江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

カテゴリ:壺阪霊験記 > 演劇脚本 壺阪霊験記

演劇脚本 壺阪霊験記
舘野録太郎編 明治28年(1891年) 愛郁社刊

WEB目次

上之巻
 1 太左衛門登場  眼九郎登場
 2 三人の懸取登場  眼九郎五両支払う
 3 眼九郎お里に迫る  沢市登場
 4 沢市の口説き1  沢市の口説き2
 5 お里の口説き1  夫婦壺阪詣  眼九郎逆恨み

中之巻
 6 夫婦道行  沢市お里を家へ帰す
 7 沢市投身  お里の口説き2  眼九郎お里を襲う  観世音霊験

下之巻
 8 観世音顕現  沢市開眼  大団円


凡   例

  1:底本は「演劇脚本 壺阪霊験記」(舘野録太郎編 明治28年(1891年)12月 愛郁社刊 『演劇脚本 : 浄瑠璃三弦楽譜音曲鳴物楽譜入. 第3冊』(国会図書館デジタルコレクション))です。
  2:底本の歴史的仮名遣いはすべて現代仮名遣いに直しました。
  3:底本の旧漢字と踊り字はすべて現在通用の漢字とかなに改めました。
  4:底本の句読点は適宜加除し、改行、改段落も校訂者の判断で行いました。
  5:底本の表記は必要最小限の範囲で改め、必要なものは校訂者注{*}として示しました。
  6:2~5は、極力オリジナル性を損なわず、読みやすくすることを意図して行いました。
  7:WEB目次の1~8の内容梗概は校訂者によるものです。
  8:底本は演劇台本であり、台詞とト書き、浄瑠璃、音曲の詞章が混在しています。出来る限りそれぞれを区別して書きましたが、中には誤りがあるかもしれません。予めお詫びします。
  9:現在では差別的とされる表現も、原典を尊重し一切変更を加えていません。ご了承願いますとともに、取り扱いには十分ご留意願います。

演劇脚本 壺阪霊験記
上之巻
座頭沢市内の場

役名
  一 座頭沢市   一 伯父太左衛門
  一 女房里    一 悪漢眼九郎
  一 米屋八兵衛  一 薪屋杢兵衛
  一 家主欲兵衛  一 五人組
  一 仕出し
           竹本連中
以上

 本舞台、三間間、平舞台。上手、雪隠の書割。上手、板塀にて見切例も処世話。木戸正面、納戸口。傍に三味線掛けて有り。入口に琴三味線指南処という標札など掛け有り。総て大和土佐町座頭沢市住家の体裁に。女房お里、世話女房の拵えにて、針仕事を仕て居る。下手に百姓二人、烟草を呑んで居る。
 この見得、在郷唄にて幕あく。

―― 幕開き 甲斐甲斐しく働くお里 ――

(百〇)コレコレ。お里坊。よく精が出ますナァ。
(百△)いつもお前さんの事は、村中でも評判じゃ。時に、この間頼んで置いた仕立物は、モゥ出来て居ますかナァ。
(里)コレはしたり。話にまぎれてトント失念を致しました。出来あがって居ります。
 ト、戸棚より仕立物を出す。
(里)サァサァ、持て行て下さんせ。
(△)相変らず綺麗に出来ましたナァ。
(〇)イヤモゥ、内も何か縫うてもらいたいと言うて居ました。時に沢市はまだかや。
(里)ハィ。まだ稽古に行かれ、帰られませぬ。
(〇)そうかいナァ。それはきつう精が出ますナァ。コレ、畑作や。そろそろ出懸けようか。お里坊。そんなら往にますぞや。
(里)モゥお帰りでござりますか。
(両人)いこう邪魔いたしました。

―― お里の父、お里に説諭する ――

 ト、下手へ這入る時、矢張り前の歌にて。お里の伯父太左衛門、更けたる拵え。続いて壺阪再建の講中五人組、皆々町人袴、好みのなりにて出て来たり。
(太)コレはコレは。皆様、毎日御苦労様でござります。観音堂の御再建、どうか早くお堂だけか、出来したいものでござります。
(講壱)マァマァ。何はともあれ、こうして歩けばいつか御再建が出来ると言うものじゃ。
(皆々)そうとも、そうとも。
(太)それはそうと、向うが私の娘お里の宅じゃ。一寸一服して行こうじゃ御座んせぬか。
(皆々)そんなら御造作に預りましょう。
 ト、いろいろ捨台詞あって、本舞台へ来たり、門口をあけ。
(太)お里、内か。お里、お里。
(里)ハィ。どなた様で御座ります。オォ、お前はととさん。ようお出でなされました。お村衆も、ようお出でなされました。
(太)時にお里や。今日も皆の衆を頼んで観音様の御普請に歩きましたが、草臥れた故、一寸立ち寄りました。
(里)それはさぞお骨の折れる事でござんしょ。マァマァ、お茶一ツお上がりなされませ。
(皆々)モゥモゥ、決して構うて下さるな。
(太)コレ、お里や。いつかお前にも話そう話そうと思うて居たが、そなたも知っての通り、お前の婿の沢市は、わしの為には甥姪の間柄。子供の時に両親に分かれ、わしの手に引き取って育てたが、どうしたものか、疱瘡で盲目となった故、数代続いた庄屋の家も継ぐ訳にも行かず、それでやむを得ず、しょうことなしにわしが預り、そなたの嫁になし、子供が出来たらそれに跡目を相続させたいと思うて居る故、お前もその気で、不自由な沢市を粗末にしてはなりませぬぞえ。
(里)それはよう心得て居ります故、安心して下さんせ。
(太)オォ、そうか。それ聞いて私も安心しました。ドリャ、ボツボツと出懸けましょう。
(皆々)それならお里さん。いかいお世話に成りました。
 ト、皆々下手へ這入る。
(里)モゥ沢市さんの帰るにも間もあるまい。そこら片付けて置こう。
 ト、四辺を片附けて居る。

―― 眼九郎来、お里に絡み掛ける ――

 ト、「よその畑へ一寸鍬」という唄になり、悪漢眼九郎、道楽者の拵え。一升徳利を携え出て来たり。
(眼)日頃からド盲目に添わして置くは惜しい物と、岡惚れて居るあのお里。どうかド盲目が居らねばよいが。
 ト、本舞台へ来たり、内を覗き。
(眼)オィ、お里坊。また邪魔しに来たヨゥ。
 ト、合方になり。
(眼)オィ、お里。沢市はどうした。
(里)沢市さんは稽古に行て、まだ帰られませぬ。
(眼)ムム、そうか。それは丁度幸い。
(里)エィ。
(眼)ナニ、丁度幸い。今日は酒を一升持て来ました。コレ、一ツ呑んでくれまいか。
(里)わたしゃ酒は嫌いでござんす。
(眼)何。酒が嫌いだと。そりゃ世間で女の酒好きほど見にくいものはないが。お前ほどの人はないぜ。器量はよし、おとなしし、仕事はできる。こんな女にド盲目。
(里)エィ。
 ト、驚く。眼九もうっかり言うたという思い入れにて口を押え。
(眼)ナニ、世間の奴は悪い事言うものじゃ。われは言わぬが、沢市には惜しいものじゃと世間の噂じゃ。成程、こうなくちゃならぬわい。時にお里坊。猪口一ツ貸してくんなァ。
(里)お里お里とあたやかましい。私も沢市さんも酒が嫌い故、猪口は御座んせぬわいナァ。
(眼)成程。酒嫌いにゃ猪口は有るまい。そんなら何ぞ、茶碗でもかしてくれ。
(里)アィ。
 ト、不性不性に立って、茶碗を出し。
(眼)サァ、早う呑んで帰って下さんせ。
 ト、枕屏風を間に仕切り、素知らぬ顔で仕事して居る。
(眼)アァアァ。一人酌で呑むとしよう。
 ト、一人で呑んで居る。

―― 三人の懸取来、屋財家財のせりを始める ――

 流行唄になり、米屋・薪屋・家主、みなみないつもの懸け取りの拵えにて出て来たり。
(米)時に、杢兵衛さん。どこへお出でなされます。
(杢)イヤモゥ、今日はこれから沢市の処へ出かけ、白い黒いを分けるつもりじゃ。そうしてお前さんはどこへ。
(米)イヤ、私も沢市の処へゆくのじゃ。
(家)イヤ、同気相求めるとやら。私も沢市の処へ長々延びた家賃の滞り、今日はどうでも受け取るつもりじゃ。こう三人寄れば文殊の智恵じゃ。
(米)そんなら御一処に出かけましょう。
 ト、三人本舞台へ。門口の前へ来て。
(三人)来たぞや、来たぞや。
 ト、三人門口をあけて内へ這入る。
(里)コレはコレは、皆さんお揃いで。ようお出でなされました。
(家)イヤ、あまりよくも来ませんテ。時にお里坊や。毎度の事で、モゥ言うまいと思いますが、黙ってはいられぬ{*1}。家賃の滞り、どうするつもりじゃ。
(米)つもりじゃつもりじゃじゃない。積もってお米の代が壱両と二分二朱。いくら催促しても「モゥ四五日」「モゥ一両日」と、でたらめも聞き飽いた。今日はどうでも貰うて行くのだ。
(薪)さて、どん尻に控えたるは薪屋杢兵衛。薪杢コレサコレサ、ハハ。お二人方が言われた通り、あまり長過ぎるじゃないか。黙って居ては事が分からん。どうするのじゃ。今日はお金が出来ずば、屋財家財引きはづして、持て去ぬのじゃ。
 ト、立ちかかる。
(里)アァ。もうし、お懸け取りさん。仰せは重々もっともには存じますれど、又かとの御叱りもござりましょうが、夫沢市も留守故、帰りましたらよう相談を致します程に、どうぞ今日の処、お待ち下されませ。
(家)イヤイヤ。成らん、成らん。今日は薪杢さんの言わしゃる通り、銭目の物から持て行こう。
(里)どうぞ、そればかりは。
 ト、縋り付くを振舞い。
(家)サァサァ、市の始まり、始まり。
 ト、諸道具を市売にかけるよろしく。ドト眼九郎が持て来た茶徳利まで、せりにかける。

―― 眼九郎、掛金を肩代わりして払う ――

(眼)ヤィヤィ、間抜け。何でおれの物を持て行きやがるのだ。
(三人)ヘィヘィ。
(眼)おれを知らんかい。
(三人)ヘィヘィ。一向存じません。
(眼)知らんか。知らなァ言うて聞かしてやる。おれはこの頃江戸から戻った眼九郎という遊び人だ。以後、見知ってもらいましょう。
(三人)ヘィヘィ。
(眼)コリャ、間抜け。ここの内の借りはいくらだ。
(米)ヘィ。大枚でござります。
(眼)大枚とはいくらだ。
(薪)ヘィ。大枚でござります。
(眼)大枚は分かって居るが、おれが払うてやる。相手はおれだ。分かって居るか、分かって居るか。
(家)ヘィヘィ。分かって居ります、分かって居ります。して、お前。イヤ、親分が払うて下さりますか。
(眼)エエが、相手はおれじゃ。分かってるか。払うてやると言うちゃ払うてやるのだ。全体いくらだ。
(米)ヘィヘィ。
 ト、布嚢より算盤を出し、皆々可笑のこなし有って。
(米)私の分がコレコレ。家主さんはいくら。
(家)私は十八ヶ月滞りで一両二分一朱。薪屋さんは。
(薪)ヘィ。私は薪炭が四月分で壱両と三朱と、一寸金で取り替えが一分一朱でござります。
(眼)コリャ、〆ていくらに成るのじゃ。
(米)ヘィ。三人〆て四両二分。大枚でござります。
(眼)何じゃ。四両二分のはした金、大枚じゃと。
(米屋)コノ大枚をはした金だと。
(三人)ヘィヘィ。宜しうお頼申します。
(米)フン、大枚だと。サァ、取って置け。
 ト、懐より鬱金財布を出し{*2}、小判五枚を出そうとする。
(里)アァ、もうし、もうし。それをお前に出してもろうては。
(眼)エエがなエエがな。相手はわしや。
 ト、小判を懸け取りの前へ投げ出す。
(三人)ヘィヘィ。有難うござります。
(米)コレではお釣を出します。
(眼)何じゃ、釣。相手はおれじゃ。よいがな、取って置け。
(三人)重ね重ね有難うござります。左様なれば、親分。コレ、お里さん。こんな銀方が出来たからは、ドンドン品は送りますから、切れたものが有ったら、言うてお越しなされ。スグお届け申します。
 ト、表へ出る。
(眼)懸け取り。待て。
(三人)ヘィヘィ。
(眼)コレ、間抜け。わりゃ、取るものは取って置いて、言い分はあるまいナァ。
(三人)ヘィヘィ。何で言い分がござりましょう。
(眼)そうだろう、そうだろう。わいらに言い分はあるまいが、コッチに言い分があるのだ。
(三人)ヘィ。
(眼)そこら、せり市しやがって、跡はどうするのじゃ。
(三人)ヘィヘィ。成程。コリャ、おもっともだ。
 ト、皆々又内へ這入り、元の如く片付る件よろしく。
(米)そんなら親分。
(三人)有難うござります。
(米)しかし大家さん。薪屋さん。取れんと思う懸けは取れた上、二分余計に儲けたが、この金はどうしましょう。
(薪)されば、二分金二ツに割ったところがしようがないが、何ぞしようが有るまいか。
(米)いっそ、これで一杯やろうじゃないか。
(薪)それがよかろう。しかし二歩のポッキリでは。
(米)エエがな。相手はおれじゃ。
 ト、可笑の件にて向うへ這入る。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は「無言ては入られぬ」。
 2:底本は「鬱金散布」。

―― お里、眼九郎から迫られ、承知と偽り逃れる ――

(里)アァ、眼九郎さん。とんだ処で御心配かけ、私は嬉しうござんす。
(眼)イン、僅かの金じゃ。そんなに言う事はない。コレ、ここに金はどっしりとある。お前の心一ツで、この金はお前にやるのだ。
(里)有難うござります。
(眼)時にお里坊や。そんなにお前、嬉しいか。
(里)アィ。
(眼)お前、そんなに嬉しけりゃ、おれにも一寸嬉しがらせてくんねえか。
(里)エエ。
(眼)何もそんなに驚く事はネェ。無理とは言え、たった一ぺん、おめへ、おれとさえ黙って居らりゃ、誰も知るものはありゃしねえじゃネェか。
(里)ササ、その深切は有難いが、お前の知れる通り、沢市という亭主のある体。どうぞこればかりはゆるして下さんせ。
(眼)何、ゆるしてくれろとか。コレコレ、お里坊や。このせち辛い世の中に、大枚五両という金、何の目的があって貸すものか。お前に望みが有るからサァ。どうか一遍だけ「ウン」と言うて、聞いてくんねえ。
(里)御志は嬉しいが、こればかりは。
(眼)たって嫌と言うなら、今の五両の金、かやしてくれるか。
(里)サァ、それは。
(眼)そんなら言う事聞いてくれるか。
(里)サァ。
(眼)サァ。
(両人)サァサァ。
(眼)コレ、お里坊。古い奴じゃがコレ、色よい返事を聞かしてくんネェ。
(里)成程、お前の深心は嬉しいけれど。
(眼)その「けれど」がいかんがナァ。
(里)そこじゃわいナァ。
(眼)どこじゃわいナァ。
(里)サァもう、しようがなけれど、沢市さんという亭主のある体故、ここに居ては村の衆の思惑もあれば、どうぞ連れて退いて下さんせ。
(眼)そんならお前、承知してくれるか。有難い有難い。
(里)しかし、今と言うては何なれど、どうか今晩の暮六ツまでに、そこら片付けて置く程に、そのころにそっと迎いに来て下さんせ。
(眼)ムム。そう極まったら、何しろ有難い。それじゃ、お里坊。
 ト、表へ出てまたふり返り。
(眼)コレ、お里坊。暮方にやってきて「けれど」などは真ッ平だぜ。もし横にかぶりを振りなさると、チィ足が高いぜ。
 ト、門口を〆め、尻を捲り。
(眼)アァ。早う日が暮れればいいが。
 ト、やはり前の合方にて向うへ這入る。
(里)ドレ。ままでも焚いて置きましょう。
 ト、床の上瑠璃になる。
上「お里は納戸へ入りにける。
 ト、お里、奥へ這入り。

―― 沢市、登場 ――

上「住めば住むなる世の中の、よしあし引きの大和路や、壺阪の片辺り土佐町に、沢市と言う座頭あり。生まれ付きたる正直に、琴の稽古や三味線の、糸より細き身代も、薄き烟もいとなみの、杖を力に沢市が。
 ト、下座の独吟になり。
唄「浮草や、思案の外の誘う水。恋か浮世か、浮世か恋か。ちょっと聞きたい松の風。
 ト、向うより沢市。好みの拵えにて出て来たり。花道よき処に留まり。
(沢)春ながら肌まだ寒し梅林と、誰やらが句であった。お師匠のお蔭で毎日稽古に行くが、さて気苦労なものじゃ。今日はえろう遅うなった。お里も待って居よう。早う去んで休みましょう。
 ト、本舞台へ来たり。

―― 夫婦の会話 ――

(沢)お里。今戻ったぞや。
上「いひつつ這入る夫の声。聞くよりお里は納戸を立ち出て。
(里)オォ、沢市さん。帰らさんしたか。今日はえろう遅うなったナァ。
(沢)サァ、わが身も知って居やる、アノ砂糖屋の娘さん{*3}。親御たちのお好みで新曲をはじめたが、えらい覚えの悪ィので、ツィ遅うなりました。
(里)オォ、そう言う事ならよけれども、あまり帰りが遅い故、モシ間違いでもありはせぬかと、きつう案じて居ましたわいナァ。
(沢)して、留守に誰も来やせぬかや。
(里)アァ、誰も別に。オォ、私の父さんが、五人組の衆が見えて、お前の事をいろいろ話し帰った跡へ、大家様米屋様薪屋様が見えて、「今日はなんでも勘定をせねば、家財を売取にする」と言うてせりにかけ、持って行こうとなされし時、丁度眼九郎さんが内へ来合わして居て、五両という金を借って、ようようそれで済んだわいナァ。
(沢)そんならアノ、悪いと浮評のある眼九郎に。
(里)アィ。
(沢)悪ィ奴に借ったナァ。
(里)サァ。私も借るまいとは思うたれど、せっぱにつまって、依ってそのお金を借ったわいナァ。
(沢)マァ、よいわ。マァどうともならうかい。
(里)ホンにそうで御座んす。とかくに物は案じるより産むが安いという事もあり、腹を大きうもって居て。アァ、ホンに腹と言へばお前、ままはどうでござんす。
(沢)オォ、そう言えば、きつう腹がすいた。一寸膳を持て来てたも。
(里)オォ。そうで有ろうと思うて、ままも焚いて置きました。ツィ拵えて来ますゆえ、すこし待って居やしゃんせ。
(沢)アィ。早う持て来てたも。
(里)ドレ、拵えて来ましょうわいナァ。
上「膳拵えと立ちて行く、跡に沢市茫然と、思案も胸もこうこうと、響く七ツの鐘の声。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 3:底本は「我身も知て」。

―― 食膳を待つ沢市の口説き:半生の苦衷と憂鬱 ――

(沢)アァ。今打つのはアリャ七ツの鐘。かねと言えばこの程より、どうか心配はすれど、まだ手に入らず。幼き時に両親に死に別れ、伯父さんの手に引きとられ、永らくお世話になって居たが、フトした疱瘡より、生まれも付かぬ目盲となり、親の代から打ち続いたる庄屋の株も伯父様の元へ預かられたが、アノ律儀の伯父さん故、一人娘のアノお里と夫婦にして下され、一人の子供でも出来たら、それに庄屋の家督を譲り、との事なるが、何から何までお世話になるのが気の毒サに、この土佐町に来てからモゥ三年。月日の立つのは早いものじゃ。それはそれにしても、アノ眼九郎、見るかげもないコノ我に、大枚という五両の金貸してくれるとは。もしや女房のアノお里に。イヤイヤ、思うまい、思うまい。心配するは体の毒。こう気がふさいだ時は三味線でも引いて、ふさいだ気をまぎらわそうか。
上「勝手知ったる我が内も、さぐりて取り出す三味線の、音はかわれども結ぼれぬ、てんじかえても古糸の、胸は二上り三下り。乱るる調子引きしめて、脇へかわして水調子。
 ト、沢市、捜りながら、壁にかかってある三味線をおろし。
(沢)地唄。鳥の声、鐘の音さへ身にしみて、思ひ出す程涙が先へ、落ちて流るる妹背の川に。
 ト、三味線を弾く。よき時、暖簾口よりお里、膳を持ち来る。

―― 沢市、お里に絡む ――

(里)サァサァ、えろう遅うなった。さぞ待ち遠にござんしょう。今日はお前のすきな煮〆をたいて、持て来ました。サァ、たんとたべて下さんせ。コレ、こちの人。お前はマァ、いつにない三味線弾いて、よい機嫌。何と思うて、珍らしい。
(沢)何を言うのじゃ。おれが三味線弾くを、よい機嫌に見ゆるかや。おりゃ、そんな気じゃないわいのう。モゥモゥ気が結ぼって結ぼって。
 ト、飯を食いながら、のどにつめる。お里、後へ廻り、さする事あり。
(里)コレ、沢市さん、沢市さん、沢市さん、沢市さん。ソレ、ふふ、ふふ。
 ト、茶を呑ます。
(沢)アァ、びっくりした、びっくりした。
 ト、合方になる。
(沢)コレ、お里。わしゃ、そなたにちと尋ねたい事が有る。外の事でもないが、いつぞは聞こう聞こうと思うて居たが、丁度幸い。光陰は矢の如しとやらで、月日の立つは、アァ、早い物ナァ。ソレ、わが身とおれがコゥ一緒に成ってから、モゥ三年。稚いよりいいなづけ{*4}。互いに心も知って居るに、なぜその様に隠しゃるぞ。さっぱりと打ち明けて言うてたも。
上「ト、どこやら濁る夫の詞。お里は更に合点行かず、不審ながらにすり寄って。
(里)もうし、沢市さん。気にかかるお前の口振り。この年月、何一ツお前に隠した事はないに。サァ、悪い事があるならば、ツィ「こうこうじゃ」と言うてくれるが夫婦の中じゃないかいナァ。
(沢)ムム、そう言いやれば、こっちも言う。
(里)サァ、早う言わしゃんせ。
(沢)オォ、言わいでか。
 ト、持て居る茶碗を落とす。飯粒こぼれる。
(里)アレ、勿体ない。
 ト、拾おうとする。
(沢)ほっといてくれ。知ってるわい。
 ト、捜りながら拾い食う。

―― 沢市の口説き:お里の夜の外出を詰る ――

(沢)コリャ、お里。よう聞けよ。われと夫婦に成って丸三年。毎晩七ツから先、寝所へ手をやっても、終に一度も居た事がないナァ。ソリャモゥ、おれはこの様な目くら。殊にえらい疱瘡で見るかげもない顔形。どうでわれの気に入らぬは無理ならねど、外に思う男があるなら、さっぱりと打ち明けて言うてくれたら、この様に何の腹を立ちょうぞい。もっとも、われとおれとは従弟同士。専ら人の噂にも「アノお里は美しい、美しい」とモ聞く度に、おれはモゥよう諦めて居る程に、悋気は決してせぬぞや。コレ、どうぞ明かして言うて聞かしてたも。
上「立派に言えど、目にもるる涙。呑み込む盲目の心の内ぞ切なけれ。聞くにお里は身も世もあられず。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 4:底本は「雅いより言号」。

↑このページのトップヘ