江戸期版本を読む

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カテゴリ: 壺阪霊験記

【五】
(お里、駕籠で高木の屋敷へ 伝九郎、お里を折檻 佐平次、お里を逃がす)

 伝九郎は、あくまで親切に表面(うわべ)を見せて、おさとを我が家(や)へ連れ込みました。
伝『阿母(おっか)ア、おさとさんを伴(つ)れて来た。』
かめ『オヤ、そうかえ。定めし夫婦別(ろくだんめ)が永かったろうネ。』
伝『何の。俺が傍で急き立ったので、思いの外早かったヨ。』
かめ『そうかえ。サア、おさとさん、此方(こっち)へ御出(い)でなさい。今に桜屋から迎いの駕(かご)が来るでございましょう。』
さと『今度はいろいろと御世話になりまして有難う存じます。』
かめ『何の御礼なんぞ要るものですか。誰しも困るのは同じ事。それにお前さんは、新六さんの眼病を癒(なお)したいという一心で、桜屋へ奉公する事になったのですもの。思えば気の毒な御身の上。決して私達へ御礼なぞの心配をなさいますな。それから、お前さんも新六さんの事が心配でございましょうが、妾(わたし)たちが従(つ)いて居(い)るから、後(あと)の事は御苦労なさいますナ。』
さと『何から何まで有難うございます。』
伝『オイ、阿母(おっか)ア。桜屋の迎いはまだ来ねえか。』
かめ『お昼までは来るつもりだが、どうした事だろうネ。』
伝『迎いに来るなら早い方が宜(い)いが……マア、何しろ阿母(おっか)ア、一盃酣(つ)けてくんねえ。』
 是から伝九郎が酒を飲んで、迎いに来るのを待って居(い)る。ちょうど午後四時(ななつごろ)から秋の日和ぐせか、降り出して参った雨。日が暮れると益々劇(はげ)しく、抜けるような大降雨(おおぶり)になりました。
伝『大層降って来た。モー今時分まで来なければ、明日(あした)でなければ迎いの者は来(こ)めえ。こうと知ったなら、おさとさんを今夜一晩、新六さんの所へ置いて置くのであったが。飛んだ気の毒な事をした。』
かめ『そうだったネ。何ならお前、ちょっとおさとさんを新六さんの所へ連れて行ったらどうだえ。そうして翌朝(あした)迎いに行(ゆ)くとして。』
伝『そうヨナア。』
さと『イエ{*1}。妾(わたし)はモー新六さんに別れてここへ参りましたもの。是から帰って此の上涙を流すのも辛うございますから。』
伝『成程。それもそうだ。じゃア今夜ここへ泊って、明朝(あした)迎いが来なければ、駕(かご)を仕立てて此方(こっち)から行(ゆ)くとしよう。』
〇『もし、伝九郎さんの御住居(おすまい)は此方(こちら)でございますか。江戸金さんの子分で蝮の伝九郎さんの御住居(おすまい)はエ。もし、御休みでございますか。』(ドンドン)
伝『どこから来た。』
〇『奈良の桜屋から参りました。蝮の親分の御住居(おすまい)は此方(こちら)でございますか。』
伝『蝮の親分と言う奴があるかえ。伝九郎というのは俺だ。今あけるから待って居ナ。オイ、お亀。桜屋から迎いが来た。』
かめ『大層遅く来たネ。』
伝『今あけるから待ってくれ。』
 伝九郎が立って参ってガチン……。戸をひらいた。
伝『ひどい降りだナ。』
と言いながら見ると、桐油(とうゆ)の掛かった駕(かご)を一挺門口へ下ろして、二人の舁夫(かごかき)は立って居(い)る{*2}。
伝『大層遅いじゃアねえか。モー彼是亥刻(よつ)だろう。』
〇『実は桜屋の親方が此の先の新沢(にいざわ)まで参りまして、「あんまり労(つか)れたから。」と言うので、一盃飲んで休息して居(い)る間(あいだ)に、空模様が悪くなったと思うと、降って参りました。「今に歇(や)むだろう。」と待って居ましたが、中々歇(や)みそうもございません。ソコデ迎いに参りました。どうぞ、女(たま)を連れて新沢(にいざわ)の山城屋まで御出(い)でを願います。』
伝『そうか。しかし今夜はモー遅いし、それに此の通り雨は降るし。どうだろう、明朝(あした)にしてはくれめえか。』
〇『御最もでございますが、桜屋の親方の言うには、「是非今夜の内に女(たま)を見たいから、蝮によく話して連れて来てくれろ。」と被仰(おっしゃ)います。ねえ、蝮の親分。雨が降って居て、御出かけは迷惑でございましょうが、女(たま)を連れて新沢(にいざわ)まで御出(い)でを願いたいもので。エ、もし。蝮の親分。』
伝『そう蝮々と言うな。成程、昔は人に無暗(むやみ)に噛み付くので、蝮という異名(あだな)も取ったが、今では青大将のように、おとなしくなってしまった。どうも仕方がねえ。それじゃア新沢(にいざわ)まで出かけるから、少し支度をする間、待って居てくれ。』
 舁夫(かごかき)を待たして、是からおさとに此の事を言い、支度いたしました。伝九郎は蓑笠で雨を凌ぎ、おさとを介抱して駕(かご)に入れる。送り出した伝九郎の女房お亀、
かめ『それでは伝九郎さん、気を付けて行っておくれ。おさとさん、身体(からだ)を大事に。』
さと『いろいろ御厄介になりまして有難う存じます。』
かめ『若い衆さん、気を付けておくれ。』
若『ヘエ、さようなら。』
 駕(かご)に肩を入れると、ドンドン担ぎ出した。雨ははげしく、殊には暗(やみ)で、桐油(とうゆ)は下りて居(い)るし、駕(かご)の中に居(い)るおさとは、どこがどこだか方角も判りません{*3}。かねて悪人どもがしめし合わせている事とて、此の駕(かご)を高木の家(うち)へ持ち込みました。
 七之助は、「今に来るか。」と待ち兼ねて居(い)る処へ、
伝『お頼(たの)申します。』
 門を叩くから、「何事か。」と、若党の佐平次、片扉を開くと、それへ担いで参りました一挺の駕(かご)。玄関前へ下ろして、
伝『おさとを伴(つ)れてまいりました。若旦那へ宜(よろ)しく。』
左『イヤ、大きに御苦労。若旦那は最前から待って居らっしゃる。此の儘庭に持って往って貰いたい。』
伝『オイ、若い衆。庭に駕(かご)を持ち込んでくんねエ。』
 是から駕(かご)屋が庭に此の駕(かご)を入れました。
 雪洞(ぼんぼり)に灯火(あかり)を点け、それへ出ましたが、七之助に万事御機嫌取りの父の下役中川幸之助。
七『伝九郎。大きに御苦労であった。』
伝『やうやう是迄引き出して参りました。イヤ、若旦那。降りが強いので、どうも途中が困りました。それに、奈良へ連れて行(ゆ)くという話を、此方(こっち)へ持って来るので、「気(け)取られねえように。」と思いますから、恐ろしく骨が折れました。どうか駕(かご)屋へ充分酒代(さかて)を遣っておくんなさいまし。』
七『イヤ、大きに降るのに御苦労であった。是は少ないが酒代(さかだい)だ。』
駕『有難うございます。オー、熊。一両宛(ずつ)下すった。よくお礼申せ。』
熊『有難うございます。どうか又御用がございましたら、脳天熊に「ヌー虎」といえば、この高取は勿論、新沢(にいざわ)から奈良へかけて、「悪い駕(かご)屋」と評判を取った俺(わっち)たち。善(い)いお役には立ちませんが、悪い方ならいつなん時でも御用を勤めます。エー、もし。蝮の親分、有難うございます。』
伝『人聞きが悪いやイ。蝮々と言うなイ。何しろ女を早く出してくれ。』
 駕(かご)屋が桐油(とうゆ)を取って縁側へ引き出した新六の妻おさと、吃驚(びっくり)いたしました{*4}。もっとも、「新沢(にいざわ)の山城屋という旅籠屋に自分の奉公に参る桜屋の主人が来て居るから、今夜の内に連れて来てくれろ。」という駕(かご)を持っての迎い。今来て見れば、新沢(にいざわ)の山城屋で無くて、かねて「自分を女房にしたい。」と申し込んだ高木七之助の家(うち)。「是から先、いかなる憂き目を見るやらん。」と、おさとの心配は一通りならぬ事。
 伝九郎は、オドオドするおさとの手を取って、
伝『おさとさん。モーこうなっては、いくらお前が驚いたって仕方が無(ね)エ。アンナ盲目(めくら)の新六を亭主にして居た処で、先の見当てのあるのじゃアなし。浴びる程薬を飲んで、眼玉が浮き出す程薬を点(さ)した処で、癒(なお)る訳のものじゃアねえ。そんな者に義理を立てるのは、お前の了見違いだ。老い朽ちた身体(からだ)ではなし、花なら之から咲こうという女。一生今が一番大事な処だ。サア、此の若旦那の言う事を聞いて、「御新造様。」「奥様。」で、此の世の中を送った方が当世だろうと思う。もし、若旦那。なんとかお前さん、言って聞かしてお遣んなさい。』
七『さと、之へ参れ。』
 引き立てられた座敷。酒肴(さけさかな)の用意をして、蝋燭の光に真昼のよう。
七『モッと傍へ来い。只今伝九郎が申した通り、いかなる因縁か、どうも拙者は其方(そち)を忘れる事は出来ぬ。ソコデ、悪い事とは知りながら、計略(はかりごと)で是迄連れて参った。アノ盲目(めくら)の新六に立てる操を此の方に立てたら、一生其方(そなた)は困るまい。安楽に世が渡れる。但し、不承知か。』
さと『冥加にあまりました仰せ、有難くは存じますが、妾(わたし)が水に溺れて死のうとした処をアノ新六さんに助けられ、其の時目に入った泥水が原(もと)で、生まれもつかぬ不具(かたわ)になりました。その大恩ある新六さんを捨てて、あなたの心に従っては、人の道が立ちません。どうぞ此の事ばかりは御用捨下さい。』
七『コレ、其方(そち)は今時の女に似合わぬ判らん事を申す奴だ。』
さと『拝借しました金子は明日(みょうにち)お返しいたします。どうぞ妾(わたし)を之から帰して下さいまし。』
 立とうとするを押さえつけた伝九郎、
伝『ヤイ、おさと。汝(てめえ)位判らねエ奴(あま)はねエ。金せエ返(けえ)しやア事が済むと思って居(い)るか。汝(てめえ)の身体(からだ)を俺が此処へ連れ出したからには、何と言うとも若旦那の思い通りにさせなければならねエ。もし、若旦那。とてもこう言うようじゃア柔らかに言った処で判りません。可哀想だが手荒い事をしなければいけねエだろうと思います。』
七『さようか。さと、愈々不承知なら、身体(からだ)で承知をさせるがどうだ。』
と言いつつ、兼ねて用意の弓の折れをそれへ取り出し、
七『中川。此の女を縛って庭へ引きずり下ろせ。』
中『それは可哀想。こんなかよわい者を其の弓の折れで打っては堪りません。総てこういう事は、気を永く持たなければ目的は達しません。連れて来るすぐ言う事をきかせようとするのが、大体無理でございます。』
七『お前が言うまでもない。此の方も好んで手荒な事を致すのではない。願わくは「おとなしく承知をさせたい。」と思い、利害を説いて聞かせるのが、先方に判らんから、ソコデ手荒な事を致そうと思った。それともお前が説得して、おさとに承知をさせるか。』
中『それはどうも受け合われません。おさとさん。モーこうなったからには仕方がない。飽く迄も剛情はって、怪我でもしてはつまるまいから、若旦那のお言葉に従ったら宜(よ)いと思う。』
さと『有難うございますが、新六に立てる操を汚す事は出来ません。』
中『それでは愈々不承知か。』
さと『ハイ。』
七『中川。早く此のおさとを縛って庭に繋げ。俺が打ってやる。』
 中川も大した悪人でございませんから、此のおさとを縛り兼ねた。
七『伝九郎。貴様縛ってくれ。』
伝『縛るのは宜(よ)うございますが、若旦那。御約束の十両、早く頂きたいもんで。是まで連れて来るのは私(わっし)がお受け合い申しましたが、あなたの言う事を肯(き)く肯(き)かぬは、私(わっし)は関係(かかりあい)はございません。どうか十両、早くお貰い申しとうございます。』
七『跡で遣わしても宜(よか)ろう。』
伝『イエ。こういう事は、とかく跡では苦情が起こるもので。どうか十両、早くお貰い申したいもので。』
七『それでは約束通り、是を持って参れ。』
伝『有難うございます。』
七『其の代わり、此奴(こやつ)を打ち据えるに就いて腕を貸せ。』
伝『それは若旦那いけません。是迄連れて来た骨折りが只今の十両。是から先、鬼になっておさとを責める、其の給金はいくら下さいますか。今の内、極めて置いて頂きてエ。』
七『此奴(こいつ)、中々狡猾な奴だナ。五両遣わす。』
伝『それでは前金に……。』
七『とかく貴様は前金前金と申す。』
伝『どうも前金で無いと、こういう事は仕事がしにくうございます。』
七『サア、五両。持って参れ。』
伝『確かに受け取りました。中川さん、縄を貸しておくんなさい。縄が無ければ下緒(さげお)で宜(よ)うございます。』
平打ちの下緒(さげお)でおさとの小手を縛(いまし)め、
伝『女(あま)、下りろ。』
と、縁側から庭に下ろして、正面の赤松の根方(ねかた)へ繋ぎ、弓の折れを持った伝九郎、
伝『ヤイ、おさと。世の中に汝(てめえ)くれエ判(わか)アねエ女はねエ。アノ盲目(めくら)の新六がどれ程大事なんだ。いよいよ汝(てめえ)が若旦那の言う事をきかなければ、汝(てめえ)の身体(からだ)から承知をさせるがどうだ。但し飽く迄不承知か。』
 おさとは降り出す雨の中に縛(いまし)められ、鬼のような伝九郎が「身体(からだ)から聞く。」との事。身も世もあられぬ思い。
さと『伝九郎さん。今迄お前さんを親切のお方と思って居たのが過(あやま)り。欺(だま)して是迄連れて来るとは情けない。』
伝『何を愚図愚図言やアがる。蝮という異名(あだな)を取った伝九郎。慈悲や情けが微塵もあれば、此の土地で嫌われちゃア居ねエ。又よく考えて見ろ。茶屋奉公を二年する約束で、十五両と纏まった金を貸す奴がどこにある。汝(てめえ)が何にも知らねエから、此の悪計(わるだくみ)にかかったのだ。サア、俺が汝(てめえ)の身体(からだ)に弓を当てるから、堪えるなら堪えて見ろ。痛い思いをしねエ内に、若旦那のお心に従ったが宜(よ)かろう。「貞女両夫に見(まみ)えず。」とは五百年前も前の話だ。サア、どうだ。是でも不承知か。』
 弓の折れを持って、おさとの背筋をピシリーピシリーと、其の痛さは五臓に浸(し)み渡るばかり。
さと『サア、殺せ。たとえ死んでも操を汚してなるものか。』
伝『何、殺せ。たって汝(てめえ)が「死にてエ。」と言うなら、俺が殺してやろう。サア、どうだ。是でもか。』
と、又打ち据える。衣類(きもの)は切れて髪はおどろに乱れ、美しい顔だけに、目がすわって参りますと、其の物凄き事。
伝『どうだ、是でもか。』
と、又打ち据える。
 打ち処が悪かったと見えて、「ウーン。」と一声。絶息(きぜつ)いたしました。
 之を見て居た高木七之助、
七『伝九郎、手荒いゾ。責めてくれとは頼んだが、殺してくれとは頼まんぞ。』
伝『つい力が入り過ぎまして、とんだ事をしましたが、しかし死んだのじゃアございません。気絶をいたしました。気付けがございますなら、早速飲ませます。』
七『之に熊の胆(い)がある。』
伝『それで宜(よ)うございましょう。』
 盃へ熊の胆(い)を溶解(と)いて、おさとへ飲ませました。フッと気が付いたが、息が通うのみで、まるで自分は夢を見て居(い)るよう。恍惚(うっとり)として居ります。
伝『若旦那。之から上責めますと、殺してしまいます。』
七『さようか。それでは物置へでも入れて置け。佐平次、此の女を物置へ入れて置け。』
 若党の佐平次がそれへ出て参りまして、
左『こりゃア可哀想な事をなさいました。若旦那様。大旦那様に此の事が知れましては、あなたばかりではございません、私もどんな御尤(とが)めを受けるか知れません。どうぞ助けて遣って下さいまし。』
七『彼是申すな。物置へ繋いで置け。』
 佐平次、よんどころなくおさとを抱いて、蔵の傍にある物置へ連れて参りました。下に筵を敷いてそれへ寝かし、「アー、気の毒な事だ。」と涙を流した佐平次が、再び庭に帰って参りまして、
左『若旦那さま。物置へしっかり繋いで置きました。』
七『さようか。是へ来て一杯飲め。』
左『イエ。私は御酒を頂戴いたしません。御免を蒙って、部屋で寐(やす)みとう存じます。』
七『それでは早く寐ろ寐ろ。伝九郎、是へ上がれ。サア、一杯飲むから。』
と、七之助は伝九郎に中川を相手に、自暴(やけ)酒を飲み始めました。
 物置に居(お)りましたおさとが、暫く経つと正気に復(かえ)った{*5}。四辺(あたり)を見たが如法の暗夜。殊には物置の内に居りますので、一寸先も判らず。表はいや増しに降る雨。風が加わってドッという音。秋の末とてバラバラバラ。落葉が折々物置の戸に当たります。おさとはつらづら思うよう、「悪人の毒手にかかり、かかる憂き目を見るも前世の宿縁。兎ても角ても無い命。なまじ生きて居(い)れば、此の上の憂き目を見るに相違なし。一思いに此処で死のう。」と決心した。立ち上がらんとしたが、身体(からだ)は利かず。小手は縛められ、死ぬる事も出来ず。ホロホロ涙を流して、「どうしたもの。」と思案の折、
〇『おさとさん。気が付いたかエ。』
 ソッと戸を開いて入って来た一人。「又も憂き目に逢う事か。」と、おさとは闇を透かし眺むれば、
〇『おさとさん、心配の者ではない。私は此処の若党の佐平次だ。イヤ、若旦那の不心得、さっきから聞いて、私は意見をしようと思うが、「なまじ意見をして、此の上お前が責められるような事があってはならない。」と思って、黙って居りました。実は今日、「夕方から客がある。」と言うので、誰が来るかと思って居たら、お前さんであった。先達(せんだ)っても亡くなられたお前さんの阿父さん、万兵衛殿とは永い御懇意{*6}。其の娘のお前がこんなひどい目にあって居(い)るを、何で見て居(い)る事が出来ましょう。定めし新六さんが心配をして居(い)るだろうから、鬼どもが酔い倒れて居(い)るのが幸い。今の内逃げなさい。』
と言いながら、縛めを解き放し、身内の疵を介抱する。
 親切な佐平次に会ったは「地獄で仏」。おさとは嬉し涙にくれ、
さと『御親切に有難うございます。此の御恩は死んでも忘れはいたしません。』
左『何の礼に及びましょう。本来私が送って上げたいが、若旦那が目を覚まして、私(わし)が居ないと面倒だ。お前がせめて十町も逃げ延びる間(あいだ)、何とか若旦那を胡摩化して、追手のかからぬようにするから、今の内早くお逃げなさい。』
さと『有難う存じます。』
 「それでは。」と立ち上がったが、一と足出ては倒れ、二た足出ては倒れ、それを佐平次が介抱して、竹の杖を与え、竹笠をおさとに渡し、裏手よりそっと引き出しました。
左『途中気を付けて往(ゆ)きなさいヨ。是から五六町下(して)へ往(ゆ)くと、江戸金の住居(すまい)がある。アレは御城内の人入れで、侠客達師(だてし)と言われて居(い)る、男の仲の男。其処へ逃げて行(ゆ)きなさい。』
さと『ハイ。』
左『江戸金の家(うち)を知って居なさるか……「ウン、知って居(い)る。」そうか。サア、早く往(ゆ)きなサイ。』

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校訂者注
 1:底本は「エイ」。誤植と見て訂正。
 2~4:底本は「桐油(とゆう)の掛(かか)つた駕(かご)」。少し後ろに「桐油(とゆう)は下(おり)て居(ゐ)るし」、「駕屋(かごや)が桐油(とうゆ)を取(とつ)て縁側(えんがわ)へ」とある。読みやすくする意図で後者をとり、前二者を修正した。
 5:底本は「物置(ものおき)に居(を)りしまたおさとが」。誤植と見て訂正。
 6:底本は「先達(さきだつ)も亡(なくな)られたお前(まへ)さんの」。読みやすくする意図で修正。

【六】
お里、江戸屋へ駆け込む 江戸金、お里を隠す 伝九郎と中川、江戸屋に乗り込む)

 植村家の人入れを致して居(い)るのが、江戸神田三河町(ちょう)の出生(うまれ)で金兵衛と言う。大和の高取へ参りまして、相変わらず人入れを致して居(い)る。江戸屋の金兵衛という処から「江戸金、江戸金。」と言われ、重役方にも可愛がられて、頗る評判も宜(よろ)しい。「弱い者なら飽くまでも助けよう。」という男達(おとこだて)でございます。侠客というと、博奕が付き物のようになって居りまするが、此の江戸金ばかりは一六(さいころ)一ツ持った事がない。従って乾児(こぶん)が博奕をすると、呼び付けては意見をする。蝮の伝九郎が一時(いちじ)江戸金の乾児(こぶん)であったが、博奕をするので親分乾児(こぶん)の縁を切られた。ただ此の江戸金の道楽が碁でございます。高取の在に、禅家(け)で東陽寺という寺がある。其の寺の和尚で海全というのと碁敵(ごがたき)で、暇ある度には遊びに行(ゆ)く。ちょうどおさとが悪党の毒手に罹って苦しめられた其の日の事であるが、
金『今日は別に用も無(ね)えから、東陽寺へ行ってくる。不在(るす)を頼むぞ。』
子分『行って居らっしゃい。』
金『殊に依ると、今夜は帰らねえかも知れねえー。』
子分『ヘエ。』
金『どうか頼むヨ。しかし、俺が不在(るす)だといって、博奕はするナ。』
甲『ソンナ事は致しません。親分に「博奕(いたずら)はよせ。」と言われるんで、近頃バッタリ致しません。アレモ習慣(くせ)になると見えまして、やらなければ別段やりてエとも思いません。』
金『そうか。それは結構だ。女狂いは年をとると自然によすが、博奕は慾だから。腰が曲がるまでやめられねえものだ。デワ不在(るす)を頼んだぞ。』
甲『親分。又空が曇って来ました。傘を持って行ったら宜(よ)うございましょう。』
金『そうさの。降られると困るから傘を持って行(ゆ)こう。』
甲『どうも秋は兎角降りたがるもので。』
 江戸金は其の儘東陽寺へ碁を囲みに出て行(ゆ)く。跡に子分が、
甲『鬼の居ねえ内に洗濯だ。久しぶりでやろうか。』
乙『宜(よ)かろう。しかし親分に知れると面倒だぜ。』
甲『馬鹿を言うナ。親分は二里も先へ行って居(い)るのじゃアねえか。それへ知れて堪るものか。』
乙『それもそうだ。構わねえ。やっつけろ{*1}。』
 五六人集まった子分が、是から博奕(いたずら)を始める。日が暮れると間もなく降って参った雨は、篠(しの)を束(たば)ねて衝くごとく、ドッという大降りになった。
甲『しめた、しめた。こう降って来ては、親分の帰る気遣いはねえ。安心だ。サア、ドシドシ賭(は)れ。』
 頻りに戦って居ります裡に、亥刻(よつ)も過ぎ、子刻(ここのつ)の鐘が鳴ったと思うと、「ドン。」と戸にぶつかったものがある。
乙『何だ、何だ。』
〇『アノ、ちょっと此戸(ここ)をあけて下さい。もし、どうぞ此戸(ここ)を開けて下さい。』
と言うは、高木の家をのがれて参りましたおさとであるが、身体(からだ)が労(つか)れて居(い)るので、思うように口も利けません。「中へ聞こえまい。」と、身体(からだ)を一ツ「ドン。」と戸に当てた。
 中の子分が驚いた。
乙『ソレ、親分が帰った。』
と言うと、ドタリバタリ。家中(かない)は覆るような騒ぎ。
甲『ヘエー。親分、御帰ンなさい。只今開けます……オイ、いいかえ。何も落ちては居ねえか。』
乙『大丈夫だヨ。』
乙『只今あけます。』
 勘太という子分が手燭を持って立って来た
勘『親分、御帰ンなさいまし。』
 戸を開いて、
勘『どうも、ひどい降りで。途中御困りでございましたろう。』
と言いながら、灯火(あかり)で見ると、髪を振り乱して色の青白い、息も切り切りで、
さと『あの、親分さんは御出(い)ででございますか。』
と、上り口へ手をかけて、ヌーと見上げたおさんの顔の凄い事。勘太は驚いて、
勘『オヽ、御出(い)でなさいまし。』
と、手燭を持って、ペタペタと土間へ座ってしまった。
さと『アノ、親分さんは御在(い)ででございますか。』
勘『ヘエ。オヽ、親分さんは御不在(るす)でございます。』
乙『ヤイ勘太。何を言って居(い)るのだ。御客が来たのか。』
勘『ちょっと来て見てくれ。人間のような化け物のような、妙な者が来た。』
乙『臆病な奴だナ。』
と言いながら出て来た一人、ヒョイとおさとを見ると、此奴(こいつ)も驚いた。
乙『オヽ、御出(い)でなさいまし。』
さと『親分さんに御目にかかりとうございます。』
乙『親分は今夜不在(るす)なんで。』
さと『モー、妾(わたくし)は一足もあるく事が出来ません。親分さんの御帰りまで御待ち申して居ります。御慈悲でございます。どうぞ少し休まして下さいまし。』
乙『ヘエ。殊に寄ると今夜は帰らねえかも知れません。』
さと『イエ。今晩御帰りがなければ、明日(みょうにち)まで御待ち申します。決して妾(わたくし)は怪しいものではございません。』
乙『此の夜更(よなか)に血だらけで飛び込んで来れば、怪しくない事もあるまい。マア、御上がんなさい。』
 子分が何だか判らないが、おさとを家へ入れて介抱した。
乙『勘太。アノ女は何だろう。』
勘『何。「アノ女は何だろう。」と、汝(てめえ)も道楽者の子分でありながら、血の巡りの悪い奴だ。大概判って居(い)るじゃアねえか。』
乙『判らねえから聞くのだ。』
勘『アレハ親分の情婦(いろ)だヨ。』
乙『ヘエー。親分の情婦(いろ)だ。しかし親分はもう四十だのに女房(かかあ)ももたず、「男は女房(かかあ)や子供があると、思い切った事業(こと)が出来ねえから、生涯俺は一人で暮らす。」と言って居る。其の女嫌いの親分が、どうしてアンナ女に関係(かかりあい)を付けたのだろう。』
勘『馬鹿ア言うナ。男と生まれて女嫌いという奴があるかえ。此の通り大勢子分をもって居(い)るンだ。自分が先立ちで女狂いをした節(ひ)には、子分の示しが付かねえから、ソコデ「女嫌い」と上面(うわべ)は言って、内々(ないない)アーいう女を忍ばせて置くのヨ。』
乙『成程。大きにそうだ。どうしてアンナに怪我をして来たのだろう。』
勘『どうも汝(てめえ)位血の巡りの悪い奴はねえゼ。考えて見ろ。大概判って居(い)るじゃアねえか。』
乙『判らねえから聞くのだ。』
勘『本統に御芽出度(て)え奴郎(やろう)だナ。よく考えて見ろ。』
乙『幾ら考えたって、判らねえものは判らねえ。』
勘『汝(てめえ)何か、人別があるのか。』
乙『俺だッて人間だもの。人別の無エ奴があるものか。』
勘『コンナに血の気が薄いのに、よく人間になって居(い)るな。明日(あした)から「当分人間は相休み申し候。」と、面(つら)へ札を貼って置け。』
乙『冗談言うナ。全体(ぜんてえ)あの女は何だろう。』
勘『アレワ親分の情婦(いろ)だヨ。』
乙『情婦(いろ)は判ったが、どうしてアンナに怪我をして来たのだろう。』
勘『あの女の継母が大層慾張って居てヨ。』
乙『ン。』
勘『アノ女を金持ちの妾(めかけ)にして、左団扇で暮らそうと言うには、親分が居ては邪魔だから、手を切らせようとした処で、アノ女が飽くまでも親分へ操を立てて、言う事をきかねえもんだから、ソコデ折檻をしたのだ。少しの隙を見て女が逃げ出して来たと、こういう筋なんだ{*2}。何(こ)うだえ判(わ)かったろう{*3}。』
乙『成程。そうかえ。ちっとも知らなかった。ソンナ事とは知らず、「ドン。」と戸にぶつかられたので、てっきり「親分が帰ったのだ。」と思い、驚いたぜ……オイ辰、何をして居(い)るンだ。どうしたんだ、目を白黒して。』
辰『オー、驚いた。親分が帰(けえ)って、「博奕(いたずら)をして居たを見られちゃア大変だ。」と思って、あわてて骨子(さい)を嚥下(のみこ)んだが、どうも胸につかえて厭な気持で堪らねえ。』
勘『気の早い奴があるもんだ。熊の奴郎(やろう)が見えねえが、どこに行った。』
乙『彼奴(あいつ)はふだんからすばしっこいが、親分が帰(けえ)ったと思うと、すぐに裏口から飛び出したヨ。』
勘『道理で見えねえと思った。処で、親分は今夜帰(けえ)る気遣いなし。まだ夜(よ)の明けるには間があるから、モー一番(いちばん)戦うか。』
甲『宜(よ)かろう。』
と、又是から始めた。
 ちょうど二時(やつ)の鐘が打ち切ると、表の戸をドンドン叩いて、
金『ちょっと開けろ、開けろ。』
甲『オイ、親分だぜ。』
勘『何、親分が此の降雨(ふり)に帰って来るものか。熊の奴郎(やろう)だヨ。彼奴(あいつ)はふだんから親分の声音(こわいろ)が上手で、このあいだも湯殿で「廊下を通るのは勘太か。浴衣を持って来てくれ。」と言うから、持って行(ゆ)くと熊の野郎だ。「どうだ。親分の声音(こわいろ)はうまかろう。」と言やアがる。熊に違えねえヨ。』
甲『そうか。』
勘『アノ奴郎(やろう)、今夜は一ツおどかしてやるから。』
 勘太が六尺棒を持って戸をガラリと開け、
勘『此の奴郎(やろう)ッ。』
 突き出した棒。
金『危ない。何をする。』
勘『オッ、是は親分。』
金『又博奕(いたずら)をして居(い)るナ。』
勘『ヘエ……人間も間が悪くなっちゃア往生だ。親分で無えのを親分だと思って、本物が帰って来たのを偽物だと思って。とうとう悪事露顕だ。』
金『何を言って居やアがる。』
乙『親分御帰ンなさい。とても此の降りじゃア帰(けえ)るめえと思いましたが。』
金『小降りなら泊って来るが、降りが強くなったので帰(けえ)って来た。』
勘『言う事が皮肉だ。』
金『何だと。』
勘『何、此方(こっち)の事で。』
金『不在(るす)に誰か来たか。』
勘『ヘエ。姐(あね)さんが来まして。』
金『姐(あね)さんが来た。俺には姉はねえ。』
勘『どうも、其の姐(あね)さんが、親分より年が下なんで。年下の姐(あね)さんというのは、今日始めて見ました。』
金『誰が来たんだ。』
勘『親分、お前さんは罪だネー。ああいう女があるならば、「実はこうだ。」と、俺(わし)達に話してくれても宜(よ)さそうなもので。』
金『何だ。ドンナ女が来た。』
勘『「ドンナ女が来た。」と、こう飽くまでもトボケるのは恐れ入ったナ。実は今夜姐(あね)さんが来て言うには、「ねエ、母親(おふくろ)が慾に迷って、判らねえ事を言って困る。妾(わたし)は親分と堅い約束をしたものだから、たとえ火の中水の中、ドンナ苦しみをしても、立てる操を破らじと、邸(やしき)をぬけて遥々と、登って聞けば其の人は、吾妻の旅と聞く悲しさ。」』
金『何を言って居やアがる。』
 金兵衛は不思議に思い、奥へ来て見ると、寝て居(い)るは、おさとでございます。
金『おさとさんじゃアないか。』
さと『親分さん。』
金『どうしてお前、俺の処へ来なすった。』
さと『親分、妾(わたし)ほど因果な者はございません。』
と、泣きながらに前回の次第を物語りました。
 聞いた金兵衛はもとより義気ある人とて、
金『憎い奴は蝮の伝九郎。わずかな金に目が眩(くら)んで、貞女なお前を苦しめるとは。人間の行いじゃアない。定めし沢市さんが聞いたら驚くだろう。よし。是から金兵衛がお前方の後援立(うしろだて)になって遣るから、必ず心配しなさンナ。それにしても、お前を逃がした高木の若党佐平次は感心な人だ。何は兎も角、疵所(きず)の養生をしなければ成らない。ヤイ。此の女は汝(てめえ)達も知って居(い)る、アノ新六さん。今じゃア按摩の沢市さんの女房で、コレコレこういう訳で、今夜高木から逃げて来たのだ。』
〇『ヘエー。そうでございますか。アノ沢市の女房(かかあ)で、目も見えねえ癖に、コンナ美麗(きれい)な女を女房(かかあ)にするから間違いも出来るんで。瞽者(ごせのぼう)か何か、人間離れのした奴を女房(かかあ)にすれば、騒動も起こらねえので。生意気ナ。』
金『何が生意気だ。疵口へ薬でも点(つ)けて遣ったか。』
甲『別段手当も致しません。』
金『何か手当をしてやったら宜(よ)かろう。』
甲『そうでございますね。生憎金瘡(きず)薬が無(ね)えので。どうでございましょう。間に合わせに唐辛(とんがらし)を付けては。』
金『馬鹿ッ。疵へ唐辛(とんがらし)を付けて堪るものか。』
甲『其の方が保(もち)が宜(よ)くって、土用を越すだろうと思って。』
金『沢庵だと思って居やアがる。』
 是から夜明けを待って医者を迎え、お里の手当をする{*4}。斬り傷や突き傷と違いまして、打撲(うち)傷でございますから、療治はたやすい。新六の沢市を呼んで委細の物語。沢市は夢を見たような心持ち。就いては何しろ相手が植村家で、大阪蔵屋敷の取り締まり高木の若旦那。殊には蝮と異名のある伝九郎がついて居ては、金兵衛の家(うち)に女を置いては面倒。沢市は子分の長三郎を付けて、大阪八軒家の医者松並良山の元へ眼病の療治に遣って、お里は金兵衛の碁敵東陽寺の海全和尚を頼んで、寺へ隠匿(かこま)ってもらう事にした。海全和尚も迷惑に思ったが、「人を助けるは出家の役。こういう事も衆生済度であろう。」と。ソコデ一時(じ)お里を預かる事にした。金兵衛は「まず是で安心。折を見て高木へ話して十五両の金を返し、此の事を波風なく納めよう。」という考え。
 高木の方ではコンナ事とは知りません。お里が居ないので、翌朝第一ばんに沢市の処へ伝九郎が来たが、居ない。「さては両人は遠く逃げたか。」と、諸方心当たりを探した。フト耳にしたのは、「江戸金のもとへお里が逃げて行った。」と言う。「それでは江戸金が隠したに違いない。しかし、一人では脅迫(おどし)が利かない。」と、高木七之助に話して、中川幸之助を一緒に出かける事にした。スルト中川が、
幸『伝九郎。お前の為には江戸金は乾盆(おやぶん)ではないか。』
伝『以前は親分でございますが、モー盃を返せば赤の他人で。』
幸『それでは親分子分の縁は切れて居(い)るのか。どうして親分子分の縁を切った。』
伝『なアに。別に悪い事もしませんが、博奕を打って大酒を飲み、女を欺(だま)して宿場へ売ったが露見して、「アンナ悪い奴は子分に出来ねえ。」と言うので、トウトウ縁を切りました。』
幸『それだけ悪事をすれば沢山だ。何しろ出かけよう。』
 二人打ち揃って江戸金の所へ出て参りました。
〇『親分、蝮が来ました。』
金『伝九郎が来たか。』
〇『それに御城内の御武家が一人、付いて来ました。』
金『そうか。此方(こちら)へ御案内申せ……是は御出(い)でなさいまし。私が江戸屋金兵衛でございます。』
幸『拙者は中川幸之助と申す。』
金『よく御出(い)で下さいました。イヤ、伝九郎。久しく会わなかったナ。』
伝『御無沙汰を致しやした。』
金『何の御用でございますか。』
 言う顔をジロリと見上げた伝九郎、
伝『親分。お前さんも江戸金親方だ。永い話をするだけ冗(むだ)だと思いますから。』
金『ン。』
伝『どうか女(たま)だけ出しておくんなさい。』
金『「玉だけ出せ。」とは何を出すのだ。』
伝『何を出すッて、極まって居(い)るじゃアございませんか。』
金『お前の方には判って居(い)るが、俺にはどうも判らないが。何を出せと言うのだ。』
伝『沢市の女房(かかあ)お里を出して貰いてエ。』
伝『「沢市の女房(かかあ)お里を出してくれ。」と。』
金『エ。』
幸『俺は御城内へ人入れはして居(い)るが、まだ按摩の世話はした事は無(ね)エ。お里が俺の家(うち)に居(い)るとは、誰から聞いたか知らねえが、俺は知らねえヨ。』
伝『もし、親分。幾らお前さんが白(しら)を切った処で、確かに此処(こっち)に居(い)るのを突き止めて来たンで。実は高木の若旦那がお里を執心で、沢市へは十五両の金で縁を切り、妾(めかけ)にする約束で、四五日前(めえ)に高木様へ伴(つ)れて来ると、どうしても言う事をきかねえから、ふん縛って物置の中へ入れて置いたが、夜(よ)が明けて見ると行衛知れず。段々手分けをして探した末、此処(こっち)に居(い)るのを突き止めて来やしたが、隠し立てをしては為にならねえ。何にも言わず、お里を出しておくんなせエ。』
金『何か。お里を妾(めかけ)に。』
伝『此の証文が何よりの証拠でございます。』
と、取り出した一通。沢市の盲目(めくら)を幸い、勝手に文句を作って二人の判を取った偽証文。金兵衛は是を見ると、むらむらとしたが、胸をさすって、
伝『ねエ、親分。大金を出して抱えた女をお前さんが隠して置いては、御為(おため)になるめえと思いまして。今日は中川さんと二人で出て参りましたが、どうか女(たま)を出しておくんなさい。』
金『イヤ。折角来たお前方に空(から)を踏まして気の毒だが、お里の事を聞くは今日が始めて。何で隠して置くものか。』
伝『それでは親分、どうしてもお前さんは「知らねえ。」と言いなさるかえ。』
金『知らねえ事は知らねえと言うより他に言いようもあるめえ。但し、飽く迄「俺が隠した。」と言うのか。』
 金兵衛は、銀烟管(ぎせる)で烟草を薫(くゆ)らし、ニコニコ笑って相手になりません。是は飽くまで先方(むこう)を怒らして置いて、取って押さえてやろうという考え……堪り兼ねた伝九郎に中川幸之助が「是から家(や)探しをする。」と言う。ちょっと休息して次回を申し上げます。

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校訂者注
 1:底本は「行(や)つけろ」。脱字と見て補った。
 2:底本は「女(おんな)が逃出(にげだ)し来(き)たと」。読みやすくする意図で修正。
 3:底本は「何(こ)うだへ判(わ)かつたらう」。誤植と見て訂正。
 4:底本は「お里(さと)の手当(てあて)を為(し)る」。誤植と見て訂正。

【七】
(伝九郎と中川、江戸屋で袋叩きに 伝九郎、お里の居所を知る お里再びさらわれる

伝『親分。私(わっし)達も子供の使いじゃアなし、女(たま)が確かに居ると思って来たのに、居ねエから「そうでございますか。」と、此の儘には帰れません。私(わっし)は兎も角、ここに居(い)る中川さんは立派なお侍。大小の手前、此の儘には帰れますまい。ねエ、中川さん。そうじゃアございませんか。』
幸『さよう、さよう。此の儘には帰られんテ。』
伝『ねエ、親分。念の為、家中(うちじゅう)を一ツ調べさせてお貰い申してエもので。どんなものでございましょう。』
金『じゃア何か。俺が「居ねエ。」と言うのを、飽く迄も疑って「家(や)探しをする。」と言うのか。ヤイ、伝九郎。他人(ひと)の住居(すまい)を家(や)探しをするという事は重い事だ。是がお上の御役人なら仕方もねエが、高が汝(てめえ)と、こう申しては失礼だが、中川さんじゃアねエか。サア、家(や)探しをするならして見ろ。おさとが居ない暁は、お前達はどうするつもりだ。俺も此の土地で親分だとか親方だとか、嘘にも人に言われて居(い)る身体(からだ)だ。「家(や)探しをされて黙って居た。」と言われては、俺の男が立たねエ。居ねエ暁にはどうして俺の顔を立てる。』
 言われて中川幸之助が何となく気味が悪い。伝九郎の袖を引ッ張って小声で、
幸『伝九郎。帰ろうではないか。どうも最前から金兵衛の容子では、全くおさとは此処には居らぬようだ。家(や)探しをして「居ない。」となれば、お前は兎も角、此の中川が身分にも係わる。』
伝『中川さん。御心配なさいますナ。確かにおさとは此処に居(い)るに相違ございません。』
幸『確かに居(お)るかエ。』
伝『確かに居(お)ります。』
幸『それではうまく遣ってくれ。』
伝『金兵衛親分。念の為家(や)探しをしますから、どうか悪く思っておくんなさるナ。』
金『じゃア飽く迄も俺を疑るのだナ。しかし、家(や)探しをして、居なかったらどうする。』
伝『御入り用もございますまいが、此の伝九郎の素(そ)ッ首を御渡し申します。』
金『コレは面白い。』
伝『私(わっし)の首ばかりじゃアございません。中川さんの首も添えて差し上げましょう。ねエ、中川さん。お前さんも首をお遣んなさるネ。』
幸『コレコレ、伝九郎。何も首なぞを遣る約束をするにも及ぶまい。お前は勝手に遣るが宜(い)いが、俺は遣れない。此の世の中に何が不自由だッて、首の無い位不自由なものはない。』
伝『お前さんは侍じゃアございませんか。そんナ弱い音(ね)を出すもんじゃアございません。』
幸『デモサ、あまりお前が俺を冥途の道伴(ず)れにしたがるから、愚痴も出るじゃねエか。』
金『サア、家(や)探しをするならして見ろ。ヤイ、若い奴ら。伝九郎に中川さんが調べものがあるので、俺の家(うち)を家(や)探しをすると言いなさる。事の済むまで一人も動いちゃアならねエゾ。さア、伝九郎。広くもねエ俺の家(うち)だ。女(たま)が居(い)ると思ったら、探して見ろ。』
伝『御免なさい。』
と、是から中川と二人で、座敷は勿論、縁の下から物置、天井裏まで探したが、おさとはもとより鼠一匹も出ない。
 二人は顔と顔を見合わせ、「コレはとんだ事をした。長居をしては一大事。今の内逃げよう。」とする素振りを見て取る金兵衛、
金『若エ奴等。二人を逃がすナ。』
甲『合点承知。』
と、若い者七八人、二人の行く先(て)に立ち塞がり、
乙『此奴(こいつ)等、よくも親分に恥をかかせやアがった。久しく喧嘩をしねエで、腕がうなって胸が痛んでならねエ。薬の代わりに撲るから、そう思え。』
 火の中にでも飛び込もうという若い連中が、伝九郎に中川を捕り押さえて、鉄拳(げんこ)の雨。
甲『親分。首を貰う約束でございますが、どっちの首を先に引ッこ抜きましょう。』
 根が臆病の中川、之を聞いて慄(ふる)えあがった。
幸『是々。拙者の首は入り用だ。』
 誰でも首の入り用でないものは無い。
金『此奴(こいつ)等の雁首を貰った処で、飴屋もいい顔をして取り替えちゃアくれめエから、首だけは助けてやれ{*1}。』
乙『宜(よろ)しうございます。どうでございます、親分。首の代わりに睾丸(きんたま)を抜いたら柔和(おとな)しくなりましょう。』
金『馬と間違えるナ。』
 乾児(こぶん)がポカポカ二人を撲って「一昨日(おととい)来イ。」と突き出し、塩を一と摑み持って来て、二人の頭へパラリ。
甲『消えて無くなれ。』
 なめくじだと思って居(い)る。二人は尻尾(しっぽ)を巻いて逃げ帰る。
 跡に乾児(こぶん)が、
乙『親分、親分。アノ中川という奴は大小を忘れてゆきました。』
金『大変な侍があるもんだ。魂を忘れて往(い)った。』
甲『魂を忘れれば、奴郎(やろう)は抜け殻でございます。イヤ――、ひどい刀だ。錆びて居りますぜ。どうでございます、親分。是で人が切れましょうか。』
金『そうヨな、豆腐は切れるだろうが、蒟蒻はむずかしいだろう。』
甲『恐ろしい刀を持って居やアがる……誰だエ、其処へ来たのは。汝(てめえ)中川だナ。何しに来た。』
幸『大小を渡してもらいたい。』
甲『今見たが、ひどい刀をさしてるなア。こんな刀をさす位なら、無腰の方が宜(よ)かろう。江戸柳原の住人がたくり丸。それ、持って往(ゆ)け。』
と、ポンと表へほうり出した。ガラガラところがって、スルリ中身が抜けると、石に当たってキウーと曲がってしまう。よく「折れる」と申しますが、折れる刀はまだ上等の部で、鈍刀(なまくら)は曲がってしまいます。
 さア、之を聞いた高木七之助は大いに怒り、「どこにおさとを隠したか。彼のありかを探して取り押さえ、それから金兵衛に此の返報をしよう。」と、伝九郎と中川に申し付け、諸方手分けをして探した。行衛が判りません。
 スルと、其の年の十一月、伝九郎の家(うち)で時々博奕が開帳(でき)ます。是へ来ていたずらをして居たのが、高取の在、東陽寺の寺男(てらおとこ)で久助。珍しく今日は一両小判を出して、それを小銭に替えて賭(は)って居(い)る。殊に一杯機嫌で大層景気が宜(い)い。正面に見て居た伝九郎、
伝『久助さん。大層今日は景気が宜(い)いじゃアねエか。小判などを出して。』
久『ハアー。たまには小判も懐中(ふところ)にある事がございます。今迄は猫が喰わえて居(い)るものだと思った小判が、私(わし)が此の賭博(とば)へ持って来るようになった。何でも人間は株を見付けなければいけねエ。』
伝『久助さん。お前大分酔って居(い)るようだ。こういう時には儲ける処も儲けずに、賭(は)り流してしまうものだ。いくらかいいのが幸い、其処らで手をしめたら宜(よ)かろう。』
久『成程。それもそうだ。オイ、其の小判を取り替えておくれ。ここへ一両出すから。』
伝『久助さん。此の小判だッて一両の通用なら、其の小粒だッて一両の通用だ。同じ事じゃアねエか。』
久『イヤ、そうでねエ。どうも小判が懐中(ふところ)に入って居ねエと心持ちが悪い。イヤ、有難(ありがて)エ。』
 一両の小判を懐中(ふところ)に入れて、次へ立って来ました。
伝『久助さん。何にも無(ね)エが一杯飲みねエ。』
久『有難うございます。』
伝『処で久助さん。妙ナ事を聞くようだが、お前のとこの和尚さんは、江戸金と仲がいいね。』
久『碁友達でがす。時々のように江戸屋の親分が遊(あす)びに来て、どうかすると夜明かしで碁を打って居(い)る。別に金を賭けるでもねエが、よくアンナに碁が打てたもんだ。』
伝『此のごろも往(ゆ)くかエ。』
久『此の間……二三日前にも来ました。其の時に江戸屋の親分から一両貰った。』
伝『久助さん。二朱や一分と違って、一両と言えばお前の身分には大金だ。只江戸屋が一両くれる訳はあるめエと思うのだが。』
久『それは勿論だネ。訳が無くて、何で私(わし)に一両くれるもんか。くれる理由(わけ)があるからくれたんだ。それがそれ、「株を見付けた。」と言ったはここだ。』
伝『其の理由(わけ)を聞かしてくんねエ。』
久『其の理由(わけ)は……マア、よそう。是が此処でベラベラしゃべって、お前に株を取られてしまっちゃア、俺がつまらねエ。』
伝『其の理由(わけ)を話してくんねエ。お前がそれを話してくれたら、俺が一両遣ろうじゃアねエか。』
久『ハヽア。やっぱり小判をくれるか。今年は小判の運が向いたゾ。』
伝『物は早い方が宜(い)い。さア、一両。お前、取って置きねエ。』
久『有難(ありがて)エ。こう小判がぶつかるようじゃア、忽ちに大尽だ。何、他の事でもねエが、先月の末だ。私(わし)が土蔵へ出し物があって往(ゆ)くと、美麗(きれい)な女が居ただ。年頃は十九か廿才(はたち)か。色の白い水の垂れるようナ美麗(きれい)な女で、どうも私(わし)もふだんから「和尚さんが此の頃は飯を余計喰う。」と思って居たが、其の時始めて気が付いた。「アノ女に喰わせるので、飯が余計要(い)った。」と判りました。出て来て和尚さんに聞くと、「アレは決して梵妻(だいこく)ではない。仔細あって他(わき)から頼まれたもの。しかし、寺方に女が居(い)るとなると面倒だから黙って居たが、決して他人(ひと)に言ってはならん。」と口止めをされました。私(わし)も考えた。「生き仏という和尚さんが、お梵妻(だいこく)を置く訳はねエ。是には何か深い仔細があるに違いない。」と思って、其の儘にして、毎日私(わし)が其の女に喰べ物を運んで居ました。スルと四五日前、江戸屋の親分が来さしって、「アノ女は俺が和尚さんに預けたのだ。誰にも言ってくれるな。」と、其の時一両、金をくれました。江戸屋の親分の妾(めかけ)なら、自分の家(うち)へ置きそうなもの。それを寺へ連れて来て預けるのは、何か深い訳があるに違エねエ。しかし、そんな事を聞いた処で仕方がねエから、一両貰っていまだに私(わし)が世話して居ります。』
伝『どの土蔵に隠して置いた。』
久『雑物蔵だネ。』
伝『アノ本堂の東の方(かた)にある、アノ蔵か。』
久『そうだネ。』
伝『妙ナ事があるもんだナ。』
久『是は内々(ないない)の話だから、どうか他言をして貰いたくねエ。』
 一番悪い奴に他言をしてしまった。
久『イヤ、飛んだ厄介になりました。さようなら。』
と、一両貰って久助は喜んで帰る。
 跡に伝九郎、
伝『おかめ、聞いたか。』
かめ『東陽寺に居(い)るとは気が付かなかったネ。』
伝『ヨシ、おさとの居処が判った上は、今夜すぐに東陽寺へ踏み込んで、女(たま)を引っさらい、江戸屋の鼻をあかして遣ろう{*2}。』
 博奕の終(しま)うのを待って、すぐに高木の処に参りまして、七之助に此の話をした。それから中川幸之助を連れ、三人揃って東陽寺を指して参りました。ちょうど其の夜(よ)の九ツ時分。
 此方(こちら)は久助。酒の酔いに乗じて、一両貰ったばッかりに、ベラベラ此の事をしゃべってしまった。いい心持ちにフラリフラリと東陽寺を指して帰って参りました。今門に入った途端に、 
〇『久助さん、今帰りか。』
久『ハイ。』
と振り向くと、江戸屋の金兵衛の乾児(こぶん)勘太郎。
勘『今和尚さんに親分の言伝をして、帰りだ。』
久『そうかネ。親分に宜しく言って下せエ。さようなら……今帰(けえ)りました。』
 役僧の海念、
海『久助か。又酒を飲んで帰って来たナ。困る奴だナ。「葷酒不許入山門(ぐんしゅさんもんにいるをゆるさず)」という戒檀石が目に入らんか。たとえ僧侶でなくても、寺に居(お)れば酒位は謹んだら宜(よ)かろう。いつでもいつでも酔って参る。』
久『そんな事を言わねエもんだ。お前さんだッて此の間、酒飲んだではねエか。』
海『コレ、あれは酒ではない。般若湯だ。』
久『般若湯かネ。それに玉子喰ったでねエか。』
海『アレは玉子では無い。御所車だ。』
久『何で「御所車」で。』
海『「覗いて見ると君が居(い)る。」というので、御所車と申す。』
久『鰻の事が一と幕で、どじょうの事が踊り子、女が梵妻(だいこく)。寺にはいろいろな符号(ふちょう)があるものだ。和尚さんはどうしました。』
海『「お風邪をめした。」と言って、早くよりお寝(やす)みだ。お前も部屋へ往(い)って早く寝るが宜(よ)い。』
久『それでは御免なさいまし。』
 久助は部屋に引き取って眠りました。
 ちょうど九(ここ)のツ少し過ぐる頃に、玄関の戸を叩いて、
〇『御願い申します。もし、東陽寺様。』
〇『アイ。誰だ。』
〇『葬式を御願い申しますので出向きましたが、ちょっと御頼み申します。』
〇『アイ、御苦労様。只今あけます。』
 納所の良全が立って来て玄関の戸をひらくと、提灯を持って三人立って居ります。中に一人女が居(い)る。「葬式の知らせならば二人だが、三人とは多い。」と思ったが、
〇『さア、此方(こちら)へ御上がり下さいまし。』
〇『高取の城内から参りました。和尚さんが御在(い)でなら、御目にかかりとうございます。』
良『ハイ。ちょっと御待ち下さいまし。』
 是の事を和尚へ取り次ぐ。「城内。」と言えば、「植村の家来に不幸があった事。」と思いまして、住持の海全が珠数を爪繰りながら出て参りました。「御客は。」と見ると、女交じりで以上三人。
海『愚僧が海全でございます。』
〇『始めて御目にかかります。私は高取の土佐町に居ります伝九郎と申しまして、当時郡奉行の御用を聞いて居ります。ここに御在(い)でなさるは中川幸之助様と仰って、御城内の御武家様で、又ここに居(お)る女は私の女房(かかあ)でございます。』
 聞いた和尚がギョとしたは、かねて金兵衛の話で承知したが、「此奴(こいつ)がお里を苦しめる蝮の伝九郎か。」
海『ハイ。』
伝『実は、和尚さん。今ばん参りましたのは、此方(こちら)に沢市の女房お里が居(お)るそうで、どうか彼女(あれ)を御渡しなすっておくんなさい。と言うは、御城内の高木様が大金を出して妾(めかけ)に抱えたのでございます。処が、其の金を踏み倒して行衛知れず。段々手分けをして探すと、此方(こちら)に居(お)るとの事。本来郡奉行の手で取り押さえて貰うのでございますが、そうなると、たとえ厭な事が無くとも、寺へ若い女を置いたとあって、和尚様の御身分にもかかわるだろうと存じまして、御奉行へは内々(ないない)で参ったのでございます。何にも言わず、お里を御渡しなすっておくんなさい。』
と、伝九郎の言葉の切れるを待って、中川幸之助が、
幸『イヤ、和尚。拙者は高木七之助殿より依頼を受け、お里を引き取りの為に参った。速やかに渡せ。もし不承知を申せば、此の事を公然(おもてむき)に致すがどうだ。それでは却って為になるまい。』
海『ハイ、何やらお里とかいう女の事で御見えなされたようじゃが、寺には女は禁物。さような者は居りませぬ。こりゃ、何やらの間違いでござる。』
伝『では「お里は居ねえ。」と、飽く迄も言いなさるか。』
海『知らん事じゃ故、どないに質(たず)ねられても「知らん。」と言うより他に、御答えのしようはないて。』
伝『よし。知らなければ、今女を見せてやる。全く知らねえナ。』
海『仏へ仕える出家には「妄語戒」と言うて、嘘を吐(つ)く事は堅く戒めてござりますじゃ。』
伝『ヤイ、坊主。此の寺に居(い)るというを承知で来たんだ。出さなければ此方(こっち)で出してやる。おかめ、汝(てめえ)ここにがんばって居ろ。』
かめ『アイ、承知だヨ。』
伝『ソレ。』
 伝九郎は、かねて久助から聞いて置いた雑物蔵へ飛び込んで、中川と共に引き出して参りましたおさと。
さと『どうぞ勘弁して下さい。』
伝『此の女(あま)ア、よくもコンナ所に巣を造って居やアがった。サア、来い。』
と言いながら、和尚の前へ突き付けて
伝『ヤイ、坊主。是でも汝(うぬ)は「知らねえ。」と言うか。』
 海全和尚、まさかに久助がしゃべったことは知らない。「雑物蔵へ隠匿(かくま)って置いたお里は、知れる気遣いはあるまい。」と、高をくくって居た処が、引き出されたので驚きましたが、ソコは禅家(ぜんけ)の坊さん。悟道に渡って居(い)るので、
海『ハア、居りましたかナ。どこから蔵へ入って来たか。』
伝『何。「どこから蔵へ入って来たか。」と。鼠だと思って居やアがる。さア、お里。来い。』
と、引き立てられて表へ出ると、一挺の山駕(かご)が下りて居(い)る。すぐに之へお里を載せて、飛ぶが如く高木七之助の下(もと)へ連れて行く。
 東陽寺の役僧や納所は驚いて、
〇『和尚さん。アノ女は何だす。』
海『アレハ江戸屋から頼まれた預かり物じゃ。』
〇『愚納(わし)達は此寺(おてら)にアンナ女が居(お)るとは少しも気が付かんで居りました。しかし是から先、アレがえらい難儀する事でございましょう。』
海『是も前世の宿縁で仕方もないが。コレ、良全。ちょっと一走り、江戸屋へ知らして置け。』
良『ハイ。行(い)て参じます。』
 納所の良全は、すぐに江戸屋を指して参りました。お里の身の上はいかが。ちょっとお仲入りをして。

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校訂者注
 1:底本は「雁首(がんくび)を貰(もら)んた処(ところ)で」。誤植と見て訂正。
 2:底本は「江戸屋(えどや)に鼻(はな)をあかして遣(や)らう」。読みやすくする意図で修正。

【八】
(伝九郎、七之助を裏切る 伝九郎と駕舁の争い 江戸金、お里を救い出す)

 江戸屋金兵衛は、ソンナ事が出来たとは知らず、しかし油断はならぬと、毎日子分をソレとなく東陽寺へ遣って、お里を見廻らせる。今日も勘太を遣った処が、「別段何の仔細もない。」と聞いて安心し、一口飲んで枕に就いた。二時(やつ)とも思う頃に、
勘『親分。東陽寺から良全さんが来ました。』
金『何、東陽寺から使いが来た。』
 偖はお里の身に凶事があったかと、枕を蹴って立ち上がった金兵衛。
金『良全さん、何事か。』
良『オー、親方。今しがた伝九郎が来て、お里さんを連れて行(ゆ)きました。』
金『シテ、行った先は。』
良『そりゃ、どっちへ行ったかよく知らんでナ。』
金『しかし、大概落ち着く先は判って居(い)る。イヤ、大きに御苦労でございます。』
良『和尚さんがえらい心配をして、早う此の事をあなたに知らせイと言われましたので、大急ぎで参りました。』
金『勘太、脇差を持って来い。』
勘『親分、どこへ。』
金『知れた事を聞くナ。行(ゆ)く先は高木だ。』
勘『相手は侍。まづ七八本の刀はございましょう。ソコへ親分一人で飛び込んでは……』
金『たとえ何人揃って居ようとも、木偶の坊同様な奴郎(やつら)だ。俺が一人で沢山だ。』
勘『どうかソンナ事を言わねえで、俺(わっし)も連れて行っておくんなさい。日頃習った剣術の腕を試すのはこういう時だ。』
金『汝(てめえ)、剣術を習ったか。』
勘『「習ったか。」とは、親分情けねえ。一刀流を七日、真影流が七日、無念流が七日、鞍馬流が七日に微塵流を七日と習って、合わせて五七三十五日。親分、蒸し物は一周忌にしましょう。』
金『何を言やアがる。不在(るす)を頼むぞ。』
 金兵衛は甲斐甲斐しく支度をなし、覚えの脇差を振り込んで、お里の行った先は必定(てっきり)高木の住宅(すまい)と、道を急いで参りました。
 御話は別れて、此方(こちら)は伝九郎が駕(かご)屋を急き立てて連れて参った高木の住宅。七之助は若党佐平次を相手に酒を飲んで、今か今かと待って居(い)る。
佐『若旦那。他に女のないではございません。主(ぬし)あるお里は廃(よ)したら宜(よ)うございましょう。此の事が大旦那に知れては大変でございます。』
七『貴様の知った事ではない。黙って居ろ。男が一度(ひとたび)思い込んだ事は、虎を描(か)いて猫と言っても飽く迄通す所存だ……佐平次。大分足音が聞こえるが、帰って来たのではないか。』
佐『ハイ。』
 佐平次が立ち上がるトタンに、「ドカドカ。」と庭へ入って来たは、伝九郎に幸之助。続いておかめ。駕(かご)が一挺。此の駕(かご)にはお里が入って居ります。其の他に四五人の大男。是は、「もし途中で金兵衛に会っては一大事。」と、護衛の為に高木七之助が頼んだ者。
七『イヤ、伝九郎。大きに御苦労であった。』
伝{*1}『ようやくお里は引っさらって参りました。』
と言いながら、駕(かご)よりひき出して座敷へ上げる{*2}。伝九郎は高木から受け取った酒代(さかて)を駕夫(かごや)へ渡して何か耳打ちをした。
駕『ヘエ、承知して居ります。イエ、大丈夫でございます。』
 駕夫(かごや)は引き取る。跡に護衛に従(つ)いて来た人々は、いくらかの金を貰って、高木の住宅の裏と表へ別れて、江戸屋から来るのを防がんと頑張った。
 此方(こちら)は七之助。厭がるお里の手を取って引き寄せ、
七『お里。是程思う七之助の真実を酌んだら悪(にく)くはあるまい。又泣くのか。たって貴様が「厭だ。」と申せば、無理には迫るまい{*3}。しかし俺も武士だ。嫌われただけの返報はいたしてやるから。』
と、傍らにあった一刀を引き寄せる。是を見て居た伝九郎が、
伝『マア、若旦那。御待ちなさい。こういう事はすべて短気ではいけません。気を長くもって、徐々(そろそろ)と持ち込まなければ纏まりませんヨ。「深草の少将は小町の元へ百夜(ももよ)通った。」と言うじゃアございませんか。短気は損気とやら。何事も怒ってしまってはそれぎりで。大方コンナ事があるだろうと、女房(かかあ)を伴(つ)れて参りました。牛は牛づれとか。女は女でなければ説得(ときつけ)るに工合(ぐあい)が悪うございます。オイ、おかめ。お前(めえ)何とかうまくお里さんを説得(ときつけ)てくれ。若旦那は気が短くッていけねえから。』
かめ『何とかお里さんへ話してみよう。ねエ、お里さん。高木の若旦那の言う事を聞けば、お前は蔵奉行の御令閨(ごしんぞ)様になられるンだヨ。それだのにアンナ不具(かたわ)な沢市さんへ義理を立てるとは、どう考えても妾(わたし)には判らない。それも、「検校様。」とか沢市さんが言われて、黒塗りの橦木(しゅもく)の杖でも突くような、立派な身分の御新造にもなるなら、たとえ相手が盲目(めくら)でも、又考える事もあるけれども、上下(かみしも)揉んで五十か百、一生涯うだつは上がらないヨ。お前なぞは年も若いし、花なら是から発(ひら)こうという、謂わば蕾の今の身を、何も好んでアンナ盲目(めくら)の女房にならなくっても宜(よ)さそうなものだネ。サア、若旦那の言う通り、お前の心のもちようで、御令閨(ごしんぞ)になれるのだヨ。何をお前泣いて居(い)るンだネ。』
七『おかめ。此女(こいつ)は中々執拗(ごうじょう)だから、ソンナふうに柔らかく申しては、いつまでも埒があかぬ。モー俺はあきらめた。しかし只はあきらめん。今まで辛く当たられた、其の返報をいたしてやる。』
かめ『マア、若旦那。お待ちなさい。ほんとうに此の女も執拗(ごうじょう)なら、あなたも短気ですヨ。「深草の少将は小町の元へ百夜(ももよ)通った。」と言うじゃアございませんか。』
七『イヤ、其の事は伝九郎から聞いたが、俺は深草の少将程の辛抱は出来ぬ。』
かめ『マア、御待ちなさい。ゆっくりモー一度説得して見ますから。しかしここではあなたが怒るので、充分に説得が出来ませんから、他(わき)の御坐敷へ行って。』
七『どこへでも勝手な所へ伴(つ)れて行(ゆ)け。』
かめ『サア、お里さん。一緒に御出(い)で。じゃア、伝九郎さん。此の女(こ)は妾(わたし)が預かるから。』
伝『預かるのは宜(い)いが、大分御座敷が陰気になって来た{*4}。一杯熱く御酣(おかん)をして、若旦那と中川さんへ上げてくれ。』
かめ『そうだろうと思って、お酣(かん)も出来て居(い)るから。』
と、おかめが持って来た酒。
伝{*5}『よし。其処へ置いて行け。』
伝『それではお里さんは汝(てめえ)に任せるから、「ウン。」といういい音(ね)を出すようにしてくれ。』
かめ『ドンナ音(ね)が出るか知れないが、モー一度当って見ようから。』
と、おかめはお里を伴(つ)れて次へ立つ。
 後(あと)に伝九郎が、
伝『サア、若旦那。御一ツ御あがんなさい。中川さんも…』
幸『イヤ、忝い。高木様、まづ召しあがれ。』
伝『チト御酌が気に入りますまいが。』
七『蝮の伝九郎が酌をしてくれるので、是がほんとうの蝮酒であろう…此の酒は妙にザラリとするが。』
伝『イエ。そんな事はございません。』
七『俺の口のせいか。』
伝『中川さん。どうでございます。』
幸『夢中に飲んでしまったので、拙者には判らん。』
七『伝九郎。其の方、一ツ飲んで見ろ。』
伝『ヘエ。私も頂戴いたしますが、モー一ツ若旦那飲んで御覧なさい。』
七『ドウ…ブッ…是もザラ付くようだが…ウーン。コヽ、是は…伝九――郎。』
伝『若旦那。どうなさいました。』
幸『アッ。是は。』
と言うと、中川に高木七之助が口から泡をブクブク出して打ち仆(たお)れました。此の容子をジットみて居た伝九郎。
七『おかめ。計略(はかりごと)は上首尾だ。』
かめ『そうかえ。』
 襖をサラリとあけて、お里を伴(つ)れて立ち出る三日月おかめ。お里は之を見ると、「アレ――。」と一声。逃げようとするを押さえて、
伝『声を立てるナ。』
と、飛びかかって小手を縛め、口にはかねて拵えて置いた、真綿に針を入れた猿轡を啣(は)めた。あたりを窺う伝九郎。泡を吹いて仆(たお)れて居(い)る七之助に中川を見て笑ったが、
伝『ヤイ。今飲ました酒の中には魔睡剤(しびれぐすり)がはいって居(い)るのだ{*6}。是、よく聞け。此のお里故には、俺も江戸屋ににらまれて、とても此の土地に永居は出来ねえ。ソコデおかめと相談して、どうせ高飛びををするには、此のお里を引きさらい、大阪か兵庫へ持って行って金にするつもりだ。わずか十両か二十両のはした金で、飽くまで汝(てめえ)に忠義を尽くす程、まだ伝九郎は耄碌はしねエぜ。実は東陽寺からお里をひき出した時に、すぐに逃げようと思ったが、汝(てめえ)が途中用心の為付けて寄こした人足が邪魔になって、ソコデ此所(ここ)まで一時(いつじ)女(たま)を持ち込んだのだ。永い苦しみはあるめえ。夜(よ)が明ければもとの身体(からだ)になるかも知れねえ。気が付いたら是から先は改心して、悪事をするなら俺を見習え。』
 「改心して悪事を見習え。」という、コンナ判らない事はございません。七之助に中川は、気は確かだが口が利けませんから、恨めしそうに伝九郎を白眼(にら)めて居(い)る。
伝『オイ。裏と表に居(い)る用心棒はどうした。』
かめ『今ね、御酒を持って行って片附けてしまうから。』
伝『早くしろ。キット江戸屋がココへ来るだろうと思うから。』
 おかめは例の毒を入れた酒を持って出て来た。
かめ『皆さん。御寒い処を御苦労様でございます。』
〇『イヤ、どうも。今に江戸金が来るかと思って待って居たが、いまだに参らんで。空腹にはなるし、寒さは身に浸(し)みるし。実に遣り切れんテ。』
かめ『御酒を持って参りました。』
〇『それは忝い。しからば早速頂戴しよう。』
 是から五六人が、おかめの持って来た酒をガブガブ飲んだ。どうして堪るものではない。毒の利き目は恐ろしいもので、一人がバッタリと仆(たお)れる。
△『中村、いかがした。コレ、どうした。』
と言う内に、又一人が倒れる。バタバタ五六人、将棋倒しに倒れました。おかめはすぐに引き返して、
かめ『伝九郎さん。モー大丈夫だヨ。』
伝『そうか。それじゃア出かけよう。』
かめ『出かけるは宜(い)いが、小遣いを持って行(ゆ)こうじゃアないか。』
伝『それもそうだ。』
 二人で用箪笥の抽き出しから、有り金を奪って懐中(ふところ)へ入れ、
伝『じゃア高木の若旦那。いろいろ御世話になりましたが、是で御暇(いとま)を致します。どうか御身体(からだ)を御大切になすって。さようなら、御機嫌宜(よ)う。』
 ひどい奴があればあるもので、お里を引っ背負(しょ)って、伝九郎はおかめの手を取り、裏口から逃げだした。
 二三町上(かみ)へ来ると、地蔵堂の後ろから、
〇『蝮の親方でございますか。』
伝『オヽ、其処に居たか。』
〇『さっきから御待ち申して居りました。』
伝『大きに寒い所で冷(すず)まして、気の毒であった。』
〇『親方。女(たま)はどうしました。』
伝『コヽへ伴(つ)れて来た。』
〇『此方(こっち)へ受け取りましょう。オイ、寅。ちょっと手を貸してくれ。』
と言ったは駕夫(かごや)で、かねて言い合わしてあると見えて、此所(ここ)に待ち受けて居たのでございます。
 おさとを無理に駕(かご)へ入れて、パラリと垂(たれ)を下ろし、其の上を縄引(ほそびき)で巻いて肩を入れたが、
〇『では親分。行(ゆ)く先は。』
伝『大阪へ持って行ってくれ。』
〇『畏まりました。』
伝『どうだ、急いで行ったら新沢(にいざわ)あたりで夜(よ)が明けるだろうナ。』
〇『ソンナ物でございましょう。』
寅『オイ、熊。どうだろう、今の内報酬(そめちん)を極めて貰おうじゃアねえか{*7}。』
熊『そうヨナア。もし、親分。まだ骨折りを極めませんが、いくら俺(わっし)たちに下さるンで。』
伝『ソンナ事は新沢(にいざわ)へ着いてから、ゆっくり相談しようじアねえか。』
熊『何ね。そりゃア親分の事だから、しみッたれな報酬(そめちん)を出さねエは、俺(わっし)たちも知って居ますが。念の為、御聞き申すのでございます。』
伝『じゃア面倒だ。前払いにくれてやるから。サア、之だけ取ったら言い分はあるめエ。』
熊『有難うございます。』
 手に取って、「チャリッ。」と金の音をさして見て居たが、
熊『オイ、寅。親分が前払いに下すった。どうだえ。是で宜(よ)かろうか。』
寅『どう……三両じゃアねエか。』
熊『そうヨ。』
寅『返(けえ)してしまえ。』
熊『何を。』
寅『返(けえ)してしまえと言うンだ。』
熊『「返(けえ)してしまえ。」と。オイ、寅。三両だぜ。』
寅『三両だから、返(けえ)してしまえと言うンだ。』
熊『三両じゃア少ねエのか。』
寅『当然(あたりめえ)ヨ。多ければ黙って貰って置くが、少ねエから返(けえ)してしまえと言うのだ。それとも汝(てめえ)は「それで沢山だ。」と思ったなら、一人で此の駕(かご)を担いで往(い)け。』
熊『冗談言うナ。函根山の関口弥太郎じゃアあるめえし、一人で駕(かご)が担げるかえ。』
寅『担げなければ返(けえ)してしまえ。』
熊『そうか……親分へ。折角でございますが、此の三両は御返し申します。』
伝『ウン。三両じゃア不承知か。』
熊『返(けえ)す位なんですから、不承知なんでございましょう。』
伝『いくら寄こせと言うのだ。』
熊『ヤイ、寅。いくら貰えば宜(い)いのだ。』
寅『もし。蝮の親分へ。物には大概相場がございますヨ。駕(かご)の中の品物が、普通(あたりまえ)の代物じゃアねえ。是から大阪か兵庫へ持って行って、年一杯ほうり込めば、二百や三百と纏まった金が摑めるンだ{*8}。お前さんはウンと儲かって宜(よ)かろうが、俺等(こちとら)は拐帯(かどわか)しの提灯持ちで、「御用。」と食らえば首にかかわるんだ{*9}。ソンナ危ない仕事を、どうも三両じゃア出来ません。』
伝『それでは、いくら遣ったら大阪まで持って往(ゆ)く。』
寅『五十両おくんなさい。』
伝『五十両くれろ。馬鹿ア言うな。此の玉を無事に大阪まで持って行って、二百と三百と纏まった金を取った上は、二十両や三十両はくれてやらねえ事もねエが、海の物だか山の物だか、まだ判らねえ代物へ、五十両は払えねえ。』
寅『払えなければ、御免を蒙るばかりさ。代物は其方(そっち)の物、駕(かご)は此方(こっち)の物だ。オイ、熊。女を下ろしてしまえ。』
と、両人(ふたり)が駕(かご)の垂(たれ)を揚げようとするを、
伝『マア待て。』
寅『留めるからには五十両。前金に下さるかね。』
伝『どうも五十両は。』
熊『高いと思うならばおよしなせエ。無理に大阪まで行(ゆ)こうとは申しません。お前さんが五十両出さなければ、是から帰って「恐れながら。」と訴えて出るばかりさ。それじゃア却って御為(おため)になりますまいが。』
伝『厭に脅し文句を並べやアがる。』
熊『何が脅し文句だ。「拐帯(かどわか)しの手伝えは五十両でなければ厭だ。」と言うンだ。』
伝『奴郎(やろう)、生意気な事を言やアがるナ。』
熊『ヤイ、寅。面倒だ。蝮を殺して女(たま)ア此方(こっち)へふんだくれ。』
伝『よし。合点だ。』
 二人の駕舁(かごかき)が息杖を取って打って来る。伝九郎は腰の脇差を引き抜いて渡り合った。おかめは亭主に怪我をさせまいと、横手を流れる檜熊(ひのくま)川の河原に下りて、石を取って投げる{*9}。
熊『ヤイ、寅。危(あぶね)い。蝮は俺が引き受けるから、女房(かかあ)を片付けろ。』
寅『オット承知。』
と、石をよけながら飛び込んで来た駕夫(かごや)の寅蔵。息杖でおかめの肩を打った。「アッ。」とそれへ打ち倒れる。「ドンナもんだ。」と、のしかかって又打った。「ウーン。」とおかめは気絶する。此の騒ぎの所へ、向うから走(か)けて来た一人。何か思い当った事があると見え、お里の乗った駕(かご)の傍へ忍んで参りまして、垂(たれ)を上げて中からお里を引き出し、其の儘ドンドン遁(に)げ出した。
 そんな事が出来たとは、此方(こっち)は夢中。
伝『サア、奴郎(やろう)。覚悟しろ。』
熊『サア、来い。』
寅『ヤイ、熊。大変だ大変だ。駕(かご)の中に居た女(たま)が見えねエぜ。』
熊『何。女(たま)が見えねエ。ハテネ。』
前に居た伝九郎も驚いた。
寅『何だ。女(たま)が居なくなった。』{*10}
と言うと、三人喧嘩が仲入りになってしまった。
伝『マア待て。どこへ行ったろう。』
熊『どこへ行ったか判りません。』
伝『肝心な女(たま)が居なくなっては、喧嘩をする張り合いがねえ。』
熊『居た居た。イヤ、是は姐(あね)さんだ。ヤイ、寅。汝(てめえ)がコンナ事をしたんだろう。早く姐(あね)さんの手当てをしろ。』
寅『もし。姐さん。しっかりなさい。』
 暢気な奴があったもので、自分で気絶させて又介抱をして居ります。
 おかめはようやく気が付いたが、
かめ『ひどい事をするじゃアないか。』
寅『どうも済みません。姉(ねえ)さん、勘弁しておくんなさい。あんまりお前さんがおてんばなものだから。それはそうと、肝心な女(たま)が居なくなりました。』
かめ『どこへ行ったろう。』
伝『イヤ。コンナ事になったのも、つまり此奴(こいつ)等が判らねえからだ。』
熊『だってお前さんが吝(しみ)ったれだから。』
伝『汝(てめえ)達が判らねエのだ。』
熊『何が判らねエ。汝(てめえ)が判らねえから、こんな事になったのだ。サア、女(たま)を逃がした上は自暴(やけ)だ。覚悟しろ。』
伝『生意気な。』
と、又喧嘩を始めた。
 偖、お里を助けた者は、そもそも何者であるか。高木七之助は是からどうなるか。大阪へ治療(じりょう)に参った沢市はどうなったか。以下、次席に詳しく申し上げまする。

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校訂者注
 1:底本は「七『漸(やうや)くお里(さと)は」。誤植と見て訂正。
 2:底本は「偽(かご)より惹出(ひきだ)して」。誤植と見て訂正。
 3:底本は「無現(むり)には迫(せま)るまい」。誤植と見て訂正。
 4:底本は「預(あづか)るのが宜(いゝ)が」。読みやすくする意図で修正。
 5:底本のまま。
 6:底本は「魔睡剤(ひゞれぐすり)」。読みやすくする意図で修正。
 7:底本は「極(きめ)て貰(もら)ふ」。一字欠字と見て補った。
 8:底本は「二百 三百と」。欠字を補った。
 9:底本は「俺等(こしとら}は」。読みやすくする意図で修正。
 10:底本は「檜前川(ひのくまがわ)」。誤植と見て訂正。
 11:底本は「居(ゐ)なくなつたと。』言(い)ふと、」。誤植と見て訂正。
 12:底本は「熊『若(も)し姐(あね)さん」。誤植と見て訂正。

【九】
郡奉行の捜査 七之助と中川、郡奉行に賄賂 楊震四知の戒め 郡奉行の廉潔と知略)

 沢市の妻お里は、危(あやう)い所を何者とも知らぬ男に引き伴(つ)れられ、「善か。悪か。」と胸の鼓動は高まるばかり。一二町参りますと、小手の縛めを解き、猿轡を取って、
男『お里さん。危なかったナ。』
言われてお里が星明りに其の人の面(おもて)を見て、
さと『オー。あなたは江戸屋の親分。』
金『東陽寺の良全さんが来て、お前が伝九郎に引っさらわれたと聞いたから、確かに伴(つ)れ込まれた先は高木の住居(すまい)と思い、殊に寄ったら血を見るつもりで助けに行(ゆ)く途中、アノ地蔵堂の前で、駕夫(かごや)を相手に伝九郎の争論(いさかい)。それを幸いにお前を助け出した。さぞつらい事であったろう。しかし是からはモー大丈夫だ。俺が付いて居(い)るから安心しなさい。』
さと『いつに変らぬ親分の御親切、有難う存じます。』
金『サア、一緒にお出(い)で。』
 お里の手を取って我が家(や)を指して引っ返す。途中、伝九郎なぞに見られては面倒と、畠の中を通って二三町来ると、向うの方から提灯を点(つ)けて八九人、此方(こっち)を指して来るものがある。見附けられては面倒と、桑の枯れ木の後ろへ身を隠す。近寄るままに見ると、自分の子分。勘太が先立ちで以上八人。長脇差を腰に、足拵えも厳重に致して、此方(こなた)を指して参ります。
金『待て。勘太じゃアねエか。』
勘『コレワ親分。オヤ、お里さんも一緒ですか。ヤイ、みんな。親分は無事だぞ。』
〇『親分。御怪我が無くって御芽出度うございます。みんな見ろ。大層なものだナ、親分は{*1}。少なくとも刀の七八本はあるだろう。其の高木の邸(やしき)へ一人で行(ゆ)き、お里さんを連れ出して、一ケ所も怪我の無(ね)えのは恐れ入ったものだ。』
金{*2}『イヤ。俺は高木へ行かなかった。』
△『ヘエー。高木へ御出(い)でなさらねエで。それじゃア怪我をしねえ訳だ。それにしても、どうしてお里さんを助け出しました。』
金『是には深い仔細がある。帰(けえ)ってからゆっくり話すとしよう。それに就いて、汝(てめえ)達は何だって今頃、大勢揃ってどこへ行(ゆ)く。』
〇『どこへ此の深更(よふけ)に行(ゆ)きましょう。勘太兄イから聞きましたが、弱い奴でも相手は侍。それに蝮の伝九郎も居りますし、親分の身に万一の事があっては大事。御邪魔になるか知れませんが、助太刀に出かけるつもりで此所(ここ)まで参りました。』
金『そうか。そりゃア有難エ。もつべき者は子分だ。しかし、お里さんが無事にこうして復(かえ)った上は、是から高木へ暴れ込むにも及ぶめエから、一緒に帰ってくれ。』
勘『折角支度してコヽまで来たのですから、此の儘帰(けえ)るも智恵がございません。どうか親分、高木の所へ遣っておくんなさい。こういう時だ。日頃習った腕前を現わすは。高木の主人(あるじ)は言うも更(さら)、伝九郎を始めとして、片ッぱしから斬っ払い……』
金『生意気な事を言うナ。帰(けえ)れと言ったら帰(けえ)れ。』
勘『帰るなら御帰ンなさい。俺(わっし)は帰(けえ)らねえ。』
金『執拗(ごうじょう)な奴だ。』
と、勘太の頭をポカリと撲(う)つと、「ガーン。」という音がする。
金『オー、痛エ。恐ろしい堅(かて)エ頭だナ。』
勘『今夜の喧嘩はあぶねえと思って、兜の代わりに鍋をかぶって来ました。』
 是は堅い訳だ。
金『一緒におとなしく帰れ(けえ)。』
勘『ヘエ。』
金『お里さんが疲れて居(い)るだろう。背負(おぶ)って行ってやれ。』
勘『宜(よろ)しゅうがす。お里さん、俺(わっし)が背負(しょ)って行って上げましょう……何も遠慮には及びませんヨ。』
 勘太はお里を背負(しょ)って、親分金兵衛を先に立て、一同無事に引き揚げて来る。
 御話は別れて此方(こちら)は高木七之助。伝九郎の為に毒酒を飲ませられ、一時は口も利けず、手足も自由にならず、夢のような心持ちで居た。スルト若党の佐平次が、坐敷が静かになったので、そっと自分の部屋から来て見ると、此の始末。
佐『若旦那。気を慥かに御もちなさい。どうなすったので。オヤ、中川さん。あなたも同じように……どうなさいました。』
 佐平次が二人を抱き起こし、顔へ水を吹っかけ介抱したが、中々気が付かない。
佐『もし。伝九郎親分。ちょっと来て下さい。』
と呼んだが、是はここに居(い)べき訳もない。「表に見張りをして居(い)る人をよんで来よう。」と出て来てみると、五六人、一ツ処へかたまって、是も打ち倒れて、蟹のように口から泡を吹いてうなって居(い)る。佐平次は益々驚き、下婢(じょちゅう)を起こして医者を迎えにやる。山田了竹という筍先生が、早々高木の処へ参りまして、気附けを与え介抱した。
佐『山田先生。病気は何でございましょう。』
山『さようさ。中毒(ものあたり)のような所も見えるし、時候あたりのような処もあり、胸痞(しゃく)のようなところも見えるし、何にしても病気には違いない。』
佐『癒(なお)りましょうか。』
山『さようさ。癒(なお)らないとも言えないが、と言って、癒(なお)るとも言えない。』
 コンナ心細い医師(いしゃ)に出会っては堪らない。暫くたつと、七之助に中川が正気に復(かえ)る。続いて表に倒れて居た人々も気が付いた。段々調べて見ると、伝九郎夫婦の悪計に罹った事。七之助始め一同は、残念に心得ましたけれども仕方がない。是が公然(おもてむき)に成っては身分に関わるので、堅く他言を禁じて、其の儘泣き寝入りとなった。処が、江戸屋金兵衛も「成るべく公然(おもてむき)にしたくない。」と、是も子分の他言を禁じて、東陽寺へも此の事を申し送って、お里は自分の家に置いて世話をする事になる。
 しかるに、此の騒動のあった翌朝、「地蔵堂の前に女が一人と駕夫(かごかき)が一人、以上両人(ふたり)死んで居(い)る。」という届が村役人より郡奉行へ出ました。ソコデ検死が下りて被害者を調べると、女は高取の町に居た伝九郎の女房おかめ、男は駕夫(かごや)である。すぐに伝九郎の住居(すまい)へ出張して取り調べたが、居ない。ここに於いて考えたは、「是は、此の駕夫(かごや)とおかめが姦通した事が知れて、伝九郎が此処へ引き出して殺したものだ。」と察した。それにしては、おかめは脳天を打たれて死して居(い)るに、駕夫(かごかき)は肩を深く斬られて絶命して居(い)る。是が判らない。尚、郡奉行の手で段々調べると、沢市の妻お里の一件が知れた。ソコデ、郡奉行の山本軍太夫が江戸屋金兵衛を呼び出した。
 すぐに白洲へ通して。
山『金兵衛。其の方は、土佐町の盲人沢市の妻里を世話いたし居(お)るよし。右はいかなる仔細か申し上げろ。』
金『沢市は日頃懇意でございまするし、それに当時大阪へ沢市は眼病の療治に参って居ります。不在中お里を預かりましてございます。』
と言ったは、「此の事を明白に申し立てれば、高木の身分にも関する。七之助は心得違いであるが、阿父さんの七兵衛は蔵奉行を勤めて家中の評判のよい人。それには自分も植村家の人入れをして、大勢の子分も養って居(い)るのだから、なるべく穏便に済ませたい。」という処から、こういう答弁をした。
山『しからば、「沢市が大阪療用中、妻の里を世話いたし居(お)る。」と言うか。』
金『ヘエ。さようでございます。』
山『金兵衛。偽りを申すな。盲人の沢市が大阪へ参れば、其の介抱人として妻里も参るべきではないか。しかるに沢市一人にて大阪へ参り、妻は残り居(い)るとは一向合点が参らん。是には何か深き仔細がある事と思う。金兵衛。其の方は中々義心あるものだとか承るが、なまじ侠気(おとこぎ)を出して、却って上(かみ)へ手数(てかず)を掛け、従って其の方も災難に遭う事がある。心得違いを致すなヨ。明白(ありてえ)に申し上げたが宜(よろ)しかろう。どうじゃ。』
金『ヘエ。恐れ入りました。此の事は御身分のございます御方に糸が付いて居りますので、一時偽りを申し上げましたが、御理解に従い、残らず申し上げます。』
と、ココデ金兵衛が前回に御話しした始末を詳しく申し立てる。郡奉行の山本軍太夫も意外に思いました。まさか高木七之助がコンナ事に関係があるとは夢にも知らなかった。ここに於いて、其の日は金兵衛をさげて、翌日高木七之助及び中川幸之助へ召喚状(さしがみ)を着けました。
 悪事をした、身に暗い処があるから、召喚状(さしがみ)を見ると、ギョッとした。
七『何で俺を喚(よ)び出すのであろう。まさかにアノ一件が知れたのでもあるまい。』
しきりに心配して居ります処へ、若党の佐平次が、
佐『若旦那。中川様が御見えになりました。』
七『中川が来た。すぐコヽへ通してくれ。』
幸『御免を。』
七『イヤ、中川。宜(よ)い処へ来て下すった。実は今御宅へ伺おうと思って居りましたが{*3}。』
幸『大方、郡奉行の召喚状(さしがみ)でござろう。』
七『其の事でござるが、どうして御存じであるか。』
幸『拙者方(がた)へも召喚状(さしがみ)が付きました。』
七『イヤ、貴公へも……して見ると、お里の一件が知れたかナ。』
幸『ちょっと承ったが、江戸屋が郡奉行役宅へ喚(よ)び出されたとか。そうして見ると、無論お里の一件でござろう。』
七『それは一大事。是が公然(おもてむき)になったら、どうなるであろう。』
幸『さよう……。』
七『拙者の考えでは、まず親父は御役御免の上に閉門。貴公は永の御暇。拙者はまだ部屋住みであるから、蟄居謹慎を仰せ付けられる位であろう。』
幸『イヤ。あなたの方は軽々(かるかる)済みましょうが、拙者の永の暇は甚だ情けない。何とか此の事を揉み消すような御工夫はござるまいか。』
七『俺(わし)もそうは考えて居(お)るが。』
幸『どうでございます、郡奉行の山本へ鉄砲を用いては。』
七『鉄砲を用いるとは{*4}。』
幸『袖の下を用いるのです{*5}。賄賂を用いるので{*6}。苞且(まいない)を贈ったら宜(よろ)しかろうと思いますが。』
七『苞且(まいない)……受け取るかしら。』
幸『受け取らぬ事はございません。それは金を直接(じか)に持って行っては、先方(むこう)も身分がございますから、急には受け取りますまいが、菓子折りの中へ金を敷いて持ち込んだなら、受け取るでございましょう。』
七『何程位が相場であろう。』
幸『賄賂には相場はございますまい。』
七『マア、いくら贈ってよろしいか。』
幸『五十両も遣ったらば、宜(よ)うございましょう。』
七『五十両。宜(よ)ろしい。贈るといたそう。ソコデ、拙者が二十五両差し出すから、貴公が二十五両出して貰いたい。合(がっ)して五十両として。』
幸『それは御免を蒙ります。此の事たるや、つまりあなたがお里に惚れて、無理な事をしたので出来た騒動。シテ見れば、其の罪はあなたにある。しからば、すべて入用(にゅうよう)はあなたが差し出すべきものである。拙者に出せと言うは、筋が違う。』
七『けれども是が公然(おもてむき)になれば、貴公の身にもかかわるのだから。』
幸『其の私の身にかかわる事の出来たのも、原因(もと)はといえばあなたより出た事。いよいよ一人で五十両は出せぬとあらば、拙者も決心いたしました。』
七『決心とは。』
幸『是から郡奉行の役宅へ参って、今までの始末を残らずしゃべり、なるべく拙者の罪を軽くいたします。』
七『それは困る。しからば入用(にゅうよう)は拙者が差し出す。』
と、五十両泣く泣く出した。それを菓子折りの中へ入れて、其の夜(よ)両人(ふたり)打ち揃って郡奉行山本軍太夫の元へ参りました。
 只今では御役人方は清廉潔白。玉の如きえらい方ばかりでございますから、賄賂を取るなぞという、怪しからん不都合な奴はございません。徳川時代には往々ございました。是を「役得」と称(とな)えまして、公然の秘密としてありました。
 後漢の安帝といえる天子様に仕えた楊震という人に、王密と申す者が金を十斤持って参り{*7}、それを贈って「引き立てて貰いたい。出世をするように御取り成しを願う。」と頼んだ時に、楊震が、
楊『俺(わし)はお前を知って居(い)るが、お前は俺(わし)を知らぬと見える。困るではないか。かような物を持って参って。之が知れたらどうする。』
王『知れる心配はない。此の通り、深夜(よふけ)にそっと忍んで参ったのだ。知る者はあるまい。』
楊『イヤ、そうでない。お前は「知らぬ。」と言うが、天は知って居(い)る。又、鬼神(かみ)も知って居(い)る。ソコデ、我も知って居(い)れば、贈るお前も知って居(い)る。天知る、神(しん)知る、我知る、子(し)知る。「知れぬ。」と言うは、大いに違う。』
と言われて、王密は一言もない。是を「楊震四知(ち)の戒め」と謂う。
 植村家の郡奉行山本軍太夫は、比較的廉潔の人でございました。
山『誰か参ったか。』
〇『高木の御(お)子息に中川様が御見えでございます。』
山『何で来た。』
〇『「是非御面会をいたしたい。」と申し居ります。就いては、わざと「之を御覧に入れる。」と申して……{*8}。』
と、取り出(い)だしたのが菓子折り。中には五十両入って居(お)る。
山『さようか。コレコレ、川村。』
川『ハッ。』
山『今拙者が彼らに会って、こういう風に問いかけるから、貴様は次で彼等の申す事を一々記して置け。』
川『ハイ。ちょっと御菓子を御覧遊ばして。』
山『見ないでも判って居(お)る。黄金煎餅であろう。兎角役人は此の菓子を好んでいかん。貴様なぞも好物であろう。』
川『どう致しまして。』
山『二人を奥へ通して置け。』
 下役(したやく)の川村文平に万事申し付ける。
 やがて山本軍太夫は高木七之助と中川幸之助の扣(ひか)えて居(お)る所へ参りまして、
山『是は是は。よく御出(い)でに相成った。只今は又結構なる品を贈られ、忝い。折角の御志。兎も角、御預かり申して置く。』
 両人(ふたり)は内心大喜び。「アノ菓子折りが無事に納まるようでは大丈夫。今度の一件は穏便に済むであろう。」と思って居(い)た。其の時、軍太夫が、
山『何の御用で御出(い)でになったか。』
七『実は、承る処によりますと、アノ土佐町に居ります盲人の沢市の妻お里の事に就いて、御取り調べ中であるとか。』
山『さよう。先日六地蔵に男女(なんにょ)の死体がござって、それを段々取り調べて参った処、此の事に就いては御身や中川も関係(たずさわ)り居(お)るとか承知いたしたが。』
七『ハイ。』
山『何という、御身は不都合な事をなされたのだ。是が為に御父上の御名前まで出るでは無いか。平常(へいぜい)拙者と御身の御父上とは無二の間柄。御為悪(あ)しくは図らんが、他(た)に美人のないではなし、お里一人のみを慕われるとは、どういう因縁か。』
七『赤面の至りでございます。実は彼女(かれ)を妻にもらい受けんと存じて、此所(これ)に居(お)る中川を以ていろいろ談じましたが、飽く迄不承知を申し張ります故、武士の意地、ついこういう無法な事をいたしましたが、只今に至って大いに後悔仕りました。どうぞ公然(おもてむき)明日(みょうにち)御吟味になりましたならば、ちょっと御手加減を願いたいと存じまして。』
山『委細、相判った。何か聞く処に依れば、伝九郎と申す悪漢(わるもの)を頼んで、お里を拐帯(かどわか)したとか申すが、何事も今日(こんにち)は隠さずに言われるが宜(よ)い。手心を用(もち)いるにも、事情(ことがら)を詳しく知らんと、真(まことに)取り計らいにくい{*9}。』
七『しからば申し上げます。』
と、今迄の始末をベラベラ喋(しゃべ)ってしまった。一所になって中川幸之助が之も喋る。それを、次の室(しつ)に置いた川村文平が、残らず筆記した。高木に中川は、そんな事とは夢にも知らない。「折が納まった上は安心。」と、二人は山本方を辞して表へ出る。
七『イヤ、是で安心だ。』
 少しも安心ではない。コンナ不安心な事はございません。
 翌日は時刻違わず、郡奉行山本軍太夫の役宅へ、高木七之助・中川幸之助・江戸屋金兵衛・沢市妻お里も出る。呼び込みに従い、白洲へ通りますと、正面一段高き所に山本軍太夫。傍には書き役両人。其の下には吟味役。高木七之助に中川は、武士であるから縁側に扣(ひか)える。其の他は白洲。砂利の上に平伏いたして居ります。
 其の時に山本軍太夫、
山『高木七之助。中川幸之助。表を挙げイ。』
七『ハッ。』
山『あの白洲に扣(ひか)え居(お)る人々を存じ居(お)るか。』
七『江戸屋は屋敷へ出入りの者でございます故、存じ居(お)ります。女子(おなご)は一向存じません。』
山『知らぬ事はあるまい。アレワ土佐町に住し居(お)る盲人沢市の妻里であるぞ。其の方、彼女(かれ)に恋慕いたし、それなる中川並びに悪漢伝九郎へ相頼み、暴力を以て里を引き出(い)だし、不都合にも夫ある者を手込めに為さんといたしたる段、証拠あって取り調べる。明白に白状いたせ。』
 意外の調べに二人は顔を見合せた。「此の容子では、賄賂が利かないのか。」と、驚いて居ります。

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校訂者注
 1:底本は「大層(たいそう)たものだナ」。誤植と見て訂正。
 2:底本は「伝『イヤ俺(おれ)は」。誤植と見て訂正。
 3:底本は「御宅(おたく)へ伺(うかゞ)ふと思(おも)つて」。一字欠字と見て補った。
 4~6、9:底本はすべて「用(もち)える」。読みやすくする意図で修正。
 7:底本は「揚震(やうしん)と言(い)ふ人(ひと)と」。文中全て「揚震」であり、誤字誤植と見て全て訂正。また「と」は、読みやすくする意図で修正。
 8:底本は「就(つい)てはわざつと」。「つ」は衍字と見て消去。

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