江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

カテゴリ:佐佐木信綱と「心の花」 > 和歌ものがたり(1956刊)

ぼくたちの研究室
和歌ものがたり

佐佐木信綱著 1956年 さ・え・ら書房刊

目  次

  01  巻のはじめに  須佐之男命 弟橘比売命 応神天皇 巨勢三杖
  02  天武天皇 藤原夫人 柿本人麻呂 東人の妻 山上憶良
  03  山部赤人 高橋虫麻呂 大伴旅人 遣唐使使人の母 遣新羅使使人
  04  聖武天皇 大伴家持 丈部黒当 (はらもにの) 阿倍仲麿
  05  在原業平 小野小町 小野千古の母 菅原道真の母 素性
  06  紀友則 紀貫之 (うぐいすよ) (きみがよは) 源重之
  07  紫式部 成尋阿闍梨の母 源義家 源頼政 二条院讃岐
  08  平康頼 西行 藤原俊成 藤原良経 藤原定家
  09  藤原家隆 源頼朝 源実朝 寂身 亀山上皇
  10  伏見天皇 頓阿 兼好 太田道灌 蒲生氏郷
  11  豊臣秀吉 細川幽斎 藤原惺窩 徳川光圀 下河辺長流
  12  契沖 北村季吟 戸田茂睡 梶女 三輪執斎
  13  賀茂真淵 田安宗武 加藤美樹 楫取魚彦 本居宣長
  14  小沢廬庵 学丹 (とらとみて) 上田秋成 伊能忠敬
  15  塙保己一 松平定信 良寛 香川景樹 木下幸文
  16  児山紀成 頼梅颸 二宮尊徳 加納諸平 鹿持雅澄
  17  徳川斉昭 佐久間象山 村垣範正 勝安芳 高島祐啓
  18  柳原安子 安藤野雁 野村望東尼 橘曙覧 大隈言道
  19  野之口隆正 大田垣蓮月 大久保利通 葛原美之一 松浦武四郎
  20  福田行誡 新島襄 三条実美 大西祝 樋口一葉
  21  明治天皇 渡辺重石丸 夏日漱石 森鴎外 林甕臣
  22  富岡鉄斎 穂積陳重 芥川龍之介 長岡外史 王堂チェンバレン
  23  坪内逍遥 西田幾多郎 田中館愛橘 尾崎行雄 落合直文
  24  与謝野寛 与謝野晶子 久保猪之吉 北原白秋 石川啄木
  25  正岡子規 伊藤左千夫 島木赤彦 斎藤茂吉 若山牧水
  26  木下利玄 石榑千亦 ウェーリー 新村出 鈴木虎雄
  27  牧野英一 湯川秀樹 杉山りつ子 バチェラー八重子 孫戸妍
  28  長歌と旋頭歌  あとがき(一)(二)

凡  例

  1:底本は「ぼくたちの研究室 和歌ものがたり」(佐佐木信綱著 1956年)です。
  2:底本の仮名遣い・踊り字はそのままとし、旧漢字は基本、現在通用の漢字に改めました。
  3:二文字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字に改めました。
  4:横棒は「一(漢数字)」との区別を明確にするために「――」あるいは「~」としました。
  5:底本のふりがなは適宜省略した上で、半角括弧( )で示しました。
  6:和歌の歴史的仮名遣いのふりがなおよび漢文・漢詩の訓点は、全て省略しました。
  7:原文細字および割注は{ }、和歌の解釈は【 】で示しました。
  8:写真・挿絵・図・年表・索引等、本文以外は全て割愛しました。
  9:校正者による注は《注:》で示しました。
  10:底本の行末の読点はしばしば省略され、本コンテンツでは随所にその省略が表れます。

    巻のはじめに

 修学旅行で奈良を訪れた人々は、東大寺の大仏殿のなかに、一千二百年の人の世の移り変わりをじっと見おろしておられる大仏さまのすがたを仰ぎみることでしょう。さらに西の京へまわって薬師寺の境内にはいると、三重の塔がおごそかにきよらかにそびえていて、遠い奈良時代に咲いた文化の花が、どんなに高いかおりを放っていたかをうかがうことができます。
 奈良に残っている多くの彫刻や建築を見れば、わが日本の国の文化は、古代からりっぱで深みのあるものであったことがよくわかりますが、この本でみなさんに話そうとする「和歌」とよばれる短い歌は、奈良時代よりもずっと前、この国がはじめて国としておこったころには生まれていたと思われるので、日本民族の心の花として、長い長い年月を、今日(こんにち)も国民の間に生きてうたわれているのであります。
 このようにわが民族の心に根を深くおろした和歌は、五七五七七の五句三十一音から成りたっていて、日本人の心とことばに最もふさわしい調べをもつ詩として、いろいろな人に作られてきました。そして遠い古代から現代にいたる間には、すぐれた作が数多くのこされているのですが、私はいまそれらの中から、若いあなたがたが、生(しょう)がいおぼえていてよい名だかい歌や、おもしろい歌、また有名な人の歌を百四十首ばかりぬき出し、解説や鑑賞の文をそえ、いろいろなお話をも加えました。なるべくわかりやすい歌をわかりやすく説明したつもりですが、古い歌から順にとったので、ことばのむずかしいところもありましょう。そういうところは、お父さんやお母さん、兄さんや姉さんなどにきいて、一しょに読んでください。ことばは多少はむずかしくても、のびのびとした心で読み味わい、そして心に感ずることのできた歌は、暗誦(あんしょう)されてもよいと思います。これらの歌から興味をよびさまされて、みなさんも、和歌を作ってみる心もちになられることが望まれます。また、みなさんが大きくなって、けわしい人生の山々を越えていく時、これらの歌の幾首かは、みなさんの心をなぐさめもし、はげましもすることがあろうと信じます。
   昭和三十一年九月
佐佐木信綱



和歌ものがたり



   八雲(やくも)たつ 出雲(いずも)八重垣(やえがき) 妻(つま)ごみに 八重垣つくる その八重垣を
(古事記)
須佐之男命(すさのおのみこと)

 須佐之男命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟さんで、たいそう勇気のある方でした。ある時、出雲の国{島根県}の肥(ひ)の川の上流へ行かれますと、年よりの夫婦が、若い娘を中において泣いておりました。どうして泣くのかとお聞きになると、八俣遠呂智(やまたのおろち)という、頭が八つ、尾が八つある大きな蛇が近いうちにやってきて、大事な娘の櫛名田比売(くしなだひめ)をとっていくからでございますと答えました。命(みこと)は、その悪いやつを退治してやろうと決心なさって、年より夫婦に強い酒を作らせ、いろいろとはかりごとをお立てになりました。
 やがて、遠呂智がやってきましたが、計略にかかって酒に酔って寝たところを殺しておしまいになりました。
 そののち命は、櫛名田比売を妻になされるとて、御殿をおたてになる折から、雲が立ちのぼるのをご覧になり、この歌をおよみになったのです。
 【多くの雲が立ちのぼり、そのわき出る雲が八重(やえ)に重なって垣板をなし、妻と一しょにこもるようにと八重垣を造ってくれる。あゝ、その八重垣よ。】
 「八雲」は、たくさんの雲という意。「出雲」は、出(い)ずる雲ということ。「八重垣を」は、「八重垣よ」の意(こころ)です。
 この話は、和銅(わどう)五年(七一二年)にできた古事記の中に伝えられています。そしてこの歌は、短歌が、五七五七七という形に定まったはじめの歌といわれています。すべて、口伝えに伝えられた古い歌は、意味のはっきりしないことばがあって、いろいろの解釈ができるのです。八重垣についてもちがったとき方がありますが、本居宣長(もとおりのりなが)(一七三〇~一八〇一年)の説によってときました。
 右にかかげた図は、チェンバレン教授{一四四ページ参照}の英文でかいた日本噺(にほんばなし)第九の「やまたのおろち」(一八八六年出版)にあるのを借りました。


   さねさし さがむの小野に もゆる火の 火中(ほなか)に立ちて とひし君はも
(古事記)
弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)

 景行(けいこう)天皇の皇子(おうじ)の倭建命(やまとだけるのみこと)は、お若いときからすぐれて強い方でした。それで、地方のよくない者たちを亡ぼすようにという天皇のご命令を受けて、諸国においでになりました。
 東(あずま)の国{関東地方}においでになったとき、相武(さがむ)の国造(くにのみやつこ){地方の長官}がよくない男で、命をだましうちにしようとして、野の中へおつれ申し、火をつけました。命は驚かれたのですが、まわりの草を剣(つるぎ)で刈りはらい、持っておられた火打袋(ひうちぶくろ)から火打石をとり出し、向かい火をつけて、火の勢いを反対の方に向かわせ、悪者どもをすっかり亡ぼしておしまいになりました。後にその所の名を焼津(やきづ)といいました。
 それから走水(はしりみず)の海{東京湾口の浦賀水道}をお渡りになる時に、海の神が荒波を立てたので、舟は同じ所をまわるだけで海を渡ることができませんでした。その時、お后の弟橘比売命が、「私がお身がわりになって海にはいります。あなた様はお申しつかりの御用をおなしとげあそばしますように」といって、この歌をよんで、海に身をお投げになりました。そうすると、荒波が自然とおさまって船が進み、命はぶじにお渡りになることができました。
 【向こうに峰が立っている佐賀牟(さがむ)の野に、悪者が野火をつけた時、もえあがる炎の中で、私のことを案じて問うてくださいました命(みこと)さま。そのありがたいお心は、忘れることができません。】
という意(こころ)です。
 「さねさし」は枕詞(まくらことば)です。枕詞はこれからも度々(たびたび)出て来ますが、あることばを言いだそうとする時に、その前に用いることばで、調べのたらぬのをととのえ、ことばをかざるためにおくのです。枕という意味は、句の頭(かしら)におくゆえとも、朝晩によく用いるものという意ともいわれています。ふつうは五字ですが、ここでは「さねさし」と四字になっています。「さね」は、よい峰、「さし」は、そびえているという意。「さがむ」は地名。「小野」の「小」は、そえたことばで、野のこと。「君はも」は、君(命さま)は、まあ、の意。ああ思えばご親切な方、この方のために私は身をすてますが、君はいつまでもご無事でいらっしゃいますように、という気持がふくまれております。
 なお、お話のつづきを申しますと、七日の後に、弟橘比売のおさしになっていた櫛(くし)が海辺に流れよったので、そのお櫛をうずめてお墓ができました。(いま浦賀市走水(はしりみず)には、走水神社がおまつりしてあります。)
 命さまは、陸奥(みちのく){東北地方}においでになり、蝦夷(えみし)を平らげてお帰りになる時、足柄山の坂にお登りになって、「吾妻(あづま)はや」と三度およびになりました。「自分の妻はまあ」とおしのびになったのです。それから関東の国々を東(あずま)というようになったと伝えられています。
 以上は古事記によってのべたのですが、七二〇年にできた日本書紀には、倭建命を日本武尊(やまとたけるのみこと)とかき野火の出来ごとの相武(さがむ){神奈川県}を駿河(するが){静岡県}としてあります。そうすると、「さがむ」というところが、駿河のうちにあったとおもわれます。(焼津(やきづ)は、やいづといって、いま静岡県にありますが、神奈川県にはありません。)上代(じようだい)のお話ゆえ、いろいろに言い伝えられたのでしょう。


   千葉(ちば)の 葛野(かずの)を見れば ももち足(た)る 家場(やにわ)も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ
(日本書紀)
応神(おうじん)天皇

 応神天皇は、歴代の天皇のうちでも、国のはじめの神武(じんむ)天皇についでりっぱな天皇でいらっしゃいました。天皇のみ代には、朝鮮半島からいろいろな文化がはいって来ました。
 あるとき、天皇は、近江(おうみ)の国{滋賀県}の莵道(うじ)に行幸(ぎようこう)になりました。そのとき、莵道の方から葛野(かずの)の方をご覧になって、この歌をおよみになりました。
 【葛野の広い野原を見わたすと、満ち足りているりっぱな家がたくさん見える。国の栄えているようすがわかってうれしい。】
と、おほめになった歌であります。「千葉の」は漢字でかいてありますが、地名ではなくて、「葛野」にかけた枕詞です。「葛(かずら)」はくずのことですから、たくさんの葉の生(は)える「葛」ということばにかけたわけです。
 葛野は山城(やましろ)の国{京都府}にあって、京都のまちの北の方を葛野郡(かどのごおり)といいましたから、今日(こんにち)の京都盆地の平原(へいげん)という意です。「ももち足(た)る」には、いろいろな説がありますが、百千足(ももちだ)る、みちたりているという意味、すなわち、人々の家がたいへん整っているという解釈がいいでしょう。「秀(ほ)」というのは、栄えるとか、上に秀(ひい)でるということで、船の「帆(ほ)」、すすきの「穂(ほ)」、人のほっぺたの「ほ」など、上にあらわれるということばです。


   いかるがの 富(とみ)のを川(おがわ)の 絶えばこそ わが大君(おおきみ)の 御名(みな)忘らえめ
(上宮(じようぐう)聖徳(しようとく)法王(ほうおう)帝説(たいせつ))
巨勢三杖(こせのみつえ){六二一年作}

 推古(すいこ)天皇の二十九年二月、聖徳太子(しようとくたいし)がおなくなりになったとき、巨勢三杖が悲しみいたみまつってよんだ三首の中の一首であります。
 聖徳太子は、申すまでもなく、日本文化のために、非常に功労の多かった方で、有名な十七条の憲法――日本で初めての憲法をおつくりになりました。ここにかかげた聖徳太子のお像は、朝鮮の阿佐(あさ)太子がえがいたと伝え、わが国の肖像画の最も古いものとして、今も皇室のご所蔵になつております。歌のわけは、
 【このいかるがの富のお川に水が流れなくなったならば、その時こそ太子の御名が忘れられもしましょう。しかし、この川の流が絶えることがあろうとも思われませんから、永久に太子さまのことを、私は忘れることができないでしょう。】
という意(こころ)であります。
 「いかるが」は、大和の法隆寺のあるところの地、斑鳩(いかるが)のことです。

   わが里に 大雪ふれり 大原の 古(ふ)りにし里に ふらまくは後(のち)
(万葉集 巻二)
天武(てんむ)天皇{七〇七年崩}

 歌は自分のひとりの思いを述べるものですが、時には、先方にうたいかける、そうすると、それに答えるという、贈答(そうとう)という形式があります。《注:「そうとう」は底本のまま。》
 この歌は、天武天皇が、藤原夫人(ふじわらのぶにん)という女の方に贈られた歌です。
 【自分のすんでいるみやこには、今日めずらしく大雪がふった。そなたのいる大原のような古い里(さと)にふるのは、もっとあとのことであろう。大原にいっていて、この大雪を見ないのは気のどくである。】
 大原は同じ飛鳥(あすか){奈良県高市郡飛鳥村}の地で、そう離れていませんから、皇居のある土地と同じように雪がふっているのでしょうが、古くさびれた里にふるのは、みやこよりもおくれるであろうと、からかい半分にお歌いになったのであります。
 これに対して、藤原夫人の答の歌はどうでしょう。


   わが岡の 靇神(おかみ)に言ひて ふらしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
(万葉集 巻二)
藤原夫人(ふじわらのぶにん)

 天皇のからかい半分のお歌を受けとった夫人は、これまた、たわむれの歌をよんで、お返ししました。
 【みやこには、大雪がふったとお喜びのようでございますが、その雪は、私のいますこの大原の岡の靇神(おかみ)にいいつけてふらせました雪のかけらが、少しばかりそちらへ散っていったのでございましょう。大雪などとおっしゃるのは、おかしゅうございます。】
という意(こころ)です。負けずにやりかえしてうたわれたところが、おもしろいではありませんか。
 「靇神」というのは、雨や雪をつかさどる神さまのこと。「くだけし」の「くだけ」は、砕けたかけら、「し」は、「それが」と意味をつよめることばです。


   ひむかしの 野にかきろひの 立つ見えて かへりみすれば 月かたぶきぬ
(万葉集 巻一)
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

 柿本人麻呂は、藤原時代――持統(じとう)天皇から元明(げんみょう)天皇のはじめまで、大和(やまと){奈良県}の藤原に都のあった時代の人です。官位はそう高くありませんが、歌にすぐれていましたので、天皇や皇族のお供(とも)をして、所所(しよしよ)へ行き、歌をささげたのであります。むかしからよくかかれている人麻呂の姿は、たいそう年よりのようですが、それは平安時代に、夢の中で見たのを描いた、それを写し伝えたのです。しかし、人麻呂はあんな老人ではなく、四十そこそこで世を去ったのでした。
 【東の方の野に、朝日がいま出ようとして、その光線がうるわしく立つのが見える。そして、ふり返ってみると、月が今もう西の方にかたむいてしまっている。】
という意(こころ)です。
 この歌は、軽皇子(かるのみこ){のちの文武天皇}が、父君の日並皇子(ひなめしのみこ)をおしのびになって、大和の南の方にある宇陀(うだ)というところで狩をなさったとき、お供をして行って、よんだ歌です。前に長歌(ちようか)という長い歌があって、次に四首の短歌がのっています。短歌は、ふつう一首独立したものですが、時には、いくつもつづけてよまれることがあります。これを連作(れんさく)というのですが、この四首もその例です。そしてこの歌は、連作の三番目の歌で、阿騎野(あきの)の夜明けの雄大な景色をよんだ、調子の高い歌であります。
 私は先年、この阿騎野へ行ったことがあります。東の方はずっと平原になっていて、後の方には吉野地方の山が遠くみえます。そこの宇陀中学からたのまれて、この人麻呂の歌を書いたのが歌碑(かひ)となって立っております。
 また、大和歴史館ができた時、その中の一室の万葉室に、私の選んだ題材で、「阿騎野の朝」というりつばな壁画を、中山正実画伯がかかれました。前のページの写真がそれです。


   信濃路(しなのじ)は 今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に 足踏ましなむ 履(くつ)はけわが夫(せ)
(万葉集 巻十四)
東人(あずまびと)の妻(つま)

 文武(もんむ)天皇の大宝(たいほう)二年(七〇二年)から元明(げんみょう)天皇の和銅六年(七一三年)まで十二年かかって、美濃(みの){岐阜県}から信濃(しなの){長野県}を通る吉蘇路(きそじ)(後には木曽街道(きそかいどう)といった)ができあがったのでした。これは、その新道(しんどう)ができて人人が通るようになって間もないころ、その道を通って出かける夫におくった歌で、信濃の国の女がよんだのです。
 【あなたのおいでになる信濃街道は、近ごろ新しく拓(ひら)いた道ですから、切株(きりかぶ)でけがをなさるといけませぬ。くつをはいておいでなさいませ、わが夫よ。】
という意(こころ)で、女心のやさしさのあふれた歌です。「かりばね」は、木や竹の切株のことで、木や竹のしげった林をきり開いて道を造ったそのころのようすもしのばれ、また地方の人などが、ふだんは、くつをはかないで歩いたことの知られる歌です。
 万葉集巻十四は東歌(あずまうた)の巻といわれて、関東地方の人の作った歌、うたっていた歌が大部分で、都か きていた人の歌も少しまじっています。《注:行頭に一字分の欠があり、「都から」と思われる。》


   銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝(たから) 子にしかめやも
(万葉集 巻五)
山上憶良(やまのうえのおくら)

 山上憶は、人麻呂とほぼ同じ時代の人ですが、人麻呂よりも少し後に生まれて、ずっと長生きをしました。
 憶は若いときに、遣唐使(けんとうし)という、中国へ行く使いの属官(ぞくかん)として、数年あちらにおりました。帰国してから、いろいろな役について、後に筑前守(ちくぜんのかみ){今の福岡県知事}という役になりました。
 この歌は、憶良がわが子のことを思ってよんだ、父性愛のあふれた作で、
 【金であるとか、銀であるとか、玉であるとか、そういうものも何になろうぞ。それらはいずれもすぐれた宝物で貴(とうと)いものであるが、子にはとうてい及びもつかない。】
という意(こころ)です。金のことを「こがね」といいますが、また「くがね」ともいいます。「しかめやも」ば、「及ぶことができようか、とてもできないことである」の意。「しく」は「追いつく」ことです。《注:「ば、」は底本のまま。》
 憶良には、このほかにも子供を思ってよんだ歌が数首あります。また、貧しい人々に同情してよんだ貧窮問答(ひんきゆうもんどう)という名だかい長歌があります。人麻呂はもっばら情をうたった叙情(じよじよう)詩人、憶良は社会詩人、次にのべる赤人(あかひと)は景をうたった叙景(じよけい)詩人、虫麻呂(むしまろ)は伝説をうたった伝説詩人として、万葉集の中でもそれぞれすぐれた歌人であります。

前頁  目次  次頁

   わかの浦(うら)に 潮(しお)満ち来(く)れば 潟(かた)を無(な)み 葦辺(あしべ)をさして 鶴(たず)鳴きわたる
(万葉集 巻六)
山部赤人(やまべのあかひと)

 山部赤人は、人麻呂と並べてたたえられた人ですが、身分は低い人でした。人麻呂と同じように、天皇や皇族のお供(とも)をしては歌をささげました。この歌は聖武(しようむ)天皇のお供をして紀伊(きい)の国{和歌山県}の和歌浦(わかのうら)へ行ったときによんだ長歌のあとにある歌です。
 【和歌の浦に潮がみちてくると、今まであった干潟(ひかた)がなくなったので、そこらにいた鶴がとび立って、向こうの方の葦(あし)の生(は)えている所をさして、鳴きながらとんでいくことよ。】
というのです。干潟のところに潮がみちてき、白いつばさをひるがえした鶴が、青々とした葦辺の方へとんでいくという景色は、いかにも絵のように美しかったであろうとおもわれます。
 私は、昭和十年の春、和歌山県の藤代(ふじしろ)というところに有馬皇子(ありまのおうじ)の碑をたてるというので、行ったことがあります。そのとき、和歌浦のそばの家で歌の会があったので参りました。その会にきた和歌山市の観光課の人の話すには、「今でも毎年十二月ごろになると、鶴が飛んで釆ます。去年は特に多くて、数えたところでは、五十八羽もいました。向こうの方の、万葉の歌にある名草(なぐさ)山のふもとに、藻屑(もくず)川が流れています。その川のそばには今も葦(あし)が生(は)えています。」ということでした。鶴の習性や運動は、千年前も今日(こんにち)も変わっていませんでしょうから、こちらの和歌山市の岸の方に、干潟がなくなったので、向こうの名草山、今の紀三井寺(きみいでら)の方をさして、鶴がとんでいったというのであります。
 「かたをなみ」は干潟がなくなったのでの意。「み」は「風をいたみ」などの「み」です。何々がこれこれなので、という意味を表わします。ところが、高い波を男波(おなみ)、ひくい波を女波(めなみ)といいますので、片男波(かたおなみ)ということばがあると考える人がありますが、それはまちがいです。


   かつしかの 真間(まま)の井(い)を見れば 立ちならし 水汲(く)ましけむ 手児奈(てこな)しおもほゆ
(万葉集 巻九)
高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)

 下総(しもうさ){千葉県}の葛飾(かつしか)に、真間{市川市国府台の下}の手児奈という美しい娘がいました。若くてなくなったその娘の墓でよんだ歌です。
 【かつしかの真間にわきでておる井の水を見ると、この井のそばに立って水を汲(く)んだとおもわれる、美しい手児奈のことが思い出される。】
の意。前は長歌がそっていますが、それには、りっぱな家の娘のようなよい着物も着ず、くつさえもはかない貧しい家の娘ながら美しかったとありますから、いま自分がふんでいる井のそばの土は、美しい娘がくつをもはかぬ足でふみ平(な)らしたその同じ土かと見ると、いたいたしく思われる、の意がこもっています。
 高橋虫麻呂は、赤人と同じころに奈良におり、関東地方へ役人として来ていたのでしたが、古い伝説や風俗をしらべることがすきで、このかつしかのてこな、摂津(せつつ)のうないおとめ、水江(みずのえ)の浦島子(うらしまのこ)や、筑波(つくば)山のかがひ(歌やおどりで楽しむ集まり)などをも長歌によんでいます。
 前にあげた東人(あづまびと)の妻の歌は、万葉集の十四の巻の東歌(あずまうた)の中にはいっていますが、あの関東人(びと)の東歌一巻は、この虫麻呂があつめたものでなかろうかと思われます。そうしてその東歌の巻からヒントを得て、大伴家持は万葉集の二十の巻にある防人(さきもり)の歌をあつめたものであろうと思われます。


   妹(いも)として 二人(ふたり)作りし わが山斎(しま)は 木高(こだか)く繁(しげ)く なりにけるかも
(万葉集 巻三)
大伴旅人(おおとものたびと){七三一年没}

 大伴旅人は、わが国上代からの武門の名家に生まれ、武将としては征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍となり、文化人としては和歌に長じ、中国の学芸にも精通していました。
 太宰帥(だざいのそち)、すなわち九州総督ともいうべき官について赴任しましたに、間もなく愛する妻が病気で亡くなりました。二年の後、大納言(だいなごん)になって、奈良の都に帰りましたが、妻とともに作ったわが家の庭が、留守(るす)の間にすっかり木々の繁っているのを見て、この歌をよみました。
 「山斎(」は、大きい庭園のことです。
 【妻と二人で、心をあわせて造りいとなんだわが家の庭は、九州にいっておった間に、こんなに木々も大きく繁った。】
 妻はいないということをあらわに言わないところに、武人らしい、せつなく、激しい悲しみがにじんでいます。
 土佐日記(とさにつき)というのは、平安時代に、紀貫之(きのつらゆき)が、土佐{高知県}の国司(こくし)の任を終って都に引きあげて来た時の文章ですが、都に帰って、荒れはてた庭に小松の丈(たけ)の伸びているのを見て、任地で死んだ娘のことを思い出し、新しい涙にくれるところで日記は終っています。{四三頁参照}ともに、すぐれた文人の、いとおしい老境を伝えてあわれであります。
 旅人は、この歌をよんだ翌年の秋、その生(しよう)がいをとじたのでありました。


   旅人(たびびと)の 宿(やど)りせむ野に 霜(しも)降(ふ)らば わが子羽(は)ぐくめ 天(あめ)の鶴群(たずむら)
(万葉集 巻九)
遣唐使(けんとうし)使人(しじん)の母{七三三年作}

 天平(てんぴょう)五年四月、遣唐使の船が難波(なにわ){大阪市}の港を出るとき、その船に乗っていく遣唐使の属官(そくかん)のおかあさんが、わが子を思って、長歌と、この短歌とをよんでおくったものです。《注:「(そくかん)」は底本のまま。》
 【中国へつかいに行くこの旅人たちは、途中で野宿するであろうが、もし霜がふったならば、空をとぶ鶴の群よ、天からおりてきて、私の子どもを羽でつつんでやっておくれよ。】
という、いかにも母親の情のあふれた歌です。「羽ぐくむ」は、羽でつつむということから、後に、養育するという意味になりました。


   天(あま)とぶや 雁(かり)を使に 得(え)てしかも 奈良の都に 言(こと)つげやらむ
(万葉集 巻十五)
遣新羅使(けんしらぎし)使人(しじん){七三六年作}

 朝鮮は、むかし、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高麗(こま)という三つの国に分かれておりました。天平(てんぴよう)八年六月、新羅への使が、奈良の都を出て、難波(なにわ)から船出をし、源戸内海を通っていく途中の歌が、万葉集の巻十五に百何十首ものっています。
 この歌は、その中の一首で、遣新羅使の属官(ぞくかん)の一人がよんだ歌であります。
 【天を飛ぶ雁(がん)を、どうか使に得たいことである。そうしたら、妻や子がいる奈良の都へ、今無事で、こうやって航海中であるということを告げてやろうものを。】
という意(こころ)です。これは筑前(ちくぜん){福岡県}の糸島郡(いとしまぐん)引津(ひきつ)というところでよんだのです。「天とぶや」の「や」は、そえたことば。「得てしかも」は、得たいことであるという意。雁(かり)を使にやるというのは、むかし、中国で、蘇武(そぶ)という人が匈奴(きようど)という民族に捕(とら)えられて、遠い砂漠地方に十九年もおりましたが、漢(かん)の都へたよりのしようがないので、雁(かり)――がんの足に手紙をつけて、たよりをしたということがあるので、たよりのことを、歌では、雁(かり)のたよりとか、雁(かり)の玉章(たまずさ)などといっています。

前頁  目次  次頁

   橘(たちばな)は 実(み)さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜(しも)降(ふ)れど いや常葉(とこは)の樹(き)
(万葉集 巻六)
聖武(しようむ)天皇{七五六年崩}

 さきほど申しましたように、神武(じんむ)天皇から応神(おうじん)天皇、次に聖武(しようむ)、それから後に明治(めいじ)天皇と、このお四方(よかた)が日本の国の歴史の上で、とりわけだいじな天皇がたでいらっしゃるのですが、今年、昭和三十一年は、聖武天皇がおなくなりになってから、ちょうど一千二百年に当たります。
 天平(てんぴよう)八年の十一月に、葛城王(かつらぎおう)という皇族の方が、自分は皇族であるよりは、姓(せい)を賜(たま)わって臣下になりたいからと申し出られたので、天皇は、橘(たちばな)という姓をおさずけになりました。そのときに、前途を祝っておよみになったお歌であります。
 【橘はまことによい木である。それは、実がよいし、その上に花がよい。花はいかにも香(かおり)がよい。またその葉も美しい。そうして、この枝に霜が降っても、葉がとこしえに変わらないめでたい木である。そういう橘という姓をこのたび与えたからして、いよいよしっかりつとめるように。】
というお祝いのお気持をこめられた歌であります。葛城王は、諸兄(もろえ)という名ですが、そのときから、橘諸兄(たちばなのもろえ)といって、ずっとお仕えし、大臣として功労の多かった人であります
 前のページの図は、江戸時代に描かれたものですが、奈良の東大寺にある「四聖(しせい)の御影(みえい)」というお掛物(かけもの)で、上は、聖武天皇、右の上はあとに出る波羅門(はらもに)僧正(そうじよう)、その下は行基(ぎようぎ)菩薩(ぼさつ)、左は良弁(ろうべん)僧正です。


   春の苑(その) くれなゐにほふ 桃の花 した照(て)る道に 出(い)でたつをとめ
(万葉集 巻十九)
大伴家持(おおとものやかもち)

 旅人の子の家持は、若い時から歌をよんでおり、万葉集は家持があつめたものであろうといってもよいくらいです。
 この歌は、天平勝宝(しようほう)二年の三月、越中守(えつちゆうのかみ){今の富山県知事}をしていたときに、よんだのです。
 【春の園(その)には、くれないの色が照り映(は)えている。桃の花がかがやくばかりに咲いている道に、若いむすめが立っている。花と若いむすめと、まことにこの園のながめは美しい。】
 この歌は、いかにも美しい色どりで、絵のような歌であります。これは、ある日に実際みた情景をうたったと思われますが、心の中には、当時一種のはやりであった樹下美人(じゆかびじん)の図柄などを思いうかベていたであろうかとの説もあります。ここにかかげたのは、正倉院(しようそういん)に今もあるびょうぶに描かれた樹下美人の図の一部です。
 万葉集には、家持の歌が四百首あまりものっており、いろいろな歌があります。
 聖武天皇が奈良の大仏をお造らせになる時、ぬり料(りよう)につかう金(きん)が少なくなっておこまりになりました。そこへ、天平勝宝元年(七四九年)二月に陸奥(みちのく){宮城県}小田郡から金が出まして、さしあげたので、大そうおよろこびになりました。その時、家持がお祝い申した歌に、
   すめろきの 御代(みよ)さかえむと あづまなる みちのく山に くがね花さく
 【わが天皇のみ代がいよいよ栄える前兆として、東国地方なる奥州(おうしゆう)の山に黄金(こがね)の花がさきでたことであります。】
 いかにもおごそかな調子の歌です。
 強くいさましい歌には、
   ますらをは 名をし立つべし 後(のち)の代(よ)に 聞きつぐ人も 語(かた)りつぐがね
 【男児(だんじ)たるものは、すぐれた名を立てるべきである。後の世に聞きついだ人が、また語りついで、いい伝えてゆくように。】
という意(こころ)でありますが、これは、山上憶良の「男子(おのこ)やも むなしかるべき 万世(よろずよ)に 語りつぐべき 名はたてずして」という歌によってよんだので、いかにも大丈夫風(ますらおぶり)の歌です。
 清らかでしずかな歌には、
   わが宿(やど)の いささむら竹 ふく風の 音(おと)のかそけき この夕(ゆう)べかも
 【自分の家のいささかある群竹(むらたけ)に、吹く風の音がかすかにきこえるこの夕方であるよ。】
の意(こころ)で、静かな春の夕方に、庭にある一むらの竹に対している作者の姿がみえるようで、そよそよとささやく葉ずれの音と一しょに、かすかなためいきさえも聞えるかと思われます。
 そうかとおもうと、次のような、ひどい、滑稽(こつけい)な歌もあります。
   石麻呂(いわまろ)に われものまをす 夏やせに よしといふものぞ 鰻(むなぎ)とりめせ
   やすやすも 生(い)けらばあらむを はたやはた 鰻(むなぎ)を捕(と)ると 河に流るな
 この歌は二首つづいた連作です。吉田石麻呂(よしだのいわまろ)という人は非常にやせた人でした。その人に親しかった家持がじょうだんにおくったのです。
 【石麻呂さんに私はものを申しあげる。あなたはふだんからやせている。夏やせには、うなぎを食べるとよいということであるから、とってきて食べるとよい。】
 【いや、そうはいうものの、いかにやせておっても、生きていればよい。もしかもし、うなぎをとろうとして、やせっぽちのそなたは、川に流されなさるなよ。気をつけたまえ。】
 石麻呂には気のどくですが、おもしろい歌です。「むなぎ」は、「うなぎ」のことです。


   父母(ちちはは)も 花にもがもや 草枕(くさまくら) 旅は行くとも ささごてゆかむ
(万葉集 巻二十)
丈部黒当(はせつかべのくろまさ)

 天平勝宝七年に、九州の海辺を守るために、東国の地方から遣(つか)わされた防人(さきもり)(崎を守る者の意)の一人、遠江(とおとうみ){静岡県}の若者、黒当のよんだ歌です。この防人たちの歌は、巻二十に九十三首でています。当時兵部少輔(ひようぶのしようふ)という役をしていた家持がいいつけてあつめさせたのですが、東語(あずまことば)という関東なまりのままによんであって、思想史の上からも用語史の上からも注意すべき作が多いのです。歌の意(こころ)は、
 【おとうさんやおかあさんが、このうつくしい花であったらいいがなあ、そうしたら、旅の道でも、大事にささげもって行こうに。】
 遠い九州へ出かける前に、両親への別れをつらく思って、やさしい純真な心でよんだ歌です。こういう真心(まごころ)から生まれた歌は、千二百年の後の今の私たちの胸にもひびきます。「草枕(くさまくら)」は、むかしの旅のこととて、宿屋にとまれない時には、草を枕にして野宿をもしましたから、それが旅の枕詞(まくらことば)となったもの。「ささごて」は「ささげて」の東語(あずまことば)です。


   波羅門(はらもに)の 作れる小田(おだ)を はむ烏(からす) 瞼(まなぶた)腫(は)れて 幡幢(はたほこ)に居(お)り
(万葉集 巻十六)
作者不詳(ふしよう)

 この歌は、だれがよんだかわかりませんが、おもしろい歌です。
 【波羅門僧正が作っている田のいねをたべるからすは、仏さまのばちがあたって、まぶたがはれてしまって、あのように、お寺のお堂の前にたててある「ばん」という旗にとまってじっとしている。】
の意です。
 波羅門僧正(バラモンともいいますがハラモニが古いよみです)は、インドの人で、徳の高いお坊さんでしたが、日本をしたって、中国を回り、仏哲(ぶつてつ)という音楽家を伴(ともな)って、天平八年に日本へ来ました。そのとき、奈良にいた行基(ぎようぎ)というえらいお坊さんは、難波津(なにわづ){大阪府の海岸}まで迎えに行きました。
 聖武天皇は、僧正に奈良の大安寺(だいあんじ)というお寺をお与えになりました。そういう寺には、寺領(じりよう)といって、寺の持っている田がありました。インドも日本と同じく稲を作る国ですから、僧正は自分で耕作しておりました。
 そういう尊い僧正の作った稲を烏(からす)が食べ荒らしたので、「まなぶたがはれて」といったのですが、それは、からすの目が、なんだか、はれぼったいように見えるところからよんだのです。「まなぶた」は、めのふたということで、まぶたと今はいいます。
 天平勝宝四年四月に、東大寺の大仏がいよいよできあがりましたので、行幸(ぎようこう)があり、まことに盛んな開眼供養(かいげんくよう)が行われました。その開眼の尊い式を波羅門僧正がおつとめしました。仏さまができあがっても、開眼の式がすむまでは、ただ銅で作ったもの、木で作ったものなのですが、その式で、導師(どうし)のお坊さんが筆をとって、眼を開くという儀式をしまして筆をおきますと、いよいよ仏さまになられるのです。この開眼の天平宝物筆(てんぴようほうもつひつ)が、今も正倉院(しようそういん)に伝わっております。宮内庁のお許しを得て、ここに写真をかかげます。長さは六五・二センチです。


   天(あま)の原(はら) ふりさけ見れば 春日(かすが)なる 三笠(みかさ)の山に 出(い)でし月かも
(古今集)
阿倍仲麿(あべのなかまろ){七七〇年没}

 阿倍仲麿は、霊亀(れいき)二年(七一六年)の六月、遣唐使の派遣された時、留学生として吉備真備(きびのまきび)と一しょに唐へ行きました。そのとき、仲麿は十六歳でした。そうして、学問を勉強し、玄宗(げんそう)皇帝に仕え、名も朝衡(ちようこう)と改めていました。天平勝宝二年(七五〇年)に帰朝することとなりましたところ、乗った船が暴風のために安南(あんなん)へ流され、沈没したと伝えられたので、詩の友だちであった李白(りはく){唐の有名な詩人}は「日本晁卿(につぽんのちようけい)辞帝都(ていとをじす)、片帆百里(へんぱんひやくり)繞蓬壺(ほうこをめぐる)……」という詩を作って弔(とむら)いました。しかし、さいわいに無事で唐の都へ帰り、宝亀(ほうき)元年あちらでなくなりました。唐土(もろこし)にあること五十年あまり、らくな生活をしていましたが、故郷の日本のことは忘れがたいので作った歌です。
 【広い大空をはるかにながめやると、今、月が出る。ああ、自分は今こんな遠い唐土におるけれども、あの月は、春日山のうちの三笠山を出た月であるかまあ。なつかしいことであるよ。】
 遠い海外で月を見て、故郷の山を出る月を思いおこし、胸のうちの深い情を月によせたのであります。

前頁  目次  次頁

↑このページのトップヘ