姓であつた。我が家に暫く寄宿してをられ、古典科入学当時は、君とともに大学に通つた。(当時は御茶の水橋はまだ架かつてをらず、今は無い万世(まんせい)橋か、或は水道橋をわたつて壱岐殿坂をあがり、本郷にいつたのである。)君は「大鏡詳解」を著し、また、和田君と合著で「増鏡詳解」を著して、当時の学界に貢献された。

    菅沼貞風

 震災で湮滅した大学の法文科の建物の楼上の向つて左が、明治二十年頃の図書館であつた。(後に史料編纂所になり、更に教室になつた。)閲覧室が狭かつたので、窓に向つた側にも椅子卓子が据ゑてあつた。自分が図書館にゆくごとに、その窓際の一椅子に漢書課の菅沼貞風(ていふう)君を見ぬことは無かつた。君の不朽の名著「日本商業史」は、おそらく当時から執筆しつづけてをられたのであらう。君は肥前平戸(ひらど)の人、卒業の翌年明治二十二年四月に、図南の志を抱いてマニラに赴き、七月、病死されたことは実に遺憾である。
 君は文章に長じ、詩にもすぐれて、「北極の南、南極の北、地勢雄闊多島国」の長篇は人口に膾炙した。君の歿後五十年に追悼会が日比谷の公会堂に催されたをり、時の大臣某氏は、追悼演説の中に菅沼先生、先生とくり返しいはれた。故人を尊ぶ当然の言葉ではあるが、君が歿されたのは二十六歳の若さであつた。後に、東京日日新聞記者黒崎君がマニラにいつた時、マカヂの丘に新たに建てられた大理石の碑の前で撮影した写真を、帰京して贈られた。その碑も今はどうなつたであらう。

    島田鈞一

 島田鈞一(きんいち)君は、重礼博士の長男で、長く一高の教授であつた。佐藤球君と房州にいつた時、那古の客舎でゆくりなく逢つて語りふかした思ひ出がある。君の令妹繁子さん(服部宇之吉博士夫人)は亡父に歌を学ばれたので、父と共に自分も、篁村(くわうそん)島田博士の下谷の邸に招かれたことがあつた。後年君から、先生が歌を詠まれて短冊に書かれたのが家にあると聞いて、一見を請ひたいと思ひつつ、見ることを得なかつた。(亡父の還暦の宴に、篁村先生から寄せられた賀詩は、幅にして愛蔵してをり、「竹柏華葉」にも掲げてある。)

 「古典科の師友」の終に書き添へておく。古典科は、国書課、漢書課の第一期、第二期をあはせて卒業生は百八人であつた。{国前三三、国後二〇人漢前三五、漢後二〇人}わが国書課では、卒業後、折々に謝恩会を催して、諸先生をお招きしたが、前後二十五人の先生がたは皆世を去られた。それで、同窓のみの集まる会が、毎年もしくは隔年にあつたが、それもいつか絶え、同窓の学友は、殆ど幽明境を異にしたことと思ふと、まことにうらさびしい。
 なほ、古典科の友人としてここに挙げた数は少いが、同窓のうち、明治中期以後の国漢文に尽瘁した人は少くない。「東京帝国大学学術大観」の文学部国文学科の章に、古典科のことを叙して「その卒業生のうちからは、有力な学者が輩出して、斯学の普及進展に多大の效を致した」とあることは、創設者の加藤総理、小中村博士に対して、いささか負荷の恩を報じたもの、といふべきであるとおもふ。
  附記一 古典科の教室は、当時法文科の大きな建物の向つて右の平家(ひらや)の一棟で、左が国書課、右が漢書課であつた。国書課の側には、かの梟のとまつてゐたやうな大木があり、うしろは崖で、池に近かつた。本郷通りの赤門を入つて、左へ古典科の教室のある辺までは、現今の史料編纂所や図書館は無論なく、ただに広い空地であつた。それで、朝の早い時間に休講のあつた時は、本科生も古典科の自分たちも入りまじり、当時はやつたフランスゴッコといふのに時を過した。今おもへばほほゑましい若さである。
  附記二 第一期の国書課に入学されたうちには、以上のほかに、池辺義象、今井彦三郎、今泉定介、安井小太郎氏等、漢書課の第一期生には滝川亀太郎、西村時彦(天囚)、林泰輔氏等、第二期の国書課には、西田敬止、赤堀又次郎、鹿島則泰、平岡好文、生田目経徳氏等、漢書課には、児鳥献吉郎、西村豊、長尾槙太郎(雨山)、桜井成明、黒木安雄、三島桂、山田準氏等があつた。

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  東大の人々

 自分は、明治二十年以後、古典科の卒業、続日本歌学全書の編纂、新派和歌の樹立への参加、歌誌「いさゝ川」、つづいて「心の花」の発行、南清漫遊、木村先生の教訓による万葉集の研究、王堂先生の提撕による和歌の歴史的研究とつぎつぎにつとめて来たが、三十八年の夏の夜、上田、芳賀二教授がうちつれ訪問されて、「此たび東大で、独逸の員外講師の例にならひ、ある専門を持つた学者に週二時間の講義をしてもらふ。森槐南君には詩学、岡倉天心君には日本美術、有賀長雄君には日本上代の法律等を講じてもらふ。君には一時間を万葉集の精細な講義、一時間は歌学の歴史についてまづ講じてもらひたい」との委嘱であつた。自分はとくと考へて、足代翁から父に伝へられた「かつ教へ、かつ学ぶ」とやうに、教ふると同時に、猶自らよく学びたいとの考で、九月から講義をした。第一回の初めに、垂仁紀にある「神の神庫(ほくら)も樹梯(はしだて)のまにまに」の句を引いて、諸君がわが講義をはしごとして、学問の殿堂にのぼらるるやうにというた。(心の花は、初め華とし、後、花と改めた。)
 しかして年をつむこと二十有六年、昭和六年まで講義をつづけたので、その間、文学部の人々と親しく交はつた。ここに数氏について述べる。

    上田万年

 上田万年(まんねん)博士については、長逝せられた昭和十二年の廿日祭の翌日{十一月十六日}かいた文詞をここに掲げる。
 上田博士の長逝は、まことに哀惜の情に堪へぬ。多年知を辱うした自分としての追悼の情は言ふまでもない。すべてが人である、国のすべても人にかかる、博士のごとき人を失つたのは、わが学界の大いなる不幸である。
 博士は長い間病床に親しみがちであられたが、自分が訪問した時は、いつも学問を談り、世を憂へて、力づよい声で話されたのであつた。此の九月二十三日、学士院についての用事で朝とく鎌倉に訪うた時も、その話がをへた後、国家的経綸に就いて、かやうかやうであつたらばよからうにと、述べられた。その日の午後には鎌倉滞在より帰京せられるとのことで、隣室では荷物の片づけをしてをられる。長座をしてはと、辞して門外へ出たところ、家人をして呼び入れしめ、いま一言この事をいひ忘れたから、とて告げられた。それは用意周到な注意であつた。帰京せられた後二日には、かねて嘱されてをられた原田嘉朝翁伝の序文の訂正をされたが、その翌々日頃から病が重くなられたとのことである。
 博士を初めて識つたのは、明治十九年であつた。当時東京大学の和文学科の学生は、たしか博士一人であつた。自分らの古典科国書課は三十人であつたので、小中村先生、木村先生の講義のごとき共通のは、古典科の教室に聴きに来られた。その頃からである。
 博士は、歌を詠まれたことはたまたまであつた。ただ故芳賀博士遠逝のをりには数首を詠じ、莫逆の友の死を痛歎された。新しい国語国文の道を開拓せられた二博士の霊は、今や相遇うて、国運の隆昌を祈り、斯学の進展を語つてをられるであらうとおもふ。
 博士は、大学在学中にチェンバレン先生の指導を受けられ、その指導が、新たなる国語学建設の基礎となつたといふことをしばしば語られた。然るにさき頃、小泉八雲氏から王堂先生に送られた六十余通の書翰が日本にもたらされて来ることとなつた。その事を聞かれた博士は、それをたしかな所に保存したく考へられ、病中とて、それに就いての事を予に嘱されたが、幸ひに博士の意志どほりになった。この顚末を報告にいつた時の博士は、平素喜怒を色にあらはされる事が少いに、喜びが面にあらはれ、かつこれまで、いはゆる弱気(よわき)の詞を口にせられるのを聞いたことはなかつたに、「これで……」云々といはれた。
 博士の趣味が囲碁であつたことは、昨日の廿日祭の席上、塩沢博士の追悼談にもあつた。かつて共に、原田積善会の一行に加はつて、伊勢松阪の客舎にやどつた際、学問上の談話をつづけてをられたが、山田から碁の友の来訪後は、隣室に移られて石の音が絶えなかつた。また、津市に赴いて、田中治郎左衛門翁の邸に共に一泊したが、博士と主人とは夜ふくるまで烏鷺をたたかはされた。
 博士は、祖父君の名を嗣いで万年とよばれたとのことである。祖父君は歌に巧みであつて、御家流の美はしい筆蹟の短冊は、名古屋の片野氏から得て、架蔵してゐる。上に述べた如く、博士も時々歌を詠まれたが、それを色紙や短冊にかかれたことは殆ど無かつたやうである。博士と共に、須磨なる山辺丈夫氏の孤山荘に客となつたをり、主人の明治初年の英国留学談を聴き、ウヰスキーのコップを手にしつつ、老松の間に白帆の隠見する景をめでて即興の作を語られたので、翌朝、主人は色紙を出して執筆を請はれたが、これのみはと固辞された。
 短冊等は書かれなかつたが、博士から自分に贈られた内山真竜(またつ)筆の賀茂翁肖像の幅、富士谷御杖(みつゑ)集、英国の土産(つと)の陶製の「沙翁の家」の箱には、箱書や奥書などを書いて贈られた。耶和九年十月、自分の祝賀の小集会の日、「かつて講式の研究をして蒐めたのであるが、その多くは震災の時、大学の研究室で焼亡した。これはわづかに存してをる一つであるから」とて、建武五年弁暁(べんげう)書写の「聖徳太子讃歎講式」一軸の恵贈を忝うした。これらはいづれも厚情の記念と愛蔵して居る。
 なほ、博士は多年、「心の花」のために寄稿せられた。その中には、契沖伝、春庭伝資料、上世の童謡、真淵論等、博士の遺稿の出版せられむ日に加へられるものが少くない。
  追記 上田博士が番町にをられた頃、碁の会に招かれた。自分は碁はやめてゐたが観るのは好きで、招かれた夜に、よくいつた。二階にあがつた右の部屋が二番目のお嬢さんの寝室とおぼしく、夫人がおもしろいお伽噺をいつも読んで聞かせてをられ、左の奥が客室であつた。このお嬢さんが、今の円地文子夫人である。

    芳賀矢一

 「雲中雲を見ず」といふ語が漢土にあるが、人は、あまり身近くにあるものに就いては、その真の価を看過し易い。吾々は、先哲の業蹟を常に尊んでゐるが、近い人々の業蹟に関しても亦重んぜねばならぬ。
 契沖の実証的態度にはじまり、四大人を経て完成した近世国学は、伴信友(ばんのぶとも)のごとき考証の一面に寄与をなした学者をも出だし、橘守部(たちばなのもりべ)のごとき解釈批評の上に新機軸を出した学者をも育み、野之口隆正(ののぐちたかまさ)のごとく平田派の学風を推し進めて国家の学としようとした一派をも生ずるなど、完成はやがて次代の分化展開を示してをり、明治時代に入つては、まづ博学洽聞の横山由清(よしきよ)が出で、その後を受けて全体的国学の体系樹立に進んだのが小中村博士である。また、木村博士は万葉学の一面に深く研究の歩武を進め、飯田翁は専ら日本書紀の究明に力(つと)め、落合氏は、世を早くされたので完成を見なかつたが、古典研究に新風を興されようとした。其の他、新国学運動に力を尽した人々はあつたが、学術の世界も全く一新された明治の時代に、真の意味の新国学を確立されたのは、実に芳賀矢一(はがやいち)その人であった。博士の現代国学界に対する功績は、まことに大なるものがある。
 博士は、橘曙覧(あけみ)の門人芳賀真咲(まさき)翁を父に持たれた影響もあつて、天稟の資性に、父翁を通じて曙覧の感化が伝はり、さらに大学に学んでは、チェンバレン教授の新しい研究方法の示唆を得、学問による教養がそれを玉成したのであつた。
 博士は孝心に厚く、かつて大学の教員控室で、「今度、ささやかではあるが、力をこめた著書を出版するについて、それを亡父にささげたいと思うて歌を詠んだから見てほしい」と言はれて、その作を示された。「国民性十論」の巻頭に掲げられてゐる二首がそれである。
 博士は、人に接するに懇切であつた。酒を嗜まれて洒脱な方面もあつたが、一方学問上の話には非常に真面目であつた。自分について一二の思出を述べれば、自分等の「校本万葉集」の事業に就いては、上田博士とともに懇篤に助力せられた。また、チェンバレン先生から自分に贈られた「新謡曲百番」の翻刻出版に当つては、珍しい文献の公刊を喜ばれて、進んで序文を寄せられた。
 交友に対し、門下生に対し、実に親切で、その情誼のあつかつた実例の一つを挙げるならば、藤岡作太郎博士の葬儀のをりに読まれた文詞のごときは、その至情人々をして泣かしめた。それは、藤岡博士が、京大設立の際、教授の内命を受けられたが、「著書の参考書を見たいために東京を去りたくない」と辞退されたので、芳賀博士は、藤岡博士を東大の教授たらしめむと尽力せられたが、定員のあるため、其の時いたらず、終に助教授として世を去られたのを衷心歎かれたのであつた。しかしてそを読まれる博士の声は折々とだえて、涙をぬぐうてをられた。
 また、後進に対して寛容であつた。博士のもとを訪うた時、前からをつた某書肆がいろいろに云ふに答へて、「自分が教へたのではないが、頼まれたので紹介をした。目上にはやさしい詞づかひをしてをるも、よくない男のやうである。しかし勉強ざかりの年齢ゆゑ、我慢してくれ」とわびるやうにいうてをられた。

    藤岡作太郎

 わが国文学復興の機運を大成して、新しい意味に於ける国文学を学界に建設された功は、芳賀・藤岡二氏に帰すべきである。
 しかし、二氏は、その学風に於いて、互に特色を異にしてゐる。芳賀博士は、何処までも、新たに学問の道を切りひらくといふ態度で、国文学上の主要なる問題を提供し、大体の解釈の方針を指示してゆくといふ方で、いはば荒削りに国文学といふ一つの彫像の形を造りあげる人であり、藤岡博士はこれと異なつて、その学風が精緻微細で、部分々々を細かに仕上げていつて、荒けづりの像を美しく渾然たるものとなすといふ風である。例へていへば、芳賀博士は種蒔く人、藤岡博士はこれを培ひ、おほしたてる人である。
 藤岡博士は、京都の風物に親しんで、其の間に自ら養成せられた美術上の鑑識、華麗な文藻等、他人の企て及びがたい特色を有してをられた。加納諸平の長歌に、「事なさば十年(ととせ)も千年(ちとせ)、成さざらば千年何せむ」といふ句がある。「君は十年も千年」に当る不朽の著作を学界に成されたのである。
 翻つて和歌の方面から考へても、文学史家として、君のごとく和歌に同情を持ち、理解を有された人は尠い。君が「国文学全史平安朝篇」に於いて、和泉式部を称誉せられたごとき、特に西行を重んじて詳しく研究せられたごとき、いづれもこれを示して居る。また「国文学史講話」に於ける万葉集論、殊に家持の歌に関する見識のごときも、尋常を抜いて居る。
 自分が君を識つたのは、自分が大学に講師として出てからの事で、日は浅かつたが、しばしば往来して、語るところはいつも歌の上であつた。「悦目抄(えつもくせう)論」のごときも、君の指示によつて国文学界に起つたもので、自分が発表した論文も、それに促されて研究を重ねたものである。君が「異本山家集(さんかしふ)」を得て、出版せられた時は、自分のもとにも古写本を蔵して居たので、度々訪はれ、種々談り合うた。また君は、学問上非常に所信が堅かつた。神楽催馬楽(かぐらさいばら)や古今六帖(こきんろくでふ)が、平安朝篇に論じてなかつたことに就いてなど、君と自分と見解を異にして居た為、数回論じ合ひもした。
 去年{明治四十二年}十二月の初め、君を訪うて、いつよりも長座したが、其の折に語つた「定家歌集」が、やがて出来たので、大磯に避寒して居られた君のもとに一部を送つて、定家の歌に就いては多少観を異にするから、評をしてほしいといひ送つたに、「いづれ考を書いて送るから」といふ返書が来た。しかし、その評も聞く事は出来ぬ。また、十二月に語つたをり、従来世に埋もれて居た秘府本(ひふぼん)万葉集抄、為兼(ためかね)の歌論の書等を写して置いたというたに、使をやるから貸して貰ひたいといはれたが、その使も最早永久に来ぬ。数日前にも、山家集の古本を見るを得たが、それにつけても、古書に就いて、国文学上の事実に就いて、また考訟に就いて、研究するところある毎に語り合ひ、裨益を得た君を失つたことは、自分一個人にとつても又なき悲しびである。
 君の葬送の当日、君が書斎の前の庭に立つて、自分は哀悼の情に沈んで居た。その庭前の梅は、よわよわしい痩せた枝ながらに、清香を放つて居た。あたかも君が生来の多病に堪へて、学問上に多くの功績を挙げられた貴き一生を語るもののごとくであるのを思つて、更に深い感慨に沈んだことであつた。
 以上は、明治四十三年二月に君を偲んで記した文であるが、次に一二の瑣事を書き添へる。今の東大図書館が建つ前の図書館は、卒業式に臨幸のある時は、学生の閲覧室が式場になつたが、この閲覧室とは反対の側に、教官の閲覧室があつた。少し隔たつて、大きな木があり、極めて静かであつたので、読書には好適であつた。そこへ自分がいつた時に、ほとんど、藤岡博士を見ぬことは無かつた。ある時は、刊行以前の明月記の写本を熱心に閲読してをられたが、ある記事を指ざして、小さな声で自分に何かいはれた記憶がある。
 君は持病の喘息のために、家は西片町にあつたが、講義の日にはいつも人力車に乗つてゆかれた。講義の前に身体を疲らせないためである、といつてをられた。自分の小川町にも時々来訪されたが、その時はいつも和服であつた。

    藤村作
     
 藤村作(さく)博士が、「日本文学大辞典」を、昭和三年から九年まで、七度の春秋を送迎して編纂された労力は、容易ならぬことであつたとおもふ。二十年後の今日も多くの類書を圧してをる。初め、嘱せられてその相談にあづかつたので、旧版第三巻の後記には、上田万年、高野辰之、松井簡治博士とともに、自分の名も挙げられてをる。この辞典は、遂に君がかたみとなつた。
 東大の国文科は、明治三十八年から、上田、芳賀両博士が主宰せられてゐたが、四十三年に、藤岡東圃(とうほ)博士が卒去せられたので、同年三月、藤村博士はその後任に就かれた。その数日前、二三人のあつまつたところで、芳賀教授が、「藤岡君の代りに、今度、藤村君を広島から招きたいと思ふ。自分は文部省から嘱せられて、地方の高等学校や師範学校の国語国文教育を毎年視察に行くが、広島で視た藤村君の授業ぶりに心がとまつた。まづ教壇にあがつて教卓に着く前に、君は静かに教室内を見回して、生徒の心を集中せしめるやうにしてから椅子につかれた。大学の教授助教授も教育者である以上、『学者』だけではいけぬ、やはり『教授』であらねばならない」と言はれたことであつた。
  追記 今年{昭和二十八年}二月、エリセーフ君がアメリカから来て、自分の熱海の山荘を訪問された。君は、明治四十五年、外人として初めて正課を踏んで文学士になつた日本文学研究家である。自分はその卒業記念写真を示し当時の教授、助教授、講師のおもかげを語つて、「この写真のなかで、上田、芳賀、藤岡勝二、関根、吉岡、垣内の諸君は皆故人となられ、健在なのは、藤村君と自分と君とだけであることは、まことにうら寂しい」と話したことであつたが、その藤村君も世を去られた。

    三上参次
                   
 東大の国史科の教授としては、三上参次(さんじ)博士と黒板博士とが最も親しかつた。甲は先輩として、乙は友人として。
 三上博士とは、上述した無名会で、多年親しく交はつた。明治四十一年七月、三上・萩野・市村三博士と共に水戸の彰考館の古書を調査にいつて、清香亭にやどつた時、夜ふくるまで語り合つてゐたに、宿の主人から、「あまりに夜がふけますので」といはれた思ひ出がある。
 折々歌を詠まれては示された。手紙は謹厳な書きぶりで、終りには必ず年月日が書かれてあるのは歴史家にふさはしいと思うた。「扶桑珠宝(ふさうしゆはう)」完成の祝賀会を美術学校で催したをり、講演を請うたことがあり、王堂先生の追悼会にも講演せられたが、まことに明晰な話ぶりであつた。
 晩年、明治天皇御伝記編纂の主任をしてをられた。自分は御集の編纂に委員の一人として携はる光栄を得たが、御製の全体の数は承知しなかつた。宮崎市主催の講演会に赴く前、御製について述べたいため、博士に総数を調べられむことを請ひ、はじめて明確に知り得て、御歌数の多いのに驚歎したことであつた。

    黒板勝美

 黒板勝美(かつみ)博士は夙くから知つてをつたが、親しく交はるやうになつたのは、正倉院の御曝涼(おんばくりやう)の時からである。自分は万葉仮名の調査に三年つづいていつたに、君は、史料の出張で来てをられて、ある時、「秋ごとに奈良の御倉に通ひ来て髪白くなりぬ二十年まりに」の歌を示された。特に親しくなつたのは、大震災後、宮内省に御物管理委員会が設置せられて、御物の調査をともにすることになつた時からであつた。それは毎週一回の会議が、数年間続いたのによつてである。君は主査といふべき位置であつたが、君の円滑にしてしかも用意周到な性格は、事務を正確に且つ敏捷に進めた。この会によつて、定家自筆本の「更級日記」や、顕真の「古今目録抄」の雑芸等を自分が発見し得たことは、国文学上にも大いなる喜びである。
 君の円滑な性格のあらはれを一二いふならば、会議の正午の休憩時などには、「これは君、特によい御所柿だよ」とか、「鹿児島から送つて来た、かういふ小さい柿である」とかいうて人々にわかたれたりした。また自分は外出する前まで仕事をしてゐて、自動車でかけつけるくせがあるので、定刻より五六分ぐらゐおくれたことが一二回つづいたに、「先陣の佐佐木はいつもしんがりし」といふ句を短冊に書いて見せられたり、又ある日、電話で十分ぐらゐおくれるというていつたところ、「君、会議前にみるやうにあちらに掛物がかけてある」といはれるので、自分はいつもの例で、まづ軽く頭をさげて、掛物を仰ぎ見たところ、黒板君の高い笑ひ声が聞え、外の人も手を拍つ。見ればそれは、自分の幼い十歳(とを)前後に書いた短冊四葉をどこからか得られて、仮表装にしたのが掛けてあつた。また、ある日の正午の休憩に、「今日は君に特に見せるものがある」というて、古典科で教を受けた松岡明義(あきよし)先生の蔵書が図書寮に収まつた中の一冊を示された。それは、学期試験の答案で、当時は東京大学と柱にある十二行の青罫紙に墨書(がき)、それを綴ぢてあつたのである。自分は、おづおづあけると、「禁秘抄」、「職原抄」の答案が、幸ひ落第点でなかつたから、胸を撫でおろした。かういふ軽いたはむれを折々に受けたのは、自分一人ではなかつた。しかし罪のないたはむれなので、誰も皆笑ひ話になるのであつた。
 一方、君は、学問上のことに関してまことに親切であつた。河内金剛寺から、宝篋印陀羅尼(はうけふいんだらに)経の料紙に今様のかいてある一巻が発見せられたのを借り受けて帰京せられた時、また、京都大報恩寺の阿難尊者の胎内から明珍(みやうちん)恒男氏が和讃を発見して君に示された時など、「これは、佐佐木君の研究材料であるから」とて示してくれられた。また、奈良公園の万葉植物園の設置について、君も自分も委員として種々企画にあづかつたが実によく尽力された。専門の学問のすぐれてをられるのみならず、人としてもすぐれてよい君が、いかにしてか不幸病を得られて、晩年言語の発せぬやうになられたことがお気の毒に堪へず、お見舞にいつたが、いつも玄関で失礼した。自分ではさほど苦しんでをりませぬと家の人のいはれたのは、全く君の徳ゆゑであつたこととおもふ。

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