江戸期版本を読む

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カテゴリ:佐佐木信綱と「心の花」 > 明治大正昭和の人々(1961刊)

  法文科の教員控室にて

 自分が講師としての毎週二時間の講義は、ある年は月曜日、ある年は火曜日であつたが、いつも午前十時より十二時までで、十時十五分から講義をはじめ、十一時に控室に帰り、更に、十一時十五分から講義をする習はしであつた。後に聞いたのであるが、この時間は、与へられる時間としては、最もよい時間であつたといふ。従つて、先輩の人々や友人などとともに、短い時間ながら、法文科の建物の向つて右の方の教員控室で語り合つた。何にしても長い年月のことであるから、芳賀博士によく逢ひに来られたフローレンツ博士をはじめ、多くの人々と語りあつた。
 話は転ずるが、東大構内の山上集会所は、当時、御殿と呼んでをつたが、そこへ毎週一回講義の後に午餐にゆくことを、自分の二十六年間の講師時代の習はしとしてをつた。それは十時からの講義の前二時間と、午餐の後の夕方までを図書館の一室で読書の時間と定めてゐたからであつた。午餐には法・文・理・医科の教授が多く、食事後の一時間に、人々と語りあふことが楽しかつた。山川総長と会津人の歌について、神保小虎(ことら)博士と松浦武四郎の蝦夷の歌について語り、或は、来訪のアインスタイン博士と、田中館博士の通訳で、万葉集について話したこと等々の思ひ出も少くない。
 ここには、法文科教員控室での二三の人々に就いてしるすこととする。

    穂積陳重

 穂積陳重(のぶしげ)博士の名は、早くから知つてをつた。それは自分の若い時の最も親しい友で明治廿七年に世を去つた漢詩人中野逍遥(せうえう)君が、穂積家とつづきあひで、東大在学中、博士の兄君重穎(しげかひ)氏の神田南甲賀町の家に寄宿してをつた時もあつたので、中野君から、博士が学者として尊敬すべき方であるといふことを聞いてをつた。
 初めてお逢ひしたのは此の控室に於いてであつた。謹厳にして温和な、老紳士といふべき風格であつた。祖父君重麿(しげまろ)は本居大平(おほひら)の門人、父君重樹(しげき)は藩校の国学教授であられたので、博士も国文に趣味を持たれてをり、万葉や古今に就いてよく語りあつた。ある時自分が、祝詞(のりと)は歌の一種であるといふ考を述べたに、外国の例を引いて種々話してくれられた。博士は「貞永式目」をあつめてをられたので、古写本の所在を知り、また、書肆の目録に見出した折などには、書状で知らせもした。名古屋に古抄本が出たことを電話でいうた時などは特に訪問されもした。「法窓夜話」をはじめ、著書の成る毎に贈られたので、自分からも寄贈すると、必ず書状が来る。それは、単なる儀礼ではなく、懇篤であり、且つ趣致の深い文体である。歌もたまたま詠まれて示されたので、揮毫を請うた短冊を蔵してをる。「大岡忠相の御墓に詣てゝ 問ひてまし語りてましをあまた世をへたてゝけりな道の友垣 陳重」の一葉は、感銘の深い歌である。

    岡倉天心

 寺崎広業、村田丹陵画伯など美術家が主で、少数の人の毎月二十日にあつまつた、下谷伊与紋(いよもん)における二十日会に、自分も折々出席した。天心(てんしん)岡倉覚三氏にはその会で初めて逢つたが、美術界の長老にふさはしいその風貌は、長く忘られぬ印象をうけた。
 後、東大の講師として、日本美術史を講ぜられることになつたので、ある日、控室に入つて来られたをり、久々で語りあつた。「大学がここになつてからは殆ど来ず、浦島のやうに勝手がわからないので」といつてをられた。

    前田恵雲

 前田恵雲(ゑうん)博士とは、大学の講義が同じ日の同じ時間であつたので、職員室で語り合ふ機会も多く、また同じ西片町に住まつてをつたため、往来もし、示された歌を見たこともあつた。ある時書かれた短冊に、「埋火 すゑつひに霜と消ゆへき我か身にもしたしまれけり夜半の埋火 陶々半人 雲」とある。
 自分は、仏教者に逢ふごとに、桑門の中に、未だ世に知られぬ歌人もしくは歌学者がありはせぬかと、必ず質問する。それは、一般の歌人の家集、歌論のたぐひは大半渉猟したので、世外人に心の深い歌を遺した人がありはせぬかと、常に留意して前田博士にも同じ問を出したに、江州福堂村覚成寺超然(てうねん)(虞淵(ぐえん)と号す)のことを話された。それは「風湾葦響」といふ歌に関する随筆で、その後、活版に附せられた。

    ケーベル

 ケーベル博士とは、控室で会つては黙礼を交した。博士は日本語を解されず、自分は独逸語は一語も知らず、英語も不十分なので、言葉は交さなかつたが、泰西上代の哲人を見るがごとき高貴な風貌に、いつもやさしいまなざしで黙礼をかへされた。時間がすむと、人力車が待つてゐたが、正門まで歩いて、そこから乗られた。深奥な哲学者であり、高風な音楽家であられる博士の、力づよい演奏を、幾度か上野の音楽学校で聴くことを得た。音楽学校教授で竹柏会の同人なる橘糸重(いとへ)さんは、博士の愛弟子であるので、晩年博士のをられた横浜へよく訪問し、その折々の話の断片を伝へ聞いて、自分の心も浄まる思ひがした。ある時、「いつも日本服を着てゐて東大の教員控室でお目にかかつたのであるが、幸ひに御記憶があるならば、記念に短冊に染筆を請ひたい」と糸重さんを以て依頼したに「よく記憶してをる、あの日本服の人は」といはれて書いてくれられた。その後寄贈した「万葉集解釈」を久保氏に読んでもらはれて、「久方の天ゆく月を」の歌のごときは、ことにおもしろいといはれたと、糸重さんから聞いた。当時「英訳万葉集」のごとき訳があつて、博士の万葉観を聴くことが出来たならばと、今にして遺憾に思ふことである。
 博士の書かれた短冊は独逸語であるので、吹田順助博士に訳を請うたに、
    うつろひやすきものを求むる者は
    共に亡びゆかむ
         ジーラッハ 三一、五
 とのこと。(ジーラッハは、ユダヤの学者イエーズス・ジイラッハのことで、旧約聖書の中なる、ジーラッハ書の三十一章の五にある句。)

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  学士院の人々

 上野なる学士院の会員の控室には、前院長として福沢、西、細川、加藤、菊池、穂積、岡野、桜井氏の写真の額が掲げられてある。福沢先生は、幼くからその著書を読んでゐて、憧憬の情を持ちつつも面晤の機会に恵まれなかつた。細川翁は、明治時代に駿河台の邸を訪うて、上代史について聴いたことがあつた。菊池博士は、大正六年、自分の「日本歌学史」及び「和歌史の研究」に学士院の恩賜賞を授与せられたをり、午餐の食卓で当時の院長なる博士の隣にかけたに、岡山県の歌人歌学者に就いて問はれるままに答へたりした。西先生、加藤先生、桜井博士は次に述べる。穂積博士は上に述べた。全く知らぬのは岡野博士のみである。
 いま「学士院一覧」によつて、その就任の順に掲げる。(但、前述の「古典科の師友」の條に小中村・木村・本居・岡松・坪井・萩野・関根・市村・和田、「東大の人々」の條に、上田・芳賀・三上、「法文科の教員控室にて」に、穂積、「芸術界の人々」の條に幸田、後の方に三浦(守治)・丘・徳富の会員がある。)

    西周

 西周(にしあまね)先生の肖像が郵便切手となつて、広く人々の眼に触れるやうになつた。(昭和二十七年)。自分は少年時代に、多年先生の謦咳に接することを得たから、ここに思ひ出の一文をしるさうと思ふ。
 先生は、和蘭の書を池田玄仲に、英語を中浜万次郎に学び、文久元年、蛮書調所の教授方(かた)となられた。翌年、榎本武揚、津田真道等とオランダに留学を命ぜられ、滞在二年、政治法律の学を究められた。帰朝後は幕府に召されて、国事に関し諮問せられるところが多かつた。かのナポレオン三世が駐日公使をして将軍家茂を説かしめ、漁夫の利を占めようとした時、幕府の重臣中にもこの檻穽に落ちようとした者さへあつたが、栗本鋤雲が先生と同意見であつた為、奔走して、遂にその謀略を成らしめなかつた。先生は、累卵の祖国を救つた蔭の一人ともいふべきであらう。
 維新後は沼津兵学校の教頭となられたが、明治三年、新政府に仕官して兵部省に入り、わが国の軍制制定の上に、大いなる功績を立てられた。また一方に、西洋哲学研究の先駆者であり、夙く百科辞書の編纂を行はれ、国語のアクセントに就いても述べられた著書があり、明治十二年の自筆稿本「ことばのいしずゑ」を見ると、全部が平仮名がきの上、語と語との間を空け、時に符号を附したりして日本語を改善せんとする努力のあとが歴々とあらはれてをる。先生の国語研究の熱意は、明治初期の国語学史の上に特記せらるべきものである。また、「西周哲学著作集」の序に井上哲次郎博士のしるされたやうに、新体詩の萌芽ともいふべき訳詩をものこしてをられる。
 以下、自分が、若い日に接した先生を語りたいと思ふ。
 明治十五年の春、父に伴はれて上京して数日後、京橋三十間堀なる西家を訪うた。といふのは、先生の夫人升子(ますこ)刀自は、兄君相沢朮(うけら)氏と共に父の歌の門人であり、詠草は絶えず東京と伊勢の間を往来してをつたからである。その日、途中で、父が幼少の自分に言ひ聞かせた言葉は、今に忘れがたいものであつた。すなはち、「今日おたづねする西先生は、福沢諭吉、中村敬宇(けいう)先生と並んで今の時代のすぐれた学者であられるから」といふ意味であつた。三十間堀の邸は、河岸の通に面した奥深い建て方の家で、左に庭がつづいてをり、その庭に沿ふ廊下を案内されて、通された部屋には、一杯に絨毯が敷かれてあつた。それが、少年の目に、いかにもうるはしく映じたことを記憶してをる。夫人は、先生のあつめられた奈良の仏像の写真の多くを示された。見てをるところに、先生が出て来られた。光のするどい目に、和らかみを湛へながら、いろいろ話して下さつて、庭を見て即詠をよめといはれたので、恐る恐る出したに、「日曜などに来たら、ひまな時は話をしてあげよう」とやさしく言はれたので、以後八九年の間に数回教を乞うたことが自分のノートに記されてをる。
 ある時、「いつか仏像の写真を見せたであらう。ああいふ立派な仏像が日本の大昔にある。あの中には帰化人などの彫刻した作もあらうが、それが皆、日本のものとなり切つてをる。そこが日本の尊さである」と語られた。
 自分が大学の古典科に入学できたことをお話にいつた時、「古典科のことは加藤(弘之)君からかつて聞いた。加藤君は明六社の仲間で、あの時分ははげしい著述も出されたが、古典科の必要を認められたのは喜ばしい」といはれて、「学問をしようとするには、深くせねばならぬ、精しくせねばならぬ」と懇ろな訓誡を与へられた。先生の論文の「学問ハ淵源ヲ深クスルニ在ルノ論」の趣旨をわかりやすくいつて下さつたのであつたと思ふ。
 先生は早くから海水浴を好まれ、横浜の西郊なる、日本最初の海水浴場といふに行かれた。その後、大磯の海水浴場が開かれてからは、毎年行かれた。(晩年は大磯駅裏の高台に別墅を営まれ、そこで世を去られたのである。)明治二十年の夏、百足屋旅館にをられたにおたづねしたに、「海へ行くから」といはれるに従つていつた。波の荒い日であつたので、自分は引渡してある縄につかまつたり、漁師の手にすがつたりした。その帰るさの道で、「今日は、ことに波が高かつたから驚いただらう。しかし、人世には思ひかけぬに襲つて来る浪がある。それに屈して溺れてはならない」と訓された。
 又こんな話をされたこともある。「若いからわからないであらうが、世の中には苦しいことや、いやなことが起つてくる。さういふ時はすべて忘れるやうに努めるがよい。ただし、生涯忘れてはならぬことがある。それは、日本に生れたこと、自分は日本人であるといふことだ。また君などは、おやぢさんの子だといふことも忘れてはいけない。」
 自分のもとには先生からいただいた写真がある。日本人の典型ともいひたいほど、威厳のある立派な顔だちであられた。先生は明治十二年に学士院の院長となられたので、今も上野の学士院の会員控室には、前院長として壁間に、福沢先生の写真の額の次に先生のが掲げられてある。毎月それを仰ぎ見ては、先生の風貌を偲んでをることである。
 古典科を卒業した折には、書簡を贈られた。先生は国語の方面から万葉をも読まれて、零冊ながら「万葉集字訓」の著もあり、和歌をも詠まれたが、短冊に書かれたことは極めて稀である。その短冊を一葉珍蔵してをる。
   賎が荷ふ蕢(あじか)の土のためしにもやむはしらずやおのがこゝろと   天根
 さすがに学者らしい歌で、「蕢の土の」は論語の句によつて詠まれたのである。時としては、周(あまね)を天根とかかれた。
 先生とオランダに同行されたT氏の外国から持ち帰られた断片の類が、後年坊間に出たのをもとめておいた。その中に、一八六四年七月十二日附で、ライデン区から西氏に出した転居届証明書一通がある。維新前は「周助」といはれたのでSiusueke Nisiとローマ字で書かれてある。
 森鴎外博士の家は、西家の親戚であつたから、森さんが若くて津和野から上京された年に、本郷壱岐坂なる独逸語を教へる学校に通ふ為、当時小川町にあつた西家に書生となられたことは、「ヰタ・セクスアリス」に、「東家」として出てをる。その初めての日の夜、西先生は森さんに「勉強は十分するが良いが、夜は十一時を過ぎではいかぬ」といはれ、傍なる升子夫人が「十一時の時計が鳴つたら、きつとランプをお消しなさい」と言葉を添へられた。その後の数夜は、十一時少し過ぎると手燭をともした夫人が、静かに部屋の外まで来られて、消灯をたしかめた上、また静かに帰つて行かれたといふ。先生もえらかつたが、刀自もさうした賢夫人だつたと、森さんから聞いたことである。このやうな少年時代の縁故から、後に西家の依頼で「西周伝」を森さんが執筆されることとなつた。森さんは慎重を期して、まづ少部数を印刷して西家の知人に配られ、補訂を請はれて後、更に精撰したものを公刊された。それゆゑ、装幀もかはつてをる二部の「西周伝」を、先生及び森さんの記念として架蔵してをる。 (昭和二十七年四月、文芸春秋創刊三十年記念号の為にしるす。)
  追記 大久保利謙氏によつて西周全集三巻が編纂され、その第一巻(七百十余頁)が出た。(昭和三十五年三月)

    加藤弘之

 加藤弘之(ひろゆき)先生は、明治初年には明六(めいろく)社の一人として、急激な思想を懐(いだ)き、「国体新論」を著されもしたが、その書は数年後にみづから絶版にされたといふ。さういふ思想の変化から、東京大学の総理となられて後、国漢学者の後継者養成のため、古典科の創設をも思ひ立たれたのであるといふ。
 自分ら古典科の卒業生は、創設の恩人なる先生を中心に、諸先生の来臨を請うて、隔年に謝恩会を催したが、いつも臨席を忝うした。先生はひきしまつた雄々しさの中に、やさしさのこもつた風貌のお方であつたが、先生の前にいつて自分の姓名を名のると、「歌学の上でどういふ研究を今してをられるか、研究の進みは」といつも問はれたことであつた。

    杉亨二

 杉亨二(かうじ)博士の女で後に高山樗牛の夫人となつた里子嬢が、竹柏会に入門して数月後、晩餐に小石川指ケ谷町の邸に招かれた。食事の前後に、統計学の話から、計数の上よりみた和歌の運命といふやうなことを語られたが、最も印象に残つてをるのは、その追懐談であつた。文政十一年に長崎に生れ、大塩の乱のあつたことを伝へ聞いたのは十歳(とを)の時、高島秋帆とは江戸で交はつた。秋帆が種々苦心して種痘を蘭人から得たこと。廿六歳の時ペルリの米艦が来たのであつたなど、自分らは古い歴史と思つてゐることを細かに話されるので、おもはず老博士の面わを見まもつてゐたことであつた。
 大正十三年七月の「心の花」{第十八巻第七号}には、「日本文明の曙光」と題する開国史の資料としての談話十頁が掲げてある。

    福羽美静

 古い話からかきはじめる。安改五年六月、当時三十一歳の吾が父は、琵琶湖畔の大津から八幡(はちまん)にゆく、いはゆる矢走舟(やばせぶね)に乗つた。傍にをる年齢二十四五の乗合の人に話しかけると、その人は、「八幡に本を見かたがた師匠の代理に講義にゆくのである」といふ。父は、「それは奇遇である。自分も同じく講義にゆく。自分は、足代弘訓(あじろひろのり)翁の門人佐々木弘綱であるが」といふと、彼方も、「それはゆくりなくも同船したことである。自分は野之口隆正先生の門下福羽美静(ふくはよししづ)である」と名のり合つた。講筵が終つた後、近く江戸に出ようとされる福羽氏の志を聞いた父は、その年の春を江戸に迎へたこととて、江戸の学者に紹介状を書いたりした。爾来親しく交はつてをつた。
 明治維新後、翁は新しい政府に仕へて高い地位にをられたので、石薬師なる父のもとに、上京してはと二三回うながされたといふ。父はその好意を喜びつつも、「わかの浦にわれだに一人のこらずば朽ちはてなまし玉拾ふ舟」の歌でおことわりをしたといふ。
 それで、明治十五年に上京して間もなく、麹町小学校の横側なる翁の邸を、父に伴はれて訪うた。通された座敷の前庭に、牡丹の花のうつくしく咲いてをつたことが目に残つてをる。
 次の間に待つてをつた自分の前に「百人一首一夕話」を携へ来られて、「お父さんといろいろ昔の話をするから、これを読んで待つてゐなさい、また、あの牡丹を歌によんでゐなさい」といはれて引きこまれた。やゝ暫くあつて座敷によばれ、「あの本は読んだことがあるか、それならばこれは何の画か」と二三を問はれ、鉛筆がきの牡丹の歌数首を見て下さつた。それより十数日後、花見もすみ、諸家の訪問も終つた頃、ある夕方、翁のもとからの使で父は赴いた。帰つて来た時の父はいつものやうでなく、だまつてをつたが、翌朝早く自分をおこして、「昨夜福羽翁のもとによばれて、翁から、信綱の教育は伊勢へ帰つては出来まい。東京に移転してはどうかといふ勧めをうけた。夜おそくまで考へたが、松阪の鈴屋の歌会にはよい人も出来たから、翁のいはれるやうに東京へ引き越さうとお母さんにむけて、信綱の教育の為に東京に移ることにした。書物をまとめ昌綱を伴うて上京せよとの書状をかいた」と示された。自分はただただ有りがたく、爾来父についでの恩人と翁をあがめるやうになつた。
 翁は、まことに情誼にあつく、父の病中も度々訪はれ、葬儀の日に谷中で読まれた誄辞の終なる、「……淵源ありて人の師となり、世に仰がるる事、これ人の名誉にて、友垣なるおのれらも誉ある事と思へり、猶おのれは、あまた年官に仕へたり。佐々木の君は官に仕ふるにあらずして世に誉を得たり。官にありて誉を得るは、人あるひは易しといはむ。官にのぼらずして名誉を高くするは、難き所なるべし。其の難きを経て、徳ますます高し。また君とおのれと、身のおきどころかはりながら、学の道につきて、いと睦まじかりき。官途の友垣ならずして、かかる高徳の友垣ある、おのれ之を栄とす。」の一節は、真に知己の言として、亡父の霊も天がけり喜んだことと思ふ。
 後に、角筈(つのはず)の銀世界といふ梅屋敷の附近に邸を移された。折々訪問して、維新前後の国学に就いてお聞きした。細長い地面で、入口に、かの福羽いちごを出された子息の宅があり、庭があつて、その奥に、先生の住居があつた。柴折戸のもとなる木の札に、「わが宿はここより奥は家狭し長尻の人心せよかし」といふやうな歌が書いてあつた。応接室には、暁斎の画譜が置いてあり、その帙に、此のおもしろい画を見て待つやうにとの意味の歌が書いてあつた。翁は隆正の学風を伝へて、世界の大勢と国学とを結びつけていつも語られた。その言葉には、今も胸に遺つてをるものが少くない。

    外山正一

 外山正一(まさかず)先生は、自分の古典科時代の東大文学部長であつたので、時々お話を聞くことを得た。卒業後、「日本文学全書」刊行完成の賀宴に、上野山下の松源楼に招かれていつたに、先生が正面に坐つてをられた。宴終つて後、落合直文君と共に先生の前にいつて、新体詩談を種々うかがつたことであつた。また神田の青年会館で、「日本の文明の黎明」といふ題目での二時間余の独演説を聴いた。「種が嶋は日本文明黎明の種が嶋である」といふやうな句があつたやうに記憶する。音吐朗々といふべき名演説であつた。(後に、高山樗牛君に話したに、君も聴衆の一人で感激して聴いたというてをられた。)
 自分の親友中野逍遥は、東大漢文科第一回の卒業生であるが、その葬儀の時、先生は棺前で手向の新体詩を読まれたが、その時は、きはめて低い声で、すぐ側にをつた自分にも聞きとれなかつた。後にお逢ひした時、そのことを云うたに、「あれは死者に手向ける詩である。合葬者に聞かせるためではない」と答へられたので、面ほてるやうに思うた。先生は、わが国の学政のためになほ多く尽くされるのであつたらうに、世をはやくせられたことは、我が国にとつて実に遺憾であつた。王堂チェンバレン先生は、外山先生の学長時代に大学に聘せられて講義をされたのであるが、よほど親しい交はりであつたとおぼしく、「マサカズさんが」と王堂先生のいはれたことを度々聞いた。
  附記 先生の愛された隆(たか)子嬢は、不幸病身であつたが、国文和歌に熱心で、竹柏会の同人となり、「口訳宇治拾遺物語」を著した。上田万年博士は、書物の序などは容易に書かれなかつたやうであるが、自分がこれこれであるといふと、「外山先生の令嬢のためならば」というて、すぐ序文を書いて送られたのが刊行された本に載つてをる。
 隆子嬢歿後、外山家から、故先生のシェクスピヤのシーザー独白の場を新体詩に訳された草稿と、フェノロサが先生夫妻を招待した時の手紙とを贈られたので、秘蔵してをる。

    井上哲次郎

 巽軒井上哲次郎博士と亡父とは、明治二十年頃大学の編修所で同僚であつた。それで、先生の海外留学の送別の宴が神田明神の開化楼で催された時、父は送別の長歌を贈り、自分も短歌をささげた。さういふ縁故で、亡父の十年祭の歌会を上野の梅川楼で催した際、追悼の辞を述べられた。然るに、五十年祭の記念講演会を東大の二十一番教室で開催する時、父を知つた先輩は殆ど世を去られたので先生に請うたところ、快諾され、「佐々木大人を追悼す」といふ講演をされた。
 先生の小石川の邸は、楼上が書斎で、一方の壁は書架であつた。大きなテーブルの上には、いつも種々の書物が置かれてあり、背後の壁には、外国の学舎から贈られた記念品などが額にしてかけてあつた。
 先生はたまたま和歌を詠まれ、その時は必ず示された。しかし短冊に書くことは好まれなかつたので、先生の短冊は、恐らくは数葉の外世にないであらうと思ふ。上述の五十年祭には、珍しく短冊に書いて手向けられた。「竹柏園はとこ春にして五十とせの秋をさきはふ言の葉の花」。「短冊凌寒帖」の中にかかげておいた。

    桜井錠二

 桜井博士が西片町に自分を訪問されて、「露国学士院の婦人書記アンナ・グルスキナさんが、一年間日本の古典を研究したいと、帝国学士院への紹介状を持つて来た。大学の貴下の講義や、他の国文の講義をも聞く便宜を与へてもらひたい」とのことであつた。
 八十歳にして渡英せられた博士の不在中、博士の外孫を我が家の末男の嫁にもらつたので、帰朝された博士、同じく帰朝された桑木・姉崎博士を中心に、清水澄、加藤正治博士等を招き、小宴を催した。席上、喜びの謡をうたはれ、かつて米国婦人と合訳の謡曲の一冊を贈られもした。

    北里柴三郎

 自分の末女と藤田秋治君との婚約が成り、藤田君が外遊前に近親の披露宴を催した時、北里博士が出席された。その祝辞に、「新夫人となるべき通子さんの母君、即ち佐々木雪子さんは、熊本出身の藤島氏の女である。自分が上京した当時、屡々藤島家を訪うて、幼い雪子さんを背負うたこともある。然るに、我が研究所員で、多年わが子の如く思うてをる藤田君に、雪子さんの末女が婚約されたといふことは、まことに因縁が深い」と、力強い声ではあるが、にこやかに話された。
 藤田君が帰朝して結婚の式を挙げた時にも出席されたが、喉頭を痛められて声が出なかつたので、宮島幹之助博士が祝辞を述べられ、北里博士は乾杯してくれられた。

    田中館愛橘

 学士院の毎月の会に田中館博士と親しく語りあふやうになつて、すでに満十八年の月日が流れた。
 博士は折々に歌稿を自分に示された。いつといふ時をも忘れるほど以前のこと、「山窓にタイプライターたたきをれば木つつきやをると人きくらむか」といふのを見て、おそらくはタイプを詠んだ歌の最初であつて、しかもすぐれた作であるというたのであつた。
 この五月十三日{昭和二十八年}に学士院の休憩室にをつたに、例のなごやかな面わににこやかな笑みをたたへつつ自分の側に来られて、鉛筆で紙片に、「ちはやぶる神代ながらの山と水春は花あり秋は月あり」といふ一首を書いて見せられ、以前に君から「歌集山と水と」をもらつたのでこんな歌をよんだといはれる。自分は下句を「花あり春は月あり秋は」とする方がよいといふと、うなづいてをられた。その時博士は、とねりこのステッキを手で撫でるやうにしてをられたので、自分もとねりこのを従弟の外国からの土産にもらつたのを、これこれでなくしてといふと、「ステッキはよく忘れるよ。中でも惜しかつたのは、瑞西の氷河を渉つた折の金具つきの杖を失つたこと、又をかしかつたのは、ある天文台で忘れて帰つたに、手紙で、杖をお忘れになるやうな元気は喜ばしい、あの杖は、記念にいただいておきますというておこせた……」など、話された。
 しかるに、わづかに数日の後、ラジオは博士の急逝を伝へた。
 さきに九十の賀を学士院の会員から受けられ、その日も一首の歌を謝辞の終にのべられたが、百歳の賀をもと思うてゐたに――学界の長老として常に尊敬してゐたに、まことに痛歎のきはみである。

    坪井正五郎

 坪井正五郎博士の若くして著はされた「看板考」は、博士の考古学の友人なる根岸武香翁が父の門人であつたので、翁から贈られて読んだ。後、翁を介して博士を訪ひ、記紀万葉の歌を研究する立場から、上代人の生活を問うたことがあつた。
 明治三十八年の竹柏会大会に講演をお頼みしたに、「野蛮未開人の歌ごころ」といふ題目で述べられた。長時間を、実に興味ふかく、未開各国の歌を、一々説明せられた。中にも亜弗利加のウガンダ地方の舟唄を、
 ウンソログンバ カンピテピテ クンヤンジャ
 ウンソログンバ ヲルイライタ クンヤンジャ
 ウンソログンパ カンピテピテ クンヤンジャ
 ウンソログンバ カンピテピテ クンヤンジャ
と節おもしろく朗読されたので、人々皆ほほ笑みつつ聴きほれてゐたことであつた。{心の花第十巻二号}
 後、大学の山上集会所で、博士の巧みな談話を幾たびか聞いた。坂井久良岐(くらき)君に、「から橋を渡れば坪井正五郎」といふ川柳がある。自分が西片町に住むやうになり、朝夕に博士の住まれた家の前わたりをしつつ、はやく露国で客死せられたことを歎かはしく思うた。

    未松謙澄

 未松謙澄(けんちよう)博士は、英国剣橋大学に在るをり、「源氏物語」を英訳され、帰朝後、演劇改良会を興したり、「日本文章論」・「国歌新論」を著したりなど、明治中期の文化方面に種々尽くされたことが尠くない。
 夫人の母堂なる伊藤梅子刀自が入門されて間もなく、夫妻でおとづれられた。その折の話に、「兄の房泰は地方で歌人といはれてをるが、自分は漢詩のみを作つてをつて、歌には縁がなかつた。今後自分らの作も見てほしい」とのことであつた。「心の花」を創刊した頃のこととて、時々寄稿を請ひことに服部躬治君と歌の語格の上での論争があつた。
 わが先人の十年祭に、父が鸚鵡を詠じた「言の葉をかへす鳥こそあはれなれわがうたふ歌聞き知らぬ世に」といふのを感じたというて、「皆人の心に今日や響くらむ逝きにし君がうたひにし歌」と書いて手向けられもした。
 芝公園の邸にも、城山の邸にも屡々招かれていつた。古書画を愛されたので、古筆手鑑を購はれた折などに赴いては、眼福を得た。(かの田中本神功皇后紀と同筆の神代紀の断簡は、もと池田家の手鑑の一葉であったのを装幀された、それを譲つてくれられたので秘蔵してをり、「古筆凌寒帖」に掲げた。)博士は、いつも葉巻をくゆらしつつ、時々高らかに笑はれる。よい体格であつたが、茫漠たる風貌は、明治時代の政治家の一つのタイプであらう。現代の人に見ることを得ぬ面影がなつかしく偲ばれる。
 自分の小川町時代には、よく訪問された。帝国ホテルから借りられるといふ馬車にいつも乗つてをられたが、小川町の家の前までは馬車が来にくかつたので、材木屋の角から下りて、時としてはシルクハットを手にしつつ、玄関から大きい声で、「佐佐木君、多賀良亭につきあひませんか」とうながされては、淡路町なる西洋料理店によく同行して語りあつたことであつた。

    佐藤三吉

 佐藤三吉博士には、弟の昌綱が若い時肋骨カリエスの手術を請うたことがあり、また三浦守治博士をとほして文通をもした。後、学士院の例会に、控室で時々語りかはした。或る日自分は、江戸時代の京都の名医吉益東洞の「くすしてふ名さへはづかし今はただ人に病のなき世ともがな」といふ歌を話したに、書きとめてをられた。翌月の例会に、「先月お聞きした東洞の歌には、深く感じた。今の我々の医学の極致は、人間に病なからしめるといふことである、よい歌を聞かせて下さつた」と、温容に笑をたたへつつ言はれた。

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    大槻文彦

 大槻文彦博士の言海のことは、夙くから聞き知つてをつた。それは、自分の古典科の同窓大久保初男君が博士の助手をしてをつたからである。
 明治の女流歌人の一人に、大野定子があつた。幕末時代に井上文雄の門に入つて、中世風に「さだむる子」といつたとのことであるが、下谷練塀町の家の歌会の発会で、博士が出席されてゐるのに、初めてお逢ひした。定子刀自の甥であるといふやうに聞いた。
 木村正辞先生の逝去せられた折、博士が弔問されたので、自分ら教を受けた数人が、霊柩の中に収める銅板の先生の略歴の文を綴つたのを博士に相談したに、二三字について意見を述べられた。そのあとで、「年来の旧友とて今日は来たが、近来は一切かういふ所に出ぬことにしてをる。時間が非常に惜しい。惜しむやうにしてゐる。それは言海の修正を一日も早く成し遂げたいためである」と、静かにいうてをられた。(今になつて自分も、博士のこの詞が胸にしみじみとしみ入るやうに感ぜられる。)

    高楠順次郎

 雪頂高楠博士には、「心の花」に屡々寄稿を請うた。就中、第十九巻の第一万葉号の「奈良朝文明の外来的要素」の中に、「波羅門の」の歌に就いて明解を施されたことは、万葉学上不朽の考説といふべきであり、また、仏教演劇ナアガアナンダムの完訳を、第廿巻に九号にわたつて執筆せられた。
 「梁塵秘抄」をはじめ、古書の上で仏教の疑義のある時には、自分はおとなうて問うたに、いつも精しく指示され、時としては門下の人々に問うて、懇切なる答をおくられた。また夏の休暇に調査に赴かれる高野山や東寺などより、よく便をおこされた。或る年、醍醐からの書状に、万葉学僧仙覚の日記を発見した。肖像の載つてをる巻物をも見出した、ともに借りうけて帰京するから、とのことであつた。伝記の知られることの乏しい仙覚の日記、画像、自分は夢かとばかり悦んで、博士の帰京を一日千秋の思ひで待つてをつた。帰つて来ていま大学の研究室にゐるから、との電話に飛ぶやうにいつて、日記を繰り、巻物をくりひろげたに、その仙覚は、万葉学の仙覚と同時代ではあるが、やや年が若くて、同名異人であるので、がつかりした。しかし、博士の厚意は長く忘れ難い。
 時々歌を詠んでは示されたが、いはれるままに忌憚なき批評をした。或る時、印度から帰られての歌を見たに、非常にすぐれてをつたので称讃した。ヒマラヤ山では、黄なる石南木の花が盛りであるに、白い孔雀が羽(はね)をひろげて飛んでをつたなど話された。其の後は、専門の学事にいそがはしいゆゑか、しばらく示されなかつたので、大学の御殿で逢つた時に促すと、「いや、雪山(せつせん)へ旅行しないと名歌は出来ぬから」と笑つて答へられる。「ヒマラヤまで行かれなくては出来ないのでは」と、自分も笑つたことであつた。
 博士の追悼会が武蔵野女学院で執行された時、挽歌数首を手向けた中に、雪山の歌のことをも詠みいれたことであつた。

    姉崎正治

 姉崎正治(まさはる)君の名をはじめて聞いたのは、君が大学の学生時代のこと、長原止水画伯が「めざまし草」の裏表紙に描いた君の姿は、瀟洒な秀才型の君を伝へてをる。
 竹柏会の同人杉さと子さんが、君の親友高山樗牛君に嫁いだので、君を知るやうになり、井上哲次郎先生が折々の作を自分に示されてから、君もたまたま作られた歌をみせられた。
 明治四十三年の四月、竹柏会大会に君の講演を請うた。「時代の告白としての叙事詩」といふ題でホメーロ、マハーバーラタ、ニーベルンゲンの歌、円卓の話などから説きおこされ、平家物語について詳しく述べ、法然上人の勅修御伝がこの物語の裏書をしてをると結ばれた、興味深い話であつた。
 白山御殿町なる君のもとに、君の友人数子と共に招かれて、楽しく語りあうた。その夜、有栖川宮家仁親王のお短冊を贈られた。君は京都の出で、数代前には、宮家に仕へられてゐたとやう聞いた。
 去年、熱海の南北荘に移り住まれて後、大和旅行の講演の際に病を得られたと聞いて案じてをつたに、全快せられて、上野にも列席され、熱誠な意見を陳べられるのを聴いて、喜んだことであつた。今年四月十一日、学士院の文科の会員が、御陪食の光栄に浴した日、別室で、各自が専門の学科に就いて言上した際、聖徳太子について述べられた。六月の末に凌寒荘を訪はれたをり、自分が尋ねるままに、法華義疏の海雲の説、唐本の御影(みえい)の年代、鳩摩羅什などに就いて語られ、また、竜華寺なる樗牛の胸像が戦時中供出させられたが、幸に原型の残つてをることがわかつたので、明年の五十年忌を記念し、再建されることになつた、と喜ばしさうに語つてをられた。いつまでも変らぬ樗牛との深い友情のやさしさに心をうたれたことであつたに、七月の末に世を去られた。畔柳芥舟君、笹川臨風君すでに亡く、君また逝かれた。はやく歿した樗牛と相会して、移りゆく現世のさまを、どう語りあつてをられることであらうか。 (昭和二十四年七月)
  附記 この文を書きつつある室の床脇には、君がそのかみ外遊の土産にとて贈られた、巴里拉典区なるパンテオンのシャバンヌの壁画を模して浮彫にした小さい銅板の置物がおいてある。その原画の色刷一葉をも併せ贈られたが、うす紫の外光、さては、月光のもとに立つてをる清き尼僧ジュネヴィーヴの姿は、気品清逸、君のおもかげを示してをるかに思はれる。
 また、短冊帖の中には、「やちまたをおのかさまさま行く人の皆いそきゆくおくつきの路 正治」といふ十数年前にかかれた短冊が挿んである。皆いそぎゆくおくつきの路――また一人、その路へ旅立つていつて還ることのない多年の友人が深く偲ばれる。

    大塚保治

 大塚楠緒子さんは、御茶の水時代から竹柏園の門に入り、女弟子中でのすぐれた一人であつた。それで保治博士が養子に来られてから、博士とも親しく交はり、西片町の家に三四人の晩餐に度々招かれた。
 保治博士は美学の第一人者であり、講義を聞いた人の話に、その講義は実に深遠で、真に大学教授の講義といふべきであつたとのことである。ある時君の家での話の折、海外から取り寄せられた洋書数部を示されて、「明後年の講義の材料に求めたのが着いた」と、いうてをられた。大学以外には、目白の女子大学に講義にゆかれただけであり、諸所の講演も殆ど断られたやうであるが、明治三十四年の竹柏会大会には、「日本服の美的価値」といふ題目で、長い講話をしてくれられたのが、心の花{第四巻六号}に載つてゐる。また、「イプセンの社会劇人形の家に就いて」{第九巻一号}は、心理上から見た人形の家の批評で、わが国におけるイプセン文献では初期のものに属するであらう。「公設展覧会所感」{第十六巻十一号}は、「油画の萎微不振」、「日本画の混乱」について、実に峻烈な批評である。(因に云ふ、公設展覧会は、博士が帰朝のをり牧野伯と同船し、当時の建言によつて設置されたものとやうに伝聞してをる。或は異説もあらうが。)また、「美の領域」{第二十二巻二号}といふ論文をも寄せられた。
 博士は後に、西片町から市ヶ谷に転居されたが、大学の講義の帰途に折々訪問された。門の戸を閉めずに玄関での立話であつたが、何くれの話があるので随分長い。それがいつもの例であるので、家の者が、台所口からまはつて静かに門の戸をしめておくやうになつた。

   狩野直喜

 「南都秘笈」に収むべき正倉院聖語蔵の蒙求古鈔本の解説を、上述した岡田正之博士に依嘱したが未完成のうちに世を去られた。それで京都に赴いた時、田中大堰町なる君山狩野博士の邸を訪うたに老学者にふさはしい、物静かな環境の地であつた。お頼みしたに快諾せられ、やがて執筆してくれられた。また著書や編纂書の題簽の揮毫を請うたに、いつも快く書いてくれられた厚情は忘じがたい。
  附記 「君山文」九巻一冊は昭和三十四年に、「君山詩艸」一冊は三十五年に、吉川幸次郎博士によつて公にせられた。

    木村栄

 学士院の恩賜賞を第一回に授与せられた木村栄(ひさし)博士の名は、夙くから聞いてをつた。
 昭和十一年五月、銚子市市歌の選定をしたに、市から招かれて、犬吠崎なる暁鶏館での午餐の際、醤油会社の重役篠木君も陪席された。君は木村博士の弟であるとのこと。博士は痩せてをられるに君は体格がよい。兄弟でも、学者と実業家の相違であらうなど語り合つたが、学士院で博士に会つた時、その事を話した。爾来、時々語りあふやうになつて、次のことを博士に問うた。
 平安末期に叡山に十年山ごもりをして、経文を研めてをつた老僧が、ある時山を下りて京都へ出たに、何となく四辺の様子がちがふ。行きずりの人に問ふと、平家は亡んで源氏の代になつてをつたといふ昔がたりがあります。そのやうに、博士は水沢時代にあまりに勉強してをられたので、明治三十七八年の事変を知られなかつたといふ逸話を聞きましたがといふと、「そんな事があるものですか、学問に専心してゐても、国民の一人です、水沢の町の提灯行列の夜には、自分が先頭に立つて提灯をささげ歩きました」などいはれた。近く水沢の研究所に行くから一緒に行きませんか、と誘はれた。同行したらば、新しい歌が生れるであらうにと思ひつつも、あやにく差支へて行かなかつた。その後学問上の苦心談を聞いて、金沢の出身らしい、雅びやかな心と同時に、不撓不屈の心の持主であられることを知り、尊敬の念を一層深めたことであつた。

    桑木厳翼

 桑木厳翼博士は夙くから知つてをつて、心の花第十一巻{明治四十年一号}にも「和歌と謡曲」といふ文をおくられもしたが、長女の素子さん(後の小金井博士夫人〕が竹柏会の同人となり、歌才にたけて、歌集「窓」を出版された縁故などから、特に親しくなり、牛込北町の邸にも折々おとなうた。洋書のぎつしりつまつてゐる書斎兼応接間であつた。洋書の前に、海外から持ち帰られた小さな玩具の類がおいてあつた。
 戦災にあはれ、茅が崎に移られた博士は、自分が熱海に移つて後、二度ほど訪問された。「英訳万葉集」につづいて、謡曲の英訳が学術振興会で行はれることになり、自分もその委員を嘱託されてゐたので、来られる折には、「あの謡曲の訳が完成するとよいが」と、話された。茅が崎に訪問した日は、生憎不在であつた。誠子夫人に請ぜられて室に通ると、書物の前に、牛込で見た玩具がおいてあつた。「よく無事で」というたところ、「少数の本と共に壕に入れておきましたので」とのことであつた。
 学士院の例会の帰途、こみ合つた列車ではあつたが、幸にも君と自分と向ひあつて掛けたので、学問のこと、旅行のこと、京都のこと、新村博士のこと、亡き素子さんのこと、外孫小金井純子さんの歌のことなど、茅が崎に近づく数分前まで語り続けたが、その日が君との永い別となつた。
 それより前に、学士院の控室で、「戦禍のためいろいろの物を焼き失つたさびしさに、歌を詠み試みた」というて示された。「心の花」にその幾首かを掲げたに、「死んだ素子に笑はれるであらう」と笑つてをられた。近く誠子未亡人が訪問された時、「これが最後の作となりましたが」といつて、博士が駅から家に帰られる途上の、松虫の歌を示された。なほ夫人が、亡き背の君を懐ふ歌の詠草を持つて来られた。見ると、腰かけて読書をしたいといはれ、狭いけれども書斎を建てられたに、そこでは、ただ二日間の読書を楽しまれたきりで、世を去られたといふ。また、運動にもなるからとて、手押ポンプの井戸水を自ら汲み上げられもした。その時、数をかぞへて、「五百で丁度よい」といつてをられたといふ意味の歌があつた。書斎のことは悼ましさに堪へず、ポンプのことは博士らしいと思うたことであつた。
  追記 君の語られた謡曲の英訳は、委員市河三喜博士によつて、近く第三巻が出た。

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    鈴木梅太郎

 鈴木梅太郎博士には、自分の末女の夫が研究所で指導をうけたので、その書斎には博士の大きな写真の額がかけてある。それで学士院で、月々面会するをり、語りあつたこともある。末男の嫁の父なる鈴木庸生博士は、理研の研究室で同僚であつたに、不幸永眠された。その追悼会で、梅太郎博士が故人の学問をたたへられた懇篤な弔辞を聞いて、深く感激した。
 博士なき後、遠州御前崎の灯台にいつた。その途中、鎌倉時代の勝田(かつまた)長清の墓といふのがあり、鈴木博士の生家もあると聞いてゐたので、共に立ち寄つた。長清の墓といふに詣でたのは、長清の編んだ「夫木和歌抄」から、幼い時より恩恵をうけてをる自分は、多年の望を果したのである。鈴木家を訪うたのは、博士を知つてをつたといふだけではない。さきに猪苗代村なる野口英世博士の生家を訪うての感銘が深かつたからであつて、日本人として、また日本人のために、世界的研究をされた人々を尊敬してである。門を入れば柿の古木があり、博士が折々帰つてやどられたといふ室に通された。
 さて、御前崎の町に行き、郵便局長なる下村氏の家に立寄つたところ、才がありながら早く世を去つた長男の遺著「遠江新風土記」を示された。繙いてゆくと、鈴木博士の語られた言葉の中に、胸にしむ一挿話があつた。博士が若くてスイッツルに留学した時、母君から来た絵葉書に、「シュワイツの冬をしのげよ梅の花やがて花咲く春を思ひて」と、博士の名に因んで梅によそへた激励の歌が書いてあつた、とある。自分は、母君の心に深く感じたことであつた。しかして、「伊達政宗が朝鮮の役に在つた時、母最上氏からの消息が来た。それを開くと、中から梅の花いく片がこぼれ落ちて、消息には、『秋風のたつから船に帆をあげて君帰りこむ日の本の空』といふ歌がかいてあつたといふ昔がたりがある、それと趣はちがふが」というて、下村氏や同行の落合裏次氏に話したことであつた。その後、博士の未亡人須磨子刀自が、竹柏会の同人となられたので、博士が学問の研究に熱心であつた数々の話を聞いたことであつた。

    滝精一

 日本学術振興会の事業として、万葉集の英訳が企てられるや、はじめ八人の委員――文化史の側から、滝、姉崎正治、新村出、阿部次郎、国史学から、辻善之助、英文学から市河三喜、漢文学から鈴木虎雄、国文学から自分――後、六人の原案委員――東大の橋本進吉、京大の吉沢義則、前東北大の山田孝雄、国大の武村祐吉、歌人として斎藤茂吉氏、自分――と翻訳担当の二委員-小畑薫良、石井白村氏――が嘱託され、滝博士が委員長となられた。各々専門の委員の会合であるので、訓義の上で、翻訳の上で、その他種々の議論がやかましく、時としては激しく、時としては長い論争になることもあつた。そのやうな場合、委員長がいつもたくみに処理せられたので、うるはしく花さき実を結んだのであつた。(巻頭写真参照。)
 また、学士院の「宸翰英華」編纂の事業には、同じく滝博士が委員長になられ、自分も委員の一人として、宮内省、各宮家をはじめ、ここかしこを歴訪し、京都東山御文庫の調査にも同行したが、鋭意事業の進捗を計られた。然るに、完了を見るに及ばず永眠されたことは、まことに遺憾である。
  附記 大正六年の竹柏会大会には「法隆寺金堂の美術」の講演を請うた。また心の花に「松本晩翠翁」{第二十一巻八号}「源氏物語絵巻に就いて」{第十八巻八号}を寄せられた。

    俵国一

 熱海に移り住んで後、西山在任の俵国一(くにいち)博士と親しくなつた。それは、博士の義姉松子刀自が門人なので、大臣になられた兄君の孫一氏とも交はつてをつたからである。その専門の砂鉄製錬法の為、招かれて折々地方を巡られたが、さういふ時は別として、平素は西山の坂道を極めて気がるな恰好で、登りおりしてをられた。
 ある年の文化の日、西山の有志の人々が、文化動章拝受の君と自分とを招かれた。膳部につくとて「俵さん正席に」といふと、「君は第一回の拝受者であるから」と譲られる。自分は、「二人は同じ明治五年生れでも、俵君は二月生れ、僕は六月生れ、月上(うへ)であるから」といふと、「ヤア佐佐木君にやられた」と笑つて、正座につかれたことであつた。
 近年鎌倉の令息の邸内に移られたが、隔世の人となられたことは歎かはしい。

    新渡戸稲造

 明治四十二年の春の竹柏会大会の折、新渡戸(にとべ)博士に講演を乞うたに、「ファウスト物語について」といふ題で話された。「敷島の道に心得のない私が、斯ういふ会に出ますことは、忠臣蔵の芝居に弁慶でも出るやうに、あまりに釣合のわるいことで……」と面白く前置をして、話を進められた。しかし博士は、敷島の道を心得られないのではなく、学生の会合とか結婚式などには、屡々訓誡の古歌を引用された。話が自分のことに移るが、三村起一氏の結婚披露宴の時、いつも出掛けるまで仕事をしてゐて、当時は得やすかつた自動車でその日も築地の精養軒にいつたところ、「いや、こちらには、其の方の御披露はありません」とボーイがいふ。上野の精養軒に電話をかけて貰ふと、上野の方であつた。微苦笑しつつ再び自動車をやとひ上野へいつたに、すでに食卓が開かれて、しかも新夫人の歌の師といふので、媒酌の新渡戸博士の前に席があつた。席に着くと、やがて博士は祝辞を述べられた。その中に古歌の上句を引かれたが、話をきつて自分に向ひ、「この下句は何といひましたかね」と問はれた。幸ひ答はなし得たものの、重ね重ねの苦しさであつた。
 また、時好倶楽部で桂川へ鮎漁にいつた汽車中、博士と隣席したに、最近のある国際的感想について、「かういふ歌を詠んだから」と十数首を示されたが、いづれも感慨のこもつた作であつた。
 軽井沢にをつた或る夏の夕べ、霧の深い山荘に、博士を訪うたことがある。喜んで迎へくれられ、歌語りに時をすごし、さて帰らうとして玄関に出たところへ、夫人が帰つて来られた。博士は、自分を、歌の道に何十年をささげた人であるといふ風に夫人に紹介され、夫人の答を訳して聞かされた。それは、短い言葉であつたが、意味の深い言葉であつた。
  追記 ブラジルに移住されて三十年に近い岩間春野夫人が、昭和三十三年来訪された。夫人は新渡戸博士の姪であられるが、祖父君新渡戸常澄翁開拓百年祭が十和田市三本木で行はれ、銅像が建つので帰国されたとのことであつた。

    山崎直方

 山崎博士は温厚の君子といふべく、地理学者として旅行をよくされたので、帰られての旅がたりをかの山上集会所の午餐の時よく聞いた。中でも、同人の石井衣子さん夫妻のをられるアルゼンチンから帰られて、彼の地の話をされたのは、印象に残つてをる。さういふ交はりから、わが家に丘浅次郎博士の女がとついでくる時、博士夫妻に媒妁の労をわづらはしたことであつた。

    内藤虎次郎

 湖南内藤虎次郎博士の「燕山楚水」は、若い頃、屡々愛読して、自分の南清行の一因ともなつた書であつた。
 曽て「南都秘笈」の印行を企てたをり、博士は、聖武天皇宸翰の「雑集」及び「杜家立成」のために解説を書かれ、また、「百代草」にも序文を贈られた。大震災の直後、「校本万葉集」の原稿も、製本所にあつた五百部も全部焼失したに対して、同情ある書面を各方面から贈られて感謝したことであつたが、殊に自分に深い感銘を与へて、再び「校本万葉集」の印行を成さしめたのは、自分を家に訪はれての月台荘主人熊沢一衛君の激励と、博士の書簡とであつた。
 博士は、時に和歌をも詠ぜられた。深遠なる谿谷から清冽な水の湧き出づるごとく、詠歌の窮極は畢竟その人である。博士の作は、気魄に充ち、高邁なる精神を以て貫かれてをる。
 欧米に官遊せられたをりの和歌六首、いづれも、命を奉じて赴くといふ大きな気格によつて統一されてをつた。また、山城瓶原(みかのはら)に新居を占められた折の作十首がある。
 恭仁山荘には、一二回おとづれた。久迩の古京は、万葉集の長歌に、「河近み瀬の音(と)ぞ清き、山近み鳥が音(ね)とよむ」とうたはれたごとく、鹿背(かせ)山は緑にそびえ、木津川の流は清くさやかである。老木の茂つた故宮の跡をよぎり行けば、小高い丘の半腹に山荘がある。古京の景勝を、一眸のもとに望む清楚な居宅の傍らに、堅牢な書庫がある。博士に案内せられて書庫の楼上にのぼると、その一隅には貴重な漢籍の数々が収めてある。数冊を抽出してかつ示しかつ語られた。
 君が華甲の記念論文集の第二巻に、自分は「成尋阿闍梨母集」のことを書いた。自分の還暦の際の論文集には、君は書くべきよき題目が見当らぬからといつて、短冊に万葉書(がき)に書いて、歌二首を贈られた。
 博士の歌は、よく万葉の精神を体得せられたものであつた。従つて博士は、万葉集を愛せられた。大阪朝日新聞社によつて、天平文化記念会が開催された時、当時の副社長上野君は、博士を山荘に訪うて、記念のために不朽に伝ふべき事業として何が適当なるかを問はれたに、博士は、万葉集古鈔本の複刻をと答へられた。しかして、かの「元暦校本万葉集大成本」十五巻の刊行となつたのである。自分がその事に当つたのは、実に博士の答に基づくのであつた。

    清水澄

 昭和二十二年九月十二日、学士院の会議室で、毎月と同じやうに清水博士の隣の椅子に自分はこしかけてをつたに、会議の終つた後、博士は近くよまれた歌を示された。それは金婚式を祝はれた日、近親をつどへられた喜びの歌と、他に二三首あつた。いささか筆を加へると、いつものにこやかな面もちで、「有がたう」といつて、ポケットにしまはれた。
 二十六日の正午前、わが熱海の凌寒荘に訪問の客と話してをるとき、毎日一回配達される郵便物が数通来た。自分の習慣で、話をやめて手紙に目を通してゆく中に、清水博士のには、歌が四首かいてあり、終りに、いつものやうに、「乞叱、澄拝」とある。その第二首めの前に、「辞世」と題がかいてあるのでおどろいて目を見張つたが、これまでも、老年の人々には、前から辞世を詠み試みて見せにおこせられた例があるから、さうであらうと思ひつつ、第四首の「秋季皇霊祭の日」と題された一首がすぐれてをつたので、来客にもその一首だけを読んできかせなどした。
 しかるに、その日の午後四時過に、熱海の新聞記者があわただしくもたらした悲しいしらせを聞き実に驚き、深く歎いたことであつた。送られた手紙の封筒を見ると、二十六日の熱海局の消印がある。おもふに二十五日に熱海に来られて、ポストにいれられたのであらう。
 二十七日に訪ひ来た新聞記者から、博士の遺書の写しといふのを見せてもらつた。国を憂へ、法を重んずる老臣の切々たる至情に、つよく胸を打たれたことであつた。
  追記 昭和三十五年十月、君の慰霊祭が学士会館で執行された

    西田幾多郎

 先輩知友から贈られた書簡のたぐひの収めてある箱をあけて見たところ、中に、西田博士の書簡があつた。大正十一年に、自分の歌集「常盤木」を、京都の朝永正三博士を通して贈つたに対しての書状で、「歌集など拝読いたすこと、此上なく楽みと致しゐ候」とある。後、学士院の例会に自分が出るやうになつて、語りあふ機会に恵まれた。君また作歌に志されて、「新万葉集」にもその作が廿七首掲げられてゐる。君にしてその深奥なる思想を猶多く詠み出でられたならば、大西祝博士と双璧といひつべき、哲学者の歌人となられたであらうにと、わが歌の道の上からも、君の逝去が惜しみ悼まれる。
  追記 西田博士歿後、七里が浜の中ごろの砂丘に、歌碑が建つて「七里が浜夕日漂ふ波の上に伊豆の山々果し知らずも」といふ歌が彫られてをる。

    藤井乙男

 紫影藤井乙男(おとを)博士は、気品のある俳人とおもはれる感じで、物やはらかな話ぶりであつた。京都へいつた折に、二三回訪うた。それは、君が上田秋成の事蹟にくはしく、自分も秋成の歌文を喜び、その著書を探索してゐたからである。大正八年三月に訪うた時は、秋成の万葉に関する著で、金砂、楢の杣以外に、三條中納言公則卿のために万葉集を講じた筆記の写し二十巻があることを聞いた。その折、足代弘訓の文政十二年の書牘に、万葉類語のことがしるされてあるからとて贈られた。
 石田元季氏の「俳文学考説」に学士院賞の授けられる前、上京された君に上野で逢ひ、会がをへてから、万葉と俳諧といふことなどについて語りかはした。

    長与又郎

 今は昔ともいひつべき頃の話である。三浦守治博士が来られて、「今日はまことに喜ばしい。今年卒業の長与又郎君は名家の出であるが、成績秀抜で将来性がある。自分の病理学の後継者山極君の跡を継ぐやうに、病理学者として一層勉強されよと説いたところ、承諾とのことで喜ばしい」と、話された。
 爾来何十年かたつて、山中湖畔に蘇峰徳富翁の別堂を訪うた折、隣家に住まれてゐた長与博士が来られ、共に昔がたりをしたのが縁となつて、移岳集の増補版ともいふべき「三浦守治先生歌集」が、病理学教室設立五十年記念に出版され、自分もその式典に列した。そのやうな関係から、自分の還暦の祝賀会には祝辞を述べられもし、またチェンバレン先生の記念講演会の前に、大学の総長室にいつて、君に講演を依嘱もした。
 君の後を継がれた緒方知三郎博士が来訪され、「病理学教室の講堂の裏の入口は、教職員や学生の出入するところであるが、独逸の某大学にならつて、そこの壁に、解剖用の大理石の盤を嵌入したいから、それに撰文を」と嘱された。しかして、「上部に、三浦博士の歌、山極博士の俳句、長与博士の書の額をも彫りたい」との言葉である。偶然にも病理学の初代三代の部長との縁をおもひ、撰文のことに当つたのであつた。

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  学海の人々(この項五十音順による。)

    大西祝

 操山(さうざん)大西祝(はじめ)博士は、明治中期の歌人の一人としても、また歌学者としてもすぐれた人である。
 大西博士は和歌の価値をよく認め、和歌の意義をよく了解された点に於いて、明治の学者中第一のしかも唯一の人であつた。君が明治二十年四月、「六合(りくがふ)雑誌」に、「和歌に宗教なし」の一篇を公にせられて以来、「詩歌論一班」、「詩歌論」、「歌話数則」、「香川景樹翁の歌論」、「国詩の形式に就いて」「近時の和歌論」等の論文で和歌を論ぜられたのは、いづれも精到深邃の見解であつて、明治文学史上の一異彩とされる。自分は、その時ごとに読んで啓発された所が少くなかつた。君が和歌に対してかく、理解と同情とを有せられたのは、桂園派の池袋清風氏に歌を問ひ、夙くより斯の道に入られたゆゑであつた。しかして、その素地を開拓するに、泰西の学問の造詣を以てせられたのである。当時同志社の間に起つた桂園派の新運動は、明治和歌史中期の一現象として記憶せらるべきのものではあるが、実(み)は結ばなかつた。ただ君の諸論文は、此の運動から得られた最も貴き産物である。
 君は単に歌を理解し、之を論ぜられたばかりでなく、また自ら歌を詠じて、一家の歌人たる境に達せられた。その学問的修養の間になし得られた一種の思想的の深みや新しみが加はつた点に於いて、当時の歌人に見られないものが君の歌には存した。君が世を去られて以来、和歌界にはさまざまの新しい運動が生じ、歌壇の面目は一新した。今日に於いて、君がをられたならば、その厳正なる歌論は、如何なる批評を今日の歌に加へられるであらうか。また君自らの歌風はいかなる発展を示したであらうか。これを見ることの出来ないのは、吾人の殊に遺憾とするところである。
 自分が君と語つた想ひ出は、同人の安藤直方君に頼まれて、早稲田の少数の学生の文学会に出た時君は哲学を、自分は歌学を述べた後、かなりな時間を親しく語りあつた時が初めであつたと思ふが、その折の感銘は深いものがあつた。
 「心の花」第十八巻一号には、大塚保治博士の「大西祝博士を懐ふ」といふ長文が掲げてある。「明敏な頭脳と、豊麗な感情と、堅実な意志と、三拍手揃つて発達した人であつた。宗教家で同時に学者、道徳家で同時に詩人であつた。しかもその諸方面を通じて、性格の根底となるものは、高い、清い、深い、精神的理想的情操であつた」と述べ、「君の哲学の傾向は進化発達を主とし、存在(ザイン)よりも生成(ヱルデン)を重んじ、所謂実相諭に対して縁起論に傾いてゐた」と、哲学者としての君に就いて語つてをられる。かつ一八九八年から九年にかけて、フィレンゼ、イエナ、ヷイマル、ライプチヒから送られた十九通の書簡を、一号と二号に分載し、二号には肖像及び筆蹟をも掲げてある。
 自分は、昭和十二年五月、岡山医科大学に招かれて和歌を講じた時、学長田中文男博士の案内で、君が号とせられた操(みさを)山を近く東に望み見、君の記念碑のもとに立つて、君を偲んだことであつた。
  附記 碑は、君の旧宅の跡なる山陽女学校の校庭に建つてをつたが、先年の戦火で学校と共に形を失つたとのこと、まことに遺憾である。

    大槻如電

 如電翁は、はじめ修次郎、修次、分(くまり)、後に修二といはれた。弘化二年中秋後二日、江戸木挽町に生れ、昭和六年一月、八十七歳で日暮里に歿せられた。
 翁は、江戸児風の学者であつて、弟君の文彦博士とは性格が異つてをられた。しかし、博学の点は博士の兄君たるに恥ぢなかつた。はじめ浅草新堀端に住まれ、後、日暮里に移られた。多くの善本を蔵してをられた。自分の茂睡研究のをりに、種彦旧蔵の「紫の一本」を看るを得たのは、翁の書架に於いてであつた。梁塵秘抄について研究してゐた折には、天文本の梁塵秘抄に浅草文庫の印記あるものを贈られて、今に架蔵してゐる。
 西片町にも度々来訪せられた。自分は短冊蒐輯の趣味から、名家短冊帖を印行したをり、翁に珍しい短冊を問うてをつたに、京都への旅中から、杉田玄白が信友に贈つた短冊を発見したとて、わざわざ、葉書を寄せられたのであつた。

    大矢透

 大矢透(とほる)博士は、上代の仮名の研究者として、実に熱心な、かつすぐれた学者であつた。自分がかつて万葉集の仮名に就いて、麻布飯倉の寓居を訪うたをり、万葉集の古写本を示された。しかして話されるには、これはかつて京都に旅したをり、細川書店で求めたものである。古写本のこととて、もとめたくは思つたが、旅中ではあり、思ひ断(た)つてもとめずに店頭を出たのであつたが、かかる古写本は二度手に入れることが出来るかどうかと思つて、数丁きてから、後(あと)戻りをしてもとめたものである、と言つてをられた。
 その本は、後に校本万葉集の事業のため、大学に借り、橋本君の研究に依つて、流布本巻七の錯簡の理由が発見された等、学問上貴いもので、大矢本万葉集と呼んでをる。
 後、博士は古経の研究のため居を奈良に移されたが、かの地の橋井善次郎氏のもとを訪はれた時、その所蔵にかかる嘉禎四年九月書写の和歌色葉集中巻の零本一軸を発見された。色葉集の写本中最も年代の古いものであるので、校本万葉集の諸本輯影に掲げたことである。

    鴻巣盛広

 五月三日(昭和四年)の朝、金沢にて下車すると、四高の鴻巣盛広教授、中島県立国書館長が迎へに出てをられた。公園のみよし庵に小憩して、午前に松岡三次翁の家を訪うた。それは、この三月に、松岡家から読売新聞社主催の名宝展覧会に春日万葉切を出品したいと、顧問であつた自分のもとに手紙が来た。喜んで、出品せられよといひ送つたに、やがて、数葉を携へて上京した使の人が、いま一葉、廿巻の巻末で年号のある所のは掛物にしてあるゆゑ持つて来なかつたといふ。巻末、ことに年号のある処ならば是非みたい。幸ひ五月には北陸の万葉旧蹟めぐりにゆくゆゑお伺ひする。それで勝手がましいが、近親や知友の方々の家の古典籍古筆の類をも同時に拝見する機会が与へられたいと依頼したのである。鴻巣君らも同行したいといはれるので、電話でどうぞとの返事を得て、一緒に行つた。室に入ると、閑雅な庭に面した座敷の床に巻廿の巻末五行、終に「寛元二年三月九日書写之 祐定」とある幅が掛かつてをる。喜び見めでつつ話してをると午餐が出た。一皿の慈姑(くわゐ)の根を小さくしたやうなのを指ざして主人が、これはといはれるから、かつて味はひました、「寺井の上のかたかごの花」の根でせうというたに、うなづかれた。おつぼに若布の酢の物のやうなのが入つてをる。これはといはれるので知らないといふと、雄神川の葦つきです。昨日人をやつて取らせたのですといはれた。主人の厚い志を深く感謝した。食後に、かねての御依頼で家にあるもの、また本家の主人が法事で東京から来てゐます。今日は先約で来ませんが、許しを得て蔵から秘蔵の数種を出して来ました、といはれる。いづれも貴い数点を見た後、古い箱に入つた綴葉本をとうでて見ると、題簽に金槐和歌集とあるは本文とは別筆で、本文の初め数葉は定家が書き、あとを、女の人に写させたものである。夢ではないかとしづかにひらいて巻末を見ると、「建暦三年十二月十八日」と定家の筆でかいてある。建暦三年は実朝廿二歳の冬である。従前は、金槐集の金は金玉集、金葉集の類のたたへ詞に鎌倉の金偏をよそへ、槐は大臣の義、実朝世を去つた後に侍臣があつめたものと思うてゐたに、廿二歳の冬に、おそらくは後鳥羽上皇に上(たてまつ)つたものを、定家が家にのこすと、初め数葉を自らかき、あとを家人に写さしめたものとおもはれる。さすれば将来廿八歳の正月まで五年と一と月の歌稿が出ぬとはいへぬ。実に尊いものであると感嘆時を久しうした。主人にきくと、本家の主人は五日前に来られ五日後に帰京されるとのこと、いま一週間早くてもおそくても、この眼福は得られなかつた。また、近親などのをも頼んでほしいと我ままをいはなかつたらばと感激しつつ、どうか主人が帰京の際持ち帰られて、東京でゆるゆる拝見したいと懇請した。
   うまし書みる幸得たりみ越路の万葉の旅の第一日に
   いく百年うづもれゐつるうづ宝これの歌巻を初(うひ)にわが見つ
 北陸めぐりの第一日にこの大いなる喜を胸にしつつ、県立図書館に赴き、高橋富兄翁や藤岡東圃博士の旧蔵書{かの異本山家集もあつた。}を見、公園を歩いて、九歳の初夏に父と共に訪うて記憶に残つてゐる根あがり松を眺め、宝円寺の宗達の墓に詣で、夜はみよし庵の池亭の歓迎歌会に出た。
 さて、鴻巣君の家に一夜の客となつた。君は、「万葉集全釈」の著者とて多年の知己ゆゑ、夫人も同席して、全釈の終り際に、頭が重いといふので、指圧療法を学んで云々といふ話を聞き、涙がこぼれた。(翌日から六日まで、君の案内で、能登の万葉めぐりをしたがここには省略する。)
 なほ、子息隼雄君も同じく国文を研究してをられるのは喜ばしい。

    佐々醍雪

 佐々(さつさ)君にはじめて逢つた時、君が、帝国文学の附録に出された歌謡の変遷に関する論文について、自分も古歌謡に就いて研究してゐるので、長時間話をした記憶がある。
 文芸雑誌での和歌の懸賞募集は、春陽堂の「新小説」(第一期)が嚆矢であるかとおもふが、佐々君が主宰された金港堂の「文芸界」では、かなり規模の大きな懸賞をして、数人の選者に委嘱したことがあつた。そのため度々君の訪問をうけた。
 ある時、君が雑誌に書かれた文中に、引用された歌論の出所について問うた。その小唄は、
    空たつ鳥か日本へ行かば 言伝しよも文副へて
といふのであるが、古歌謡集にある吉左右踊の唄と知らせてくれられた。それを見ると、「文禄年中豊臣家朝鮮征伐の時、金森法印父子、肥前唐津に在陣せり。然るに朝鮮に在る処の日本の諸将、速かに勝軍の事、唐津より告げ来れり。仍て下民是を祝して、高山城下に群参し、踊歌せしを濫觴とす。俗に吉左右の告げ来るといふを以て名とするもの也」とある。
 君とは、無名会でよく話した。無名会の会員の中では、佐々君、保科孝一君、杉敏介君と、自分とが同甲であるが、君の早く世を去られたのは、まことにいたましい。

    品田太吉

 自分の小川町時代の早い頃、英語を学びたいと思うてゐた折から、誰かが来て、此さきの美土代町の裏通りに、品田氏の英語教授の看板を見たので習ひにいつてをるが、とのこと。自分もいつたに、温和な性格の先生であつた。二三回いつた後に、友人から、東京法学院の夜学で英語の選科があると聞いて、そこに入学した。
 何年かの後、品田氏が来訪された。「太吉が本名、雅号は守信で、万葉研究を独りでしてをる。ここへ原稿を持つて来た」と示されるのを見ると、考証的のよい論文であるから、明治四十年九月以来大正十一年一月までに数種の論文が「心の花」に掲げてある。中にも「万葉集両巻考」のごときは、自分も考へてをつたことに近いので、喜ばしかつた。
 その品田君が、はやい時分に、「こんな掛物を古本屋で見つけて買つて来た、万葉のことがあるから」とのこと。見ると、戸田茂睡が、まだ若い寛文五年に、歌についての意見を述べたもの、梨本集より数十年前にかかる文書をかいたことと驚いて見守つてゐると、「江戸時代まで研究する時間がないから、譲つてもよい」との詞に、深く感謝した。自分はその前から調べてゐた数種の書物も見いで若くて住んでゐた下野の黒羽をも訪ひ、ここかしこの歌碑や寿碑等にもおり立つて、大正二年九月「戸田茂睡論」を刊行したことであつた。

    島地雷夢

 大磯に暑を避けてゐた時、同じ地にあつた高山樗牛君と逢つて、屡々文学談を交へた。そのをり、樗牛君に、将来最も嘱望すべき若い人の名をきいた時、当時大学の学生であつた島地雷夢君が、頭脳もよく、文章もすぐれてをるといふ事を話された。
 然るにその後、東京小石川なる画家松井昇氏の家に招かれた際、同じく客となつて晩餐をともにした年若い大学生の中に、偶然にも島地君があつた。しかして同じ時に会した人々は、いづれも島地君の親友で、当時の大学生なる斎藤野の人、内ケ崎作三郎等の諸君であつた。
 これが縁となつて、君は斎藤君と共に度々自分の家を訪はれ、しばしば歌を示された。その後、君の妹君あつ子さんが竹柏会に入られて、君との因縁がいよよ深くなつた。君が神戸に静養せられるやうになつてからも、度々手紙に接した。ことに須磨にある社友朝場重三氏と親しくされるやうになつたので、折にふれては共に歌を書いた寄せ書の葉書などをおこされた。
 然るに一昨年であつたか、大学に講義に行く途上、思ひもかけず、から橋のほとりで君の自分を訪はるるに逢つたので、大学までの道々物語をしつつ行つて別れた。その時は君も大分健かになられたやうに見うけて、心ひそかに喜んだことであつたに、後、君の訃を聞いて、かつ驚きかつ悼んだことであつた。 (昭和九年、追悼会にて)

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