江戸期版本を読む

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カテゴリ: 連合艦隊の最後(1956刊)

連合艦隊の最後

伊藤正徳著 1956年 文芸春秋新社刊

目  次


第一章 艦隊成るまで
 1 連合艦隊への郷愁  「不沈戦艦」の秘密建造  建艦すれども戦争せぬ
 2 対米戦争の勝算?  世界に誇つた大造艦技術  その名高し“無敵艦隊”
 3 “精鋭”潜水艦隊帰らず  超大空母「信濃」の悲劇

第二章 真珠湾の回想
 1 世界的の大奇襲  大奇襲着想の由来  見事なる攻撃
 2 特殊潜航艇の参戦  戦略的に失つた説

第三章 順風満帆の緒戦
 1 マレー沖海戦に至る  海空軍の驚異的戦果
 2 スラバヤ以下の海戦  珊瑚海の戦術勝

第四章 ミッドウェー海戦
 1 太平洋戦争の敗因第一号  “長期戦の自信なし”  連合艦隊の全力出撃
 2 暗号は読まれていた  将帥に心の驕りあり

第五章 ソロモン消耗戦
 1 ガダルカナル奇襲上陸  連日海戦、実に百余回  太平洋の旅順口
 2 一勝一敗一引分け  “円タク駆逐艦”で救援  潜水艦も運送に専心  驚くべき航空消耗戦
 3 攻勢終末点の超越  艦隊決戦のない戦争  東京進攻の二つの道

第六章 マリアナ海戦
 1 第一機動艦隊への期待  決戦用の基地空軍  決戦場の予想を誤る
 2 敵の物量を討つ  祝盃用意の出撃!  密雲日本を閉す
 3 新式旗艦「大鳳」沈む  敗戦の跡を顧みて

第七章 レイテ海戦
 1 所謂「艦隊の殴り込み」  落ちて行く「平家」の如く  戦意は「源氏」の如く
 2 リンガ泊地の猛訓練  真ッ裸の艦隊  作戦の不満、全軍を掩う
 3 長官、艦隊の不満諭す  大艦隊の威容あり  主力艦を狙い襲う
 4 戦艦「武蔵」の最後  栗田長官の進撃断念?  再転進撃を決行
 5 西村中将死地に赴く  レイテ湾頭に消ゆ  継子の艦隊出現す
 6 惨敗を目的とした艦隊  武者振いする「いけにえ」  敵は囮へ襲いかかつた
 7 水平線上敵艦見ゆ  サマール沖の一戦  史上ナゾの大事件
 8 カラ船と心中は御免  機動部隊を血祭に  敵機動部隊を捜し回る
 9 九死一生を限度とす  栗田長官自身に聞く  満身創痍、基地に帰る
 10 サマール沖海戦の批判  米提督は今なお争う
 11 レイテ戦完敗の跡  神風特攻間に合わず

第八章 二つの特攻作戦
 1 菊水作戦の決行  決死出撃の前夜  第二艦隊僅か十隻
 2 「大和」遂に沈む  特攻の犠牲二、一九八名  昭和二十年は特攻の年
 3 世界無類の日本の魚雷  人間魚雷「回天」の出撃  原爆搭載艦を屠る

第九章 結論(その一)
 1 連合艦隊、陸に上る  旗艦陣頭主義の是非  戦場近く指揮を執れ
 2 米の長官は陸に住む  世界一流の海軍興る  十万トンの大戦艦
 3 大海軍遂に亡ぶ  一将功不成、万骨枯る

第十章 結論(その二)
 1 残つた軍艦と其の運命  如何に敵を沈めたか  開戦と海軍の立場
 2 海軍の明言回避の事情  陛下も海軍に頼らる  斯くて自ら亡ぶ


凡  例

  1:底本は『連合艦隊の最後』(伊藤正徳著 1960年 第29刷)です。
  2:底本の仮名遣い・踊り字はそのままとし、旧漢字は基本、現在通用の漢字に改めました。
  3:横棒は「一(漢数字)」との区別を明確にするために「――」「~」「:」に変更しました。
  4:テキスト入力の都合上、引用符は全て「“」「”」に変更しました。
  5:挿絵・図はサイズを統一して載せましたが、写真は全て割愛しました。
  6:校訂者による注は《注:》で示しました。
  7:底本は、改行後の行頭の一字下げの不統一の他、現代から見て違和感のある表現・用字が少なくありません。それらすべてに《注:》を施してはいないことをお含み置き下さい。

  序

    一

 二百五十余隻、百六万トンの連合艦隊が出撃し、戦終るや、戦艦〇、重巡〇、小型空母一、軽巡三、潜母一、特務二、駆逐艦三〇、潜水艦一二、合計四十九隻しか残つていなかつたという惨敗を、開戦の前後に何人が予想したであろうか。
 大本営は、勝つた戦は誇大に発表したが、敗戦は悉く秘匿した。国民の意気を阻喪させないため、という理由からであつた。米英が、敗戦を常にそのまま発表して国民の奮起を促していたのに較べると、思慮の深浅に格段の相違があつた。かくて我が国民は、斯くまでの惨敗とは知らずに終戦を迎えた。だから多くの人は「レイテ海戦? それは何だ?」といつた具合だ。「マリアナ沖の決戦? そんな海戦があつたのか?」と苦笑する。「七万トンの空母信濃が出陣の第一日に沈められた? そんな大きい軍艦が?」と怪しむだけである。
 敗戦十年を経た八月十五日の記念に、私は試みに、本書の題名で数回の海戦記を書いてみた。ところが、市井の反響は、私の四十年の記者経験中で最大のものを感じ、記者として退き下がることが出来なくなつた。遂に、「時事新報」紙上に七十六回、引続き「産経時事」の紙上に四十一回の長篇を書いてしまつた。書き続ける以上は、正確な史実に基き、綜合的に、解説と批判とを織り交ぜて、一つの描写を試みようと思い立つた。謂わば連合艦隊の伝記の終末篇を書くようなものだ。

    二

 連合艦隊はお葬式を出していない。一個人の死が新聞の記事になり、本願寺や青山斎場の行列を見ることを思えば、四百十隻が沈み、二万八千機が墜ち、四十万九千人が斃れた「連合艦隊の死」を、お葬式なしに忘れ去るというのは、余りにも健忘であり且つ不公平でもあろう。私は海軍のフレンドとして、その国防史の一つのブランクを埋める役目を買つて出たようなものだ。私が海軍担当の記者として勉強したのは、大正三年から六年までの三ヵ年に過ぎないが、その因縁の糸が四十年近くも切れなかつたのは、一つの運命なのであろう。
 連合艦隊の最後は、哀れという文字の代表であつた。その敗北は、惨澹という表現の極致であつた。敗れずに済んだものを、天運に見放されて敗れた戦さもある。一時の油断のために、勝つべきを失つて戦争敗北の遠因を作つた戦さもある。「惜しい」という言葉の意味を、本当に噛みしめる場合は幾つもある。
 が「惜しい」最大のものは、世界第三位の海軍力を全損したことだ。世界第一の軍艦を失つたことだ。世界第一の兵器が無駄になつたことだ。世界で一、二を争つた兵術が、生産力の不足によつて立往生に終つたことだ。そうして、それらは、政治を誤らなかつたならば、軍閥が日本を支配しなかつたならば、また海軍に開戦反対の勇気があつたならば、「失わずに済んだ」ことを顧みて「惜しい」想いは、愈々痛切ならざるを得ない。況んや領土を失わずに済み、世界一流の大国として存在し得たことを考えれば、「惜しさ百倍」の念仏を高唱する外はない。

    三

 しかしながら、この小さい島国が、開国五十年にして世界五大国の一つに位した驚異の躍進と併行し、海軍力の躍進が一層の華々しさを誇つた歴史は消えるものではない。大正の末期、我が海軍は既に世界三大海軍の一つに列なり、昭和十六年の実力は、イギリスと第二位を争う程度に充実していた。それほどの立派な連合艦隊は、悉く日本国民が造り上げたものであつた。我が民族の財力と智力とが生んだ以外の何物でもなかつた。
 またそれを駆使して戦つた将兵は――特に百万の若人は――日本という国の為に、身を挺して国難に赴いた。戦争を決めた少数の犯人は万死に値するが、戦つた幾百万人の犠牲心は、時代が何う変ろうとも、不滅の尊い記録として永えに民族史の上に染めらるべきである。《注:「染めらるべき」は底本のまま。》
 連合艦隊とその人々。艦隊は再び還らないが、日本と日本人とは残つた。問題は、その日本人が、「還らぬ人々」の愛国心と犠牲心とを記憶して、よく己れの戒めとするか何うかに懸かる。連合艦隊を還元するとすれば概算二兆五千億を要するから、それは還らぬものと諦らめる外はあるまい。だが、日本人の心は還元し得るであろうし、また還つて貰わなければならない。いな、屹度遠からずして還るであろう。
 私は太平洋海戦史を書いている間に、民族の正しい認識、犠牲心の尊さ、日本の希望、国民の衿持、といつた感想の湧いて来るのを禁じ得なかつた。右はそうした感想の一端を述べたもので、本書を読まれる人々の感じは各々異なるであろうし、また、それこそ完全に自由だ。本書は唯だ、海戦を出来るだけ正確に調べて、一記者としての批判を書いたものに過ぎない。連合艦隊の最後を弔つたまでである。
 回顧する、昨年の一月には亡妻を弔うために「恒子の思ひ出」を書いた。いま又、艦隊を弔う一冊を書いた。次は、何か大いに興るものを書き度いものである――。

   昭和三十一年一月
               伊藤正徳

 増刊私語(二十五版発刊によせて)
 〇第二十五版が出版される事になつた。
 〇二十五と言う数字は、自分の一番好きな数字だ。多分其の年大学を出て、一人前になつたからであろう。
 〇丁度この時、米英仏三国から訳本が出版される事になつた。
 〇これをもつとも喜ぶであろう妻の墓へ代参をおくつた。
 〇これが丁度、百二十五回の墓参になつた。
  昭和三十七年四月      著者

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  第一章 艦隊成るまで

    一 連合艦隊への郷愁
        立派だつた艦と人とを弔う

「連合艦隊」の名は長く国民に親しまれていた。「聯合艦隊」の字は海国日本の護りとして、安全感の護符のように思われていた。世界第三位の海軍。或る艦種では世界一の海軍。強く、しかもスマートな姿。威容という文字がそのまま当て嵌まつた海軍。それは国民に親しまれ、且つ信頼される十分の真価を持つていた。
 その大海軍が、いかに敗れたとはいえ、影も形も残さないように消え去つたのは一体何うしたわけだろう。昭和十六年十二月八日、広島湾を打つて出た大戦艦十隻の中の九隻が沈没し、僅かに残る一隻の「長門」が、横須賀埠頭に繋がれて砲術学校の教室に使われていたという――敗戦直後ビキニに曳かれて原爆の試験に沈む――一〇〇%の凋落は、そもそも如何にして由来したか。
 敗戦の翌春、文芸春秋は早くもこれを捉えた。連合艦隊の末路について、私に執筆を希望した。私は確信もなかつたし、また、友人の屍を掻き回すような気がして心が進まなかつた。また、仮りに無理をして書いたとしても、今日のような記録は得られなかつたに相違ない。今は敗戦から十ヵ年を過ぎて、一般の気持も漸く落ちつくと同時に、不思議にも(?)、未だ「連合艦隊」に対する回顧の情が、国民の心に活きていることを発見した。四、五回で打切る予定で、時事新報に書いた表題の拙文が、相次ぐ要求によつて遂に八十回の長稿に発展して了つたのは、私の意思であるよりは一に読者の意思であつた。
 思うに「連合艦隊」の名は、残念にも「聯」の字が「連」に変つてしまつたが、それに対する憧憬の回顧は、国民の胸底深く秘められていたようである。曽て東郷司令長官がロシアのバルチック艦隊と決戦するため出動するに際し(日本海海戦。世界名は対馬海戦)、鎮海湾の碇泊地から大本営に宛てた電報に、
 「敵艦見ゆとの警報に接し聯合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し」
の一文は、その後久しく国民が愛誦した名文句であつた。それはまた、戦闘開始に当り、旗艦三笠の檣頭高く掲げられた、
 「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」
の信号――いわゆる「Z信号」――と共に忘れられない感激の文字でもあつた。遡つて黄海海戦(日清戦争の海上決戦)には旗艦松島の勇敢なる水兵があつた。敵艦定遠(当時の世界的巨艦で我が主力艦の二倍大)の巨弾が「松島」に命中して多数の死傷者を出した。その中の瀕死の一水兵が、通りかかつた副長に縋りついて呼吸も苦しく尋ねたのは「定遠はまだ沈みませんか」という一語であつた。副長は感激し「安心せよ。定遠は戦闘不能に陥つた」と告げるや、水兵(三浦寅次郎)は最後の微笑を湛えながら「どうか仇を討つて下さい」と言いも終らず息絶えたという戦さ物語である。その軍歌の結びの句は、
 「まだ沈まずや定遠は
 その言の葉は短きも
 御国を守るくにたみの
 心に永く記されん」
という一節であつた。「国民の心に永くしるされん」と謳つた作者佐佐木信綱博士の悲願は、大部分は既に消えたであろうが、なお一部国民の心底に、不滅の生命を残しているのではなかろうか。
 このような郷愁は、同時に私が曽て海軍担当の海軍記者であつた時代(大正三年~六年)の歓びを呼び戻し、「お葬式」を出さずに死んだ連合艦隊のために、その十年後の新祭壇に立つて、友人総代の弔辞を読む気持に駆られるのである――。
 このとき敬友小泉信三氏が長い感想の手紙を寄せられたが、それは正しく海軍に対する青年の親愛の記憶を雄弁に語るものであつた。小泉氏は慶応義塾の塾長当時庭球部長を兼ねていた。氏の還暦の祝いに旧テニス選手数十名が先生の家に集まつた。丁度昭和二十二年で敗戦の心の傷も未だ生々しく、且つ占領政策もきびしい時であつた。酒がまわつた後、代表が「お祝いとうさ晴らしに何か合唱をしたいが如何ですか」と言うので勿論賛成すると、一同が忽ち大声で合唱したのは実に「軍艦マーチ」であつた。その頃彼等が占領に対して為し得た最大のレジスタンスであつたが、その叫びが「軍艦マーチ」である所に、我が海軍に対する国民敬愛の潜むのを認め、海軍が好きであつた先生も胸を打たれた――というのが手紙の要旨である。

    二 「不沈戦艦」の秘密建造
        世界一の三巨艦の由来

 日本の海軍が世界に話題を蒔いた多くの事件の中で、超大戦艦「大和」「武蔵」「信濃」の建造は其の最も大きい一つであつた。英米の代表的戦艦が三五、〇〇〇トンであるのに、この三艦は七二、〇〇〇トンというのだから、正に内外の驚愕に値した。その裡には多くの悲喜劇が伏在する。当時、国民は全然その建造を知らされなかつた。こんな大きい図体を、人に隠して造ろうとした海軍当局者の心臓も大したものであつたが、其の苦心もまた並大抵ではなかつた。
 その出生も、その死亡も、共に知らされなかつた国民が、執筆中の私に多くの質問を発したのは、海軍への郷愁と相俟つて極めて当然であつた。要約すると、
 「世界最大の戦艦を造つたその造艦の誇りは民族の名を荷うて世界の歴史に永久に刻まれるものだ。徒らに敗戦を嘆くばかりが終戦の回顧ではない。七万二千トンの巨艦は再び造ることはなくとも、日本がそれだけの能力を持つていたという歴然たる事実は、民族の再興に一大精神力を注入するものである。が、戦略戦術の面から、何故に斯かる大戦艦を造つたのか? 不沈戦艦が何うして沈んだのか? 英米主力艦の殆ど二倍に近いような巨艦を、日本が何うして造り得たのか? 今では想像も及ばないが、何所かに欠点がなかつたか? 相撲力士の巨大漢に何所か欠点があるように――。或は戦術運用を誤まつて沈んだのか。それらの真相を知りたい」
というのだ。当然の疑問であるが、その疑問こそは“日本海軍の疑問”であり、その解説の中から幾多の面白い示唆が得られそうである。超大戦艦大和、武蔵、超大空母信濃の秘密建造は即ち海軍戦略の表裏内容を語るものだからである。
 もし神様に聞くことが出来れば、武蔵、大和、信濃の三艦には沈没の宿命を授けておいたと告げるかも知れない。それは條約を破棄する肚を以て建造に着手したものだからである。これら三隻の超大鑑は、一九三六年以降相次いで、長崎と呉と横須賀とに於て、未曽有の大垣根を張り回した造船台の上にキールを据えた。絶対秘密もこの大垣根其の物をかくす術はなかつたが、中身を秘匿し得れば目的を達するという苦心惨憺の造艦であつた。何故隠さなければならなかつたか。(信濃、大和は初めから船渠内建造)
 七万トンの大戦艦は必ずしも條約違反の産物ではなかつた。しかし「平和の神」の目は、つとに日本の條約破棄の心底を透視していた。
 一九三六年の世界危機の当時も、ワシントン軍縮條約は未だ活きていた。日英米の三大海軍国はこの條約の下に戦艦の建造を休止していた。かつて英独の建艦競争が第一次世界大戦の導火線になつた事実を知る政治家達は、今度は日米海軍競争が第二次大戦の口火になることを恐れ(英海軍をも捲き込んで)、一九二二年、ワシントン会議に於て見事に軍縮協定を成し遂げた。有史初めての成功であつた。日本の主席全権、元帥加藤友三郎(日本海軍の最も尊敬されたワンマン。後に首相)は、この協定を成立させる上に大きい役割を演じ、英米のジャーナリズムから雨のような賛辞を浴び、ひいて日本海軍の名を高からしめた。
 日本が「世界三大国」の一つに数えられた嘘のような華々しい姿は、勿論国力の伸長と大海軍の威容とにまつ所が多かつたが、加藤が、英のバルフォーア、米のヒューズという世界屈指の政治家と列んで、いささかも遜色がなかつたばかりでなく、幾度びか会議の難局を打開する主導権をとつたことが、大日本の評価と無関係でなかつた事実を、私は華府で目撃している。
 その加藤は帰国して海軍を一挙に半減した。條約を忠実に守り、世界第三位の海軍力に甘んじ、戦わずして平和裡に国力の発展を期するという大戦略の指導に当つた。部内の強硬派も、陸軍の猛者も、加藤の前では一言も発することが出来なかつた。
 不幸にして、加藤は、五・五・三のワシントン比率(英米日の兵力割合協定)に対する不満を根絶するまで長く生きなかつた。海軍は大切なワンマンを失つた。強硬派が台頭し始めた。強硬派は比率の改訂を主張し、駄目なら條約を破棄しても構わぬという主張であつた。一九三〇年のロンドン軍縮会議当時は、未だ加藤元帥の余勢が残つていた。岡田(後に首相)、財部、野村、山梨、堀といつた智将が要所にあつて協定をまとめた。米内(後に首相)、山本(五十六元帥)等もその後継者であつた。
 ところが、五・一五や、二・二六事件の軍情と表裏を成して強硬派が大勢を支配して来た。一九三五年に約束された第二次ロンドン会議は軍縮協定の運命を決する会議であつた。その重大性の故に、一九三四年に予備会商がロンドンで行われた。少将の身を以て代表に選ばれたのが山本五十六であつた。條約派も反対派も、共に彼の将来に期待をかけたのだ。山本は帰つて筆者に打明けた。
 「来年は先ず絶望だ。次善の策を考える外はない。マクドナルド(英首相)と二人で話したが、流石に偉い政治家だと思つた。親切なおやじの話を聞いているような感じがした」
 山本が加藤友三郎の思想を継ぐ人であつたことは明らかだ。しかし未だ身分が低い(少将)。強硬派の中に和して如何にこれを引摺つて行くかを念ずるのみであつた。
 果然一九三五年の会議は決裂した。日本海軍は初めからその積りで臨んだといえる。残るところは、一九三六年を以て終る「戦艦建造休止の條約」を更に五ヵ年延長し、その間に妥協の商議を重ねることだけであつた。英米はこれを頼るべきただ一本の親綱として平和の橋を渡ろうと願つた。戦艦の建造さえ再開されなければ、海軍競争は一応防ぎ得ると信じられたからである。
 いよいよ一九三六年が来た。世界は日本の態度を凝視した。海軍平和の成否は一に東京霞ガ関の去就にかかつていたからだ。ところがその秋、日本はワシントン條約の延長無用を声明し、協定から脱退する旨を通告したのである。その当時の世界の騒ぎはここで描写しているいとまがない。とにかく、世界政情四面暗澹たる中に、もしも日本が休艦協定の延長に同意したら、それだけが東方を染める一道の光であり、その光を頼つて天下の暗雲を開く術もあろうと希願した世界が、いかに失望の底に叩かれたかは一目瞭然である。
 それほどの大事だ。日本も軽々しく行つたわけではない。海軍部内の自重派はつとに努力を傾けた。元老政治家達も国際日本の不利を深憂した。しかし既に海軍の大勢を支配した條約脱退派(建艦競争派)の怒涛の突進を堰きとめる術はなかつた。
 戦艦「大和」が呉工廠で龍骨を据えるのと、條約脱退の通告が華府に到着するのと正に同時だ。真珠湾の奇襲と宣戦通告とが殆ど同時であつた如く――。

    三 建艦すれども戦争せぬ
        米内海相が議会で確言す

 條約脱退の通告と間一髪に「大和」の建造が開始された。本来ならば神業にも出来ない相談だ。それが出来たところに問題がある。
 ①既に二年前から建艦の肚が決つていた。
 ②設計の青写真が何枚も作られた。
 ③一年前から造船台の準備と諸材料の収集が開始されていた。
 それでなければ大戦艦の建造が條約廃棄と同時に始められる道理は絶対にない。いわんや、日本は英米と同様に、十五年間も戦艦の建造を休止していたのだ。更にまた、日本は三万五千トン以上の軍艦を造つた経験を持たない。英米も同様であつた。そこでワシントン條約は軍艦のトン数限度を三万五千トンに決めていた(註。唯一の例外として英国の既成巡洋艦フッド号の四万二千トンを認めた。そのフッドは大西洋で独艦ビスマーク号のために撃沈されたのは皮肉である)。
 十五年間も休んだ後、三万五千トンから一挙に二倍の七万トンとは、よくも造つたものである。英米の専門家でさえ五万トン級以上には予想しなかつたことを思えば、我が造艦の技術と肝ッ玉とは記録的のものであつたことが回顧されよう。目指すところは、建艦競争再開の日、数では英米には勝てないから質で勝つ外はない。それには英米の思いも寄らない巨大艦を一挙に造つてしまうことだと考えたのである。もう一つの大きい理由は、この大艦はパナマ運河を通過することが出来ないから、他日アメリカが之に倣つても、艦隊を大西洋から太平洋に移動するのに大困難を来すという狙いもあつた。
 かくて一九三六年十一月、條約脱退と同時に起工された戦艦「大和」は、條約が厳存していた間に設計が済んで、世界が休艦延長を念願する最中にキールを据えた。私が前稿に、「神様の目は日本の破約を睨んでいた」と書いたのはこの意味である。天下未曽有の大建艦は見事に成就したが、天意にそむいた運命の末路は前述の通りである。
 しかしながら、ここで誤解のないよう一言しなければならないことがある。それはこの大建艦は條約の精神に反したとしても、建艦の目的は戦争を挑むことでは断じてなかつた、という一事である。
 むしろ、平和の裡に、大海軍の威力を背景として日本の国際的立場の向上を計るという心構えであつた。加藤友三郎の大戦略は、根本に於ては依然として海軍を支配していた。七万トンの巨艦は、英米との交渉に於て必ず「物を言う」し、何国といえども日本を軽視することを許さない「鉄の保障」を打樹てるという思想に発したのである。
 海軍大臣米内光政が昭和十二年冬、議会に於ける質問に答えて、
 「帝国海軍は英米を相手に回すような兵力は持たないし、将来もまたそんな計画をする考えは毛頭持たない」
とハッキリ言い切つたのは、所信を確言したものであつた。この発言は重大である。その時戦艦「大和」は既に造船ドックの中にあり、武蔵、信濃の建造も確定していたことを想起して感慨深いものがある。
 のみならず、当時、日独伊防共協定の強化に真向から反対したのは、海相米内と次官山本五十六であつた。なかんずく、山本は全陸軍を向うに回して一歩も譲らず、刺客に狙われて臆せず、遂に協定案を葬り去つた。「英米を敵に回すような馬鹿はやらぬ」という固い戦略信念は、たとえ「大和」を造つても寸毫も変る所はなかつたのである。
 ただ大戦艦の率先建造が世界の空気を悲観の方向に導いたことは争われない。私は一九三七年秋から翌年春にかけて欧米の新聞訪問をやつた。殆ど例外なく日本の大艦建造が質された。英国の隠れたる大記者グイン(前モーニング・ポスト紙主筆)は、日英同盟の締結当時からの記者で、心からの親日家であつたが、「自分は日本の大建艦は海上勢力の上ではプラスになるが、国勢の大局に於てはマイナスになりはしないかと心配している」と言つた。私は終りに、
 「英米は何故日本に七割の海軍を許さないのか。一割認めれば(当時は六割――即ち英米連合軍の三割)万事解決するのだ。大局から見て英米にそれ位の政治的見識が欲しい」
と述べたところ、グイン氏は同感であり誠に残念だと答えた。私は今でも残念だと思つている(一〇・一〇・六の米英日海軍比を一〇・一〇・七にすれば海軍の不満は忽ち氷解した筈だ)。
 米国に渡つてニヨーヨーク・タイムスの海軍記者ハンソン・ボールドウィン氏(世界的著名)と語つた。同君は「戦艦大和の対空速射砲は、五・五インチ砲十二門だそうだネ」と、筆者よりも詳しく知つていたのに驚いた。彼は別れるときに言つた。「お互いに軍縮論は棚上げだネ。その前に一と戦争やつた後でまた軍縮会議で会おう」と。一九三八年一月のことであつた。軍縮会議どころの騒ぎではなくなつてしまつた――。

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    四 対米戦争の勝算?
        陸軍は盲信し、海軍は疑惑す

 大和、武蔵は造つても戦争は極力回避するという戦略思想が、厳として海軍を支配する限り戦争は起らないであろう。重臣会議が総理大臣に海軍大将米内光政を推したのは、時と人とを得たものであつた。が、陸軍の不満は掩うべくもなかつた。陛下のお口添えで漸く畑陸相が就任したが、畑は間もなく薄弱なる理由で辞表を提出し、そうして陸軍は後継者の推薦を拒否した。筋書通りである。米内が前に海相として日独同盟を峻拒したその仇を討つと同時に、陸軍の意思に反する内閣の流産を示威したのである。米内去つて東條への道が開け、「英米討つ可し」の青年将校の矯激論が政治を動かす動向いよいよ露骨を加えて来た。この下剋上の府に於て、大佐以下の世界を知らぬ連中の親独排米論は完全に将官級を牛耳つていた。石原中将の対満集中論も排斥され、岩畔、辰巳等の米英を知る大佐級は帷幄の外に退けられ、戦争論は滔々として三宅坂から全国に奔流した。
 その時、海軍大将山本五十六は、連合艦隊司令長官として海上にあつた。如何なる内閣にあろうと、もし山本が海軍大臣であつたら、日独同盟には全海軍を背負うて反対したであろうし、対英米戦争には更に強く反対したであろう。海軍が反対なら、陸軍が如何に剣を鳴らしても一人で戦争は出来ない。何たる不幸か、山本は旗艦長門の司令長官室で独り前路を憂うるのみであつた。
 山本を艦隊長官にしたことを、或る軍事参議官は「海上に逃がした」と説明した。東京に居れば暗殺されること必至であり、それは国家の大損害だというのだ。山本としては連合艦隊の長官は武将最高の誉れであり、それを断る理由はない。かくて「軍人は政治に干与すべからず」という詔勅の境域に去つた。
 就任に際し、山本は語つた。「後は吉田善吾にやらせる。吉田という男は、君は知るまいが俺より頑強だ。あれにやらせて置けば大丈夫だから安心し給え」と。これも一つの不幸だが、吉田は内外に迫る神経戦に健康を損じ、間もなく退任の外なきに至つた。その後は、智あれども勇なき人々の登場となり、陸軍に引摺られて渋々ながら深淵に落ちて行くのである。
 近衛首相は、新任及川海相の態度が、米内や山本と違つて陸軍と妥協的であり、段々と引摺られて行くのを心痛し、昭和十六年初秋、山本長官の上京を機会に二人で荻外荘密談を催した。近衛の質疑は、日本海軍が英米と戦争して勝算があるかという一点であつた。山本はハッキリと答えた。
 「一年間なら十分に暴れてみせましよう。それから先は保障は出来ません」
と。つまり長期戦は負けという返事だ。つまり、戦争はやらない方がいい、ということを言外に明示していた。二人とも、英国人のジョン・ブルの粘り、米国民の大和魂に劣らぬパイオニア・スピリットを知つていた筈だ。そこで対英米の戦争は何としても避けねばならないという方針が、近衛の肚にも確然と定まり、対米外交に全力を注ぐこととなり、それがまた陸軍の憎悪を招き、遂に東條の登場となるのである。
 東條到つて天下危うし。と書いては過酷であろう。担がれた将軍が何人であつても、時既に陸軍の総意に反することは出来ない。総意は即ち「英米討つ可し」であつた。学者先生や作家の中から「英米討つ可し」や「大東亜共栄圏」なぞを書き立てる者が輩出する時勢となつていた。今日は、知らぬ顔の半兵衛で、平和論やら中立論で大衆の人気取りをやつている連中が、その時は陸軍の人気取りに走つて、日米交渉を媚態外交なぞと罵倒した言論罪を、大威張りで犯した。野村、来栖の対米交渉は戦争準備の時を稼いだに過ぎない。かくて、長唄を唄わせながら後ろで浪花節の三味線を引いて(来栖大使の諷言)、談判を打ち壊わし、いわゆる「聖戦」の幕を奇襲で切つて下した。
「英米討つ可し」の感情は仮りに百歩を譲つて認めるとしても「英米に討たれては」即ち勘定が合わない。その、討つか討たれるかを判定する唯一の有資格者は海軍当局であつた。何故なら英米は二大海軍国であり、それらの本土は攻むるに由なく、攻められる危険は日本の本土の方であつたから、日本海軍が長く太平洋の海空権を掌握し得るか何うかが勝敗の岐れ目であり、戦争か平和かを決する唯一の鍵であつた。
 時の海軍当事者は、果して山本が近衛に答えたと同じことを東條に直言したか。長期戦の敗北を説いて戦争に反対したか。否な、彼らは唯諾した。時の勢いであつたか? しかし、最高批評家は言つた。
「亡国の責任は主として海軍にある。猪突の陸軍を責めるのは大人気ない。国論も、陛下もこれを抑えることは出来なかつた。ひとり海軍のみがこれを抑え得た。海軍がノーといえば戦争は出来なかつた筈だ。即ち、世界眼を持つていた海軍の屈従に罪がある」と。その通りであろう。問題は海軍を高く買い過ぎるか何うかの一点にある(結論に詳述する)。
 山本は一年以上延びれば勝算なしと言つた。他の提督は何う考えていたか。要するに戦争は野球戦とは違う。九回で勝負が附くものなら、「大和」「武蔵」の痛打力は日本軍を勝利に導いたであろう。回数無限とあつては「大和」も遂に疲敗の運命を免かれなかつた。返す返すも海軍の最高当局に、米内や山本の勇気が足りなかつたことが残念である。第二艦隊参謀長海軍中将小柳富次氏の著書「レイテ沖海戦」の結論に「不同意ながらズルズルと引摺り込まれて行つた先輩当事者の優柔不断に対しては、今日なお多大の心残りを感ぜざるを得ない」と書いてあるのは、海軍知識層の言として之を裏書するものである。

    五 世界に誇つた大造艦技術
        「末恐ろしい後輩」の末路

 一千五百億円――これは戦艦大和一隻の建造費であつた(一トン二百万円換算)。この一事だけでも、日本が未来永劫、こんな軍艦を造れないことは明らかだ。今日の我が国防総予算の全額を一隻で使つてしまつた勘定だから、それだけでも恐ろしい軍艦といわねばならない。同時に、それだけ投じて平気でいられた日本の財力も、今から顧みると恐ろしいくらいだ。
 それよりも、七万三千トン(正確には七万二千八百九トン)、十八インチ砲九門、さらに巡洋艦「最上」級の主砲であつた六インチ砲を、副砲として十二門も装備し、二十八ノットの高速力で走るという大戦艦は、造艦の世界記録として何国も破るものはない。その造艦の野心と技術の方が恐ろしいと言つてよかろう。
 が、日本の造艦は、国民が知るよりも却つて外国に於て夙に優秀を認められていたもので、巨大艦の建造も決して偶然の産物ではなかつたのだ。遡れば、一九〇七年、巡戦筑波が、艦首の衝角(ラム)を撒廃して、これを漁船型に改めた時に、日本海軍は世界の造船界に、「末恐ろしい新人」として登場したのであつた。それまで戦艦の艦首は、水平線から水中に沿うて尖つており、それで敵を衝撃する構造であつたのを、日本が遠距離砲戦には無用且つ速力源の損失もあると認めて逆にこれを引きこめ、一挙に漁船型の舳先に改めたのが、世界の先鞭をつけたのである。
 今の日本の軍艦は、これを批評する材料さえ持たないが、戦前の我が海軍は、世界で一、二を争う多くの資産を持つていた。負けたからといつて冷笑したら大間違いである。
 かつて日本海海戦(一九〇五年)の連合艦隊は、旗艦三笠を初め艦艇の全部が輸入品であつた。今日の自動車界の比ではない。ところが翌年日本が初めて巨艦(筑波)を造るや、忽ち設計の革新を断行して世界をリードした。再び自動車にたとえれば、一躍キャデラックを超越するような新車を造り出したのに等しい。十二分の驚きに値するであろう。
 大正十一年十一月、ワシントン軍縮会議に於て、日本の新戦艦「陸奥」は暫らく会議の話題を浚った。ヒューズ代表の原案は「計画中及び建造中の戦艦全部を廃棄する」もので、その廃棄艦のリストに「陸奥」が加わつていた。加藤全権は直ちに抗議した。陸奥は十月に完成して呉から横須賀に初航海を終つていたからだ。英米は容易に承認せず、約三週間に亙つて論争が展開された。アメリカの記者連は、ムツが明治天皇の名であるから日本が飽くまで頑張るのだと書いたりした。
 その実は「陸奥」の戦闘力が、米の同型コロラド級よりも、また英のキング・ジョージ五世級よりも、遥かに優つていることを承知し、それなら揃つて廃棄する方が有利だと考えたためであつた。序でながら加藤友三郎は、政治的手腕にも秀でていた。陸奥を復活する代りに、英米は各々二隻ずつ復活したら何うか、と提議して難局を治めたのであつた。
 昭和に入るや日本の造艦術は更に一段の躍進を記録した。三千トンの軽巡「夕張」は英米の六千トン級と同一の武装を施して天下を驚ろかした。その延長として、当時有名だつた重巡競争に於て、日本のそれは英米を凌ぐこと次の通りであつた(一万トン巡洋艦の比較)。
 国(艦名)   砲力      魚雷力     速力      防禦鋼
 日本      八吋砲:一〇  二四吋:一二  三四ノット半  舷側四吋
 (那智)    四・七砲:六                  砲塔一吋
 英国      八吋砲:八   二一吋:八   三一ノット半  薬庫四吋
 (ケント)   四吋砲:四                   其他一吋
 米国      八吋砲:一〇  二一吋:六   三二ノット半  舷側二吋
 (ペンサコラ) 五吋砲:五                   砲塔二吋
 優劣は素人の眼にも一目して判る。だから昭和の初期、イギリス東洋艦隊の旗艦ケント(一万トン重巡)が横浜に入港し、我が同型艦「妙高」に招かれた時の感想に、
 「吾々は今日初めてウォア・シップ(軍艦)に乗つた。吾々が今まで乗つていたのはホテル・シップであつた」
と述べたのは、半ばお世辞の名文句でもあるが、半ば軍人の実感でもあつたろうことを附記しよう。同じく、一九三七年、英帝の戴冠式に参列した我が重巡「足柄」を見て、ロンドン・タイムスの記者が「海の狼を迎えて」と書いた拝観記の一節もこれに通ずるものがあつた。
 全艦これ戦闘、という姿が日本の軍艦を表徴していた。そうした内容は、当時の海軍軍人の精神に即応するものであつた。その設計が血を引いて戦艦大和を生んだのである。その技術経験の集積が戦艦大和に帰結したのである。決して偶然の作ではなく、また日本人以外から生れたものでもない。
 ところが、これら世界記録の三大艦が、何れも敵の航空機や潜水艦によつて、僅か半歳の間に相次いで沈んでしまつたのは、何かの因縁とさえ思われる程である。背景は、日本の敗勢がいよいよ濃厚となり、海軍が最後の決戦を強いられた環境に於て、作戦に無理があつたことを第一因とすべきであろう。巨艦そのものは、他の戦艦に較べて絶対に強靭であつた。戦艦武蔵の如きは、パラオ島の近海に於て魚雷三本を射たれながら平然と航海し、本当の不沈戦艦の誇りを天下に示したのであつた(十九年三月)。しかも二カ月後には戦列に復帰し、ビアク作戦にも、マリアナ海戦にも第一線で活動したほどである。

    六 その名高し“無敵艦隊”
        日本の「伝統戦法」奪わる

 「無敵艦隊」とは素より形容詞だ。「不沈戦艦」も同じである。不思議にも、「不沈戦艦」を呼号した戦艦に限つて真ッ先に沈んだ如く、傲る名前の久しからぬたとえを作るようなものであつた。
 「無敵艦隊」とはインビンシブル・アルマダの訳語である。そのインビンシブル・アルマダ(スペインの大艦隊)の第一号は、一五八八年八月、英仏海峡に於て敗走の運命に終つた。ジャパニーズ・インビンシブル・アルマダはその第二号として、昭和十九年十月、レイテ海戦にその大半を失つた。「名前の自慢はしない方がいい」とは、敗れた後にこそ唱えるけれども、当時は全国民がその名にあこがれて国防の安きに感謝したものである。
 笑つてはいけない。我が「無敵艦隊」はその利用を誤らなかつたら正に「無敵艦隊」であり得たのだ。英米といえども、進んで日本の近海を侵す勇気は絶対になかつたのだ。まことに恐るべき海上の威力だったのである。如何にお世辞を安売りしても、現在の我が海上自衛隊の兵力に「無敵艦隊」の名を贈るものはあるまい。それは却つて無礼でさえある。開戦当時の我が「無敵艦隊」は、いささかもその名に恥じない威容を天下に示していたのである。
 大和、武蔵は言うまでもない。それに続く陸奥、長門、扶桑、山城、伊勢、日向の三万トン級戦艦は、決戦陣列の第一陣に金剛、比叡、榛名、霧島の快速戦艦を擁して主力戦列十二隻、その片舷斉射の弾量は、アメリカ主力艦総兵力のそれに優るとも劣るものではなかつた。二大巨艦の参加により、米日の主力艦兵力比は、一〇対六のワシントン比率から一転して、一〇対八の割合を上回つたろう。
 アメリカ海軍軍令部に於ける図上作戦では、西太平洋上に攻勢をとれば、敗戦濃厚なりとの結論に達したので、主力艦中心の渡洋決戦主義を改め、タスク・フォース(機動部隊)の遊撃戦法を推進することに決めた。すなわち航空母艦を戦列の中心に集め、戦艦はこれを護衛する第二次兵力とする部隊を編成し、日本の主力艦隊を爆撃中心で撃砕する戦法である。
 その航母の飛行機を主戦兵器とする方針と併行して、アメリカが考えたのは、潜水艦の活用であり、機動部隊には必ず有力な潜水艦艦隊を伴い、誘導雷撃によつて日本の主力艦を減殺しようと計つたことである。思うに米海軍のこの新作戦は、日本の前記主力艦戦列の優勢を打破し、日本の勢力が減少して米軍の勝利公算が生ずるとき、一挙に制海権掌握の決戦を挑もうとするのである。これ実に、米海軍が日本海軍の伝統戦法を奪つて逆用するものである。ここに面白い物語がある。
 ワシントンで米日戦艦の比率が一〇対六と決まつてから、日本は「漸減作戦」という戦術を案出した。略言すれば潜水艦を東部太平洋に進出せしめ、進撃する米国の主力艦隊に雷撃を反覆して漸次兵力を減殺し、彼我の勢力ほぼ同等となるのを待つてこれを我が近海に撃滅しようというのだ。すなわち作戦の前提は潜水艦にあつた。その航続力と雷撃訓練と隻数とは死活的重要と考えられた。
 一九三〇年のロンドン軍縮会議に於て、日本が潜水艦の保有量を七万八千トンと主張して執拗に戦つたのはそのためである。さかのぼつて一九二二年以来、英米が「潜水艦全廃論」を宣伝して来たのは――非人道的武器と称して――日本の漸減作戦を見抜いてその裏をかくためであつた。ロンドンの潜水艦論争は火を吐いた。結局、日英米三国とも、平等に五万二千七百トンを保有することで決着した。
 我が海軍軍令部には不満の焔が燃え上つた。日本が必要とするのは「平等」の名ではなくして潜水艦の兵力量である。七八、〇〇〇トンは、図上演習百ぺんの後に算出された絶対の所要量である。五二、七〇〇トンでは潜水艦の隻数不足ほぼ十六隻である(大中両型合せて)。すなわち奇襲部隊二隊を失うもので、肝腎の「漸減作戦」に大打撃を与えること必然である。ロンドン條約は帝国国防の危機を招くものである――と。
 ここに海軍省と海軍軍令部との悲しむべき対立が起つた歴史は書いている紙幅がない。東京駅頭浜口首相の襲撃事件さえも、この條約不満と無関係ではなかつたのだ。更に発展して「統帥権問題」の国内闘争を誘致し、やがて議会政治を不具にしたのも、潜水艦の減量に端を発したといえないことはない。それほどの潜水艦は今度の戦争で何をしたというのか。

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    七 “精鋭”潜水艦隊帰らず
        得意の「漸減作戦」も奪わる

 たしかに日本の潜水艦は、無敵艦隊の一翼を荷つていた。日本海軍の造艦の誇りを世界に示した艦型の雄なるものである。その「伊号」潜水艦の新鋭は、燃料の補給を受けずに単艦よくカリフォルニアの沿岸まで往復した。今日問題の原子力潜水艦ノーチラス号(米国)の先祖みたいなものだ。「呂号」に至つても、ハワイ周辺に作戦するだけの航続力を持つていた。さらに第四〇一号は満載四千トンを超えパナマ運河を爆破する目的で建造されたのであつた(二十年一月完成。出撃せず)。
 奇襲夜戦の訓練に至つては、遠く明治二十八年二月(日清戦争)、百トン未満の水雷艇を以て敵の軍港威海衛の防材を乗越え、当時世界に有名であつた「不沈戦艦」定遠号を雷撃沈没させた伝統の誉れを荷つて試煉を積み、「漸減作戦は引受けました」という自信満々の体勢にあつた。それは英米の最も警戒した鋭利なる日本の武器であつた。その精鋭六十四隻(九万六千トン)、日米戦争の詔勅と同時に一斉に出撃した。更に戦争中に百二十六隻を増勢した。戦い終るや、戦果蓼々、約五十隻の老朽艦が作戦不能で繋留されて残つた。あれほど内外の視聴を集めていた評判の潜水艦は、国民に対して何の報告もしないで永眠したのである(勿論、地区的に何がしかの戦果は挙げたけれども――)。
 詳しい原因は別として、また、南洋の暖い海水が我が潜水艦の訓練外であつたことや、居住性の不良が(居住は極度に窮屈にして余力全部を戦闘用に集中していた)長期作戦の能率を減殺したことなどを強く追う必要もない。根本原因は、米海軍の戦術が前述のように一変し、主力艦の集団来襲が姿を消して攻撃目標を失つたこと。それから構造にも旧式な点が発見されたこと(後述する)、更にタスク・フォース(機動部隊)は必ず潜水艦部隊を伴つていたその潜水艦が、戦争の中途から驚くべき進歩を遂げ、明らかに日本の潜水艦を圧倒し去つたことを特記しなければならない。
 知らない間に潜水艦株券の書換は終つていた。日本駆逐艦が、アメリカ潜水艦の接近を知つた時は、敵は既にわれに魚雷を発射して引揚げた後だ。われが魚雷を狙おうとする瞬間には自分は爆破沈没という一〇対零の開きを生じたのだ。これでは如何なる技術も勝てる筈がない。精神力は遂に機械力に負けた。といつて、日本艦艇の機械力は世界最高の水準にあつたのだが、電波兵器の発明が、一九四〇年の機械力を半身不随にしたのである。だから我が潜水艦隊――世界第一であつた――の還らないのを責めるのは当らない。ただ発明力の優劣を嘆くのみ。
 日本が得意の夜戦を封ぜられてしまつたのもそれだ。ガダルカナル戦の最中、トラックの連合艦隊基地で参謀会議があつたとき、食卓での話に「アメリカの機械力は凄いらしい。ブルドーザーとかいうので飛行場を造るのが日本軍の十倍も早い。目で行こう。碧い眼は夜は駄目だが黒い眼は見える。夜戦で行く外はない」と全員一致した話がある。それほどに日本は「夜戦」を誇りとし、十分の自信を持つていた。その得意の戦法を根本から制圧されてしまつたのも同じ理由による。まことに、電探以下の電波兵器は太平洋上の原子爆弾であつた。もとより日本の軍艦にも電波探信儀はあつた。しかし米艦のそれとは精度に大きい相違があつたのだ。
 その上にレーダー射撃が発明された。暗夜レーダーで日本の軍艦を捉え、その電波が同時に大砲の照準を整えて同時に発射するのだ。すなわち真ッ暗闇の中から命中弾が日本の軍艦に炸裂する。「碧い眼」も「黒い眼」も最早や問題ではなかつたのだ。
 米国の潜水艦は強力精密なる電探及び水中測定兵器によつて日本の軍艦を、水上水中とも遠距離に捕捉した。それを撃破することを使命とする日本の駆逐艦は、逆に米国の潜水艦に撃たれた。不沈航母「信濃」を撃沈したのもまた潜水艦であつた。「大和」を沈めた多くの魚雷の中には、潜水艦の発射による大型魚雷が交つていなかつたという証拠はない。いずれにしても、アメリカの潜水艦が挙げた戦果は、アメリカ海軍軍令部が予期していた所よりも遥かに大きかつた(その改められた認識は今日の原子力潜水艦にまで発展している)。
 かくて日本海軍お得意の「漸減作戦」のお株もアメリカに奪われた。発行株式の総額をアメリカに買占められてしまつたようなものだ。それどころではない。日本の「漸減作戦」は敵の主力艦を漸次減勢してゆく狙いであつた。アメリカの「漸減作戦」に至つては、遂に日本国民の生命に指向された。燃料と食糧とは海上で遮断されて行つた。開戦時の船舶六百五十万トンの豪勢(世界第三位)は殆ど無に帰した。そうしてその六三%までが実に敵の潜水艦によつて沈められたのである。
 我が潜水艦不活発の実情と、米潜水艦の活躍については後章の随所に描かれるが、日本の食料、原料、特に燃料を断絶させた凄惨なる統計(敗戦の第一原因)を左に附記しておく。
(得)
 開戦時に於ける日本航洋船舶   五、九〇〇、〇〇〇トン
 戦時中新造           四、一〇〇、〇〇〇
 計              一〇、〇〇〇、〇〇〇
(失)
 撃沈              八、六一七、〇〇〇
 大破航行不能            九三七、〇〇〇
 計               九、五五四、〇〇〇
(因)
 米潜水艦による被害比率          五四・七
 空中攻撃による被害比率          三〇・九
 機雷その他によるもの           一四・四
 右の中、完全撃沈の率を求めると、潜水艦によるものが六三%となる。

    八 超大空母「信濃」の悲劇
        「不沈戦艦」は悉く沈んだ

 緒論の結びとして、日本が極秘裡に建造した世界的三大巨艦の運命について述べておこう。大和と武蔵とに関しては、後章それぞれの海戦を研究する場合に詳述するが、全然戦わない前に沈められてしまつた「信濃」については、ここで一瞥する外に戦史のページを持たない。国民に最も知られないで、しかも最も威力を誇る「不沈空母」であつたのに――。
 そもそも「不沈戦艦」とは虚空の形容詞である。それほどに堅牢であるという誇称には値するが、別に保障のついたものではない。太平洋戦争の劈頭、英国は「不沈戦艦」プリンス・オブ・ウェールズ号を極東に特派して日本の南下攻勢をシンガポール以北に阻止しようとした。ところがこの最新鋭の英艦は我が海空軍の集中攻撃を受けて爆沈し、首相チャーチルが、報告の電話を急いで切つて泣き伏したという物語を残した。
 次いでドイツは、五万トンの不沈戦艦ビスマーク号を大西洋上に放つた。当時世界最大最強で且つ絶対不沈を信じたので、これによつて英米の海上交通を寸断する作戦であつた。英国は大小百余隻の艦艇を以て追跡した。途中二回の会戦に英軍は少なからぬ損傷を受け、国を挙げて問題となつたが、やがてこれを捕捉決戦したとき、止めを刺したのは、巡洋艦ドセットシアを旗艦とする水雷戦隊の魚雷であつた。
 アメリカは固く信じた。日本の不沈戦艦もこの手で沈まぬことはない。武蔵、大和に対しては、砲戦では勝てない。かれらの十八インチ砲は一発必殺の威力がある。戦艦同士の海戦は絶対に回避し、徹頭徹尾航空機による雷撃戦で行けと(註。英米戦艦の主砲は十六インチ砲。この二インチの差が決定的に重大であつた)。その通り、敵艦は武蔵、大和を見るや巧みに逃避し、その代りに無数の飛行機を飛ばした。何十本の魚雷と幾十個の爆弾を惜しみなく投射すれば、その中に海上の城郭も沈むであろう。或は又一群の潜水艦に執拗に接触させ、矢継早やに雷撃を見舞えば何時かは葬ることが出来ると。
 我が超大空母「信濃」に至つては、その建造中から敵の潜水艦に狙われていたのだ。この巨艦は元は大和、武蔵の同型艦として横須賀で建造されていた。横須賀の船台は通路に接していて大垣根で隠匿することが困難のため六番ドックを特別に造つて其の中で造られた(通称秘密ドック)。ところが、真珠湾で航空主兵主義の確信を固めた後は、今後の航空戦力の重大性をも勘案して、途中から「信濃」を空母に改造することに決定した。だからこの巨大艦は下半身が戦艦、上半身が空母という畸形児的な、しかも考えようでは強靭なる航空母艦であつた。ただ、改造のために工事が大和よりも三年近く遅延し、昭和十九年十一月に至つて漸く完成したのである。
 しかしながら六万八千トン、搭載飛行機四十七機(未載沈没)というのは素より大なる威力である。その甲板は二十糎と十糎甲鈑で二重に造られ、その上にセメント、ラテックス、ソーダストを練り合せた厚板を張り、五〇〇キロ爆弾を弾き飛ばす防禦力を持つていた。設備の細目は省略するが、設計はとにかくも最新式の集積であつた。ただ.戦勢非にして急遽参戦を要したために、艤装に手を抜いた憾みは大きかつたが、しかし其の出現はアメリカの一つの脅威であつた。
 七万トン空母の偉大さを証明する物語がアメリカにある。数年前、海軍卿フォレスタルは六万トン空母の新造を決意して設計も終了し愈々予算という時に、部内及び議会内に反対論が起り、両者譲らず、海相は遂に辞職し、後に病歿するという悲劇を生んだ。ところが三年後に大空母論が再び勝利を占め、五万九千トンの空母にフォレスタルの艦名を贈つて最近に就役した。それを思えば、その十五年前に、六万八千トンの大空母を造つた日本海軍の思想と技術とは、歴史の上に永久に残るべきであろう。
 精魂を罩めて四ヵ年、昭和十九年十一月十一日に信濃は横須賀湾内に浮び出た。この日は第一次世界大戦の終つた日で「平和記念日」であつた。戦争とは凡そ縁の遠い日であつた。戦争の大局は愈々非、海軍はレイテ、マリアナの両海戦で空母の大部分を失い、「信濃」を待つこと、炎暑氷水の比ではなかつた。各種の試験を十分に行う暇もなく、艤装も間に合わぬものは略し、乗員の訓練も施さず、大急ぎで四国松山の連合艦隊訓練地に参加しなければならなかつた。十一月二十八日午後六時、巨艦は大阪湾仮泊のスケジュールを以て出陣した。歴戦の駆逐艦浜風、磯風、雪風が護衛した。六メートルの北風が吹き、空には月が寒かつた。
 二十九日午前〇時半、見張員は水平線の彼方に黒い一片の影を認めた。「雲か敵潜か」が四名の兵員間で論議されたが一致せず、当直将校と副長とに報告して認定を乞うた。二人の将校は代る代る望遠鏡を覗き、「あれは雲だ」と判定した。誤認と決まつたので、駆逐艦への警戒命令も、自艦の蛇行航法も取止め、速力二十ノットで一路南下を続けた。
 ところが午前三時十二分、見張員が、白波の間に魚雷の航跡を発見してアッと驚いた時は既に遅かつた。四本の大型魚雷が殆ど直線をなして進撃し来り、第一発目は既に百メートルに迫つていた。信濃の巨艦はモウそれを回避する暇がなかつた。命中は三時十三分と記録され、立て続けに他の三本が殆ど同一箇所に命中炸裂して、左舷中央水線上部に大穴をあけてしまつた。海水の驚くべき大量が奔入し、最新式の排水管もこの自然の勢には勝てないことが間もなく判つた。
 が、魚雷の三本や五本で沈むものか、という自信(実は自惚れ)が、阿部艦長以下の心に先入観となつていた。だから艦は依然として第三戦速(二十ノット)で航進を続けた。大阪まで乗切ろうというのだ。近くに港湾を求めるとか、沿岸に擱座して乗員の命を救うという考慮は、航続の自信の下に消されていた。ところが浸水は止まず、艦の傾斜は熊野沖――潮岬一〇〇浬の地点――に至つて遂に五十度に達し、遂に「総員退艦」の悲痛なる命令が下された。
 艦長阿部俊雄大佐は責任の重きを負うて艦橋に止まつた。傍らに軍艦旗を身体に巻きつけて悠然と立つた一人の若い士官があつた。十八年に兵学校を最優秀で卒業した端麗なる青年士官安田督少尉である。彼れは被害後沈没までの間、海図をひろげて艦の位置、時間、地点等を平常通り記入し、一分の乱れも見せず、責任の最高度の目盛りを示し、生還した同僚の回顧尊敬の涙を何時までも誘つた。いよいよ艦首だけが水面に残つていた時、波間から見ゆる二人の影がそこにあつた。艦長と安田航海士に相違なかつた。君の名は、信濃の生還者九百名の中に見当らなかつたから。また、沈没の寸前、両陛下の御写真に気が附いて挺身搬出し、キャンバスに包み浮袋を附して水兵に托した若い将校があつた。沢本中尉である。幸にも御写真は駆逐艦浜風の舷側に漂着して、中尉の心は酬いられた。
 沈没の時間は午前十時五十五分である。だから魚雷を被つてから実に七時間四十二分も航海を続けたのである。伊勢湾に入るくらいは十二分に可能であつた筈が、不沈を過信して大阪行を墨守し、ために約五百名の将兵を熊野灘に水葬する結果となつた。顧みるに、〇時三十分の敵潜の疑問に対する不用意、三時十二分の雷跡発見の遅滞、排水の不手際、艤装の未完成、その他幾多の原因を数え得るであろうが、根本は、直衛機数機を附して早朝に出航する方が安全率は遥かに高かつたろう。況して爆弾では沈まない筈の不沈空母を、敵潜出没海面に夜間航破の途を選んだ最高当事者こそ、最高の責任者でなければならない。何人が決定したかは判然としないが、いずれにせよ、其の当時の上層部の情況判断には、迷えるものが多々あつたことを争えない。
 仮りに夜間航破を経済的と認めたとして、それなら一ヵ月前のレイテ戦出陣第一日の戦訓が生々しく残つていた筈だ。潜水艦二隻が栗田艦隊の北進を十月二十二日の夕刻発見、その夜全速力で追い抜き、二十三日未明に完全奇襲を行い、我が重巡三隻を一挙に撃沈破した晴れ業を承知の筈である。然らば「信濃」の夜行に関しては、それに学ぶ警戒法を執るべきであつたのに、何等それらしい措置も見えず、日本海軍の最後の造艦本尊を完全に徒死させてしまつた。
 其の年十二月直ぐに査問委員会が開かれた。建造も、沈没も極秘だから、調書も勿論世に出ないまま、終戦時に焼き棄てられて了つた。いま生存委員について質すと、大きい原因は、艦長以下が不沈を過信して二十ノット航進を続けたことと、更に大きい一つは、乗員が右舷注水を行つて艦の平衡を保つのを怠つたことであつた。先に戦艦武蔵が、十九年十月廿四日、魚雷十数本を受けて比島シブヤン海に沈むや、午後七時三十五分に於ける最後の姿は、前後の砲塔が水上に一線を成していた程の平衡沈下を示した。乗員の熟練によるものである。信濃の場合には、一、四〇〇名の乗員中、八五〇名が軍艦の航海は生れてから初めてだというのだから、平衡注水の観念も方法も不十分であり、七時間半も傾くままに航海して遂に五十度の転没点まで達したのだ。全く嘘のような情けない話である。
「信濃」は一砲も打たず、一機も飛ばさず(松山で積む予定)、竣工してから僅々二十日の後に、いな正式武装成つて出航してから僅か十七時間目に、唯だ単に海底に沈んでしまつたのだ。是れ、世界に於ける軍艦寿命の最短記録であり、六年の苦心一日に消ゆ、という文句そのままの運命を嘆いた。これは単なる出来事ではなかろう。條約破棄の肚で秘密建造を行つた其の産物に対する神の呪いであるとでも考える外に、この悲劇を諦らめる術はなかつた。

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