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カテゴリ: 連合艦隊の最後(1956刊)

  第二章 真珠湾の回想

    一 世界的の大奇襲
        今日の原子奇襲の警戒

 太平洋戦争は真珠湾に明けた。奇襲作戦は軍の最上層の僅か一部しか知らず、日本の国民は悉く知らず、アメリカの軍民は素より知らない所へ落された爆弾であつた。そうして、それは当時の最有力の武器、即ち航空機によつて実施された。今後の最有力の武器は原子爆弾である。それを以て「真珠湾式」に奇襲されたら、太平洋艦隊全滅どころの騒ぎではない。国が全滅するかも知れない。
 アメリカがソ連の奇襲を警戒して飽くまで心を許さないのは実に其のためである。真珠湾の体験を次の原子奇襲に置き換えて国防を考えているのだ。国交断絶の通告の三十五分前に奇襲爆撃が開始されていたのだ。それが若し原爆水爆を以てする一千機の各都市一斉攻撃であつたとしたら、勝敗は其の時に決まつて了うではないか。原子兵器の禁止、原料の国際管理、軍事相互査察、空中撮影、等々、幾多の国際的話題は、その源を真珠湾に発していると言つても過言ではない。
 それほど重大な真珠湾奇襲であつたが、その戦況は既に広く知られ、本書に於て改めて詳記するのは無用の筆を重ねるものである。そこで、或は正確に知られて居ないだろうと想われる点、及び奇襲の準備と、更に当時の連合艦隊の「実力」を理解する為の作戦事項等について考察を試みることにしよう。
 真珠湾攻撃は戦争ではない。日本海軍は戦争をしたが、米軍は戦争をしなかつたからだ、と書くのは極端であろうか。しかし、これは史上未曽有の大奇襲であつた。アメリカ艦隊は殆ど戦う遑もなかつた。だから、両軍の作戦や技術を基調として勝敗の戦史を書くことは出来ない。剣道に於て、一方の剣士が道具もつけずに横になつている所を、他の剣士が無断で打ち込み、前者は竹刀を持つ遑もなく素手で受けて致命的に叩かれてしまつたようなものだ。この場合、叩かれた剣士の力倆を批判するわけには行かない。ただ突然襲い掛つた剣士日本の力倆は、相対的には批判し得ないけれども、なお一方的には十分批判の対象になる。
 一、三千浬を発見されずに忍び寄つた航法。
 二、雷爆攻撃の技術。
 三、その戦法戦術を達成するに至るまでの訓練の経過。
がそれである。そうして最後に、
 「天佑はかかる方法で戦端を開いた者の上に長く恵まれるかどうか」
という考察である。第四の点は必ずしも真珠湾奇襲のみに関係するものではないが、前の三つは、ありし日の海軍を忍ぶ好個の資料となるものである。《注:「忍ぶ」は底本のまま。》
 この作戦は絶対無条件の奇襲を前提として初めて成立する。空母群がオアフ島の二百浬圏から飛行機を発進させ、それが湾上に現われるまで発覚しないことを條件とした。事前に見附けられたら、日本の遠征艦隊は、遥か優勢なるアメリカ太平洋艦隊のために撃破され、飛び立つた航空隊は島内にあつた六百機の米空軍のために食われ、太平洋戦争は第一日にして早くも勝敗を決定してしまうからである。それほどの大賭博であつた。
 一隻、二隻と別々の航路をとり、或は佐伯湾から、或は呉から、横須賀からというように、ぼつりぼつりと単冠(ひとかつぷ)湾(千島群島エトロフ島)に集まつて行つた。どの艦も、何の目的かは全然知らされていない。また如何に想像力の強い艦長でも、三千浬も遠方のハワイを奇襲するなぞとは思いもよらなかつたからだ。十一月二十二日に全軍の勢揃いが完了した。その兵力は次の通りだ。
 空襲部隊(南雲中将)
  空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴。
 支援部隊(三川中将)
  戦艦比叡、霧島。重巡利根、筑摩。
 警戒部隊(大森少将)
  軽巡阿武隈。駆逐艦谷風、浜風、浦風、磯風、霞、霰、陽炎、不知火、秋雲。
 補給部隊(極東丸特務船長)
  給油船極東丸、健洋丸、国洋丸、神国丸、東邦丸、東栄丸、日本丸。
  註。別に航路哨戒に今泉大佐の潜水艦隊三隻と、ミッドウェー航空基地破壊に、小西大佐の駆逐艦二隻が派遣された。
 翌二十三日、奇襲計画が初めて全員に開示された。若い飛行機搭乗員は躍り上つて歓んだ。一発で米の巨艦を撃沈するンだ。男子の本懐を絶叫したのは当然である。が、司令や幕僚は同じく欣喜雀躍の裡に重い心痛を感じた。
「三千浬の秘密航進」、「洋上の燃料補給」、「米海軍の哨戒圏潜入」がそれであつた。十年間の統計をとると、この北太平洋の十二月は、荒天が二十四日で静かな日は七日に過ぎない。果してハワイまでの十二日間に洋上補給可能日があるか。またその間に船舶に出会つたらどうするか。米国の汽船や漁船なら尚更だ。特にハワイの一日前あたりで出会つて、一本無線をうたれたら万事休すである。一に天佑に俟つ外はない。
 天佑は未だ吾れにあつた。何十年振りの好天気に恵まれ、また一隻の船にも会わず、更に土曜深夜で米軍の哨戒飛行にも発見されず、航行陣型一糸も乱れずに、十二月八日未明、ハワイ近海の予定地点に到達したのである。
 初め海軍軍令部はこの大賭博戦に反対であつた。先ず南方作戦に集中し、その一段落の後に米海軍を邀撃する方針であつた。この方針は日本の海軍が三十年守り通して来た謂わば伝統の作戦方針であつた。即ち明治四十二年に「帝国国防方針」が議定され、アメリカを第一想定敵国と定めて以来、内南洋の列島線(マリアナ群島からマーシャル群島)に於て決戦を行うことを基本作戦とし、それに沿うて訓練を重ねて来たのだ。
 然るに山本長官は断乎として真珠湾奇襲を主張して譲らず、論争一ヵ月の後、永野軍令部総長の一言で真珠湾攻撃が決つた(十一月三日)。山本は前掲の三大難点に対し、
 「天佑吾れにあれば攻撃可能なり。途中失敗するようなら、天佑なきものと観念して全作戦を放棄すべし」
 と言い放つた。全作戦の放棄とは意味極めて深長であり、或は戦争の放棄までも含んでいたかも知れないが、いずれにしても彼れの不退転の決意を示す言葉であつた。

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    二 大奇襲着想の由来
        作戦計画に応ずる猛訓練

 真珠湾奇襲について、記憶すべき重要なる一つの事実は、その作戦計画が、昭和十六年即ち開戦の年の五月までは、日本海軍の頭に全然存在しなかつたことである。
 それまでは、前述の通り、内南洋でアメリカ艦隊の進撃を待ち受け、逸を以て労を待つ、という孫子の兵法に則る邀撃決戦しか考えていなかつた。アメリカ海軍も亦、この海面に進出する方式として「渡洋戦法」を考案し、その航法として「輪型陣」を案出した。それに対して、日本は潜水艦を以て「漸減作戦」を行い、兵力伯仲した所を、戦術と個艦の優越とを以て彼れを撃滅するという方針であつた。初めの二十八年間は戦場を、小笠原諸島とマリアナ列島の線に想定したが、山本長官になつてその戦線をマーシャル群島の線にまで延伸し、更に昭和十五年七月頃、彼れは更にこれをハワイまで進展する夢を描くようになつた。その夢は、我が海軍の航空戦術が意外に進歩し、昭和十五年上半期の演習で、その航空兵力が艦隊決戦の主兵として立派に役立つことを確認した時に結ばれたのであつた。
 昭和十六年一月、山本は彼れの片腕であつた大西滝治郎少将(当時第十一航空艦隊参謀長)を呼んで内密にハワイ航空攻撃の可能性を研究するよう委嘱した。四月に大西は成案を山本に手渡した。山本はそれを見てひそかに決意を固め、五月に入つてその作戦を艦隊の正式研究問題として幕僚に示した。艦隊には懐疑論が多く、草案者の大西少将まで「成否は五分五分だから熟慮再考されては如何」と山本に進言したほどであつた。が、山本の信念は巌の如く、七月にこれに沿う訓練を航空戦隊に内命した。
 それは艦隊の訓練方針であつて、一に艦隊長官の権限内のことである。航空兵力の最大限の利用を策案する長官の任務の一つでもあつた。既にして昭和十二年の渡洋爆撃(南京空襲)以来自信を高め、その後、年々猛訓練を重ね来つた航空戦隊は、その高々度爆撃に於ても、急降下魚雷襲撃に於ても世界で集め得る総てのデータを遥かに超越する成績を挙げていた。恰かも国際競技に於て、日本人が水泳に適することを誇示する以上の適応性を、天晴れ飛行機の急降下雷爆戦の上に発見していた。山本大将は昭和十五年初夏、これを旗艦「長門」の艦上で痛感し、一躍ハワイ航空戦のヒントを得たものである。
 このヒントは、万一戦争になつた場合には、従来の守勢邀撃戦法よりも、攻勢先制戦法の方が得策であるという見地に立つて作戦訓練を実施することを意味する。同じく「攻勢防禦」――offensive defence――の戦略であるが、その戦線をハワイ海域に進め、その手段を航空奇襲に求める一点が革命的であつたというに過ぎない。本来、作戦目的は毎年一月初頭、軍令部総長から之を艦隊長官に指示し、長官はそれに従つて目的達成の手段を考案訓練するのが常規であつた。作戦目的は二十数年相変らず「アメリカ艦隊の撃滅」であつた。その目的達成の手段が、昭和十六年夏になつて、マーシャル海戦からハワイ航空戦に変針されたものに過ぎない。
 即ち、日米戦争を企図して真珠湾奇襲を案出したものでは絶対にない。むしろ正反対に、山本は日米戦争には大反対であり、筆者自身も彼れの口から何度聞いて同感の握手をしたか知れない。しばしば世上援用されている山本長官の近衛首相への確言――「日米戦争となれば海軍は半歳や一年は大いに暴れて御目にかけるが、それから後は自信なし」――は即ち戦争反対の表明であり、また彼れの某氏に与えた書簡に「アメリカと戦争するならワシントンで城下の誓いをさせる覚悟が必要だ」とあるのも、対米戦争なぞは愚の極だという意味でしかなかつた。現に開戦の二十日ほど前、山本は上京して永野と会見した時、野村大使の日米交渉好転の報を聞き、二人で祝盃を挙げた事実さえあるのだ。
 話を作戦訓練に戻せば、山本長官に命じられた航空奇襲の訓練は五カ月に亙つて真に猛烈を極めた。まことに、優れたる技倆のみが、大艦隊を一瞬に屠り得るのである。凡技を以て臨めば失敗は明瞭である。そこで従来に輪をかけた猛訓練が始つた。鹿児島の市民が海鷲の曲芸といつて見物した訓練は、城山の上空から岩崎谷に来て急降下し、谷間を縫い、山腹を旋回し、海岸に出ると更に超低空に降りて同時に魚雷発射の演習をやるのであつた。搭乗員も何故にこんな危ない曲芸の訓練をやるのか全然見当が附かなかつたことは言うまでもない。
 それはオアフ島真珠湾の水面が狭隘であり、背面の山から降りると市街に高層建築が乱立し、直ぐに海面となつて、その手の届く対岸に軍艦が碇泊している地形を対象とする実地訓練のようなものであつた。なおこの危ない激しい曲芸訓練には、少なくとも百機以上が参加していたのに、一機の事故もなかつたほど、海空軍の練度は高かつたことも記憶していい。十月になつて軍令部から凄く大きい荷物が第一航空戦隊の旗艦「赤城」に贈られた。開いてみると、一坪以上の大きさの真珠湾の模型であつた。攻撃担当参謀の源田中佐は毎日その前に坐して頭を練つた。攻撃隊長を予定されていた淵田中佐は、その地形に慣熟して隊員を訓練した。なお四百機以上が参戦するので、訓練は鹿児島の外、出水、鹿屋、佐伯等八力所で昼夜兼行的に続けられた。
 操縦の外に大切な武器の研究は、訓練に劣らぬ苦心の下に完成された。戦艦の防禦鋼を貫くための特殊徹甲爆弾と、その有効高度の実験も生易しい仕事ではなかつた。特に深度の浅い真珠湾内の雷撃に用いる魚雷の新造とその発射法には最も頭を悩ました。従来の魚雷では、近距離の浅い海では殆ど効果がないのだ。
 鋭意研究反覆の後、
    発射高度        初速度    機首角度
 (A)一〇~二〇メートル  一六〇ノット  水平(零度)
 (B)    七メートル  一〇〇ノット  四・五度
 の二方式で八〇%の命中を得ることが判つた。そうして特に沈度の小さい新型魚雷を必要とし、その確信を得たのは九月中旬であり、製作間に合わず、空母「加賀」が出港を十八日までギリギリに延期して最後の魚雷を積み込んで単冠湾で分配したような苦心を重ねたのであつた。

    三 見事なる攻撃
        正確と余裕とを見る

 廟議が開戦に決したのは十二月二日であつた。この計画の機密保持のため、関係艦隊の間は隠語で電報を交換した。有名な「新高山登れ」――攻撃を決行せよの意――の電報は、二日に山本長官から発せられた。幸い海上平穏、予定時間に真珠湾の真北二百三十浬に達した。
 昭和十六年十二月八日午前六時(東京時間一時三十分)、攻撃の第一波百八十三機(爆撃機五一、攻撃機八九、戦闘機四三)が見事に各艦から飛び立つた。見事というのは、発進の際に艦の動揺が片舷十度を越せば不可能に近いとされていたのを、その日は十五度の大傾斜に拘らず全機無事故で発進した技倆のことだ。熟練の限度を見せたようなものである。一時間をおいて第二波百六十七機(爆撃機七八、攻撃機五四、戦闘機三五)がこれも同様の見事さを以て飛び立つた。
 最後に死活の重要な岐れ路があつた。真珠湾上空までの所要時間は一時間五十分前後だ。敵の基地防衛隊は六基のレーダーを備えていた。この電波探信儀は、四、五十浬に迫る頃には飛行機の大群を捉えるかも知れない。事実その一基は七時半頃北方上空に飛行機の運動ありと報告している。上官の一中尉は床の中で半睡で読んで半信半疑で起き出した。そうして恰度その時分に本国から飛来する筈のB17の一隊があるので、それと思い込んで放つておいた。その一隊は何も知らず時刻通り着いて忽ち日本の制空隊に全滅させられてしまつた。側杖の最も残酷なるものである。さて、感附かれたら「完全奇襲」は不可能になつて「強襲」を決行しなければならない。
 両者の戦法はハッキリ違う。完全奇襲の場合に於ける攻撃順位は、第一に雷撃隊である。肉薄攻撃を必要とし、またそれが可能だからだ。次が爆撃隊の番になる。飛行場や工場を攻撃して硝煙天を焦がして了うと軍艦攻撃の邪魔になるから、降下爆撃は最後にする。
 反対に「強襲」になると、先ず戦闘機が制空戦を戦つて突撃路を開き、次に爆撃隊が突込み、その混乱に乗じて最後に雷撃戦を行うという順序だ。勿論、効果の上にも行動の上にも大きい相違が生ずるが、さてその孰れかを確認するのは、真珠湾の上に到達してから一万何千フィートの上空で行い、即座に各攻撃隊の展開順位を命じなければならない。
 淵田中佐が湾上に顔を出して見おろすと、団雲の隙間に真珠湾だけが青空を展げ、しかも泊地は日曜日の朝の静けさを保つて横たわつていた。忽ち全軍突撃の命令が発せられた。時に七時四十分、東京時間で午前三時十分である。そうして各攻撃隊が雷撃を実施したのは、七時五十五分から八時五分の間に順を追い、おのおの一時間に亙つて攻撃を反覆した。
 入れ違いに第二次攻撃隊が殺到した。午前九時前後である。その頃は硝煙が文字通り全空を掩い、凄絶形容の言葉もない修羅場と化し目標の視認は困難を極めた。そこで各隊は断然低空に降りて爆撃すること一時間、中には十数メートルの電線を尾輪に引ッかけて帰還した者があつたほどの勇猛なる戦闘を演じた。
 この三百五十機の大攻撃隊の中、実に三百二十一機が母艦に帰つて来たのは驚くべき生還の数字であつた(喪失二十九機)。まして挙げた大戦果に対此して驚嘆の外はなく、要するに猛訓練の結果としての航空将兵の練度が如何に高かつたかを語ると同時に、「奇襲」の着想が、時ならぬ花を戦史の上に飾つたものでもあつた(大戦略の上からの是非の批判は別として)。
 その戦果をアメリカ側の発表から拾うと、
 ◇沈没――戦艦ウェスト・ヴァージニア、同アリゾナ、同カリフォルニア、同オクラホマ、同ネヴァダ。巡洋艦以下六隻。
 ◇大中破――戦艦メリーランド、同テネシー。巡洋艦以下四隻(残艦悉く小破)。
 先ず太平洋艦隊の水上部隊は全滅といつて差支えない(空母がいなかつたのはアメリカ側の天佑であつた。これが其の後に大なる影響を及ぼすのである)。そうして当時の戦果の報告(大本営発表)が、前掲のアメリカ戦後の公表と大差がなかつたことは、攻撃隊の落着いた攻撃振りを雄弁に語るものであつた(その後の戦果発表は嘘が大半であつた)。また命中率も驚異的であつた。米軍発表によれば雷撃五五・三%強、水平爆撃二四・四%強、急降下爆撃四九・二%強というのだから、演習よりも好成績であり、精度の高さに改めて嘆賞を贈らざるを得ない。
 更に敵飛行機の破壊は二一九機に達し、我が空母群を追撃する敵の戦力を完封して、無事に戦場を離脱したのである。

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    四 特殊潜航艇の参戦
        開戦第一日に特攻精神

 真珠湾攻撃の詳しい戦況は多くの著書に譲る。本章の数回は、「連合艦隊の最後」を分析解明する必要上、その「最初」に一瞥を与えるのと、それから海軍滅亡の作戦上の根因をなした航空兵力滅亡の跡を検討する関係と、またその機会に、奇襲戦の着想実施に関する正確な記録と、幾つかの記憶すべき物語とを要約紹介するために書く。
 既にして立派な航空母艦、訓練された各搭乗者達、その挙げた未曽有の大戦果について、読者は記憶を新たにされたことであろう。しかし同時に国民を感銘させた「特殊潜航艇」の攻撃については、戦果が不明であつただけに、記憶から消え去る可能性が多いと思われる。だがこれは決して小事件ではなかったのだ。レイテ湾の決死作戦、最後の菊水作戦、また神風特攻作戦、或は回天作戦という一連の兵術思想が、早くも真珠湾の開戦第一日にその一端を顕現した意味に於て極めて重大なのである。
 特殊潜航艇ははぼ必死の兵器であつた。長さ二十四メートル、直径二メートル弱、排水量四十六トン、潜航五時間、魚雷二本、電池推進の怪物であつた。潜水艦がそれを真珠湾頭まで抱いて行つて放す。艇は敵の戦艦に接近して雷撃するという構想である。この発案者は、当時中尉であつた岩佐直治、松尾敬宇という殉忠一徹の青年士官達であつた。それは開戦の三ヵ月前の出来事である。一見して「一割生還主義」(レイテ戦の章参照)と相容れない。山本長官は、襲撃後に収容不可能の故を以て却下した。九月末、収容法を研究して再度具申したが、山本は生還の見込みがない計画として却下した。中尉達は諦めず、その後何回も長官に直訴し、逐に熱誠を以て山本を動かしたのである。山本は、甲標的――海軍ではこう命名していた――の帰還性能について更に研究を命じ、大改良を加えて(航続力十六時間に増大)十一月中旬に漸く完成した。
 もつとも特殊潜航艇は新しいものではなかつた。源を遠く「人間魚雷」――日露戦争の頃――の着想に発し、昭和十四年に採用決定、十五に第一号が就役して「豆潜」と呼ばれ、開戦の年には二十隻近くが「甲標的」の名で実在した。が、本来は艦隊の決戦前後の混乱時に使用する目的で造られ(動力が尽きれば脱出可能)、厳重警戒の敵軍港内に潜入して戦う兵器ではなかつた。敢てこれを戦うには、超人的の肝ッ玉と技術とが必要なことは言うまでもない。また、今は亡き燃ゆる愛国心が、若い血汐を沸騰させて、山本と雖も触れることが出来なかつた、その赤誠の迸りでもあつた。今の人が、冷やかに顧みて不可解と思うであろう犠牲の血は、日本民族の中に伝承されて一つの通念を形成したものの如く、この決死行に、多数の志願者が現われて選定に入学試験的困難を現出したのは、今は昔の物語であるが、漸く下記十名が合格の名誉をになつた。岩佐大尉を初めとし、古野、横山の両中尉、広尾、坂巻の両少尉、佐々木、横山、上田、片山、稲垣の各兵曹が、五隻の甲標的に分乗(一艇二人)、十二月八日午前三時から三分の間隔をおいて、順次に湾口へと発進された。攻撃は空襲後か、その夜間かを自由に選ぶ筈であつた。そうして攻撃後はラナイ島西方七浬に浮揚待機している潜水艦に辿りつく計画であつた。
 ところが真珠湾の入口附近は浅瀬が多く、一本の深水路の入口には防潜網が張られ、米艦艇の出入時だけ開くことになつていた。だから我が特殊潜航艇は、その近傍で待機し、敵艦艇の通過した尻について潜入する外に途がなかつた。アメリカの戦闘公報によれば、午前三時五十分頃、掃海艇コンドル号が自分と並行して湾口に航進中の小型潜水艦らしきものを発見し捜索したが見失つたと報告している。幸い午前五時から八時まで掃海艇入港のために網を上げていたのでその時間に潜入したのもあろう。
 いずれにせよ、艇の故障のため擱座、人事不省となつて捕えられた酒巻少尉の外は悉く戦歿して戦績を知るに由なく、ただ空襲中に「機雷注意」の警報が盛んに発せられた事実により、その活動を想定するだけである。恐らく敵艦を沈めた魚雷の中には、決死の隊員が魂を込めて打ち込んだ四十五センチ魚雷の何本かが加つていたであろうことを信ずる外はない。
 なお、発案者で選に漏れた松尾中尉(ハワイ視察。帰国遅れる)は心平かならず、翌年五月シドニイ湾内に潜航戦を強行して名誉の戦死を遂げた。以上は真珠湾作戦の輝ける戦果の蔭に埋れるには余りに芳ばしい人の犠牲であつた。

    五 戦略的に失つた説
        第二回攻撃を諦めた回顧

 真珠湾作戦は、戦術的には世界的大奇襲の成功記録として史上永えに残ること必定である。一に山本五十六長官の着想にかかるが、その起源は遠く山本自身の航空重点主義――大佐の時から航空方面担当――に発し、次いで昭和十五年の連合艦隊演習に於ける航空機の威力確認に示唆されたこと既述の通りだ。更に彼れの信念を固めた一つの要素は、イギリス地中海艦隊がその艦上機を以て夜間伊太利タラント軍港を奇襲し、碇泊中のイタリア軍艦に多大の損害を与えた戦訓であつたろう(主として雷撃)。
 面白いことは同じ戦訓をアメリカも見逃さなかつたことだ。即ち昭和十六年一月、海軍卿ノックス氏は、スチムソン陸軍長官に宛てたハワイ防備計画に関する提案に於て、
 「碇泊中の軍艦に対する雷爆撃成功の英国の戦例に鑑み、日米戦争起れば敵の真珠湾奇襲に先ず備えねばならぬ。その危険は第一に飛行機による雷撃爆撃である。故に戦闘機並びに防空砲の増加、対空レーダー設備に対して最高の優先を賦与せねばならない云々」
と述べ、ス長官は同感を答えて現地防備軍にこれを指示したのであつた。何分にも宣戦布告前の奇襲であつたために、防備が効果を発揮しなかつたまでである。その無念と、その逆用とが「真珠湾を忘れるな」の警語となつて全国民の復仇の戦意を沸き立たせることとなつたのである。このリメンバー、パール・ハーバーの一語が米国の戦争遂行に一〇〇%効を奏したことは明らかであり、随つてアメリカの史家は真珠湾奇襲を日本の戦略的敗北と定評するのである。前年のルーズベルトの有名な選挙演説は活きていた。「私は繰返し、また繰返し、更にまた繰返して誓う。諸君の子弟は決して海外の戦場に送られるようなことはない」と言つた「繰返し演説」の誓約の縄を解いて了つたことを意味するのだ。
 顧みるに最初の計画では、野村大使がハル長官に国交断絶の通告文を手渡してから一時間後に奇襲を実施し、国際法を干犯しない手筈であつた。後に時間差を三十分に改めた。ところがその覚書は五千語に近い浩瀚なもので、それを十四部に分割送信し、ワシントン時間の十二月七日午後一時に米政府に手交する筈であつたところ、翻訳やタイプが間に合わず、野村大使が国務省に駆けつけた時は午後二時二十分となり、攻撃は既にその三十五分前に開始され、日本の大使が手交した時にはハル長官は戦闘情報のラジオを聴取中であつた。かくて無通告戦争の罪を犯すことになつたのである。
 そのまた裏面を見れば、日本の通告暗号電報は、十二月七日午前八時に米国海軍省で解読され(情けない話だが)、十時少し前に、国務省に届けられた。軍令部長には九時十五分に報告されている。勿論宣戦布告ではないが、これをハワイ及び比島に飛電して防備に就かしめれば、真夜中ではあつたが(ハワイの午前二時前後)、完全奇襲は免かれた道理ではある。事実、マーシャル参謀総長は午前十二時に各海外の軍司令官宛に「戦争警告」の緊急電を発したが、ハワイ着は空襲中になつた模様である。
 いずれにしても、アメリカの対策の遅速はアメリカの問題であり、日本としては戦争通告の一時間前に戦争を行つたという事実を如何ともすることが出来なかつた。
 通告が予定通りだつたら、真珠湾奇襲は作戦上の一大傑作であつた。その結果、とにかくも所定の南方作戦を予期以上の速度で完了することが出来たのだ。ただ一つの課題は、アメリカ海軍では「レーンボウ作戦計画」というのが確定しており、開戦となれば比島以下は運命に任せ、艦隊主力は六ヵ月乃至九ヵ月以内に、マーシャル或は西カロリン群島の線に進出して対日決戦を行うことになつていた。もしこれが偵知されていたら、山本はハワイ奇襲を冒険しなかつたろう。マーシャル群島近海の邀撃決戦こそ、日本海軍が三十年の朝夕に訓練を積んで来た海軍戦略の本筋であつたからだ。しかし開戦前は、米艦隊が直ちに南方作戦を側面から脅威し来るものと判断し、それを防止する思想に駆られて真珠湾に赴いた訳で、要するに仮想の争いに帰するのである。
 終りに攻撃自体について言えば、南雲艦隊が一回の空襲「(二波に分けた)だけで、颯々と引揚げてしまつたのは、甚だ勿体ないことをしたという説である。あれだけの戦果を挙げれば、風の如く去る方が兵法にも適しており、慾を張ると却て失うという駁論もある。しかし、当時第二航空戦隊司令官山口多聞少将が主張した第二回攻撃を断行し(飛行隊は準備された)、残された大きい獲物として巨大なる石油貯蔵庫と、艦艇修理工場とを爆破炎上させたならば、我が方も犠牲は出たではあろうが、アメリカ海軍の復興は更に大いに遅延したことに間違いなかろう。
 アメリカの戦史家はこれを力説して日本海軍が小成に安んじたと言う。アメリカ海軍なら危険を冒しても反覆攻撃を断行したであろうと言う。後からの戦評は、結果論として自由に書けるが、数機を以て石油タンクを爆破していたら真珠湾奇襲は天下公認の満点であつたろうことを附記しておく。

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  第三章 順風満帆の緒戦

    一 マレー沖海戦に至る
        プリンス・オブ・ウェールズ出現

 世界海戦史二千年、戦闘形式幾変遷、その全く新しい型の一つが、昭和十六年十二月十日、マレー半島のカンタン沖に出現した。日本の飛行機と、英国の戦艦とが、雷爆撃と対空砲とを以て勝負を決したのである。
 日本側は海空軍基地航空部隊の九十五機、英国側は新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスの二艦(他に護衛駆逐艦三隻)であつた。決闘一時間半にして、不沈戦艦と誇称された巨艦は撃沈され、世界は驚愕の目を以てその戦果を再考また三省した。
 主力戦艦と飛行機とどちらが勝つか? これは既に久しく論議されてはいた。もとより単純な問題ではない。一対一なら勝負にはならないが、飛行機の大群が襲い掛かれば勝敗は判らない。結局それは両者攻防の陣形や、環境や、戦運や、その他多くの要素に関連するものとして、現実に戦つてみなければ判らぬという結論になつていた。
 マレー沖海戦はその勝負を現実に示した点に於て一つの革命的戦闘ということが出来る。正直にいえば、日本の海軍もこの戦果に驚いたのであつた。イギリスが驚いたのは当然であるが、アメリカは驚きと同時に忽ち対策の確立に直進し、以後、海戦の様相を一変する基礎を築いた。その革命戦闘の情況を一瞥しなければならない。
 そもそも此の一戦は何うして発生したか。その経過は回顧の価値がある。
 十二月二日、廟議が対米英開戦と決定するや、マレー攻略部隊は勢揃いを急いで四日に海南島を出港した。八日を期して奇襲上陸を敢行するためにはこの日を最後とする。近藤中将の第二艦隊と小沢中将の第三艦隊が、支援と護送の任務を担当した。この海面は、真珠湾奇襲部隊が北太平洋を航進するのと違つて他国の商船に遭う危険も多く(シンガポール~香港航路を横切る)、仮りに其の方面でも天佑があつて商船に出会わないで航進し得たとしても、既に警戒飛行を実施していた英国空軍に発見される場合も予期せねばならなかつた。果せるかな、六日午後、仏印南端カモウ岬の沖合でイギリスの大型哨戒機に発見され、奇襲上陸の企図は暴露されたと危ぶまれた(五日未明にはノールウェーの汽船に遭遇している)。そこで小沢長官は、爾後接触し来る飛行機は撃攘すべきを命じ(後に一機を撃墜した)、一路予定の航路を進み、十二月八日零時から、シンゴラ以下六カ所に上陸成功、ただコタバルの上陸は敵の空襲を受けて難闘した。しかし、恐るべき敵は其の後に現われようとしている。
 これより先き、十二月二日、イギリスは新東洋艦隊の編成を発表したが、その主力艦二隻が新鋭不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号と高速戦艦レパルス号であることが明らかとなつて、我が海軍は大きい衝撃を受けた。従来は其の艦隊は一万トン重巡ケントを旗艦とする巡洋艦隊であつたのが、一挙にして英海軍の至宝とされるプリンス・オブ・ウェールズ号(キング・ジョージ五世号と共に)を派遣したことは、英国の決意のほどを示すものであつて、事実に於ても、それは英国の東洋防衛の自信を示すものでもあつた。何故ならば、日本海軍は、この新鋭戦艦と太刀討の出来る軍艦を南洋に割くことが出来なかつたからである。
 これを具体的にいえば、我が海軍の主力戦艦の中で、プリンス・オブ・ウエールズ号と略ぼ対等に戦い得るのは長門、陸奥の二艦に過ぎず、近く竣工する「大和」はこれを制圧し得るけれども、他は彼れの新式十四吋主砲の前には勝算を予言し得ないのが実情であつた。況して当時の我が海軍南方部隊は近藤中将の第二艦隊を根幹としたが、その主力は金剛、榛名の次等二戦艦であり、その十四吋砲は彼れの砲力には遥かに及ばず、一方に小沢中将の機動艦隊も空母を伴わない艦隊(空母は真珠湾に行く)で、主力は重巡五隻(鳥海、熊野、鈴谷、三隈、最上)に過ぎなかつたから、敵の二戦艦に対しては鎧袖一触に近い敗勢を覚悟しなければならなかつた。
 だから十二月九日午後二時十分、我が潜水艦伊六号がプロコンドル島南方(仏印)に、英の二戦艦を発見した旨を急報するや、折から上陸作戦中の各船団は色を失い、急遽タイランド湾に逃避した。斯く非戦闘の船舶を去らしめると同時に、近藤長官はタイ国の基地にある航空部隊に夜間接触を命じ、自らは水上部隊の全勢力を率いて敵に向い、その夜は先ず第七戦隊(重巡四、駆逐三)と第二水雷戦隊(駆逐一〇)とを以て夜戦を挑み、空十日未明より第二艦隊(戦艦二、重巡二、駆逐一〇)が合同して昼間決戦を断行する計画を樹てた。砲の威力は及ばないが、この大切な緒戦に、敵に後ろを見せるような日本の海軍ではなかつた。戦術と精神力と数とを以て勝利を期したのであつたが、昼戦となれば遠距離の巨砲戦となり、結局は戦艦二隻同士の戦闘に帰着するので、砲戦勝利の公算は英国に六分以上の利があるところを、射撃の術に依つて補うべく、将兵は悲壮の覚悟を以て一夜を明かしたのであつた。
 緒戦には天佑なお吾れにあり、敵戦艦部隊の快速南下のために我が艦隊は追い附けず、一度重巡熊野の搭載機が発見し、次いで、伊五九潜が発見したがスコールの為に見失い、結局、翌十日の航空戦に任せることとなつたのである。

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    二 海空軍の驚異的戦果
        単独にて戦艦を屠つた経過

 偉勲を樹てた我が海空軍の先鋒は、昭和十六年十一月、仏印に三つの飛行場――サイゴン、ツドゥム、ソクトラン――を建設して展開を整えていた。元山、美幌、鹿屋の各航空隊から選出された空襲部隊四隊であつて、兵力は偵察機六、戦闘機三九、攻撃機九九の合計一四四機であつた(第一航空部隊と称した)。
 航空部隊が敵発見の報に接したのは十二月九日の午後五時十分で、出撃には既に遅かつたが、戦意溢れた荒鷺は直ちに攻撃を冒険することになり、六時偵察四機、六時十五分爆撃一八機、七時雷撃一五機を発進し、十日の午前一時まで索敵したが敵艦を認めることが出来なかつた。かくて未明まで残余の総兵力を整備し、午前六時二十五分、偵察隊の九機が、進出距離六〇〇浬と二五〇浬の二線に分れて進発、続いて爆撃隊三四機が七時五十五分に、更に雷撃隊五〇機が九時三十分に飛び立つた。
 進撃方向はシンガポールであつたが、往航には遂に敵艦を発見することが出来ず、各隊無念の歯を食いしばり乍ら空しく帰路に就いた。十中の九までは敵を逸し、そうして其の敵が日本の水上部隊に大打撃を与えて戦勝を誇示したかも知れない危い瀬戸際を、遅れ馳せに飛んだ第三番索敵機が救つた。前節に「天佑」と書いたのがそれである。三番機は索敵線の中央を半ば諦らめながら帰航中、偶然にもカンタン沖五十浬の海上を南下中のプリンス・オブ・ウェールズ以下四艦を発見したのである。
 その発見の報を、各攻撃隊は機上にて傍受し、機首を戻して全速戦場に殺到したのであつた。発見の時と場所と所持の燃料とから見て、これは大戦果を挙げるギリギリの線であつた。敵艦発見は午前十一時五十六分、即ち出発から五時間半を経過している。話を聞いて第一に反転殺到した白井隊(美幌部隊)の爆撃開始が十二時十四分であり、鹿屋空軍の雷撃三隊が最後に参戦した時は一時に近かつたことを考えても、それが攫み得た最終の機会であつたことが判る。
 而して我が海空軍の勇敢な攻撃と技倆とは、真珠湾戦勝の蔭に蔽われて世上の認識を薄くした観があるが、実はそれに優るとも劣るものではなかつた。(イ)対空設備に新式の工夫を凝らした新鋭戦艦を、(ロ)その全力戦闘――奇襲に非ず――に直面して撃沈した手並は、碇泊中の軍艦を奇襲によつて沈めたのとは別な角度から評価して然るべきものと思料されるからである。
 プリンス・オブ・ウェールズの魚雷回避運動は幾分緩慢であつたらしい。しかし其の対空砲火は、日本の戦艦を遥かに凌駕するのではないか、というのが攻撃隊員の実感であつた。それを事実に徴しても、第一攻撃隊の八機は、高度三千メートルに於て被弾五機を数え、第二回目に突入した雷撃隊石原隊は、防禦砲火と炸裂弾のために、反対舷から突入して来た僚機を見失うほどに熾烈であつた。それよりも驚いたことは、最後に武田隊の八機が、正に沈まんとするプリンス・オブ・ウェールズ号に止めの爆撃を加えた時、三千メートルの高度に於てなお五機に命中弾を被つたことである。
 統計をとつてみると、雷爆撃を実施したのは七十五機(爆撃一小隊不参加)であつたが、その中で、三機が撃墜、一機が大破不時着、二機が中破、二十五機が被弾要修理という数字であり、即ち対空砲の命中率は二戦艦を平均して四一%強という驚異的な成績であつた。その得意とする八聯装ボンボン砲と、二十聯装機関砲とが、日本機何するものぞ、とばかり射出した自信のほども察しられるのである。
 ただ、雷撃機に対する射撃が、爆撃機に対するよりも弱かつたのは、平素の訓練の相違に原因するものであつた。即ち、英国の雷撃機は、時速九〇浬乃至一〇〇浬の機速で魚雷を発射するので、対戦射撃も其の速度に慣れていたのが、日本の雷撃機は一五〇乃至一九〇浬の高機速で発射を実施したので、所謂タイミングが外れ、手許が狂つたことを指摘し得るのである。図示する如く、敵艦の致命傷が専ら魚雷に基因したのは、我が雷撃機の数が多かつたこともあるが(雷撃五〇機、爆撃三四機)、一つはその活躍を多く許した砲火不十分(割合に)の点を挙げなければなるまい。
 雷撃の実績を検すると、プリンス・オブ・ウェールズ号には十五機が襲い掛かり、その発射雷数十五本の中で七本が命中した。命中率四六・七%である。レパルス号に対しては襲撃機数三十五、発射雷数三十四本の中の十四本が命中した。命中率四一・二%であつて、共に平時訓練以上の驚くべき成績を挙げている。命中個所を図示すれば上の通りだ。

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 かくて高速戦艦レパルス号は、十四本の魚雷の集積効果によつて爆沈したが(二時二十分)、後述するような世界無類の強力なる日本海軍の魚雷を十四本も受けて頑張つた艦体構造の堅牢さは特筆に値する。想い起す、日本の戦艦を改装した当時(華府條約後)、その砲塔に穴を開ける場合、日本製の各戦艦に用いたドリルを以て「金剛」に用いたら何うしても穴があかない。金剛は外国製(ヴィッカース・アームストロング社)の最後の一艦であつたが、職工ばかりでなく海将達も英国の鋼の堅さに舌を捲いたことがある。その堅さに近代的工夫を施した戦艦だから、艦齢二十年のレパルスでも強力魚雷十四本に堪えたのであろう。
 プリンス・オブ・ウェールズに至つては、更に数段の進化を具現した堅艦であり、先ず以て「不沈戦艦」の第一号としてシンガポールに現われたわけであるが、七本の中の五本が次々と急所を射て速力が六ノットに減じたところを、五百キロ爆弾三個(一個は舷側海中の有効弾)が火薬庫の爆発を誘致して致命傷となつたものだ。それでも約三十分浮んでいて二時四十五分に完全に姿を消したのである。
 プリンス・オブ・ウェールズと戦つたのは二十五機であつた。その雷爆撃によつて世界的堅艦も遂に撃沈されたというニュースは、海戦法式に一大革命を起したこと前述の通りである。その当時、一部の批評には、直衛機を伴わずに敵の制空権内に行動した英将を無謀だと言つたが、後に判明した記録によれば、司令長官トム・フィリップ中将は、それを百も承知で出撃している。即ち二戦艦の出撃には戦闘機掩護の絶対に必要なことをシンガポールの総司令部に再三力説したが、機数不足の故を以て申請が容れられず、さりとて軍港内碇泊の愚は論外として、今日の危機に出動しないわけには行かず、依つて五隻の快速部隊を編成して牽制威圧の短期行動を試みたものである。幕僚の退艦懇請にノー・サンキューと一言して沈んだフィリップ提督は英海軍の至宝、また海空軍の権威であつた。其の霊に聞くことが出来たなら、航空主兵主義の確認と、併せて日本海空軍の勇戦に賞讃の一語を惜しまなかつたであろう。

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    三 スラバヤ以下の海戦
        連合国の艦隊を悉く屠る

 太平洋戦争の戦史最初の五十ページは、未曽有の華々しさを以て染められる。陸に於いては「何々攻略作戦」が矢継早やに予定通り成功し、海に於ては大小五つの海戦が何れも大勝利の裡に初幕をおろした。陸軍は、満洲と支那大陸に大兵力を割かれたので、南方作戦には僅かに十一個師団、七百機、船舶三百九十万トン(海陸軍併せて)を動員したに過ぎない。海軍は、山本長官の第一艦隊が広島湾にあり、南雲中将の空母艦隊が真珠湾に赴いたので、第二流の兵力を派遣したに過ぎない。これを以て、比島を五十日、マレー方面を百日、蘭印を百五十日で占領する作戦計画を、殆ど計画通りに実現したのだから、正に順風満帆の言葉をそのままの成功であつた。
 南方作戦に於ける海軍の任務は、敵艦隊を求めて決戦するよりも、先ず上陸作戦を支援することであつた。護送を主とし、決戦を従とした。故に、海戦は敵の艦隊が我が船団を攻撃して来た時に生起する筈で、我が方から海上掃蕩戦を実施するだけの計画は持たなかつた。主力近藤中将の艦隊は次の編成であつた。
 戦艦二隻(金剛、榛名)。
 重巡一二隻(愛宕、高雄、鳥海、熊野、鈴谷、三隈、最上、妙高、羽黒、那智、足柄、摩耶)。
 軽巡七隻(川内、鬼怒、神通、長良、那珂、球磨、由良)。
 駆逐艦四〇隻。
 潜水艦一五隻。
 これらが、本隊、仏印部隊、護衛部像、四つの急襲部隊、空襲部隊、機雷部隊の九隊に分割されて南方攻略を支援したのである。一に纏つた艦隊として作戦するのではなかつた。而して敵の南方海軍兵力――米のアジア艦隊、英の東洋艦隊、蘭の極東艦隊、濠西の艦隊――に対比すれば、昭和十六年十一月の現勢に於てはこれで十分であつた。金剛、榛名の二戦艦に太刀討の出来る敵はいなかつたのである。そこヘプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二大戦艦が俄かに加わつて来て、今度は形勢が逆になつてしまつたのである。この二艦を中心として前記の各国軍艦を編成すれば、勇将近藤信竹の胸底にも勝算は疑われたであろう。したがつて、この二艦を屠つたマレー沖の海空軍の手柄は、一日で南方作戦の全面を救つたとも言い得るのだ。その二大艦亡き南方海上は、日本も金剛級を要せず、重巡を主力として其の任を全うし得る公算である。
 昭和十七年二月二十六日、四十一隻の輸送船団を護衛してジャバ攻略に向つた第五戦隊(重巡那智、羽黒、第二及び第四水雷戦隊)は、スラバヤの北西方六〇浬の地点に於て敵艦隊の出撃し来るのを認めた。太平洋戦争に於ける初の艦隊海戦が起つた。両軍は共に緊張して遠方から砲戦を交えたので敵は早々に逃避したが、やがて我が軍が小部隊なのを見極めて夕刻に反転攻撃し来り、夜半までに二回に亙つて砲雷戦を交えた。
 この海戦で日本海軍最得意の機密兵器が敵味方を共に驚ろかした。九三式強力魚雷がこれである。これに就ては後に詳しく書く機会があるが、その特徴は、英米の魚雷の射程が速力三十二ノットで八、〇〇〇メートルに対し、実に四〇、〇〇〇メートルに達するという五倍の威力を持つ点だ。二〇、〇〇〇メートルなら五十ノットの高速で走り、しかも航跡が見えないという特質をも兼備しているのだ。二十六日夜十二時、我が強力魚雷は一挙にして和蘭巡洋艦デロイテルとジャバ、英駆逐艦エレクトロラ及び蘭駆逐艦コルテネールの四隻を轟沈してしまつた。他の敵艦はこれを機雷に触れたものと信じた。やがて同一海面を日本の軍艦が疾駆するのを見て不可解を禁じ得ず、それが遠距離魚雷であつたとは戦後まで信ずることが出来なかつた。この戦いは「スラバヤ海戦」と呼ばれるが、別の名を「強力魚雷海戦」と称しても差支えなかつたろう。将兵は艦橋甲板に雲集して、大砲の届かない遠方を航海中の敵艦が、高く大火煙をあげて沈んで行く光景を、花火を見物する余裕を以て眺めていたという。
 越えて二十八日、第七戦隊(重巡熊野、鈴谷、三隈、最上、第五水雷戦隊)は五十六隻の船団を護送して作戦中、アメリカ・アジア艦隊の旗艦ヒューストン、濠洲巡洋艦パース、和蘭駆逐艦エバステンの三隻が船団襲撃に来たのを捕捉し、これを砲撃によつて悉く撃沈した。二万メートル前後の距離で、訓練を積んだ重巡の八吋砲は高い命中率を示し、艦隊砲戦に就いて平常習つた通りを実戦で演出したようなものであつた。この「バタビヤ沖海戦」も前掲の「スラバヤ沖海戦」と共に、緒戦を飾つた楽隊入りのニュースであつたが、三月一日の午前十一時、前記の第七戦隊はジャバ沖を警戒中、英巡洋艦エキゼター、駆逐艦ホープ及びエンカウンターの三隻を発見し、偶々附近海面にあつた第三艦隊の足柄、妙高と共に之を包囲し、砲戦によって撃沈してしまつた。
 この相次ぐ三つの海戦によつて、南方にあつた英米蘭濠の連合国海軍兵力は、米国駆逐艦四隻のバリー海峡突破脱出を許した以外は悉く撃沈し、完全に制海権を掌握して南方攻略戦の後顧の憂いを絶つた。一方、真珠湾で偉勲をたてた南雲中略の機動部隊(空母赤城、蒼龍、飛龍、戦艦比叡、金剛、榛名、霧島、重巡利根、筑摩、軽巡阿武隈、駆逐艦八隻、補給艦六隻は、二月十九日にポートダーウィンを空襲した後、二月末にジャバ方面に雄姿を見せたが、敵艦隊の掃蕩には此の威力を煩わす必要もなかつた。真珠湾からマレー沖、それから蘭印に移つて戦われた三つの海戦により、僅か百日の間に、連合国の水上艦隊は東亜の戦場から完全に一掃され、皇軍の武威高く揚り、何人も三年半の後の降伏を予想するものはなかつた。

    四 珊瑚海の戦術勝
        海空軍の成功と攻勢終焉

 勢いに乗じた海軍は、印度洋に進出中の英国艦隊にも一撃を与え、間接にビルマ作戦を支援するに決し、三月九日に第二艦隊に第一航空艦隊を加えた兵力を出撃させた。同時に米英という二大海軍国を敵とするような作戦は、兵理の上から成立しない筈であつたが、今は現にそれを戦いつつあり、緒戦の勢いは、それさえも成立するかに見えた。
 印度ベンガル湾の掃蕩は、箒で玄関先を掃くように雑作もなく片づいた。進んで四月五日にはコロンボを急襲し、脱出した英国巡洋艦ドセットシア及びコーンウォール号を追うて忽ちこれを撃沈した。蒼龍飛行隊長江草少佐指揮の艦爆五三機を以てした。適確な攻撃は前者を十三分、後者を十八分で沈めた。戦意も技術も満点の攻撃隊であつたから命中率八八%という嘘のような成績を記録した。引続き四月九日、トリンコマリを急襲、基地の空軍、船舶、施設を粉砕し、返す刀でセイロン島東岸を遁走中の空母ハーミスを撃沈した。これまた八二%の命中率を挙げて我が海空軍の高い戦力を示し、かくて印度洋の作戦を完勝の裡に終つた。
 息つく暇もなく、今度はMO作戦が下命された。モレスビー、ナウル、ツラギ、オーシャン各地の攻略戦であつて、要は東ニューギニアの要衝モレスビーに航空基地を進め、ここから濠洲に爆撃を指向しようというのだ。兵力は原忠一少将の指揮する空母瑞鶴、翔鶴を中心に、重巡六、軽巡三、駆逐一五(その他小艦多数。陸戦隊、設営隊の船団十四隻)である。
 筆者は寡聞にして斯かる計画が戦前の日本海軍に存在したことを知らない。いかに外郭防衛線の進展とは言つても、モレスビーから濠洲爆撃を策する如きは、安全性を自ら放棄するに等しい遠征であつたが、「勢い」はそれを可能と信ぜしめたに相違ない。心の驕りもそれを手伝つたことは確かだ。しかも現実には、兵力的にそれを可能、いな簡単とさえ思わせる勢いであつた。珊瑚海の勝利が之を実証した。
 このMO作戦は米濠にとつては容易ならぬ脅威であつた。米は空母二、重巡六、駆逐一三の外に濠洲の巡洋艦二隻をも加えて我が攻略を懸命に阻止しようとした。五月八日未明、両軍の索敵機は互いに相手機動部隊を発見して、開戦以来最初の艦隊航空戦が展開された。吾れは瑞鶴、翔鶴、彼れはレキシントン、ヨークタウンで共に新鋭空母の太刀討であつた。
 この海戦に於ても、我が海空軍の技倆はアメリカのそれを一段抜いていた。戦闘で失われた我が飛行機数は三八機であつたが、アメリカ側は六六機を失つた(米軍公表)。しかも我が攻撃隊は米の主力空母レキシントン(日本の赤城と同等で排水量三万八千トン)を撃沈し、同じく空母ヨークタウンを中破し、油槽船ネオショーと駆逐艦シムスを轟沈した。日本の失つたものは僅かに駆逐艦菊月と小艇三隻に過ぎなかつた。改装空母祥鳳は前日に輸送船団の上空護衛を担任して退避中に空襲されて沈んだ。それを加算しても、珊瑚海海戦の勝利は明白である。
 このとき空母レキシントンを襲つた爆撃機は十九発の爆弾を投下して十発の命中を得(五三%)、魚雷は十四本中の九本が命中したから比率は六四%という素晴しさであつた。レキシントンは巡洋戦艦として建造中であつたのを、華府会議でサラトガと共に空母に改造を認められたもので、日本の赤城、加賀と対抗するもの、その甲板や一般防禦鈑は戦艦並みの堅牢を誇つていた上に、この機動部隊の防禦砲火は、印度洋の英艦とは大人と子供ほどの相違があつた所から見て、当時の我が海空軍の強さを実証して余りがあつた。
 もしも更に一回の攻撃を加えていたら、ヨークタウン号は、ミッドウェー海戦を待たないで此の一戦で撃沈していたであろうし、第一次ソロモン海戦(八月八日)の勝利半途の引揚げ(もう一回攻撃を加えれば敵の輸送船団三十余隻を撃破することが出来た)と共に、「勝を粘らない」海将の心理として惜勝の例に数えられている。が、レキシントンの沈むのを確認し、ヨークタウンの航行困難の有様を見ては、勝利を祝つて引揚げても少しも可笑しくはなかつたろう。
 註。ミッドウェ一戦で我が空母赤城を沈めたのはヨークタウン号の攻撃機であつた。同艦は其の後に撃沈された。この海戦の為め、日本のモレスビー攻略船団は途中から引返し、海上からの進攻作戦は中止となつた。故に、アメリカは珊瑚海々戦に於て戦略的勝利を収めたと主張する。即ち、戦術的には敗けたが戦略的には勝つたという意味であつて、必ずしも自讃ではない。

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  第四章 ミッドウェー海戦

    一 太平洋戦争の敗因第一号
        艦隊決戦を急いだ一戦

 戦局を大観して、専門家が「これは怪しいぞ」と勝利を疑い出したのがミッドウェー海戦であり、「これは駄目らしい」と半分諦めたのがマリアナ海戦であつた。この二つの海戦が、連合艦隊から「航空兵力」を奪い去り、「大和」「武蔵」の威力を空虚に終らしめたのだ。もう一つ加えれば、ソロモン消耗戦があるが、要するに、国民に余り知られない敗因の根本が、この二大海戦にかかつていたことは間違いない。大戦果の大本営発表とは正反対に、亡国の悲しむべき大原因がそこに根ざし、それが「連合艦隊の最後」を運命づけた真相を述べねばならない。
 昭和十七年春の戦勢は、国民が勝利の花見に酔うことを是認していたように見えた。真珠湾の大勝利は明らかに米海軍の戦力を封じたので、比島からインド洋に亙る大作戦は、順風満帆裡に早くも一段落を告げた。殆ど傷つかない無敵艦隊は、相次いで懐かしい祖国の港に帰つて来た。戦争がこの辺で終るものなら万々歳だが、問屋は卸ろさなかつた。問屋は「戦争はこれからだ」というのである。米英は戦争に負けたことのない国だ。日本と同じであつた。途中いかに苦戦しても、最後まで戦つて終局に於て勝つた歴史を持つ国々である。パイオニア・スピリット(米)の不敗魂と、ジョン・ブル(英)の粘着力とは、第一次大戦を四ヵ年戦つて、遂に緒戦の勝者ドイツを降伏させた生々しい事実を持つていた。
 両国を知悉する評論家達が、圧迫されながらも、対米戦争論に抵抗を続けたのもその故であり、また軍令部総長永野修身大将が、十六年九月六日の御前会議(和戦の方針決定)に於て「対米戦争も二年は持ち耐えますが、それから先は判りませぬ」と奉答し、また連合艦隊司令長官山本五十六が、十月初旬、近衛首相に対し「一年くらいなら十分暴れて御目にかけましよう。しかしそれから後は自信がありません」と確答したのは、孰れも己を知ると共に敵(アメリカ)を知る者の言であつた。その山本大将の「半年」は大成功裡にすぎ、いまや「一年」の下半期を迎える重要なる「時限」が、十七年五月に到来したわけである。「それから後は自信がない」という「残りの期間」中に山本は如何に打開の途を拓こうとしたか。達識の山本は、朝野酔える時に独り醒めていた。彼れの心を常に圧していたのは真珠湾で撃ち漏らしたアメリカの有力航空母艦の存在と、新造された何隻かの戦艦であつた。特に航空兵力の決定的威力を認識していた山本にとつては、サラトガ、エンタープライズ、ヨークタウン、ホーネット等の一流空母が厳存する事実であつた。
 つまり、米海軍得意のタスク・フォース(機動艦隊――昭和五年頃着想)の中核は無疵で残つており、やがて日本の北から南方に蜿蜒三千浬と拡大された戦線を切断するであろう。何としてもこれを撃滅しなければならない。
 現に空母ホーネットは、十七年四月十八日に東京を空襲して市民の肝を奪つた。海軍が護る日本の表玄関を破つて奥座敷を荒したものである。忠義の提督は、聖慮を驚かした罪を感じたことでもあろうが、それよりも、本土を敵の空襲から護るための哨戒は、敵が高速の正式空母(速力三十ノット)を有し、そうして勇敢なる戦法を実施する限り、事実不可能なことを知つていた。
 日本にレーダーの設備乏しく、専ら小艦艇を以て太平洋東正面の沖合六〇〇浬を哨戒する、疎にして微弱なる網の目は、高速空母が破ろうと思えば何時でも破れるに決まつていた。何としても空母を叩いてしまわない限り、市民は枕を高くして眠ることは出来ない。山本の戦意は責任感と共に脈打つた。が、それはいわば附随的の理由であつたろう。山本が決意したミッドウェー作戦の根本理由は他にあつた。「一年」の後に処する海軍用兵の常道、即ち「艦隊決戦」是れであつた。換言すれば、第二の真珠湾を戦つて、海上決勝のケリを附けることであつた。つまり、全勝の勢いを駆つて――無疵の大艦隊の威力を以て――敵の残兵力を撃滅することだ。我が全きを以て敵の半ばを打てば百戦危からずと考えたのは、作戦思想として素より当然であつた。大きい疑問はその準備の一点にあつた。

    二 “長期戦の自信なし”
        妥協に望み、早期決戦急ぐ

 そこで海上決戦に全勝すれぼ、あとは政治家の戦局収拾に一任しよう。長期戦では勝ち味がない。アメリカといえども、あと三、四年は反攻の見込みがないと判れば、妥協平和の途も自ら通ずるであろう――というのが、永野、山本両提督の一縷の望みであつた。両人ともワシントンで駐在武官の履歴を持ち、よくアメリカの国民性と戦争史とを知つていたから、日本が彼れを屈することは出来ない(陸軍は簡単に屈し得ると誤算している)。ただ一時的ながら絶対有利の戦勢を背景とすれば、或は妥協が出来るかも知れないという「一縷の望み」を抱いたわけである。また、海軍としては、悠然として敵の復興を待つているのは下策だ。この辺で相当の賭博を打つても海上決戦を試みることは、戦略の大局からみて至当であつた。また、こうでもしなければ打つ手が無かつたとも言えるであろう。
 問題は、その戦場をソロモン方面に求めるか、或は真正面のミッドウェー方面に求めるかの是非に懸つていた。ソロモン決戦論の根拠は、同群島にはラバウルからガダルカナルに亙つて我が艦隊が根拠する地点を持つから、その東方に進出して米濠の連絡線を遮断する態勢に出れば、米国は引込んでいるわけには行かない。どうしても艦隊を以て対抗して来るであろう。即ちアメリカ艦隊を吾れに有利なる戦場に誘致して一挙に撃滅戦を期するというのである。
 けだし我が方には甚だ好都合な作戦であるが、果してアメリカ艦隊が全力で進撃して来るかどうかは未知数である。少しく希望的観測を前提とする嫌いがあり、もし彼れが出撃せずに更に悠々機会を待つことになれば、日本の焦眉的に希求する早期決戦は出来ないで、苦が手の長期戦に陥る危険がある。即ち最も悧巧な作戦ではあるが、勝算が多いだけに機会が少ないという欠点があつた。専ら軍令部方面の主張ではあつたが、二つとも佳いことは稀だという譬えの通りであつた。
 右の対案として山本長官によつて主張されたのがミッドウェー作戦である。其の狙いはミッドウェー島を攻略し、併せてアリューシャン諸島をも占領すれば、米国はモウ我慢が出来まい。グァム、ウェーキの場合は暫らく歯を食いしばつて我慢したが、百八十度線まで日本の進出を許したのでは国民が承知しまい、「艦隊は何をしているか」という与論の怒りに応えて、必ず進撃して来るに相違ない。即ちアメリカ艦隊に決戦を強要する手段として、ソロモンの不確実性とは比較にならないと主張するものである。
 しかし危険性は遥かに多い。占領しても果して維持が出来るか。瀬戸内海からミッドウェーへの距離は、真珠湾と同島間の距離よりも二倍半長い。つまり敵は二倍半の速さと容易さを以て同島に接近し得る。また、この孤島の守備隊に食糧弾薬を補給することは、不可能ではないが、甚だ困難である。加うるに飛行機や艦砲の奇襲に会つて守備軍が潰れ、果敢なく奪い返される可能性も少なしとしない。即ち余りに冒険的であるというのであつた。
 しかし山本長官は主張した――多少の危険を冒さずに早期決戦の大目的を遂げようとは虫が良すぎるではないか。またいやしくも占領が可能ならば先ずこれを断行し、敵が奪還作戦を試みる時こそ待望の決戦が生起するのだから大目的を達し得るのだ。守備軍の処置はその時にどうでも出来る。故に先ずミッドウェー島を占領し、その時に敵艦隊が来援すれば、一転これを撃滅する一石二鳥の大戦果を期する途もある――と、確固不動の気構えであつた。
 他の一方に第三案があつた。ミッドウェーも悪くはなかろうが、それは飽くまで陽動作戦であり、主作戦は飽くまで敵空母艦隊の撃滅にある。而してこれは真珠湾攻撃よりも遥かにむずかしい。敵空母も航空戦法も一流のものであり、しかもこれを殲滅して初めて大目的を達し得るのだ。だからミッドウェーを攻略すると見せて敵をこの方面に誘致し、全力を挙げてその艦隊を襲撃するのでなければならない。そのためには、日本の機動部隊は疲労している。真珠湾から帰つて直ぐに南方に転戦し、やつと帰国したばかりである。そこで歴戦の搭乗士官の一半を陸に移して教官とし、既に基礎訓練を経た搭乗兵に実戦的教育を施し、二、三ヵ月後にそれら新進の精兵を率いて出撃するのが最善であり(草鹿参謀長はこの意見を具申している)、或は少なくとも四、五十日の休養によつて武器と闘志とを新たにする必要があつたろう。ところがミッドウェー作戦は次のような計画細目と共に、占領実施期日まで既に早く決まつていたのであつた。

    三 連合艦隊の全力出撃
        如何せん、米は知つていた

 前述のように、早期決戦という戦略目的は軍令部が指示するが、その手段方法は、実戦部隊長官が責任をとる。勿論軍令部案は尊重されるが、艦隊長官が他の案を強く主張する場合には、その方に傾くのが條理である。真珠湾攻撃が山本長官の不動の決心で決まつたようにミッドウェー作戦もまた山本の主張によつて決定したものである。それは昭和十七年五月五日であり、「陸海軍中央協定」によつて次の作戦目的が発令された(大海令十八号)。
 「ミッドウェー島を攻略し、ハワイ方面よりする我が本土に対する機動作戦を封止し、併せて攻略時に出現することあるべき敵艦隊を撃滅す」
 また協定による海軍の作戦要領は、
 「海軍は連合艦隊の主力を以て攻略部隊を支援すると共に、上陸前、航空母艦部隊を以てミッドウェー島を空襲し、主として所在航空兵力を撃破す」
というのであつた。明らかに、島の占領を第一目標としたものである。勿論、山本大将の胸底にはミッドウェー島を囮にして敵の艦隊をその方面に誘致するのが最終目的ではあつたが、先ずその囮を手に入れることがミッドウェー作戦であるから、その作戦の関する限り、島の占領が主目的になつたのは己むを得ない道行であつたろう。だから(イ)敵機動部隊の撃滅と、(ロ)日本本土の哨戒線を幾百浬延伸して都市空襲の危険を防止することは、第二次の目的として心に描かれていたわけである。
 ミッドウェー攻略日は六月七日と決められていた(一ヵ月前に)。それが大問題であつたことは後に判明するが、とにかく、大きな困難なしに遂げられるという自信を以て、次の編成により、日本海軍の全力が、陸軍一個大隊(三、〇〇〇名)――一木支隊――と海軍陸戦隊二、八〇〇名とを十六隻の輸送船に載せて出撃したのである。(他に設営隊二、五〇〇名)山本五十六大将は旗艦「大和」にあつて全軍を指揮したが、艦隊の区分は次の通りであつた。
 第一、空母部隊(南雲忠一中将)
  空母=赤城、加賀、蒼龍、飛龍。
  戦艦=榛名、霧島。
  重巡=利根、筑摩。
  軽巡=長良。
  駆逐艦=十六隻。
 第二、主力部隊(山本五十六大将)
  戦艦=大和、陸奥、長門、伊勢、日向、扶桑、山城。
  雷装巡=北上、大井。  空母=鳳翔。
  軽巡=川内。  潜母=千代田、日進。
  駆逐艦=十二隻。
 第三、攻略部隊(近藤信竹中将)
  戦艦=金剛、比叡。  空母=瑞鳳。
  重巡=愛宕、鳥海、鈴谷、熊野、最上、三隈、妙高、羽黒。
  軽巡=那珂、神通。
  駆逐艦=二十八隻。
  空母=千歳、神川丸。
  輸送船=十六隻。
 第四、アリューシャン部隊(細萱成子郎中将)
  重巡=那智、高雄、摩耶。
  空母=龍驤、隼鷹。
  軽巡=木曽、阿武隈、多摩。
  駆逐艦=一三隻。
 即ち総計百余隻の大艦隊だ。その中、アッツ、キスカ攻略に向つたアリューシャン部隊の十七隻を除いた八十余隻の精鋭は、空母部隊五月二十七日、主力部隊二十九日に分れて広島湾を出撃した。
 驚くべし、連合艦隊主力が桂島泊地を出でて豊後水道沖に差しかかつたとき、一隻のアメリカ潜水艦がこれを見ていた。暫らく航進すると、また一隻を発見した。それどころか、三十日には攻略部隊の前方に潜んだ敵の潜水艦が、長文の緊急報告をミッドウェー島に宛てて発信したのを傍受した。更にウェーキ島までの航路で敵潜四隻を視認した、その他を合せると、十二隻乃至十六隻の潜水艦が目視探知の網を、日本本土からミッドウェー島まで繋いでリレー報告をしていたことが明らかである。
 しかし当時の連合艦隊は百戦悉く勝つという勢い当るべからず、途中で敵潜が現われても「何程のことやあらん」と、既定の航路を一直線に進んだのである。その場合の敵潜は、攻撃を絶対に中止して、情報のみを電報する使命を帯びたものであるが、これを勇躍突進する艦隊から見れば、攻撃せざるは能わざるが故なり、といつた単純なる観測に囚われていたかも知れない。静かに考えれば、敵潜がミッドウェー島を呼んで通信をしていることは、本作戦自体が既にアメリカに探知されていたことを語る以外の何物でもなかつた。事実ニミッツ大将(米太平洋艦隊司令長官)は約三週間も前に日本艦隊の作戦を探知し、ハルゼ一機動部隊を南方から呼び戻し、且つミッドウェーの戦備を増強して、其の日の来るのを爪を磨いて待つていたのである。

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